過ぎ去りし過去
蛇口を回して冷水のシャワーを止める。
頭から被るように浴びていた。すっかり濡れた黒髪から数滴の雫が落ち、白珠の肌を伝い落ちていく。
泡を流した後は直ぐに風呂場から出た。
指を鳴らしたと同時に碧眼は煌めき、彼女の周囲には突風が吹き荒ぶ。
そうして体に付着した水分を己が能力で一気に払う。
「―――HMT、四十六代目ディーケに通話を。繋がるまで呼び出しし続けて」
声に出して自動通信を働きかけながら、用意していた紺碧の下着だけを素早く履いて素足で浴室を後にする。
部屋の床をペタペタと踏み抜き、窓外に寄せられたベッドに腰掛けて、仰向けに倒れた。
流れるように窓外の空を眺めては、憂鬱詰まった溜息を吐く。
ルナリナ=ネルカルが悩ましく思考するのは、四十代目グラフィスのことだ。
彼女は、『平定の狩者』の協力者であり『アダマスの悲劇』に巻き込まれた被害者。
その時に顔に大きな傷を負ってしまったから顔をヴェールで隠している…らしい。
「(――出会ってからずっと、苦手だったな。黒いヴェールで顔を隠して笑う彼女がほんと胡散臭くて…)」
違和感という勘を信じて疑うべきだった。
元々グラフィスが主軸となって、人類への義務教育方針も調整していた時点でも。
十から十五歳まではHMTから本人が適した職に、必要な分だけの学習材が提供されるという規律も過去のグラフィスの姓が定めたことだ。それ自体、いつでも変更はできる。
だから悪く言えば、グラフィスは人類の思考能力をコントロールできる立場にあるのだ。
ルナリナはベッドに転がって天井を数秒眺めた後、起き上がる。
クローゼットに手を伸ばし、シャツや上の下着、靴下等を取り出していく。
「(……実質、人類の思考能力を調整。いや、掌握してるも同然。その割にはちゃんと演説したりするのは自由意志を尊重してるとかいうパフォーマンスは怠らない……なんで今まで気付かなかったんだろ)」
全人口の6割が住まう海洋深海の区で構成された国【ジャバフォスタ】。
そこから不満が上がることは一切ない。
寧ろ、四十代目は過去最高の代表管理者だと熱狂的に謳う声は多い。
アストリネ内でも評価は高く一部は心酔してるものも――
「(まさか、本気で始祖エファムにでもなろうとしてたりするわけ?)」
ゴム製の青色の肩紐を引っ張り正し、パチンと鳴らして肌を叩くルナリナの表情は酷く険しかった。
「(……これまでのことを冷静になって考えれば、実際のグラフィスの行動は問題だらけ)」
『アダマスの悲劇』の詳細を話さない。沈黙を保ち自国の運用を続けている。
サージュ=ヴァイスハイトが作成したレポートを隠しており、世から雲隠れしたシェルアレンの行方も察してるだろうに何も語らない。
ただひたすらに己が抱く『大海の願い』のために研究職の者を集めたり、意向に従わぬ者を記憶消去して追放するなどの行動も目立つ。
「――あっ」
募り始めた苛立ちは着替え動作にも出てしまい、シャツを乱暴に着たせいで袖口のボタンを縫い止めた紐が千切れてしまっていた。
「(ああ、もうっ。ほんっと間抜けなんだから。なんでこれまで私たちは何も疑わなかったわけ?この事で全然、あいつに非難やら言及だってできたはずなのに三国会議の話題にすら上がらなかった)」
うっかりと忘れてた?六割の人類に慕われてるから信用してた?……そんなわけない。
「(何か裏がある。誰かの手を借りて誤魔化してる筈。そういう女だ)」
そして判断できる心当たりがひとり、居る。
ルナリナが前ボタンを閉じていけば、胸元の方でボタンが自然と取れてしまい、掌に収まった。
薄金色のボタンを見つめる碧眼は、瞳孔ごと大きく瞠り揺れている。
「(――……『接続』、心理掌握、精神干渉の異能。…イプシロンなら、可能……なんだよね)」
意識は意志と同義。意志を操れるなら無意識だって操ることができるだろう。
グラフィスの追及をさせないようアストリネの意識を逸らす程度なら、異能を用いても大きなデメリットはない。線路の分岐器を用いる程度の負荷しかないはずだ。
それにイプシロンはルナリナやディーケに近く、よく接触する。身近に居る者の意思操作なんて呼吸同然に容易だろう。
ネルカルはボタンが取れたシャツを脱ぎ捨てて椅子に投げ、素早くクローゼットから新しいものを取り出す。
袖を通して前ボタンをつけながら、シャツと背肌に挟まった己の黒髪を取り出し外に流した。
「…………だとしたら、始めから。かな」
いつから、なんて。考えた時にそう予測して呟く。
ルナリナの判断基準として脳裏に過ぎるのは――当時五歳の時の記憶だ。
『おいで』
訓練の苦痛に耐えかねた日。イプシロンの手にしがみつき、ぐずり泣いた。
腕で抱えられて連れて行かれたのは、『試練』の塔の頂上だった。
『此処は、ネルカルの力無しでは継続できないんだよ。人々は君という風を必要として依存する。此処がある限り、この場所に縛り付けられてしまうだろう。――だが、君はそれを嫌とは言えない』
強い風が吹き荒ぶ高い場所。足場も狭く、数歩程片側に傾けば簡単に落ちてしまう。
当時のルナリナは怖くて仕方なくて、イプシロンにしがみつき密着し、その時に初めて近くで彼の顔を見た。
紅花が開く金色髪がたなびき、その隙間には黄金の祝福が灯る翡翠瞳が煌めく。
『アストリネである以上、人々に献身で示さなくてはならないから』
そう、静かに語らうイプシロンの双眸は、此処ではない蒼穹の先、遙か遠くを見据えていた。
――既に、此処に心は無いと暗示するかのように。
『この節を、覚えておくといい』
そして思い出すは、かつて胸を打った言葉。生きる導とした節だ。
記憶が脳裏に溶けゆく中でルナリナは息を吸い込み、記憶の復唱を唄う。
「『我々は平和を維持する使者。其の力は乱れを塞ぐ盾であり、不義を砕く剣と在らん』――……」
太腿まで覆う長い靴下を着用しガーターベルトを掛けて、留め具を鳴らしながらスカートの裾を掴み、ズレを正す。
そうして、風の異能者ネルカルとしての着替えが完了した。
同時に、呼び出ししていたディーケとも通話が繋がったらしい。
『…ネルカルか』
本調子でないことがわかりやすいほど、微かに震えた声が聞こえてきた。
「おはよー。めっちゃ落ち込んでるところ、悪いね。直ぐに支度してくれる?兵士の中でも特に……戦い慣れた人達を集めて欲しい。【ジャバフォスタ】からのお客様を、丁重にもてなすからさ」
『………。問題になるぞ』
「覚悟の上。世間とやらに叩かれても聞かなくちゃならないことがあるわけ。付き合ってられないならそれでもいい。……代表管理者命令にするよ」
『………それは不要だ。オレも、彼女には聞きたいことがある』
返事を受け、ネルカルはゆっくり目を閉じる。首を傾けて艶やかな黒髪を揺らす。
「あはは。お互い叩かれ上等ってわけだね。じゃ、起きたイプシロンに怒鳴られる覚悟も決めといてね〜」
『……起きたら、だがな』
「起こすよ。起こさなきゃ。【ルド】を裏切った可能性があるからそこも問い詰めないとだし。……あいつの尋問とか絶対骨折れるだろうから、ディーケも付き合ってね」
『流石に嫌かもしれない』
「うわっ。ディーケが会話の間を開けることなく即答することあるんだ。生まれて初めて聞いたかも」
口を開けてハハッとおかしそうに笑った後に、直ぐに暗い調子で肩を落とした。
「………なーんで。こんなややこしいことなってんだろうね。十九年……いや、十六年前から歯車が狂ったのかな」
『『古烬』の兵器の数も多く激動の時代からそう遠くはないからな。恐らく……エファム失踪はそれらに関係してるのだろう。…だけど、その歴史を直接見て正確に把握してるのは……』
項垂れていた顔を上げて、ネルカルは割り込んで答える。
「グラフィスだ。あいつだけが、エファムがいなくなったきっかけの……『アダマスの悲劇』に立ち会っている生き証人ってやつ。確か【スワラン】での集まりが起きた際に、イプシロンや今代のアルデやローレオンは向かえなかったぽいしね。…………何で、隠してると思う?」
『……彼女の悲願達成阻害になるから』
「だよねー。それしかないか。……はー、私あいつ嫌い。秘密が多いのは大いに結構だけど、自分の目的のためだけに色々と隠しすぎだろ。迷惑かけんのもいい加減にしろって話なんだから」
文句を口にしながら壁に掛けていた外套を羽織り、ネルカルは外に繋がる扉へと向かう。
「嫌になるよ。戦争も辞さないなんて、さ。昔の人類はこんな暗鬱を抱えて決行してたのかなぁ」
『……丁重に、もてなしをするんだろう?』
革靴の履き心地を確認しながら、気を切り替えるよう陽気な返事を交わすのだ。
「そうだね。最高戦力で出迎えよう。……吏史達に無理矢理頼んだお使いが終わる前にさくっと片付けないとね。内輪揉めの争いなんか……見せらんないよ」
そう、戻る前に現場には鉢合わさせないとネルカルは決めていた。
人材探しも多少強引に進めたものだが、まあ仕方ない。アストリネ同士の争いなぞ、人には刺激が強すぎる光景だ。
「――吏史には、特にね。ただでさえさ、ジルさんの件で怒り買って信頼無くしてるわけだし」
自国を優先した結果とはいえ、これ以上は友人の恨みを買いたくないのもあるが。
「ま、それ自体は出来たら……だけどさ」
この地位に立っている以上それも仕方ないと割り切って、靴の踵のズレを完全に正していた。
「きっと、グラフィスも此方の目論見をわかった上で来るだろうから。気を付けようね」
『……ああ、そうだな』
そうしてネルカルは靴音を鳴らしては、早期解決に臨むようにも前を見据える。
手の力を込めて外へ繋がる扉を押して、開いた。
◾️
『テイルヴェロシティ』を格納作業を済ませたイアンが吏史に案内した場所は、独自のカクテルを調合し提供する――新築の酒場だった。
「いらっしゃいませ」
入店したと同時に鈴が鳴る。
カウンターに立つ亜麻色髪を団子上に束ねた若き女性バーテンダーが、柔らかく微笑んだ。
「やぁ、シャナ。……思いっきり酔わせてくれ。キミお手製のラーナで乾杯したい」
その女性に頬を緩めたイアンは、気さくに挨拶するよう片手を上げてメニューを頼む。
同時に何かを招くように指を動かすサインを視認したバーテンダーは、瞼を閉じて深々と頭を下げた。
「………わかりました。本日も『貸し』、ですね。では部屋の奥へどうぞ」
そうして優美な所作で店の裏の通路に誘導され、通されることとなる。
通路にある扉は二つ。
スタッフルームと思わしい自動開閉扉と、金色の南京錠という古風の施錠が重ねられた扉。
イアンは迷わず古風の扉に進み、南京錠を掴んで小さな鍵で解錠して開く。
――但し、其処に部屋はない。
代わりに地下に繋がるのであろう、行き先が暗い階段が広がっていた。
「……地下にあるのか」
眉間に皺を寄せて呟く吏史にイアンは軽く笑う。
「ああ、表ではどーして喧嘩が起こるからな。壊されないよう下に隠すのは当然」
「嘘つくな。見せられないものだからだろ」
「もー、しょうねーんったら冷たすぎー。そろそろ機嫌直してよぉん」
猫撫で声をかけるイアンを無視して、吏史は険しい顔で暗中に潜り込むようにも降りて行く。
カツンと靴が金属製の床を踏み鳴らし、音が部屋に反響していた。
その響きを追うように吏史が耳を澄ましてみれば、微かな物音まで聞こえている。
――何も見えない暗闇でも、鼓膜を揺らすモーター音は特徴的だった。
「……。機械、動いてるのか?」
確信を得た吏史が怪訝そうに問い掛ければ、イアンは頷く。
「そう。機械が動いてるのさ。ここにおいてるのは常に稼働してないと活用できないやつだからカサンドラにお願いして再建造してもらったんだよ。機械造りって結構環境が大事だし」
「……いや、溶接作業とかになると、こんなこじんまりとした地下室は逆に向いてないだろ。風通しも悪いし」
「んははっ。少年が想像してるものとは違うタイプの機械作りしてるよ?イマドキそんなん古い手法じゃないって」
「……うん?」
小馬鹿にするような物言いを受けた吏史は片眉を吊り上る。
「どんな複雑な想像でも編み出すためには、正確性が必要だ。俺様はそれを完成させている」
だが、そう語るイアンが部屋の照明を点けた瞬間、驚愕に変貌した。
「………――――人の、顔?」
「いいや、これもちゃんと機械だよ」
思わず呆けてしまうほどの光景だ。
白色の壁に同化させられたような巨大な人の顔が、彫刻のように飾られている。
精巧な作りだ。息づいてるかのように瞼や唇が微かに動くことまであり、不気味さが強い。
しかしそれは単なる悪趣味な飾りではなく、説明された通り機械、なのだろう。
何故なら顔を中心に鉄製の長腕が六つ伸びており、それぞれドライバーやピンセットなど種類異なる工具が握られていたからだ。
「こいつは機械を作る機械。名前は『クロノ』。俺様は設計図を編み出して渡し、時折ちゃんと動けるかのメンテナンスをしてあげれば良い。実に優れた機械なんだよ」
現在は制作途中と思わしい円柱状の機械を手掛けてるらしく、歯車や螺子などが一つ一つ丁重かつ複雑に組み立てられて少しずつ完成に向かい進められていた。
「凄いだろう?完全自立型の製作機さ。設計図通りに作ってくれるんだ。バッテリーさえ定期的に交換すれば永続で動く………まあ、その最新型バッテリーの材料元が壊れて生産できなくなったって発表されたのには、吃驚したけどさ。別に今ある分を再利用したりで、十分回せるみたいだからな。壊れる心配もない」
「…………………。……」
最新型のバッテリー、材料元。
返事には間を開けて口を噤んでしまうが、吏史は頻りに頷き自慢げに語るイアンの横顔を見据えては尋ねた。
「………何だこれ」
「ん?先に説明した通りだけど。まあこのあと少年にはキンキンに冷えた冷却剤のベッドで……」
「違う。今回俺に使う機械のことは聞いてない。これの説明がほしい」
そういうことではないと首を振る。
流れるように冷厳な眼差しをイアンではく、目の前の壁掛けの機械に吏史は向けた。
「変に誤魔化さず、ちゃんと答えろ」
念を押すようにも説明を求める。
「オレはアストリネと人の違いはなんとなくわかる。気配自体も……感じ取りやすい体質なんだ」
先からやたら気が立つ。心臓は心拍数をあげていた。更に肌は粟立ち嫌な予感まで覚えている。
だから、確信じみてもいるが、それでも吏史はイアンから公言することを求めた。
「――なんで、この機械から『人』の気配を妙に感じるんだ?」
あっと驚くようにイアンが茫然と口を開けて、隠すように手で覆われる。
「……ぇえ?うっそー。少年って勘良すぎて気持ち悪いって言われない?」
「生憎だけど『古烬』であることを罵倒されるだけで気持ち悪いとはまだ言われてない」
「じゃあ、俺様が初だね。……少年の初めてもらっちゃった♡」
あまりにも鬱陶しい上に軽薄な揶揄いだ。
吏史の頬に青筋が走り拳が握られるものの、勢いで殴らないよう唇を噛んで堪え抜く。
「……気っっっ色悪いことで話を逸らさないでくれ。本題はそっちじゃない。なんでこの機械から人が感じられるかって話なんだよ。否定しなのならそうなんだろ?これは人だ、人の要素がある。理由は?」
兎に角、今はやるべきは追及だろう。
鋭い眼光を向けて今すぐ明かすように詰めれば、イアンは肩を竦めた。
「人間は機械を動かすためのプログラムを編める。だけど、機械ってどうしても完璧主義。応用が効かない頭でっかちで間違えていた場合も提示しなきゃいけない」
一文字でも余計な分子が混じってると止まってしまう。そのゴミを取り除くこともできないまま、停滞する。
ならば、とある日のイアンは思いついた――らしい。
「不要だと判断できる思考が初めから定着していればいい。とても楽だ。……と。昔の俺様は考えついた……ぽくてさ」
なんて、どこか他人事な調子でイアンは口元を緩めて軽々と説明する。
「そんで。注目したのは直前まで生きていた人間の脳。物理的な記憶媒体に加えて知性が備わっている。死んだと同時に摘出し、維持装置と一緒に情報思考論理の電子基盤に繋げてたわけ」
脳と聞いた吏史の瞳が大きく瞠った。
しかし御構い無しに、イアンは威風堂々とそれを言ってのける。
「材料元は、俺様の妹。病弱だったが機械作りが大好きだった……理想の思考主さ」
―――絶句。それ以外の反応という選択肢が吏史にない。
耳を疑い、言葉を失った。
口を酸素を求める金魚のように開閉させ、胃の腑から湧く煮湯のような侮蔑を隠すことなくイアンを睨みながら低く、唸る。
「アンタ、終わってるよ」
人間性や諸々が欠如してるとしか言いようがない。
吏史はイアンの過去なんて微塵も知らないし、記憶だってないかも知れないが。
だとしても今、この時を築いたのならば、話はそこまでだ。
作るために家族を犠牲にしたなんて心底ありえないことだと軽蔑し切った目を向ける。
「…ンハハッ」
そう蔑みをも込めて罵倒をしたが、イアンはどこか楽しそうに笑う。
「いいね。クッソ生意気。俺様もカサンドラの望み通りに少年の『色』を暴きたくなった」
ククッと喉を鳴らしたイアンは、吏史を手招いた。
「さ。こっちだよ、少年」
――そうして吏史は更に部屋の奥に案内され、氷か硝子で造られたような透明な冷却剤のベッドを前にする。
冷却剤は人一人が寝る形に削られたからか、真下から青白い光に照らされていたがその光は分散していた。
イアンはすぐ側に置かれたキャップのようなものに繋がる管を拾い上げ、ベッドを指差す。
「此処に寝てよ」
軽く叩くように動かして、吏史に横になるよう指示を送った。
「脊椎から前頭葉と直接交信するプラグを差して接続するとかはしないから安心してなー。その方法が効率良くて手っ取り早いけど、全然生命に関わってくる。あ、仮面邪魔だから取るわ」
嫌な説明を聞いて眉間に皺は寄るが、ひとまず素直に従い横になる。
そんな吏史にイアンは代わりの接続補助として手首足首をピンチめいたもので挟み、仮面を問答無用で取り上げてから頭部電極を彷彿とさせるものを装着させた。
「わぉ。絵面最悪。これから電気処刑するみたい」
「おい。これ作ったのあんただろ」
「まあねー。あ。でもちょっと王冠みたいでもあるよ?」
最低な喩えだと眉間に皺を寄せて言えば、イアンはヘラヘラ笑うばかりだ。
「……いいから早く進めてくれ」
「へーい王様」
そんな調子でも、イアンの手は動いていく。
管の先である箱型機械のダイヤルを複数回して、何かを調律し始めていた。
「んー、この周波設定なら……見れるものは『最も会いたい者』ってところかな」
「そう…………」
どうせ説明されても理解できないだろう。諦めた調子で全く興味ない返答をすれば、イアンは不満気に頬を膨らませた。
「少年?人の説明は聞くもんだぜ?」
「時間がないって言ってるし、オレは夢を見る機械だと知ってる。……それで十分だ」
以降の問答も無駄だと提示するように、吏史は保冷剤のベッドに身を委ねるよう瞼を閉じて息を吐く。
「………。気をつけなよ。そういうふうに自分構わずに走り切ることが正解とは限らないぜ?」
視覚が遮断されれば自ずと聴覚が鋭敏になる。
カチッとゼンマイを回すような音が立つ中に交じって、イアンの低い囁き声がやたら耳について暗中に渡り響いていた。
「世の中にいろんな奴がいるんだ、りっくん。自分を削りたくないから誰かの助けを待つ奴も居れば、自分でどうにかしたいから何も求めてない奴もいるんだわ」
「………………」
吏史が腹筋の力で上半身を起こす。
唐突に前触れなく起きたことに目を丸くするイアンに対し、溢れんばかりに瞠った異色の双眸を向ける。
「次、そのあだ名で呼んだら前歯折るぞ」
「…………あっ。ごっめーん⭐︎やっぱこれが少年の地雷だったぁ?」
決して聞き逃されることはない。圧をかけて凄むように憤怒を剥き出しにすれば、何の需要もないウインクがイアンからかまされた。
「じゃあ、りっきゅん!カサンドラにも注意しとくから!な?」
あまりにも軽薄で気に触る態度。わざとらしい猫撫で声。
さらに、呼ばれたくないあだ名と似たようなニュアンスで名付ける。
トリプルコンボな小賢しい挑発されてしまう。
だが、透羽吏史は何とか、理性を保ち、我慢する。
「……………っハァー……………」
頬に青筋を立てたまま、再度横になり、何度か深呼吸を繰り返して逆立った気を落ち着かせていく。
後はひたすら己に言い聞かせた。
ベガオスとは違い、相手は一般人。感情に揺れて殴るなど二度と同じヘマはしない。せめて相手から仕掛けられた反撃行為であるべきだと。
自らの立場を貶めぬようにする。此処は心頭滅却に徹しなければ。
「(………いや、こういうタイプはどうせ呼ぶか……)」
しかしまたも呼ばれる予感はあった。
ただ、此処はあえて殴るにしても条件を設けようと決める。
例えば現実ではない、それこそ今見る夢の中だとか。そこでイアンに似たような挑発を繰り返された時、鉄槌を下す。
そう条件付きで心に決めたことである程度余裕を取り戻し、機械に身を委ねていくことができた。
肺胞の空気を吐き切る勢いで、とても長い溜息を吐く。
体の力を抜けば、眠りは次第に訪れる。
◾️
どれだけ苛立っていようが眠りにつければ、自然と沈静化するらしい。
緩やかな心地で目を醒ます。
しかし、ベッドの上ではなく椅子に座する形でだ。
「(………此処は……家?――――)」
視線を回し周囲を確認するが、茫然とした。
生活必需品となる家具以外余分なものない。実に質素と言えるリビングだ。
繋がる掃き出し窓は空いており、外で広がる青々しい森から流れる爽やかな風が通って頬を撫でていく。
髪が揺れた後、吏史は目を瞠り身を震わせる。
この場所を、知っていた。
懐かしくて仕方ない、忘れ難いもの。
「(第十三区の、オレの家……?)」
此処は、嘗ての帰る場所。
生きてく先でずっとあり続けると信じてやまなかったけれど、全て燃え尽きて無くなった。
――第十三区『恵』にあった、自宅だ。
「……なんで机の傷まで……」
自分が暴れた時につけてしまった机に残る傷までも視認できた。
戸惑いながらもそれを掌でなぞれば、木材特有のざらつきを感じ、手を引いて離してしまう。
「……感触も……ちゃんとある………」
素直に驚嘆した。機械を使われても所詮、夢を見るようなものだとたかを括っていたからだ。
帰りたいと願う心内を汲み取るように、無くした平穏の世界が広がってるではないか。
『最も会いたい人に会える』
この機械を作り上げたイアンがそのように言っていたことを思い出して目を瞠る。
つまり、今の光景に合わせて出てくる者は――
「いや、あり得ない……っ」
期待という邪念を払うようにも頭を左右に振って俯いていく。
心中でも繰り返して宥めた、あり得るわけがないと。
「――おはよう。よく眠れたかい?」
だけど、そんな複雑に絡む思いを一掃するように。忘れかけた声がかかる。
少しだけ高音。しかし内に秘めた自信を表すようにハキハキと喋られる。とてもよく渡って聞き取りやすい。
とても懐かしい声が。
「――……」
顔を上げれば、目の前には黒髪金瞳の青年が対面に座していた。
「おや、どうしたのさ。挨拶されたらちゃんと返さないと。それが礼儀ってもんだよ?」
何処か猫を連想とさせる余裕のある笑みを浮かべて、首を傾けて訪ねてる。
喋る際の動作に合わせて、昔に幼い吏史が贈った青色に灯る水晶めいたペンダントが左右に揺れた。
――今の吏史が、イヤーカフとして着用してるものと同じ石が。ある。
そのことに気づいた吏史は改めて、その者を呼ぶ。
「父さん………」
二度と会えない筈の、己の養父を。
「うん?」
呼ばれたことに反応した。血色良い顔色だ。生きている、確実に。
姿を認識した途端に心に水が湧く感覚があった。この六年間、運良く孤独はなかったけれど。どうしても心の隅で埋まらなかった乾きがようやく満ちるように。
人はそれを、歓喜と呼ぶのだろう。
――だけど吏史はそれを喜べない。
「しかし大きくなったねぇ。六年の間で此処までかぁ」
違う。
「そうだ、ちゃんと物はよく噛んで食べている?友達は作れた?気になる子とかもできたんじゃないかい?」
違う、思い出せ。これは紛れもない偽物。
もう何処にもいない。それが逃れられない現実だ。
破顔して吏史の成長を喜び、彼らしいことを喋り優しい声をかけてきても素直に返せない。
湧き上がる激情を堪えるように下唇を噛んだ。
――揺れては、ならない。
そう言い聞かせるように心内で反芻して、膝上に置いた汗で滲んだ両手は拳を固く握りしめてしまう。
「折角また会えたんだ、色んな話をしよう」
ここで、泣き縋っても。意味がない。家族が戻ってくるわけじゃない、から。
優しく声をかけるサージュに手を差し出されても、取れずにいた。
グラグラと世界ごと揺れるような目眩と吐き気に見舞われながらも、幾許かの葛藤を抑えるよう目を瞑る。
「………………少年?」
その、不意にかかるズレた呼び方で。揺れていた心は不動になり、一気に冷えていく。
やはり素直に答えるだけ無駄だったことを悟れた。
「………」
項垂れたまま、縋らなくてよかったと心底思う。
やはり所詮は作り物。そんな虚空と交流しても虚しくなるだけだった。
何を期待したんだか、実にみっともないことだ。
サージュも、ジルも。蘇るなんて奇跡が起きるわけがない。もう世界の何処にもいない。
ふたりとも吏史が何もできなかった無能だからこそ、目の前で同じ者に潰されただろうに。
そんな後悔と自身への落胆という苦い思いで、心が満ちていく。
深く沈む心内にて――ふと。
吏史は不意に心内に湧いていた水が枯れる感覚と共に、この状況に至った意味を理解した。
「……ああ。そういう感じか……心の色って、そういう……」
憤怒すれば目の前が真っ赤に染まり、絶望すれば暗中に飲まれていくように。
染め上げる感情に塗れた心が、正に『色』と呼べる。
もう何処にも無い場所で二度と会えないはずの存在に会えた吏史が、心音を高めて感情に惑い揺れたのも―――イアンに求められた『色』だ。
「終わってる……」
これが望みなら、悪趣味がすぎる。
性格が最悪だ。歪み捩れすぎて千切れてるんじゃなかろうかと疑うまでに、酷い。
しかしだからこそ、敢えて。吏史は先に伸ばされていた偽物の手を乱暴に掴んだ。
「ッ!?ぇ、は、何……?!」
繋いだ手を軽く握って感覚を確かめる。
それで改めて確信を得た。
これはアストリネではない。生きてる人間だ。
事実に沸々と腑から湧き上がる怒りを湯立たせては、決めた。
「おい。そんなに見たいなら見せてやるよ」
この激情を、抱え込んだ心の『色』とやらをと存分に見ればいい。
相手の喉元に噛み付く獣の唸りじみた低い声で、吏史が目を瞠り前を据える。
「………わ、わぁ〜……」
其処には一度も見たこともない引き攣った顔があり、改めて、目の前の者がサージュの皮を被った偽物だと確信した。
「――そうだな、話せることならあるな?」
隠しきれない怒りが全身から滲んでる。
手を掴む力も強く、加減を誤れば簡単に骨をへし折りそうだった。
「オルドはさ、弱り切ったオレを生かすために復讐を教えてくれた。だけど、後に逃げ道を作ってくれたよ。色んなことを教えてくれたし、沢山のアストリネに会わせてくれた。……だけどその優しさに甘んじたのは間違いだった」
かつて己が間違っていたと語られる。
危険な唾棄すべき『古烬』が、アストリネに一介の人として見られたことそのものが、よくないものだったと。
「与えられたことで自惚れたよ。今のオレならきっと上手くいく。未来も守れる。目的を果たせる。そう勝手なことを思い込んで油断して、……奪われたんだ」
慢心した。世界は甘く優しいなんて、そんなわけがないのに。
気付けなかった。
皆、思うままに生きている。自分の世界を守るため、自衛という名目で他者から奪おうとするというのに。
「譲れないものがあるなら……この気持ちを、変えるべきじゃなかったんだ」
剥き出しにした刃をしまうべきではなかったと、強い後悔と悲しみを表すように。
「なかったんだよ」
眉を顰めて、掠れた声を吐き捨てた。
「――だから、オレは、もう甘えない。これから先は自分の力でどうにかする。……思い通りにする」
そう抱いた決断を後押しするように風が吹き、吏史の白混じりの黒髪を揺らす。
「二度と……この力の使い方を間違えない」
無法者には即座に鉄槌を下す勢いで、この力を振る舞うべきだと。
そんな加虐を灯す白刃めいた苛烈な瞳で、物語られた。
「……」
――まるで、世を薙ぐ疾風を彷彿とさせる。
そんな印象を抱くほど強烈な煌めきだ。
正面から受けた者はただ、声も出せず。手を掴まれて固まることしかできそうにない。
「そうしなければ、また同じ事を繰り返し。オレの存在理由がない。……そう、身焼くような怒りと、焦りが駆り立てるんだよ」
「……」
だけど沈黙の合間に思いはした。
吏史の持つ感情を例えるならば、――狂気だ。
喜怒哀楽が複雑絡む心を焦燥感に駆られながら真っ直ぐに叩き伸ばされた、純然な歪みとも例えられる。
何せ語る吏史は薄く笑っていたものだから。それがいっそう不気味さが増す。
「…………どうした。何で黙るんだ?これが見たかったんだろ。満足した筈だよな?……せっかくだから、なんの『色』に見えたか教えてくれよ」
「っ…っ…?!」
悍ましさを覚えていたサージュらしき人物は、突然の問いに目を瞠る。驚きすぎて息を詰まらせたのか、ヒュッと喉を鳴らした。
「………っそ、れは……」
暫し、唇を開いたままだ。答えられずに沈黙する。
数十秒という時間を経た上で、やがて、搾り出すように微かな声で解は紡がれた。
「それは、実に、自己破滅的で、……純度高い真っ黒な『色』なのかもねぇ…」
「――つまりは曇りないってことだな?」
「え?まあプラスで考えるならそうかも……」
「なら、よかったよ。今後もこの想いを捨てずに生きていくのが正しそうだ……なっ!」
「いっだぁ?!?」
口元を引き攣らせてる様を鼻で笑った後に、吏史は掴んでいた手を机に強く叩きつける。
悲鳴を上げたサージュの形も一斉に霧散した。
声まで別人に戻るよう、偽りのメッキが破れ剥がれていくように。
「痛………………だぁ…ッッ……」
そうしてサージュは瞬きの内に、手を重ねて痛む甲を覆い涙目で悶えるイアンの姿に戻っていた。
吏史は目を眇めて、平らに据えて冷たい目線を送るばかりだ。
「ぃ、痛ってぇ〜……痛いってぇ………少年……さぁ…っ!」
「なに。加減はしたけど。というか、もしかして初めからあんただったのか?」
「……ま、まあ?今回に限ってはな?俺様も少年の夢を直接見ようと思って、精神干渉機能を使って介入したんだよ……。なんかすげー怖いことも言ってたけど、何?お父さんは一番会いたいけど嫌いな相手だったわけ?」
手の甲を摩り涙目で問いかけるイアンに、吏史は目を瞑り溜め息を吐く。
「……嫌いじゃない。二度と会えないとわかりきってる相手を見せられても、ただ………心が荒むだけなんだよ。やめてくれ」
実際、薄れていた記憶が鮮明に甦り、心は大きく揺さぶられた。
だけど先の宣言のように、会いたい相手を前にしても泣き縋れないのだ。そのような甘えも許せぬほど、擦り切れてしまってる。
「ほぉーーーん……」
意を聞いたイアンは間延びした声を上げながら、暫し考えた。
そしてものの数秒程度で案を思いついたのだろう。
パチン、と意味ありげに指を鳴らす。
いやらしいニヤついた顔を浮かべ、唐突に吏史の頭に手を置いてポンポンと軽く叩いた。
「は?何」
吏史に拒絶の意が籠る冷たい反応で返されたが、イアンは全く気にしない。
そして需要のないであろう成人男性によるウインクをかますのだ。
「りっくんさぁ、この夢から覚めたら先ずはハーレム作っちゃわない?真っ直ぐ過ぎる純度高い真っ黒な復讐心も熱くていいけどさ、可愛い女の子に好かれて囲まれる赤い情熱も最高よ?」
「…………………………。」
青と黄色、夏空を想起させる瞳が思案を示すように上を向く。
「………あり?どした少年」
無視して熟考した末に、此処が次に地雷を踏まれた場合、最低条件だった夢想であると思い出す。
問題無し。そう判断を済ませた吏史は、無言でイアンに手を伸ばした。
「うぉっ?!」
目を丸くされて驚かれたが、構わず実行に移る。
右手はイアンの胸倉を容赦なく掴み強引に手繰り寄せ、左手は血管浮き出るほど力を込めた拳が握られた形で肘を曲げ大振りに引く。
短い呼吸を済ませ息を詰め、イアンの顎に狙いを済ませた鋭い正拳突きが放たれようとしていた。
「いやぁああ゛ぁあぁあああ゛ごめんごめん!殴らないでぶたないで許して!此処が深層心理内の空間、精神でしかなくてもさぁ!ダメージを受けたと認識した時点で現実にも反映されちゃうって知ってるぅ?!」
「でも此処は夢のようなところなんだろ?さっき言ったよな?歯が折れる痛みがあっても実際取れる現象は現実で起きないんじゃないのか?なぁ?」
「ドメスティックバイオレンスぅ!!俺様が怒らせたってのはそうだからまあ?ちょっとは怒っていいけどもぉ?!そこは寛恕な心で許して!?」
「『仏の顔も三度まで』なら知ってるだろ。【ジャバフォスタ】の元研究者ならオレよりも賢い。そもそも、そう呼ぶのやめろって二度言った後に読んだ挙句、嫌なものまで見せられたという役満なんだ。この夢の中で精算しろ」
出る杭は打たれる。
その意味は相手を冗長させない抑制効果も兼ねてるのだろう。
理解して決めた、此処で決める。
――イアンをぶん殴る。
「待って!タンマ!じゃあせめてイメトレさせてください!よーしここは少年が美少女!美少女だったら歯や骨が折れる暴力だって大歓迎、至上のご褒美、極上の麻薬!過激的愛情表現大好物!これより脳内変換による補填思考展開を開始する!」
そうして尊厳破壊空想が完了する前、吏史が問答無用で正拳突きを披露した。
最後の慈悲で身体能力向上させる兵器『ゴエディア』を構えなかったが、限界まで鍛えられた肉体から繰り出される拳は風を切り、凄まじい威力を叩き出す。
結果、イアンは五メートルほど派手に吹き飛び転がることになった。
まるで道渡る途中で踏み潰された蛙のように床に伏せて微動だにしなくなるイアン。吏史はそれをナイフのように鋭く冷たい目線で見下ろすばかりだ。
「おい。死んだフリするな。とっとと夢から覚めさせてくれ」
「ひゃい………」
衝撃を受けたイアンは身震いしながら悟る。最近の若者は沸点の短くて怖い、ではなく。
吏史が怖い、とても。
きっとこれが現実ならば前歯は数本折れていたし、顎も叩きつけられたクラッカーのように粉々に割れたに違いない。
だから心に決めた。もう、これ以上はおふざけはやめて二度と怒らせないようにしよう…。
そのように、漸く、深く猛省したのだった。
「遅い、モタモタするな」
「はい……」
高圧的な態度にも文句はあげず、イアンは皺々に萎み切った顔で体を起こし、機械を止めようと手を動かす。
「…うん?」
しかし違和感が生じたように、首を大きく傾げていた。
「あれ、なんか、操作が……」
操作が効かない。周知も兼ねた独り言が渡る。
そして突如、唐突に。
周囲全体の景色に砂嵐が巡り走る。
吏史とイアン以外、全てが情報のノイズに掻き乱されていき、世界の変化が始まろうとしていた。
「っ!イアン!何が起きているんだ?!」
「わ、わかんないって!俺様も始めてだって何これ珍発見すぎる!知らないよ全然!こんな現象は、みたことない前例がない、ようぉっ?!」
「分かった!なら動くな離れるな!」
嵐が巡るような世界を見渡した後、吏史はイアンの肩を掴み、引き寄せた。
機械の異常現象、製作者すら把握してない緊急事態。正解がないというならば、イアンの分断という最悪展開から阻止を図る。
やがて天井と床の端からノイズに飲まれるという崩壊が始まって、一気に虚空が広がり二人を飲み込んだ。
「いやぁああぁあああ!た、助けてー!カサンドラぁ!!」
腕に強く抱きつき甲高い悲鳴を上げるイアンを他所に、吏史は敢えて、虚空に向けて足を伸ばす。
踏み外して落下する覚悟を以て、何もない地面を強く踏み締めた。――踏み締められた。
「……………。あるけど。足場」
「…………ほぇ?」
虚空についたまま足で地面を擦り上げるよう、回し上げてから証明する。
そうしてる間にも、すっかり二人以外の世界全てが暗闇に消えてしまう。
虚空に佇むという奇妙な光景に怯えたイアンは吏史の腕にしがみついたままではあるが、恐る恐ると何も無い地面に足を伸ばしてみる。
叩くように踏むことが、できた。
「………あ!ほんとだ。あるじゃん!地面ある!超地面!うわっ!野郎に縋り付いちゃった……少年、少年少年少年!」
「なに」
急に離れたと思えば勢いよく肩を掴まれる。
身体を揺さぶられながら吏史は、鬱陶しげにも半目を向けて手短に聞き返す。
「確か今十六歳だよね?!なら、まだ成長期だ全然遅くないだからすぐに性転換しない?!俺様の名誉のためにLLサイズでも苦しいHカップビックヒップのダイナマイトボディになろう!」
無言でイアンの手を払い、側頭部を引っ叩いて拒絶した。
後は執拗に縋られないよう、その辺の地面らしい場所に向けて身柄を投げ捨てる。
そう雑処理してから、吏史は改めて広がる暗中を見渡した。
「(……空中に放り投げられることはなかったし、分断も免れた。だとしても、この機械の異常みたいなのは続いてる、と……)」
前も後ろも左も右もない。出口と思わしきものすらも。
例えるならば、一縷の希望も感じさせない闇の監獄だ。
「……で。まだ操作が効かないのか?効かなかった場合、此処から出る手立ては?」
「ないない詰んでまーす。もうね、俺様の想定外なんよ」
「そうか」
返答の後、吏史は己の掌を見つめて握り締める。
此処は精神世界に等しい。
――なら、黒骨の手甲『ゴエディア』を用いて暴れたとしても、何の意味もないだろうか。
しかしあることを思い出す。
眠る前は確か、素肌で機械を取り付けていたことを。
「(『ゴエディア』を出せば……実質、腕が一回りも太くなるようなもの。……両手首……装着した機械の一部でも取り外せたら……何かしらの変化はあるか?)」
無意識に発揮できる可能性が高いが、危険かもしれない。
悩まし気に薄目になる。
だが、すぐに迷いを振り払うよう目を瞠った。
此処で無駄に時間を浪費し続けるよりは断然いい。そう思ったが故に。
「(……危険だとしても、オレなら簡単に壊れない。……試す価値は十分ある)」
そう決めて、両手を下ろして息を吐く。
全身の筋力を起こすように力を込めて、装甲型兵器『ゴエディア』の顕現を躊躇いなく行う。
無から編み出されていくように。黒骨や蒼炎が両腕から肩にかけて包み込み、鎧の形を象りゆく。
「……」
無事に装着できた『ゴエディア』に包まれた手で拳を握る。
実感を確かめた途端、再び場の変化が起きた。
ズン!と地響きめいた振動が全体に響く。
「!……なんだ…?!」
負荷を感じた瞬間に、辺りの暗中が暗転し今度は白に変わり始めていた。
まるでリバーシの盤面が裏返るように、或いはドミノ倒しのように。侵食規模を広げながら黒が白を塗り変えていく。
「少年?……少年?ちょっ、何!何したの?!もうやめて!俺様キャパオーバーしてクラクラしちゃう!」
「いや、これは、オレもわかんない……悪い。……機械壊したかも……」
「壊したぁ?!」
騒がしい二人を制するように、バタン!と扉が乱暴に閉められる音が響く。
驚愕で肩を揺らして押し黙る二人の前で、白亜に染まった世界は再び変化をし始めてた。
まるで、それは仕掛け絵本が広がるように。
七色に輝く観覧車や多くの馬種や手綱で彩られた回転木馬、曲折が畝るレーンやそれに付属する列車までを展開していく。
「………なん、だぁ?」
黒から白。そして、眩い色彩に満ちゆくという巡るましい景色変化。
全く理解が追いつかないと惚けた調子で、イアンが頭を掻き戸惑った。
「なんか急に…【暁煌】の遊覧施設みたいな景色になったけど……」
その横で、吏史は何も言わない。無言で一点に注視するよう硬直している。
「…………。ん?少年?」
不思議そうに首を傾げては、イアンも追従するよう視線の先を見た。
「…………?……女の子?」
藤花めいた薄紫のワンピースを身に纏う黒髪の少女だ。
彼女は腰まで伸びた髪を微風に揺らし、柵に手をかける姿勢で回転木馬を眺めている。
生身ではなく記憶の一部であると示すように、彼女の関心が吏史達に向けられる様子はない。
写真か絵画のように、ただそこに在り続けていた。




