一つの傲慢と、一つの決意
―――七年前
第十三区『恵』が未だ健在だった頃。
【暁煌】では代表管理者争いが本格的に起きようとしていた。
『古烬』は滅ぼすべき存在だと吠えるは間陀邏を筆頭とした『殲滅派』。
『古烬』を人種として認めるだと善を謳うのがローレオンを筆頭とした『庇護派』となる。
二派の考えは消して交わることなく、【ルド】【ジャバフォスタ】を交えた三国会議の議題となるほどまでに深刻化したが、他国の介入が拒絶され、両派閥が納得する解答が定まらない難題と発展していた。
実力のみを評価するのであれば、代表管理者はローレオン一択だ。三十二代目ローレオンは初代ローレオンをゆうに超える優秀な逸材であり、【暁煌】に於いては最強と名高い実力を持つ。
(世界全体の基準に置き換えればエファム、ディーケの方が評価が高くなるが)
その上、ローレオンはアストリネとしての意識が高い。大きな欠点も見当たらない彼に【暁煌】の代表管理者を委ねるのは正しいと言える。
しかし、世界の意思としては、間陀邏の意が酌み取られるべきだ。意向の正当性は二十三代目間陀邏にある。
何故なら『古烬』はこの世界において多くの犠牲を生み出していたからだ。
特に彼等が起こしたとされている『アダマスの悲劇』の被害は甚大と言えよう。多くのアストリネが代を重ねただけでなく、いくつかの姓が潰え、二十五代目エファムには重傷を負わせて結果的に管界から去らせてしまったのだから。
故に、歴史という記録では狂信的『古烬』至上主義を謳い平穏を脅かす兵器を生み出して猛威を振るおうとする危険分子だと明白な教義として記されてたが、当然のことだろう。
排斥されるべき存在として認知されている。
その点に於いてで間陀邏の意思が高く評価されているため、両者の優劣も優勢も傾くことなく地位争いが決着つかずに続いてるのだ――。
――そんな情勢が裏で起きてる【暁煌】のとある喫茶店にて、とあるアストリネが二名居た。
林と隣接した土地だからか、木々と同化するように囲まれた隠れ家めいた外観をしている。
その店の特徴としては二つあった。
『音』を操るアストリネの協力で心に響く音楽が提供され、電子オーディオから店内に流れる聞き心地いい空間が故に落ち着いた雰囲気があること。
提供品である品は厳選された品質高い珈琲と紅茶、それに合わせて用いられる砂糖やミルクまでこだわり抜かれており、日替わりで変わるお手製のお菓子までサービスで出されること。
これら二つの要因が、この喫茶店の人気たる所以だ。提供される飲食物は美味しい上に、居心地がいい。人類側からの評価は高く人気高い店だ。
無論、品も立地も良いのだからアストリネ側の評価も高い。交流を踏まえた相談にはちょうどいい店だと、ローレオンも評価している。
誰かとプライベートな対話をする際、店主に事前連絡を取って店を貸切を行うほどだ。
店内にある最も奥の窓席。林と空が覗ける場所。
其処がローレオンが貸し切った場合に用いる場所にして定位置だった。
「…アストリネ内で分断が生まれてるというのに本格的な管理体制の変更に進めるか……実に感心し難いな」
その席に座るイプシロンは足を組む。
身につけていたベージュ色のトレンチコートや黒の革手袋を脱いで気を緩めることはせず、早速持ちかけられた相談内容に対し、手短な感想を目の前の相手に吐き捨てた。
「…やはり、きみもそう思うか」
「正常かつ健全な心の持ち主なら誰も同じ感想持つ筈だが。まさか、これだけのために俺を呼んだわけじゃないだろうな?」
「いいや、まさか。色々あるさ。頼み事も。わざわざ聞かずともわかるだろう。……きみ相手になれば本音で話すしかない」
そう答えた藍色の礼服を纏うローレオンは、一気に呷るように紅茶を飲み切っていく。
鮮やかな花模様が刻まれたティーカップをソーサーに置いてから、僅かな頭痛を覚えるようにも手で眉間を抑えた。
「……きみには……報告も、兼ねてるな。私と間陀邏が争う中で強引に進められてしまってる計画だが、どうにも止められそうにもない」
嘆く想いを隠さずに、ローレオンは重い吐息を吐いていた。
「君が阻止できない?ローレオンであるはずの君が?六主の抑圧が効かない相手となると…異能無しでも絞れはするな…」
イプシロンは眉間に皺を寄せて、その候補を整理するようにも考え込む。
恐らくネルカルに悪戯に着けさせられたのであろう。少し伸びた前髪には二本の赤色のヘアピンで十字型に着用されており、位置を直す仕草をも交えて熟考していた。
「………しかし」
それを見ながら、ぽつりと不意にローレオンは呟く。
今日は晴天だ。窓外からは斜映が差し込んでいる。
窓際に座り込むイプシロンの赤が差す金髪が照らされて日光を含み輝くものだから、彼の端正な顔立ちをより際立たせて見えた。
「相変わらず陽光が似合う男だな。金烏とはきみのことを指すのやも知れない」
「……。………君、本当に大丈夫か?」
胸内への抑制を敢えて利かせないローレオンの発言を受けたイプシロンの眉間は怪訝そのものに皺寄り歪む。
嫌悪感そのものをむき出しにした表情だったが、すぐに意図的にもお出しされた自由勝手すぎる発言だと察したのだろう。
イプシロンは文句を紡げず、肩をすくめて深い溜め息を吐く。
「……いや、いい。俺相手には本音を話せざるを得ないから楽とは別の六主からも聞いてる。だがこれ以上は何もいうな。適当な発言すぎて凄まじく対応に困る。一瞬正気を疑ったし殴るべきかと悩んだ……」
「恋仲がいないのが心から不思議でならない。クオーレは渡せないが、候補はいないのか?」
「普通に凄く鬱陶しい。色ボケた過干渉な親戚か何かなのか君は。そんな話してる場合じゃない」
「すまない。参ってると不意に、……突発的に中身のない会話を楽しみたい時もあるのでな」
「それはネルカルと楽しんでくれ。俺は忙しい、暇がない。君の後には【ジャバフォスタ】に向かわなければならないんだ」
そんなイプシロンに対しローレオンは敢えて人差し指を立てて尋ねてみる。
「あだ名はないのかね?イプくんとか……」
「話をする気がないなら直ぐに帰らさせてもらうが」
「失敬。だが、まあ、うん。お蔭様でだいぶ調子は戻ったよ」
結局、何も大丈夫ではなかったローレオンを冷ややかな目で見据えたイプシロンは、直ぐに切り替えるようにも目を瞑り軽く咳き込んだ。
「…まあ…話は戻すが、この間に俺も大方その相手とやらは予測がついた。間陀邏を推薦してる『殲滅派』の『旧き姓』たちだろうな。違うか?」
「いいや、残念ながらその通りだ」
「はぁ…成程」
原因となる相手に対して辟易とするように、イプシロンは不快な表情を隠さない。
真っ黒な珈琲と氷で満たされた透明なカフェグラスを黒手袋で覆われた左手で持ち、それから先は回数を分けることなく、一気に珈琲を呷り飲み干していく。
空になったグラスの底で机を軽く叩いては、肘をついて両手を組む姿勢を取っていた。
「…奴らが推進してる分配制度の見直しは、簡単にいうと優秀なものによりティアが集まることを差すからな。一定以上の稼ぎを得る者から『配分の平均化』と理由を提示し多くのティアを稼いだ者から徴収しやすくする。…まあ、それが主な狙いだろう」
「だろうな。謳い文句は『財源が足りない』、『個人資産は必要ない』か『平和維持のため』辺りだろう。弱い言い訳だが強引に通すはずだ。それだけ彼等は富を築くことに執心してる」
代表管理者ではないアストリネも一定上限を超えてお金を貯められるようになった弊害は、生まれ始めるだろう。
「となると…それで人類からお金を貯めて…万国共通のティア限度額を圧迫し【ルド】に嫌がらせするつもりか。いや、それは……まだ可愛い方だな。得た大金を碌なことにしか使わない輩が厄介だ。……初めから区そのものに対して購入規制があって良かったよ。最悪な展開にはならない…とはいえ、か…」
「きみの予感は正しい。問題は、区の施設の購入についてだろう?」
「そうだ。それは特に明確な制限や規制がされていない。【ルド】でも孤児院の買取を一部の兵士が買い取って運用してるように、『家や店を持つ』ことを人類側が叶えられるようにしたかったのが始祖の目的なんだろうが…」
六主ですら区は買えないように五百年前から始祖が成立させた法があるからこそ大事には至らないだろうが、区の施設自体は個人資産として所有可能である関係上、各区の運用支配から着手するのは想像に容易いことだ。
「現に、クモガタは第七区『爛』の施設を買い尽くしててな。人類には区の代表として通してるが、運用権利はクモガタに渡っていて、現在は彼の思う通りに開発生産が進んでるよ」
「……。よくない傾向じゃないか…アストリネ側にこの流れが徐々に拡がってしまうと…分断を生むかもしれない」
そして既に危惧すべきことは始まっている。
先にあるかもしれない対立の予兆に対してイプシロンは深刻な面持ちに変わり、空気も重さが増した。
「…自分たちにも同様の権利があると訴える割に、どうしてこうも本質的な役目を放棄するように争いの芽を作ろうとしてるんだか…」
――『旧き姓』というのは、簡潔的にいうとこうした苦言を生み出す存在だ。
アストリネの一族ではあるが、彼等は代を重ねたものが歴史に貢献しているという認識が強く、二十代を越えれば『六主』に並ぶ権利も権力もあると横暴な振る舞いで主張する。
中でもこれまで『六主』以外に着任した事例がない代表管理者になることを渇望する声もあった。
なまじそれらの数が多いせいで、六主やエファムですら彼等を抑えあぐねてしまうのだ。異能の差は大きく力づくで抑えたとしても文句を言うのが目に見えてるのも要因として大きい。
故に、取り扱いに困る存在とも言える。
「本当に面倒だな、鬱陶しい。なんでエファムにも嫉妬する奴らまで生まれてるんだ?アストリネであることを自覚するまで異能で洗脳で改心してやろうか…」
「どうした。今日は一段と荒々しくて口が悪いな」
「誰かさんの発言に嫌気がさしたのが原因かもな?」
「ああ。そうか。それは、すまない。大丈夫だ、安心してくれ。きみのは飛んでいた鳥羽の色の鮮やかさを褒めるようなもので、私が心から美しいと想いを寄せる相手はクオーレだけだ」
「それが此方へのフォローのつもりなら笑い物だぞローレオン。一発殴りたくなるくらいには不愉快だ。………いや、待てよ?……だけど……そうか」
カラン、と。
氷が溶けた拍子で空になったグラスが鳴る中で、イプシロンは一つの気づきを得る。
次第に翡翠瞳が平らに据わり、これより先相当苦労するであろうことだと予測したのか、気怠さを覚えるようにも伏せていた。
「……。考えてみれば……それは、『旧き姓』が堂々と気にせず動いてる証拠でもある。…八年前に行方をくらませた…サージュさんの影響がだいぶ、弱まってる」
過去に『旧き姓』は明確な権力の弱体が起きたはずだ。しかし、このような現状となるとサージュが起こした事変の影響が薄まり始めている。
その悩ましい問題に、頭痛を覚えたのだろう。イプシロンは目を伏せたまま鉛のように重い息を吐く。
「……まあ、サージュさんが起こした粛清というよりも、好き勝手に暴れたついでの弱体化だった。影響があまり長く残らないのも仕方ない」
そんな目的で起こされたものではないのだから長続きはしないと、重くなる気持ちを切り替えるようにも、イプシロンは軽く椅子に背をもたれて天を仰いでいた。
「そうだな。当時は急で唐突で、嵐が来たのかと思った。災害の被害というものは修繕されるものだろう……斯くいう私も相当混乱したし、ひとまずは他の姓を宥め、変化に追いつくのがやっとだったのはよく覚えてる」
「……まあ、二十五代目エファムも心底呆れてたからな」
「ほう。……ちなみに興味本位で聞くが、かの方はサージュの改革劇に感謝はしていたのか?」
「全然別に。特に、何も」
その反応の答えを聞いたローレオンは、『知っていた』とばかりに同調同意するよう、瞼を閉じて頷く。
実際、二十五代目エファムと三代目ヴァイスハイトはパートナーではあったが、けして仲は良いわけでない。立場的に相棒ではあるが『性格的に無理』という主張がエファム側からあったことは関係者内での常識なのも有るが。
実質、サージュが起こした改革自体、エファムが助けられたとしても。エファムはサージュに謝辞を贈らないだろう。
その確信があるイプシロンは、どこか呆れた様子でローレオンに明言した。
「もしも言えばとことん揶揄うか録音して今後の弱みとして握ってくるからってのが大きくあるだろうけど。……ああしてサージュさんが暴れてたのはエファムのためというよりも、妻と娘のためだったのを見抜いてたんだよ」
「そうか……なら、余計にエファムは謝礼を述べないのだろうな」
理由はこれに尽きる。
サージュが起こしたことは実に利他的ではあったが、あくまでエファムでなく愛する者に理を置いていたからだ。
「…ただ…迷惑だった。本当に。俺はこんなことは二度とごめんだよ、絶対に起きてほしくないものだ」
それだけで荒らされる身にもなってほしい。当時の後処理の数々を思い出すだけで辟易したイプシロンは苦々しい顔を浮かべてる。
改革するのは構わないが、事前連絡なしにもそれをされたからてんやわんやした。こうした災害にも等しい事件でいつだって片づけという皺寄せが来るのは下の方だから、理不尽さは覚えるわけで。
「二度と起きてほしくないものだ…」
当時は三週間程度、まともに就寝できなかったことをも思い出しながら、込み上げてきた苛立ちごと噛み締めて大事なことを反芻するようにも呟いた。
「――だが、サージュの行動力は褒めるべきものだろうな」
「…うん?」
それは不意に来た発言だ。聞き間違えと目を丸くして耳を疑うが、違わぬことに気付いたイプシロンの表情がみるみるうちに真顔に変化する。警戒する様にも瞳孔が大きく開き始めるものだから、彼の真姿、獰猛なる空の狩者を想起させた。
しかし、ローレオンはそれを特に気にかけない。愛する者のために心行くまでに暴れ改新したサージュを、羨むようにも口走る。
「私もかつての彼に倣って力を振るい、『旧き姓』を一斉粛清して抑えるべきだろうか」
カランと、再び溶けた氷が空のグラスを鳴らし、室内に響く。
――だいぶ融解が進んだのだろう。
グラスの中には水が溜まり、側面には結露が滴り落ちて木製の机を濃色に染め濡らしていた。
「やめろ。サージュさんと君では違う。君の炎の力は強すぎる。洒落にならない」
刃を突き立てる様に、低い声が掛かる。イプシロンの黄金の星を灯す翡翠瞳が鋭利な刃になるよう吊り上がり、虹彩で捕縛するが如くローレオンを映していた。
これは冗談だとしても到底聞き入れ難いと咎める行為、或いは一歩進むだけで破滅に向かうと指摘も兼ねてるのだろう。
「害虫駆除で例えれば、サージュさんはナイフ一つで済む。だが君の場合は被害が広まり必ず森ごと焼く。巻き込む規模が大きいんだよ」
それを自覚せずに踏み込もうとしている顔見知りに対して、イプシロンは組んだ手を緩めては前のめりの姿勢を取る。そのまま手を伸ばし、ローレオンの胸倉を、シャツとネクタイごと乱暴に掴んでいた。
「自分の力の使い方を見誤って、世界をめちゃくちゃにしようとするな。ローレオン」
これは忠告だ。もしも誤るようならば、イプシロンは対策を投じるだろう。正面から潰すつもりで。
そう思わせるほどの秘めた気迫は、ローレオンに感じられた。
「……」
何度か目を瞬かせて、ローレオンは苛烈に輝く金色の日輪が昇る翡翠瞳を見返す。
ただ、下手な反論することはせず、速攻行動を起こした。
「……わかってるよ、イプシロン。そう、睨み咎めなくていい」
降参し、考えを改めて折れることを示す様にも両手を上げる。
イプシロンもジルコン同様、アストリネとしての自覚と意志が強い。世の危機を前にするとアストリネとしての血が騒ぐタイプなのだろう。
そう改めて感じながら。
「冗談だ。ローレオンとして、私は間違えないとも」怒らせるつもりはなかったという本心を隠さず、上げた手を軽く左右に振ってみせれば、イプシロンは目力を緩めてから瞼を閉じて溜息を吐く。胸倉を離して解放した。
「…それなら構わないが」
「ああ。安心してくれ。寧ろ此方としては今後のきみを当てにするつもりだ、イプシロン。彼等の動きを嘆かわしく思うなら、来訪時には必ず全ての『殲滅派』を始めに『旧き姓』の心理看破をお願いしたい。何かしら不審な動きがあれば、報告を頼む」
「…………元々は此方の定期的な【暁煌】の訪問許可を貰うため…だったからな。既にそれを貰っているのもあるが、必ず全うするつもりだ」
話を済ませた後にイプシロンは頬杖をつくのをやめて、両腕を組む。
そうして威圧的な姿勢を正していたが、――ふと。イプシロンは複雑な感情を垣間見せるようにも、苦渋の表情を表していた。
何処かしら倦怠感をも感じられるような珍しい顔を、ローレオンは瞬きしながら注視してしまうのだ。
「……ところで……イプシロン。此処の珈琲は、きみの口に合わなかっただろうか。それとも甘味……キャラメル林檎パイは、好みではなかったかね」
ここは敢えて、話し難いことだと察しながらもローレオンはよく焼けた林檎パイを手で差し出すようにも指摘して揶揄った。
「…好みとかそういうわけじゃない。……最近は……常に忙しいからな。どうにも面倒なんだよ。食事という行為自体が」
どうやらその唐突に話題を変える質問は、イプシロンの心境を引き出せるものだったらしい。
気まずそうな調子で身の回りの事情をも明かされた。ローレオンはそれだけでも珍しいと感じる。悩みを得ても自己解決で済まして誰にも頼ろうとしないのが常だからだ。
「君以外の六主にも良く呼ばれて、こうした国の方針相談を受けるのもある。それで、つい、色々と……考え込んでしまうんだろう」
酷く参った様子が、少しだけ伺えた。
だけど、消耗自体は仕方ないことだろうとローレオンは思う。
――イプシロンというアストリネは、生物の胸中を読める異能を持つ。
どうしたって心穏やかではいられない。異能を扱う度に相手の深淵を覗くのだ。
超回復の対象とはならない精神的疲弊が付き纏うだろう。強力な力である分の代償とばかりに、イプシロンの[核]は心労が蓄積する形で弱まり行くのが逃れられない。常人なら発狂するのを精神力で補って耐えているのだイプシロンは。
「……そうか」
どこか他人事のようにも思いながら、ローレオンは手短に返す。あえて同情し深く聞きはしない。イプシロンに対して下手な慰めをかけられなかった。
苦悩に共感し同調できないのに、言葉だけをかけるのは、無責任だろう。そもそもイプシロンだって別に求めてないのだから、この対応が正解なはずだと判断してのことだ。
「……なぁ、ローレオン。これから君に変なことを聞く。答えられたらでいい。もし分かるのなら教えてくれないか」
それは正解の対応だったらしい。イプシロンはまるで独り言として壁に話すように語りかけた。
瞼という白色のシャッターが下されて翡翠瞳がゆっくりと閉じていく光景を眺めながら、ローレオンはその発言を黙って聞く。
「俺たちや人は理性が備わった思考する生物だろう?なのに、どうして、正しさを捨てて破滅に進んでしまう者も居るのだろうな」
それにもまともに答えてやれないまま。ローレオンは押し黙った。
それが唐突な問い掛けだったのも一つの要因ではある。だが、その謎かけめいた質問の意味を、ヤマト=ローレオンでは測り兼ねてしまったのだ。
「――『どうして正しさを捨てて破滅に進んでしまう者も居るのだろう』…って、急に謎かけめいたのを投げてきたのか?オルドが?」
パチパチと隻眼の赤目を何度か瞬かせて、本日の密談相手であるジルが首を傾げた。
「なんだか……概念的……?卵が先か鶏が先か……哲学的な問題みたいだ」
白を基調とした金魚を模様とする和装を身に纏うジルが選び持つドリンクは、ヨーグルトと苺を混ぜた氷菓子に近しい飲み物だ。
まろやかな酸味と爽やかな甘さがある逸品である。
それを半分以下まで喉を嚥下させながら飲み干した後、空になったパフェグラスを机に置き、悩ましげに唇を尖らせては肩まで伸びた絹白髪の先を摘んで指に絡ませた。
「んー……」
暫し、ローレオンから振られた問いを熟考してから、口を開く。
「多分、オルド的には何かと猪突猛進的な考えなしの行動を咎めてたり…なんかする…かも?くらいだな、ごめん。全然わからないや…」
そう答えながらジルは赤眼の視線を横に動かし、直ぐ側の窓外を見る。合わせるように、ローレオンもジルを視界の端に移したまま空を見た。
現在は曇り空だ。中天に昇る白き太陽は鼠色の隠れている。故に木漏れ日はなく、全体としては薄暗い。
雨が降る前のような特有の空気感の重さをも感じてならないが、その中でもジルの絹白の髪や柘榴石めいた色は鮮明で、もはや光源めいて見えた。
「………そうか。きみでも、イプシロンの発言の意を図り兼ねるか」
窓外の空から正面のジルに視線を戻したローレオンは、水の入ったコップを手に取り、一気に呷り飲み干す。
話してて少し渇いた喉を潤そうとしたが大して満たされない心地になり、空のコップを机に置いた後は無意識に喉を撫でる中で、投げた質問は返された。
「まあ…本当に大したものじゃなくて、深い意味はないんだと思う。無意識の呟きか…何かじゃないか?それくらいは聞いてみてもいいだろ」
そう答えた後、ジルは少し憂げな表情を浮かべる。
「ただ……オルドの言葉の意味が誰かを想いながら未来に進めることを指すなら、別に悪いことじゃないと思うけどな。何なら、羨ましい」
心の思うがままに突き進み、駆け抜けられる自由は爽快に違いない。実に肯定的な意見だった。
「だって、誰かのために良き方向に世界を変えてもいいって頑張れてるなら。それは悪くないことだろ?」
しかしジルの表情はどこか切なげで寂しさの色が滲んでいる。
翼を得て飛ぶ鳥を見上げる地上で這う蛇のような心地で憧れを抱いてるのだろうかと、ローレオンは瞬きながら見つめていたが、何処か気まずそうな様子で赤眼は横に泳いで逸らされていた。
「……私が、どちらの派閥にもつけない優柔不断な奴だから、思うだけなのだけど…」
今の【暁煌】は何かと発言を酌み取られて、二党いずれかに属してるのかと揚げ足取りが起きている。
六主に並ぶ実力を備えながら、ジルはどちらの派閥にも付けずにいた。だからこそ、ローレオンの前では下手な仲間意識的高い失言はしかねるのだろう。
ひどく申し訳なさそうにも、声の調子を落として告げていた。
「………」
ただ、ローレオンは責めたりはしない。その含みある罪悪感も後ろめたさも酌み取れる。
判断できた。おそらくジルは、ローレオンの奮起する理由であるクオーレとの仲自体は祝福したい側なのだと。
結局、本命であるイプシロンの問いは解明しなかったが、結果的には良い結果と言えるのやもしれない。『庇護派』のアストリネたちも『古烬』を憐れむものが多いだけで、ローレオンとクオーレの仲自体を認めるものは少なかったのだから。
――認める者がひとり居るだけでも、有難い。心の持ちようが変わる。
「…いや…いい。逆に、バランスが取れてる。間陀邏は不満そうだが、私はきみが『殲滅派』につかなくて心から安堵しているよ」
だから、頷く。
今進む道が間違ってないと確信を覚えさせてくれたジルに対して、その立ち位置で問題ないと暗に伝えるようにローレオンは伝えた。
「……ヤマトとしては、きみにもできるといいと願ってる。間陀邏以外にも……世界を変えてもいいほど……奮闘し、前に進め続けられる。そのような相手が」
「……ああ。ありがとう」
「因みにだが、……きみの理想は想像できるのか?」
「理想?」
「単純に言うならば好み、という話だな」
手を差し出すような動作を交えてジルに確認したが、これは興味本位だ。単純に一アストリネとして気になってのこと。
アストリネとしての意識が高いジルが、異性への理想や嗜好があるのならば知ってみたいという好奇心もある。
「理想、か…」
自らの顎に手を当てがい暫し考え込んだジルは、数十秒の思考を経てから口を開いた。
「弟子が、欲しいな。弟子がいい。私が得たもの全て飲み込める才を持つ前向きな…いや、努力家で成長率高い子だといい」
「…そうか」
実に自らの技を研ぐ鍛錬を好んで行うジルらしい。
そんな感想を覚えてローレオンは差し出した手を下ろし、頷くようにも瞼を閉じる。
そうしていれば更なる条件が彼女から重ねられてしまうのだ。
「なあ、ヤマト。私が提案した何十時間という鍛錬を連続で耐え切れるガッツある子を知らないか?」
無理難題だ。そんな感想しかわかない。何せ無邪気に希望を伝えるジルが実行するであろう鍛錬は、再生力を有するアストリネでも根を上げて逃げ出すほど過酷なものだ。
『彼女の特訓に百点で応えられるのは、ディーケくらいだ』という評価は、アストリネ内でかなり有名な話である。
その為、ローレオンは緩やかに目を開く。
「すまないな、私は……力になれそうにない……」
下ろしていた片手を上げて横に振り、素直に申し出た。
「犠牲者を産みかねないからな」
「犠牲者…?犠牲者って……どういう意味なんだ。弟子取りに関しての表現言葉じゃなくないか?……ヤマト?……ヤマト?」
目を丸くして問いかけ続けるジルに対して、ローレオンは黙り込む。
時に必要な沈黙があり、黙秘権を行使するなら此処だろうと口を閉ざすことに徹するのだ。
「―――フフ。それは確かに。そう答えても仕方ない。なかなか見つからないだろうな。その点では、ジルコンは理想高い子だと言えるのかもやしれん」
柔らかな薬草の香りと共に湯気立つ淡黒色のティーカップを持ち、ヴェール下の唇に当てがって女性はハーブティーを呷っていく。
フゥと微かに漏らした悩ましげな吐息の後に、動作音を立てることなく丁重にソーサーに置いていた。
後に、甘さのない茶に合わせられた提供品である焼菓子に手を伸ばす。
粉砂糖がまぶされて真っ白な賽子状のココナツのサブレを指で摘み、口にした。
「…………尚且つ酷く真面目だから。こうして、軽く味見するなんてことも考えられないんだろう」
なお一層面白いことだと、女性の声の調子は弾んでいた。
そんな本日の密談相手である女性は、黒のレースで装飾された海を連想させる青のドレスを纏う嫋やかな雰囲気を漂わせた外見だ。
健康的なボディラインは目視できるものの、髪も目元も黒のヴェールに覆われて容貌は判断できない。薄い黒布越しに見える薄く微笑む唇の下に黒子や、十字傷に走る黒ずんだ首元から胸元にかけて古傷が伺えるのが、唯一捉えられる彼女の特徴と言える。
ただ、ローレオンはそんな秘匿的な格好を取る女性の名を知っていた。
「―――『グラフィス』。貴女が候補を知っているのであれば是非紹介してやってくれ」
どこかしら参った調子を表すように片手で額を抑えて首を横に振り、その名を呼んだ。
「こうしてアストリネ内で派閥が分かれてるとはいえ、この国の功労者なんでな、彼女は」
「願いを叶えてやりたい、と。…ああ。それ自体は別に構わないのだがな。いいのかい?そう、他の女性に優しすぎると可愛い恋人を妬かせてしまわないだろうか」
「いや……クオーレは…ジルとも、仲が良い。対等……極めて良好な友人的な関係と言える。それはジルが『古烬』相手でも偏見を持たないアストリネだからだ」
ジルの様なアストリネは実に希少だ。クオーレの伴侶的立場としては是非、これから先も仲良くしてやってほしい想いもある。
代表管理者争いは激化していて、どうしても共に入れずに空ける日々を過ごしてしまうのだ。
ローレオンとて寂しい思いをさせてる自覚はあるのだから少しでも緩和して欲しい。
心が痛むのだ。菫色のワンピースの裾を掴み、不安に満ちた表情で顔を俯かせてしまったことを思い出すだけで。
『ううん…うん。大丈夫!ヤマトは……ローレオンとして、頑張ってるもんね。いいの。ちゃんと信じて…待ってるね!』
無理に作らせてしまった八の字に眉が歪む笑顔が脳裏に過ぎる度に、喉がつっかえて息苦しい気持ちに至る。
そんなローレオンの心を体現するように、驟雨が降り始めたらしい。
窓ガラスを雨粒が打ち付け始め、雨空による演奏を奏でられていた。
「……ジルには、今後も中立にいてもらう。だけど、彼女には『殲滅派』を行動牽制する存在でいてほしい…」
「ふむ。随分と懐疑的で打算的だな。ヤマトとして頼めばジルコンは守護の任を受けてくれるかもしれないだろう」
「…本当ならば、私がクオーレの側にいてやりたいという想いが強い。このままでは…彼女に宿した子にも、障る。今は彼女にとって不安定な時期だそばにいてやりたいがしかし………しかし、全く。この無益な争いは、一体いつまで続くのか…」
あれから代表管理者の争いは決着ついていない。二年も席が空いたまま、未だに続いている。
このように六主のアストリネ同士がまとまらないことで『旧き姓』の勢力は増長していき、目的としていた管理法の変更は良くない方向に進行していた。
十年前から人類に分配するティアの年間手配料が減らされているが、その補填はジルとローレオンが何とかして埋めている状況となる。
現状が続くことは良いことだとは、口が裂けても言い難い。
「茶番だ。なんて無駄な……争いだろうか。何故、『古烬』を人類と認めない者が多いんだ?彼等も生きて進む、この星の子だろう。己の欲を優先し、富を築いたところで、何の意味もない…この世は誰のものでもないのだから……」
「そうだな。全く、その通りだ。全面的に同意する。平和を乱して欲に走る彼らの心理は私にも計りかねるよ。だからできることなら私は……乗り越えた者が代表管理者になって欲しい」
「……乗り越えた者?」
疑問を浮かべるローレオンに対し、グラフィスは真っ直ぐな姿勢のまま両手を組んで机に置く動作を交えて告げていた。
「誰かを愛し慈しみ、失う悲しみを知り乗り越えた者が正しき平和を築けると私は信じてる。しかし、残念ながらそれに該当する者は私の知る限りで四名しかいない」
誰か、と問われる前に、グラフィスはその該当者を明かしていく。
「ディーケ、イプシロン。そして、アルデに…この私のみだ」
その四名の名を聞いた後、ローレオンは榛色瞳を眇めていた。
「……つまり、貴女にとって私たちは孵ってない卵のような存在か」
「ああ。そうとも。揃ってまだ痛みを知らぬ可愛らしい卵だ。……だが、もう一度言おう。私は、乗り換えた者にしか期待していない」
理由はあると、グラフィスは明示する。組まれた両手が解かれては、突きつけるようにその人差し指が天を向く。
「失う痛みを知って、それでも立ち上がれる真なるものは少ない。もしそうなれば……煌瞑は立ち直れないだろう。ああ見えて、とても繊細な子だからな。失えば進めなくなる。自暴自棄に陥る可能性が目に見えるよ。…ヤマト。お前は違うのかもな。傷を引きずりながらもローレオンであろうと立って進む強さがあると期待しようかな」
「…随分と具体的…いいや、予言的だな。貴女が言うと、本当にそれが起きそうで薄ら寒気がするよ」
「…フフッ」
グラフィスは微かに笑う。警戒心を立てて前足を上げて地面を叩く仔馬の地団駄を見るかのように、嘲りか、慈しみか。いずれも含むような揶揄いじみた声だった。
「残念ながら、未来視の異能は生まれてないんだ。始祖エファムが備えていたと囁かれているがそれも定かではない。アストリネが扱える異能は一つのみ…この法則も決して変わらない以上、私には未来視の異能はないのだ。どうか安心してくれ」
そうアストリネの特性を改めて解きながら、グラフィスは理由を紡ぐ。
「………かつて、サージュがそのように『分析』した。私がはっきりと言える理由は、それだけだよ」
彼女の話は終わらない。
天を指した人差し指を下ろし、他の指を並べるように広げては手を差し出す形でローレオンを指し示す。
「さて、そろそろ……お前が私を此処に呼び招いた……本題となる話に進もうか」
そうして四十代目グラフィスは手を下ろして本題に入る。
エファム管轄の管理地を合わせて海区を統治する役目を担った三十九代目から即座に継承をし、現在最大地の代表管理者にして法管理の役目をエファムに代わって行う請負者的立場にあるものから、事前に問われた質問に解答した。
「残念ながら、期待には応えられない」
アストリネの関係性もピラミッド組織で形成されてるのであれば頂点に立つであろうグラフィスは、意地の悪い前置きを据えた上で、足を組む動作も交えて優美に笑って告げている。
「お前の発案は興味深かったが、却下だ。グラフィスとして現状では新法成立まで許せてやれない。感情的であるからなのもそうだが。人々にこれまでの常識を覆してもらう負荷を掛けるのだから、それ相応の理由がなくては……決行しても彼等に戸惑いを与え、反感を買うだけだ」
それはローレオンの提案に対しての正式な却下。評価する点はあれど、万人の思いを酌み取れてない独りよがりな案だと評価した。
「例えば…そうだな。印象操作……いいや、明確に可視化される旗印が欲しい。『古烬』でありながらこれまでの悪評を払拭できるような象徴。世へ多大なる貢献を果たすヒーローだとよりよいな。それが居ない今で強引に統制を変えても、何も変わらない」
「………ローレオンの姓名だけでは、足りないか」
「ああ、そうだとも。お前の擁護ではまるで意味がない。現在我々を『承認する者』がいない環境が故に新法の成立と実行に移すのは簡単だからこそ、慎重にならねばな。これは私の持論だが、理想を語り叶えるには納得させる現実も要求されて然るべきだ」
六主のアストリネの庇護だけでは手札としても弱い。何も変わらないだろう。
「人々は愚かでは無い。知的好奇心も探究心が高いんだ。隠しても必ずこの案を出したのがお前と露呈する、いずれ多くが意味を探り考えて、真実を掴むだろう。お前の起因がクオーレだと透けてしまうのも時間の問題さ。一番最悪な展開は……お前が誑かされてると曲解されること。彼女は針の筵になる」
寧ろそれが贔屓として人々に認識されて、不満や反感をより買う可能性が高い。グラフィスはそう指摘しながら、案を口にする。
「変えたいのならばどうしても必要だ。ひとりの意志、絶対的な善意。民意を包む世の胎動となるべく存在。救世主とはまた異なる、地平線まで照らす光芒を背負える慈悲と破壊を備えた次代の星が」
放つ光が渡り行き、世界を覆い巡らない限りは変わらない。『古烬』の権利を認める法律を立てることが叶わないだろう。
「……それが簡単に現れるとは、思わないのだがな」
そうした主観を正直に伝えた上で、グラフィスは小さく息を吐き、直ぐに手を合わせてパンッと軽く鳴らす。
「――さて、この話はここまでにしようか」
切り替えの合図めいてる。無理矢理なものだ。
しかしこうして強引に変えるのは昔からの癖だと理解してるからこそ、追求はしなかった。
「ヤマト。お前に子ができたのは実にめでたい。おめでとう、新たな命の芽吹きは何者であろうとも美しいものだ」
祝福を兼ねて拍手を送る。
妙な照れ臭さを覚えて頭を掻けば、グラフィスは一定数を済ませた後に両手を合わせたまま、下ろしていた。
「……ん?」
動作に違和感を抱く。しかし、どれだけ目を瞬かせても、ヴェール越しの顔は見えやしない。
だけど鉛のように重い雰囲気を纏っている。きっと彼女は真剣な表情を浮かべており、これから深刻なことを告げようとしてるのだろう。
「……グラフィス。私に何を伝えるつもりだ」
ローレオンは僅かな戸惑いを覚えながらも察して、息を呑みかけながらも問いかける。グラフィスの顔を覆うヴェールが下側に傾いた。
「……まだ、この世界は思い通りに変えられない。失った苦しみは未だ知らない。……これから行うのはできることならばと祈る、願掛けのようなものさ」
話すのは警戒するべきであることを暗に伝えながら、グラフィスは言葉を贈る。
「いいかい、ヤマト。今が大事なら尚更。決して過信して慢心せずに細心の注意を払って……気をつけるんだよ」
話されたのは、彼女の優しさ。ローレオンへの心配をも兼ねた発言だ。
「地に落ちる時は何時どの時であれ、刹那の内なのだから」
窓外の雨音が高まっていく。雨量が増して世界を飲み、陽光を遮り視界の端から灰色の影が差し込むのを感じた。
意識に靄が掛かるように、ぼんやりとする。濃霧に包まれてしまうような不透明で不明瞭な心地だ。
――やがて、ガタン、と大きな物音を立てながら窓が強く揺れる。
ローレオンは瞠目して息を飲み、何度か呼吸を繰り返しては落ちかけていた意識の浮上を実感した。
「…………今のは……風、か?」
流し目に窓を視認しながら不意に呟く。どうやら、先の窓の音は、外で強風が起きたことで起きたらしい。
余韻のように、窓は未だカタカタと鳴り続けている。まるで嵐が来るのを予期させるかのように、空はすっかり暗雲に崩れ覆われていた。
「……シングドラへの依頼は、…そうか、手配要請が遅れてるのか……」
天候操作のアストリネはまだ来てないかと、そう、無意識的に呟きながら朧げに悟る。
暫し、この悪天候は晴れずに続くだろう。真昼間だが喫茶店の室内まで暗雲の陰りが差し込む中で、他人事のように思うばかりだ。
「暗いな……」
天井に設置されたランプ型の淡い電気照明が無ければ、きっと、ローレオンは目の前の相手をまともに映し見てやれなかったに違いない。
「…………ローレオン様」
眉間に皺を寄せながら、今にも泣きそうなくしゃくしゃな顔をして蜂蜜色の瞳を潤ませる、肩まで伸びた金糸を揺らす少女が、ヤマトを定義つかせる姓で呼んでくる。
彼女の目の前に置かれた細長いグラスは、相当長い時間放置されたのだろう、氷はすでに溶けきっており、色薄まったオレンジ色のジュースに変貌してなみなみと満ちていた。
「ローレオン様。どうか……気を確かに……」
少女の震えた声に合わせてか、或いは心の風景を表してるのだろうか。
窓外では嵐が――国風白雨は始まっていた。
春の訪れと彩りを現すピアノによる演奏曲が喫茶店に流れるのに、聞き心地の良い音楽は雨の喧騒に打ち消されていく。
天気同様に気は晴れない。心の重さを増させるだけだ。
「クオーレ様とお子様を◆◆した犯人を許せないのは……わかります。私も同じ想いです」
「ハーヴァ様を始めにした四方だけしか犯人を裁くべきではないと訴えるだなんて」
「一部の『殲滅派』のアストリネたちは笑っておりました。確信するように、勝ち誇るように」
「どうしてですか」
「悪いことは悪いのではないですか。絶対に間違っております。このような、罪人に、恩赦を与える判決は」
「間違っております…貴方様の想いが、報われぬなど……」
怒涛の勢いで感情が流れていく。そのどれもが激情に満ちた言葉だった。
ローレオンはそれを現か虚かと定かではない酩酊したような心地で聞いて、前頭葉を鈍く動かして、思い出す。
「(――そうだ、確か)」
この親に捨てられてしまった少女も、クオーレを慕っていた。
きっと姉のような人を失い悲しみ、憤慨してるのだろう。
「人として認められだないなんて、そんな」
残念ながら彼女の嘆きは受け入れられない。事実通りで、違うことだ。
この世の法ではクオーレは人ではなく、『古烬』には人権がない。クオーレとその子供を◆◆した人は裁かれない。アストリネが敷いた今の管理法では、決して非を認められないだろう。
このまま下された判決通り事故として片付けられるのだ。
「……ローレオン様」
潤んだ蜂蜜色の双眸からは、ぽたりと透明な涙の雫が頬から伝い落ちるのが見えた。
「どうか……お願いします、どうか。立ち上がってください……また変えていきましょう。これからは私が支えます。私にできることであれば、なんでもいたしますから……」
同時に、雷も落ちたらしい。一瞬の白光が視界を包み、眩ませる。
「なんでもいたしますから」
小さな人間に、少女に憐れまれてるのを自覚したローレオンの死人同然に冷え切った心が、再び脈動する。
同時にローレオンは――ヤマトは、思い出していた。
かつてローレオンの子供として生まれ、適性高い一人息子が故に夢を捨てて三十二代目にならざるを得なかったことを。
内向的で、今のように笑うのが下手な子供だ。
進んで手を挙げるのではなく誰かが手を上げるのを待って、誰もあげないようならば挙手するような消極的な性格をしていた。
幼い頃から自己評価もそう高くなく、誇れるものは特段何もない。かろうじて上げるとするならほんの少し手先が器用だったくらいだろう。
だから一度、編んでみた。冬前に家族に向けて手袋を。
『あら。素敵な物を作れるのね』
それを渡した母に喜ばれたのが、物作りを好ましくも思えるようになれたきっかけだ。こんな自分でも誰かを喜ばせることができる、笑顔にしてやれる。それがひどく嬉しかった。
『すまない、ヤマト』
しかし、世界がヤマトに持つことを求めたのは、物を作る器用さではなく誰かを圧倒する破壊の力だったのだ。
両肩を掴み、震えながら顔を俯き謝罪を繰り返す父の姿で知れた。
『夢を諦めて、ローレオンになってくれ』
小さい父を、初めて見た。何せヤマトの前では常に威厳を備えた尊敬すべき父だったから。
愛していた。母のように。大事な一人息子として愛してくれた、だから。
『お前しかいないんだ……』
ヤマトは家族の為に夢と心を放棄して進むしかなかったのだ。
そうして三十二代目となって以降、ヤマトはローレオンらしく生きることを選んだ。かつての父のようにローレオンとして誇りを持つように振る舞うことを徹底した。
『お前の選択は、正しい』
先代たる父の言葉を信じ抜くように、進んだ。
最強にして最優。数々に賞賛されたがどれも空っぽの言葉に感じて虚しさを覚えても、足を止めずに。
これが正しいと願うしかなかったのだ。
ヤマトがローレオンになることを選び正しくあり続けたこの世界で、誰かが幸せそうに笑えると。
そうすればかつて母につられたあの日のように、自分もきっと、上手く笑えるだろうから。
『信じてるから』
だから、崩れてはならない。三十二代目ローレオンは道半ばだ。
ヤマトの意味を、父の期待と課せられた義務を果たさなければ。アストリネとしての正しく進み、示さなければならない。
でなければ何故、ローレオンは、ヤマトは。
『あなたのことを信じてる。だから、ずっと一緒に居てね』
別れという正しい道を選ぼうとしたクオーレを引き留めて、今にも泣きそうな困り顔で笑わせて『古烬』でもアストリネと共にあれると信じさせたのだろう。
彼女が生きて、生まれた意味も果たさなければなるまい。
純粋無垢で愛おしい彼女のために、顔も見れなかった我が子のために、信じさせた末に死に追い込んだ、贖罪を、ヤマトは成さなければ。
――失意の果てで止まりかけていたヤマトは、再びローレオンとして動き出す。
「嗚呼、そうだ。ここで折れたら、私はローレオンではない…」
過去の思い巡り終えて無意識に紡がれた心境が、声に出ていた。
聞こえてしまったのだろう。
目の前の少女の唇からは、ヒュッと息が詰まる音が微かに漏れていた。
「…ああ、すまない。独り言だよ。きみは何もしなくていい、心配も無用だ」
止まらぬ涙を見据え、遠くで響く雷の轟きを鼓膜で拾いながらローレオンは息を吐く。
力が抜けていた己の身を起こす形で引き締めて、ヤマトに刻まれた傷に蓋をしては、その場で宣誓するようにも少女に告げた。
「大丈夫。私は三十二代目ローレオンだ。ひとりでも動けるさ」
そうこれ以上、人相手に醜態を晒してはならない。傷を晒してはならない。
己は強きアストリネ、三十二代目ローレオン。
瑣末な出来事として振る舞い、次に進まなければ。
愛する者を失った悲しみに暮れて沈むのではなく、悲劇を産んだ原因を潰す形を成さねばならない。
「違うのです。ローレオン様、わたしは、」
「私は初代を超えると評価された【暁煌】の最強候補だ。だからきみは泣かなくていいんだ、ブランカ。いいんだよ、ブランカ…」
「違うのです……わたしはただ、貴方が報われてほしくて、それで……」
「そうか。だが、私は…大丈夫だ。アストリネなのだから」
しかし、すぐに動けるのは口先だけだった。
蜂蜜色の目を瞠ったまま、堰が壊れたように涙を溢れさせ続けるブランカに対して、ローレオンは出来る限り優しい声をかけることしかできない。
「……なんで、どうして、こんな……」
崩落したように涙を流し続ける彼女を受け止めて慰めてやれるほどの、虚勢を、ローレオンは到底張れそうになかったのだ。
◼︎
照明灯はない。其処は夜の帳が下りたように真っ暗闇の空間だ。
その中を躊躇なくカミュールとローレオンは、横に並び合う形で奥に進んでいく。
「きみと……私の過去を話してて思ったよ。私は……アストリネとしての傲慢と見栄があったんだ。自らの力を過信した。それで彼女たちを信じ込ませて、自ら選ぶ意思を奪ったのだろうな」
「…………」
「それならば、やはり……既に憎んでいたものには間違えてない。それは私自身と、この世界が『古烬』を悪だと歌う理由となっている兵器を……私は認めない。強く憎もう」
それを三十二代目ローレオンとしての道導としなければ、やるせない想いと罪悪感で押し潰されていたと、自らの行動原理と共に打ち明けてくる。
発言自体は冷静を保ち落ち着き払った態度ではあるが、声は掠れており、滲む感情は隠しきれていない告白だった。
「必ず破壊しなくてはならん。せめて兵器だけでも。何を、誰を、使ったとしてでも、彼女が信じた私がそうしなければならない。そうでなくては私を信じる形で死んでしまったクオーレと、生まれることすら許されなかった……我が子に顔向けができないだろう」
まるで罪人が懺悔して、審判を下されることを懇願しているようだ。
ヤマト=ローレオンの思いの丈を知った上で、カミュールはそんな感想を抱いて仕方ない。
「………。だから貴方にとって、透羽吏史は『兵器』ではないのですね」
「ああ。そうだとも。彼は………認められるべき人間だ。しかし、『古烬』の星には……彼がなるべきだと私は思う」
「彼に重い期待をしてるのですか?」
「そうだ。かつてのグラフィスの言葉を借りるが、彼は失っても前に進められる人物だからだ」
「………左様ですか」
相槌を打つように手短に返して、敢えて、深く言及もしなかった。僅かな動きも見せずに藍白瞳を何度も瞬かせて、ただ、ローレオンを見上げるだけに止める。
機微にも揺れぬ胸元に咲いた白百合の芳香を立たせて進んでいたが、やがて、唐突に立ち止まった。
そこでカミュールは薄い唇を大きく開く。
「……。聞いた感想ですが。僕からしてみれば、貴方の問題は後悔だけして反省しなかったことです。走り続けた結果、ブランカさんを相手に似たような過ちを作り上げたことでしょう」
片目を瞑りながら、似たような過ちを繰り返したローレオンを咎める言葉を投げた。
「ブランカさんは貴方が弱さがない完璧なアストリネだと信じるしかなかった。そうすることでしかクオーレさんを失った悲しみを飲み込めない、傷を共感できる相手がいなくて抱えるしなかったから。だから痛みをなくすように完璧な貴方を盲信してしまい、貴方を認めぬ世を変えようと暗躍したのだと思いますよ。……それなら、全く目も当てられません。最悪の癖です。終わってますね、ローレオン」
「そうだな。我ながらひどい悪グセだ。全く終わっている」
挑発的かつ威圧的な発言だが、ローレオンからは鉛のような息が溢れるだけ、しかし場の空気の重さだけは一層増すばかりだ。
しかし、この重すぎる沈黙は静寂へと続くことはない。ローレオンは歩みを止めることなく、立ち止まったカミュールを置いて先に進む。
「だから、敢えて…私はこのまま裏役に徹するとしよう。きみがブランカの動機を盲信と考察したならば、彼女の妄信を崩すにあたり…最も有効な手段となるはずだ」
自らが表舞台に立たぬことが一手であろうと決めた宣言をしながら、暗中でも唯一輪郭がぼんやりと見える鈍色の炉に向かっていた。
――この場所は、第一区『暁』に於ける機関室だ。
当然ではあるが、現在はルベライト発電所からの電力供給は絶たれている。
これより徐々に電力不足が発生するだろう。設置された装置たちが停止し始めて、最終的には浮遊装置機能が失われていくのだ。
それ自体を遅延する術自体は一つ、『リプラント』の破壊を望むアストリネたちには思いついていた。
空調維持装置…高度に浮遊する際の生物への影響が出ないようにするその安全装置の代役を『炎』という『熱』の操作も可能なローレオンが務めるという手段だ。
浮遊装置が起動しなくなるのが最も大きな問題だからこそ、ローレオンが代役を務めることで早々に維持装置の送電を切ってしまい、その分、残された電力を全て浮遊装置に回そうという魂胆である。
「…時間は、どの程度持つのでしょうか」
合金で作られた維持装置――その炉を開こうとするローレオンの背に向けてカミュールは問いかけた。
「多く見積もっても約二時間半だな。…悪法を用いることなく…だが」
「ああ…なるほど。では、その二時間半で貴方無しの僕たちがこなすべき任務は、停止した維持装置の悪影響による『酸素不足問題解決』、鎌夜が主核となると思わしい『リプラント討伐』、隠蔽を前提にした『第一区の民の避難』といったところでしょうね」
第一区が襲撃に遭う。これは話し合って決めたことではない。
『門』を用いて強制転送したブランカから、ローレオンに向けてHMTに送られた予告だ。
『鎌夜の狙いは象徴的な区、アストリネの数が多い区となるでしょう。貴方様をその場所にお送りしました』
『ローレオン様、貴方様の正しさが肯定されるべき世が形成されることを、心から祈っております』
嘘という否定はなかった。
何せブランカは代理者として選ばれるくらいには優秀な人材である。
今回の裏切りの理由として、ローレオンのためだけだとも、心酔の傾向がある以上否定し難いのがまた事実。
これらを加味すれば、裏切り者からのメッセージとはいえ、第一区『暁』が襲撃されると素直に受け取る以外の択はなかったのだ。
故に六主を主軸にしてアストリネたちは動いている。第十三区の悲劇を繰り返さないと争うように、平穏を保つために。
――そう、たとえ、それが己の身を削る行為だとしても。
その覚悟はとうにできているローレオンは、カミュールが口にした数々の問題を前にして息を吐く。
「二時間半では足りないだろうか」
「いいえ。足りなくてもそれで全て行うするしかないかと。…元より早期解決が望ましい」
カミュールが藍白瞳を伏せながら返す。
「我々アストリネの一族を続かせるためにも、不審を与えるであろうこの危機を世間公表させてはいけませんから」
第一区の離陸、暴走する兵器『リプラント』。
これらの問題を人々に悟られることなく、解決しなければならない。
幾ら難易度が高かろうが一つの試練として捉えて望み、挑むしかないだろう。
既にそれと割り切っているカミュールは、涼しい顔で答えた。
「ご安心ください。件の彼は叩き起こして操縦席に配置させてますし、光と音のアストリネには協力要請済ですので、貴方は遠慮なく温度維持に集中していただいても構いません。……他国のものですが、比較的協力姿勢な武闘派アストリネも一名居ますので、戦力不足問題もないかと」
「そうか。ならば、いい。…此方としては…やはり、きみがこの場に残るのが些か疑問が残るくらいだが、覚悟が決まってるのならば何も言うまいさ。後は任せよう」
己は何も気にせず目の前の仕事に尽力してもいいと悟ったローレオンは、カミュールに背を向けたままだ。振り返ることもない。
「…私は此処で、自らを焚べながら、きみたちの武運を祈っている」
そして自ら羽織っていた灰色のストールや外套だけでなくシャツをも脱ぎ捨てては、鍛え上げられた逞しい背を晒す。
その肌全体がすぐに紅蓮の炎に包まれていたが、しかし、上がった炎は鬣のように靡くことはない。
背から腕、手先にかけては肉体という有機物を薪として燃やすかのように。持続を目的とした延焼の炎が燃え広がっていた。
「――ところでローレオン。まだ、地獄に行くには早いですよ」
これから先、再生力の限界まで。苦痛を帯びながら炎の異能を行使し続けるであろうローレオンに対し、カミュールは冷徹な真顔で呟く。
「貴方は早く死にたくて仕方ないのやもしれませんがね。どうせならば抱いた目的を達成してからの方がいいですよ。断然、その方がすっきりしますし」
カミュールの視線の先にあるのはローレオンでなく、燃えぬように床に置かれた他の服とは違い丁重に畳まれている灰色のストールにある。
ただそれだけを藍白瞳に映した。
――今は亡きクオーレが纏っていた、遺品を。
「…幸い、今度は貴方と同じような目的を持つアストリネは多いようですから。どうせ死ぬおつもりならば、世界の役に立ってくださいな。……貴方の話をまともに聞いてくれる方も多くなりますから。そうやって信頼を勝ち取って、『古烬』の件を諦めてないなら……変えてみてください」
カミュールなりの激励を送り―――それから先は、ローレオンの返事の有無に関わらず。
カツン、と小さな足音を立てて、カミュールは身を翻して背を向ける。
「では。僕はこれで失礼しますね」
そうしてカミュールは気温が上昇し始めた場所から逃れるようにも、早々に退室していった。
「………」
遠ざかる小さな足音を微かに聞き取りながら、ローレオンはゆっくりと瞼を下ろすように目を伏せて、不意に独り言を零す。
「…さりげなく、私を地獄行き確定してきたか。全く、容赦無く言ってくれるな。カミュール」
言葉とは裏腹に反感を持つことはない。
悲しいことに、そう思っている認識自体は己の中にあった。――もしも死んだ先に死者の世界があるのならば、己はきっと、同じ極楽に行けず地獄に落ちるだろうと。
ただ、そんな悲観的な死生観に意識を投じることはしない。チリ、と頬が焼ける感覚がローレオンを引き戻す。
これより行うべきなのは瞑想ではなく、アストリネとしての義務を全うする時だ。
「……わかっているとも。わかってるとも。そうだな。まだ諦めてない。終われていないのだ。ここで終わるのは……未練が生まれてしまう」
そう、気を集中させるために瞼を下ろしてから口から長い息を吐く。
「しかしながらやはり、きみは。父親の方によく似ているな」
あらゆる面を見ながら抱いたその感想は、とうに退室してしまったカミュールへ届くことないだろうがローレオンは敢えて告げた。
「低い可能性に身を投じ賭けて、望む未来を掴み取ろうとしてる点は……そっくりだ」
――やがて、ローレオンがあげる紅蓮の炎は炉に飲まれて変換され、熱風へと変わる。
配管を通り抜けて第一区に住まう全ての生体を保護すべく、炎の異能が祝福のように巡り始めた。
◆
【暁煌】第一区『暁』の制御室は、空中浮遊区である『暁』たらしめる場所だと評せられる。
何故なら部屋中至る場所にHMTによく似た形状の青光のホログラフィー式の四角形型の電子鍵盤が配置されている点にあるだろう。
第一区に設置された浮遊機械の電源操作に加えて区全体の送電先操作、かつ、第一区縦横高低位置の調整や移動操作に加えて全体の電子式ロック先の操作までもが可能としていた。
当然ながら区の安全を左右するため、普段は代表管理者のみしか通されない。
或いは直接的に許可された者しか立入できない場所だが……今は、『リプラント』による非常事態に備えるべく、この部屋には三名のアストリネ等が操作盤に張り付いて各自作業を取り行っていた。
「…よし。連絡があった。ローレオンが異能を使い始めてる。空調関連の機械送電は全部切る。浮いた電力は全部浮力機器に回すぞ」
間陀邏は茜瞳を瞬かせて一瞬映ったメッセージを視認したと同時に、鍵盤を押して送電先を切り替える。後に画面には速やかに実行した旨を表示していた。
……今は過剰となるが、後々の予備電力として機能して使用され始めるだろう。
「それが完全に切り替えられたら…いや、もう今時点で少しずつ着陸点に向かいながら高度を下げた方がいい。起き始めてる酸素不足を早急に誤魔化す必要がある」
「ネルカルは?」
「期待するだけ、無駄かな。元より彼女は情動で動く傾向が強い。残念ながら【暁煌】のアストリネら……『旧き姓』の失墜自体は歓迎してる側だ」
トン、と軽く押すように黒革の手袋で覆われた人差し指が鍵盤を叩く。
最下層に設置された浮遊安定板が動き、現在の高度から徐々に下がり始める旨を前方の画面は同時に提示する。
花咲くように紅が広がる金糸の合間に覗く金色を灯す翡翠瞳がそれを一瞥し、長らく見続けることはせず鍵盤に視線を戻していく。
「…まあ、そもそも、【ルド】配属のアストリネである俺がこの場にいて手伝うこと自体が異常なんだが、その自覚はあるか?」
「ああ。ぶっちゃけ色々裏事情を知ってて話も仕事も早いお前の方が百万倍マシだ。他連中は口先だけが立派なバカばかりでマジで使えねえ」
「……この件が解決し終えたら、グラフィスに全員総じて裁判かけて処罰することを俺が推薦しておくとするよ」
「おう好きにしろ。別に止めねーよ」
イプシロンは大きな溜息ごと悪態を吐き、それからは手早く曲を奏でるようにも次々と無駄に使用される電力がないよう送電停止操作をしていく。
第一区に住まう人々には大事件を悟られぬよう、こなさなければならないという自覚が、手を素早く動かさせていた。
「…よし。一先ずはこれでいい筈だ。後は…」
適切な操作を済ませたが、これだけでは問題が解決しただろう。
そう判断したイプシロンは第一区に住まう人々に対し、ある言葉を投げようと動く。
鍵盤を押す形で、集音機能を開いた。
青色のホログラムで形成されたマイクに口を寄せ、第一区全体に音声信号を送る。
『【暁煌】第一区『暁』の皆様、ご機嫌よう』
さり気なく音声変化機能を起こし、済ませていた。
イプシロンが喋ってはいるのだが、外に流れる音声は……アトラクターナでも流れていた時刻を伝える少女の電子声と同様のものに変換されている。
この放送がイプシロンだと、誰も判断つかないだろう。
『ただいまからおおよそ約三時間にかけて代表管理者二十三代目間陀邏主催の不規則な災害に備えるため、点検管理を行います。第一区の全機器が対象という大規模な点検となりますため、停電や揺れなどが想定されますが、大きな問題はございません』
機械電子音声を挟んで、そうした偽造放送をイプシロンは行った。
多少の異常程度が民に起きてもそれは点検による影響であり、不安を募らせ気を焦らせる必要はないものだと予め言い聞かせる形を取っている。
『また、機器の不具合を確認された場合、皆様には避難誘導のお知らせを行う場合がございます。安全のためにご協力いただけますと幸いです』
大きな騒ぎに発展させない予防線のようなものだ。
安心材料を与える事で、パニックの発生を抑え込む。何かしら縋る情報があるならば、問題を直視しない限りは信じてくれるだろうと判断した上で、イプシロンは公式的な放送を届けた。
『――それでは、平穏の時をお過ごしください』
アストリネが守護する平和は決して崩れない。もしも何かしら起きたとしても、それは畏れられている『古烬』によるものではないという嘘で締め括り。
これ以上無駄な電力を使用するまいとイプシロンは即座にマイクや音声変更機能を停止させて、小さく息を吐いた。
「……簡易的な応急処置めいてるけど、一旦はこれで……いや、これが限界か。大きな物事さえ起きなければ誤魔化しが効くだろう。人々は強い違和感を持たないはずだよ」
「ありがとよ。これで『暁』に保管している危険物どもも遠慮なく使えるようになった。ミサイルやらグレネードやら全部まとめてぶっ放してやろうぜ」
「………ん?いや、待て。話聞いてたか?たった今大きな物事はダメだと言ったよな?墜落さえしなければ派手なことをしていいという話じゃないんだが」
ニヤリと悪どく笑む間陀邏を即座にイプシロンは真顔で咎めたが、それには何の効果を発揮しないらしい。
「良い機会だろ、奴らが溜め込んでたのを全部『リプラント』に使い倒してやるべきだ」
「……。……君な……」
馬耳東風の予感がした。しかし聞く耳を持たないとなると正直、イプシロンでらどうしようもない。イプシロンの異能は意識操作も可能だが、自己研磨に思い悩むことなく個性が磐石な相手ではどうしても無効化される。
セキュリティシステムに近しいのかもしれない。干渉するに辺り、侵入防衛システムが建設されてるかいないかの問題に違いないのだ。
――つまり、イプシロンには間陀邏の性格矯正しようもなく、今しがた定まった間陀邏の方針は変わらないことを指す。
「…はぁ…………わかった。俺は責任を持たない。君も負わせないなら、勝手にどうぞ」
諦めたように溜息を吐き目を伏せて、降参を示すように肩を竦めた。
イプシロンとしても『リプラント』を破壊するのは第一目標なのだから、利害は一致しているのだから強くは言えないのだ。
「……それで。其方の話は落ち着いたのなら、そろそろ…わたくしも本格的に動いても構わないだろうか?」
そんな二名の会話に横槍する声が上がる。
紫の隻眼を据えながら、乱れた紫紺の髪を指で摘み弄る形で待機していたクモガタだ。
一見、合金性のメタリックな印象を与える車椅子に座り込んでいた。
だが、それはただの車椅子ではない。
座った対象者の脊椎から脳電波を読み取る形で向かいたい方向に自動的に動くという【ジャバフォスタ】と【ルド】が共同開発した最新型電動式の車椅子だ。
因みにクモガタの容貌も健常とは言い難く、斜め上にかけて顔半分を包帯で覆われている。
その上、若葉色の病人服の隙間からは首から腹にかけて分厚く包帯が巻かれており、生々しい傷が残るのであろうことが容易に想像がつくことだろう。
つまり、見た目相応に彼は重傷状態と言える。
――しかし彼は此処に来た。
「まったく、騒々しい事この上ない。……暴挙を許す機会と人々を救い、兵器破壊する名誉を得られるから来てやったというのに……いいや、もういい、貸せ、イプシロン。わたくしがやる。先から煩わしいと思っていた。とても見てられない。揃いに揃って操作があまりに雑すぎる」
酷い状態ではあれど喋る余力もあれば手を動かせるほど回復していたらしい。
クモガタの口は籠ることなく饒舌に動き、五十五箇所以上にも登る複雑な操作盤を自らで編んだ白糸を巧みに動かして操作する。
「そもそも、ただ下方するとしても速度は重要だ。今のままでは安全性が考慮されていない……完全に切るのは論外だ。無理な送電でも現状は酸素供給と気圧維持だけは機能させておく」
素早くプログラムを入力するようにも難なく微調整をこなしてから、クモガタは目を平らに据えてイプシロンを睨みつけた。
「……大体、上昇気流に合わせての浮遊装置の微弱な調整もしなければならないのに…。なんだ、この雑すぎる下降操作は。【ルド】の三光鳥は飛べる翼を持つ癖に、有名な高山病を学んでないのか?」
「ん?」
少し反応こそ遅れたが、イプシロンはクモガタに噛みつかれたことに気づく。
……だとしても別に特段苛立ちを覚える挑発でもないため、目を眇めては流すように手を振った。
「ああ、そうだな。生憎、専門外なんだ。【ルド】の兵士や民は環境もあって強靭な肉体を持つし、そういったものが集まる国でもある。病人も皆無だよ」
「……それはそれは。大変素晴らしいな。流石は【ルド】、過酷な試練や人体機械化実験の影響が強く出ているとみた。病気に強くとも死者数が多いことに不満や意義を持たぬ血の気が多い脳筋や野生児に塗れてるだけはある」
「そうか。事実を言えるまで回復したようで何より。蜘蛛は案外生命力があるんだな、見直したよ」
素直じみた返答に、クモガタの顔はひどく歪む。
しかしイプシロンとしては、素の発言だ。言った通りの感想しかない。真実を持って来られたところで、何を怒る必要があるのだろうか。
そもそも一発殴ってしまえば簡単に潰せるような相手に対して、怒る必要もイプシロンは感じれなかった。
「本当に何より。瀕死の患者相手だから此方は秒で首を折ってしまえるのに、よくもまあ、吠えれるものだ」
一つの物理攻撃で黙るであろう衰弱したものなので、寧ろよく威嚇し吠えられるものだと感心しながら答えるばかりだ。
「くっ……!これだから【ルド】の脳筋は…!直ぐに物理で解決しようとする。知性や品性に欠けた行動しかできないのか…文明の理解が薄い猿なのか貴様は…っ!」
「顕現傾向としては隼だが」
「言われなくても知ってるが!?いちいち無用の自己申告をしてくるんじゃあない!」
結果、クモガタの方が乱されて青筋を浮かべて苛立ちを隠せなくなる。
挑発をかけられた筈のイプシロンは真顔、静を体現する姿勢もまた余計に苛立つらしく、歯軋りが鳴っていく。
それを側から見た間陀邏が呆れるように肩をすくめて、人差し指をクモガタに突きつけた。
「先から黙って聞いてりゃなんだてめえ偉そうに。確かにこいつは【ルド】の民らしい脳筋だが、お前は別に知性高いわけじゃねえだろ」
「黙ってくれ、間陀邏!このような第一区の中心区となる神聖な場……わたくしだけならまだしも、よりにもよってイプシロンを呼び招いた責任は重いぞ!」
擁護するどころか罵倒を投げる間陀邏に対し、更に憤慨したクモガタは罵声を浴びせる勢いで声を荒げる。それを正面から受けたことに間陀邏は心底煩わしそうにも大きな息を吐き、人差し指を突きつけていた手で払う。
「責任も何も、おれは代表管理者を辞める予定だが?」
不意に真っ直ぐストレートに投げられたその迷いなき言葉の投球に、クモガタは脳天に当てられ虚を突かれたように目を丸くしたが、すぐに据えた。
「………何を考えている」
何か目論見があったのことがあってのことではないかと、疑念に満ちた目だ。
勘繰るような訝しげな視線を向けたクモガタに包み隠すことなく、間陀邏は真意を告げる。
「この件を解決させてからおれは代表管理者を降りるつもりだ。少しでも自分のティア支給額を増やすためにこの立場に成っていたが……おれが人間に無関心なのをいいことに裏で馬鹿な鼠どもが群れて食い潰すのが続く。……なら、辞めて然るべきだろ」
「なんだと…!?…本気か?……代表管理者を……辞める!?」
立てるような状況ならば、きっとクモガタは勢いよく立ち上がっていたことだろう。最新式の車椅子は患者の身の転倒を塞ぐよう動揺の動作にも合わせて左右に動き、ガタリと物音を立たせるのみだ。
…クモガタの大袈裟なリアクションにも思えるが、わざとではない。
それだけ、間陀邏が信じられない発言を行ったのだ。アストリネとしての誇りも名誉を捨てるという物言いに近しい発言を。
ずっと、それに近づけないかと。己が大事にしている第七区のために抗おうと固執し続けていてもいたクモガタの紫瞳は大きく開き揺れている。
「嘘だろう…あれだけローレオンと長く争って…いや、代表管理者は、六主でも名誉ある地位だと言うのにこうもあっさりと手放せるのか!?」
「撤回はしねえよ。おれは辞める」
「嘘だ!!代表管理者ならば、各区の配属も決めれる、自由に指名だって可能!つまらん奴を何もない離島でしかない第二十区に送ることだってできる!左遷同然の扱いをして高笑いできるんだぞ?!」
「………別に、どうだっていい。心底興味ねえ」
「わたくしの愛する『爛』にかけてきたように、新しい開発や文化の規制だって簡単にできる!それなのに…代表管理者を放棄すると?!」
「あれは『旧き姓』の鼠どもが勝手に希望したんだよ。おれに通さずに勝手に話を進めたことだ。不満ならやめるついでにその『爛』にかけた規制も撤廃してやろうか?但し、ジーンをモデルにした不健全なコンテンツは一切認めねぇが。降りた後でもおれが直接潰す」
「んな、なっ…な、なぁ…!?ぁ、ありえない…ありえない。手放すのならば自身の代を終わらせたほうがマシだと先代グラフィスは言って退けていたのだぞ…?それだけの価値があるというのに、なのに、こうもあっさりと…」
数々の有利に執着を示すことなく圧倒的な地位を手放す宣言を撤回しない間陀邏に、クモガタは口を開閉させて首を横に振って平静さを損なう。
――一方。イプシロンの方は変わらず、無表情だ。冷静を保っていた。
「決断、遅かったな」
たった一言、そう述べる。その選択が間違いなく正しいことだと主張するように。
『古烬』だけでなく人間も嫌悪する間陀邏を代表管理者とすれば、その傘下はやりたい放題である。最早、今の間陀邏の立場は傀儡といっても過言ではない。
【ルド】では些細とされてる輸出制裁やティア着服だけならまだしも、【暁煌】の民が生活苦に陥ってしまう形で管界の腐敗が露呈する事態に発展しかけていたのだ。どうしたって人間に関心や責任を持てない間陀邏が代表管理者から退陣するのが正解と言える。
「チッ!」
正論とはいえ上から目線な態度が気に入らない間陀邏は、不快を覚えた旨を隠すことなく舌を打ち、茜色の瞳を鋭く吊り上げてイプシロンを睨んでいた。
「因みに聞くが、どういう気分の移り変わりなんだ?」
しかし気にされることもなく質問が飛んでくる様に、眉間に皺が寄るものの怒鳴りつける理由にもなれず、そもそも心を読める相手に対して嘘をつくのも無意味だと痛感してるが故に、腰に手を置く仕草を交えて罰悪そうな調子で後頭部を掻き髪を乱しながら告げた。
「…思い出したんだよ。ジーンはそういう、心底どうでもいい奴らのためにクソ真面目に頑張れる奴だ」
間陀邏の出来損ないと罵られ、忌み子として嫌厭されてきた煌瞑相手でも嬉しそうに話を聞いて、多くの知識と言葉、文明を編んだ者たちへの尊敬の意を抱き、アストリネとなっても決して歪まずに選んだ道に駆け出した。
そう、ジルは恩を返したい一心しかない。
煌瞑から名を授かり、エファムから姓を貰い、多くに希望を教えて貰えた喜びを返す。
未来に生かしたい人もできたからこそ、身を粉にして紡ぎ、いつ終わってもいいように動く。誰かが止めなければ簡単に無茶無謀にも出てしまえるのだ。――そんなずっと、己の終わりを見据えてばかりなジルが、吏史の思いで心を変えて。間陀邏も思い出して、気づきを得た。
それだけの話である。
「幸い、『古烬』のガキのおかげでジーンも変わったところだしな。今だったら、無理にエンブリオを使わせなくてもいい。…ジーンは他人じゃなくて自分のためにティアも使うようになるだろ。だから、もういいんだよ」
だからもう間陀邏は立場に拘らない。無理をし続けるジルに対して代表管理者権力による強要もしなくていいからだ。
今後、ジルが生きることを選び、世界に居るのならばそれでいい。
間陀邏煌瞑の願いは、唯一の味方で友達で家族同然なジルしか心を置かない彼女の願いは、ただ、それだけ尽きる。
「…そうか。じゃあ反省も兼ねて是非今度吏史と朝海に謝罪してくれ。いい歳なんだからいきなり襲ってごめんなさいくらいはしてくれないと困る」
「うるせぇなぁ!言われなくてもそうするわ!ぶっ飛ばすぞ!おれは反抗期の子供じゃねえんだよ!」
しかしイプシロンとしては間陀邏のそんな心境変化はわりかしどうでもいいものなので。
早々に襲撃した二人にケジメをつけろと真顔で曰うものだから、間陀邏は頬に青筋を立てて憤慨した。
「いや君は反抗期の子供とそう変わらないよ」
「あ゛?」
頭を抱え込んではいたもものの、少し気が落ち着いた中で横で会話を聞いていたクモガタは、『それはそうだ』と同意したい気持ちごと喉まで込み上げた声と息を呑んでグッと堪える。
そもそも間陀邏への物言い自体、秘密を握るイプシロンだからこそ許されてるのだ。今だって拳を握り締めて堪えており、暴力決行に踏み切れてない。殴ればイプシロンが間陀邏の秘密を露呈させるからだろう。もしクモガタが言えば、鋭い一撃が間陀邏から飛んでくるに違いない。
「…チッ!おい。クモガタ」
そしてむしゃくしゃとして苛立った気を切り替えるようにも間陀邏は拳握る手を振り、クモガタに対して声をかける。
「ッハァ!?…んんっ…何かな?」
「一先ずこの場は任せていいな?おれとこいつが居たところで正直、邪魔だ。『リプラント』の討伐側に当てたほうがいい」
考えて悩むまでもない。クモガタは反対意見を申し上げることもせず、快諾するよう頷く。
「…フン。適材適所という奴だな。いいだろう。任せてくれたまえ。貴様らとは違い、わたくしは人自身の豊富で自由なる創造性を愛してるからな。第一区の墜落は全力で避けてやる、人々だけでもちゃんと守り抜くとも」
「よしいいこと教えてやる。てめーはいちいち一言余計だ。大して偉くも強くもないのになんだその不遜な態度は。だからいい歳こいて『旧き姓』の連中にチョロいって目をつけられてんだぞ。ローレオンにもつけ込まれていいように利用された汚名はここでの活躍で払拭しな」
「黙れ!貴様が言えたことか!貴様はジルコン以外無関心すぎるだろうが!」
指を指してまで強く指摘した間陀邏に憤慨するクモガタに対し、イプシロンは喧騒に交わることなく早々に背を向けて退室を図ろうとする。
「もういいか?此処がクモガタだけで済むのなら迎撃体制を整えたほうがいいだろう。…鎌夜の心理、ローレオンを英雄に仕立て上げたいブランカの意思を組めば、この第一区を襲撃しかねないというのが結論だったはずだ」
任せられるのならば、すぐにでも発電所を叩きに向かうほうが賢明だ。このやりとり自体も実に無駄だと訴えるようなイプシロンの物言いに対し、間陀邏は片手をあげる。
「待てや。てめえが協力してくれんのは助かる。奴等をぶっ叩きに向かうのが先決なのはそうだ。けどな、武器無しの無能が前に出ようとすんな。せめて爆薬は持っていくぞ」
人差し指を突き付けてはその作戦で行こうとする間陀邏に対し、イプシロンは翡翠瞳を据えた。
「何もそう爆弾で解決することに拘らなくても…あまりにも手段としてはお粗末で、杜撰過ぎないか?」
「黙れ。有効的だろ。つか、てめえのがせっかちすぎるだよ。スピード勝負なのはこっちもわかってんだ作戦会議なんて立ててられねーからこそ、だろ。全方位に有効な特攻攻撃がいい」
可能ならば一撃粉砕が望ましい。『陽黒』は絶対に使えないが、それ以外のものも破壊力は高いはずだ『リプラント』がいくら再生器官が発達していようが爆破で肉体を粉砕されてはきっとどうしようもないという見解である。
「…もしや俺が再生能力を用いる前提で、強引な手段で発電所ごと破壊するつもりなのか、君は」
「あ?悪くねえだろ。てめえの好きな人類に捧げる自己犠牲だ、喜べ」
「は?喜べるか。別に自己犠牲を好んでるわけじゃない」
目に生気を感じれない翡翠そのものでできたような瞳が、そのあまりの横暴な態度に見開いていた。
ただ、イプシロンの反応は正しい、無理もない。はい喜んでと受け取れる方が異常だろう。
「……はぁ。そこまで爆弾に拘るのなら、君が異能で俺の武器を編み出してくれないか。『アルティミス』の構造自体は覚えてるから教えるよ。それで作ってくれ、爆薬を打ち込める」
「は?何言ってんだ。そっちの方が面倒だろうが。三光鳥は兵士の模範なんだろ?だったら爆薬だけで上手く使え」
「………………わかった。今回の件について、後日執り行われるであろう三国会議に向けた報告書は必ず俺が作成する。グラフィスとアルデの目に止まり、君のその捻じ曲がった性格と根性を叩き直す機会になるよう、力を入れるかな………」
「ふざけんなよ!反撃手段が姑息かつ陰湿すぎるわ!つーか、おれの異能がジーンのように変芸自在が利く異能だと思うんじゃねえ!てめえの武器みたいなクソ複雑な特別仕様の武器がそう簡単に作れるか!!」
腕を組んで真顔を向けるイプシロンに指を指して、間陀邏は怒るが執拗に噛みつかない。結局このような言い争いも、無駄な時間だとはちゃんと気づいていたからだ。
ギリッと歯を噛み締め拳を握る形で、捲し立てて怒鳴りつけたい欲を抑えた後、間陀邏はクモガタの方に指示を送る。
「おい、クモガタ。B56–P1152だ。今すぐこの登録番号の保管室を開錠しろ」
「……任せろとは言ったが、わたくしを奴隷のようにこき使ってもいいという意味ではないのだがなぁ…?」
間陀邏の暴君が如くの振る舞いに苦言を溢すクモガタだが、渋々言われた通りに手を動かし操作し始めていた。
「―――ん?」
そして、違和感が一つ生まれる。
素早い入力作業を行なっていたクモガタの手が硬直して、制止した。
「…なんだ?」
そのまますぐさま、弾かれるようにもクモガタは顔を上げて画面を確認すれば、青色ホログラフィーは浮遊する第一区の移動状況を映し出されている。
睨むように記載された下降速度を食い入るように注視していたが、やがて、抱いた違和感の正体に気づいたのだろう。
「――……なんだと?!」
クモガタの紫瞳は大きく瞠り、すぐに開錠作業で止めていた手を鍵盤を叩くようにも走らせて、焦りを滲ませた操作を行なっていた。
「急にどうした、何が起きている?」
「浮遊装置…いや、送電を外した空調装置以外の機械が異常を来しているんだ!!簡単に起きてる問題を言うと、此方の操作で動いてない!勝手に、第一区が、離れたはずの発電所方向に戻り始めてる!」
「ああ!?なんだと…!?」
間陀邏とイプシロンが揃って状況を移す電子スクリーンを見やる。クモガタの訴え通りの異常が確かに起きてるらしい。
安全な場所で着地する方針で動いていた第一区は、再び発電所に帰省し始めていた。
激しく鍵盤を叩いて操作していたクモガタが、顔を大きく歪めて吠える。
「駄目だ!言うことを聞かない!拙いぞ、間陀邏!最悪の方に事が動いてる!」
「…つまり、ブランカが言っていたように、奴が『リプラント』の主核として適合しちまったってことかよ…!?いいや、そうだとしても、どうやってこっちの操作権を奪取してやがる!?」
そう叫ぶ間陀邏の発言の横で、イプシロンはすぐさま手袋を外し服の袖を捲り上げた。その翡翠瞳を煌めかせて、隼の翼腕に変化させていく。
もしや、制御室に仕掛けられた遠隔操作の類ではないかと判断してのことだ。元を辿る為、心理を看破する異能が有効かと判断してのこと。
――考え自体は正しくあった。確かにそれは、予測通り聞こえている。
「(―――何、が?)」
だが、ほんの僅かに聞こえた気がしただけだ。イプシロンに何も判別できない。
何かある筈だろうと継続して聞き続けようとしたが、不意に、その視界が眩んで霞み、方向感覚を見失うほどの眩暈を覚えた。
「…ぁ…」
パタ、と赤い水滴が幾つか床にこぼれ落ちる。独特の鉄の匂いが漂うことから、血であることに気づく。
遅れて、それが、イプシロン自身から、涙するように流れた血であると気づいた際には――イプシロンは自然と床に膝をついて体勢を崩れ落ちさせてしまっていた。
「…っ…クッ!」
姿勢もうつ伏せになりかけたが奥歯を噛み締めて、耐える。
しかし、両目に限らず鼻からも、重力に従い血が流れ落ちて始めた。
痛み自体はない、が、これは異常事態だ。
但し、原因自体は即座に思い至る。
イプシロンは冷静に慌てることなく血涙を流す目を瞑り、すかさず発揮した自らの異能を封する形で翼腕に変化していた手が人型に戻していた。
「っおい、イプシロン!」
「…気に…するな。今、損壊した脳の、再生は始まってる。少し……時間は要するが。大きな支障はない。だが、今のは…」
イプシロンは声を荒げる間陀邏に冷静に返事しながら、流れた血を人の形に戻し、生身の手の甲で乱暴目に拭う。
「(……慌てるな……呼吸を、すればいい。気を抜いたら意識が途切れる、それだけは回避しろ…!)」
この、酷い耳鳴りまで響き残るこの負荷反応現象に、イプシロンは身に覚えがあった。
それは過去、異能先対象を指定意識せずに発揮した場合、無差別に間合内にいる意思の声を聞き取ってしまったこと。情報量が膨大すぎると脳の思考回路がショートじみた現象を起こして昏倒するのだ。
数百の声を同時に理解しようとした異能の仕様上、当然の負荷反動と言える。
つまり、それと同様の現象が起きたとなれば、今回も同じことだろう。
異能の間合内にいる声の量が、イプシロンの脳が耐え切れないほどに多かったということに繋がるのだから。
………判明したはいいが、不可解な点があった。
限界を迎えるにしても、イプシロンの脳の許容は二百人までは聞き入れられる。それ以下なら確実にこの症状を出すことなく耐えきれているはずだ。
「(……一体、どういうことだ?制御室の周辺には、人はいない筈。移住区は俺の異能の範囲外だ。……通信接続も、先で切っている。間接的に声が拾える状況じゃない。だから此処には、間陀邏たち以外には、誰も―――)」
やがて。
疑問と共に思考を巡らせるイプシロンが見下ろす金属床の隙間から、深緑色の液体がジワリと染み出していた。
それが何たるか、イプシロンが咄嗟に分析し理解するよりも早く、液体は湧き出して個体となり、急速に成長しては鋭き爪を保有した人の手を模る。
深緑色の苔を纏う人体という、到底名状しがたき存在の一角は顕現された。
「――――――ァアアアァアアアアアアァァ!!」
ソレの金切り声にも似た絶叫が響く。
己には確かな意思があると種だと、世界に、それを統治するアストリネに対して生の産声を上げるかのように。
そうして悍ましき主張を済ませ、周囲を戦慄かせた後、目標であるイプシロンの頭部を掴まんと掌を広げ、伸ばしていた。
◼︎
「あのカミュール様があれだけ焦りを見せていたからな。きっと不測の事態が起きてるのは予測できる……全てが終わるまで、ここにいなさい。その毒が自然と抜ける頃合いには、アストリネ様たちが終わらせるだろう」
ハントは動けぬ吏史に話しかけ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
玄関の方に真っ直ぐ向かっては、換気のために扉を開き、花の香りを乗せた風を室内に通す。
通り込んだ新鮮なる空気を深呼吸で吸い込んで、乱れた息を整えた後、ハントは再び歩き出して吏史の真横にまだゆっくりと近づいた。
「……あの方も非力な見た目だが、アストリネだ。必ずや人々を守る使命に投じて起きた問題を解決いただける」
反抗の声は紡げない。代わりに、青と黄。異色虹彩の夏空の瞳が大きく瞠り、歪む。
その強制された無抵抗の中でハントの声は続いていく。
「寧ろ彼女だけで事足りる。わざわざお前さんが向かわずとも、良い。何も問題ない」
吏史は何度も口が開閉させたが、やはり、声帯は動かず無さない声を漏らすばかりだ。
あまりの悔しさで、かろうじて僅かな力が入る手の指先が床を爪を立てた。
「(…カミュールだけで事足りる?…ありえない。そんなわけが、ない)」
悔しさの後には怒気が湧く。それだけハントの勝手すぎる考えに苛立った。
カミュールの場合は本当に必要だから、ハントに吏史の捜索依頼通信を投げた筈なのに。
見た目通り、非力だから。力があれば、ひとりで復讐を遂げたい心があったけれどそれがないからそうしてるだけ。
吏史と同じように『古烬』を憎む気持ちがあって、だけど吏史とは違って誰かと心を通わせることなく閉じ込められた世界で過ごしたから、誰かを守りたい気持ちよりも、早く終わらせたい心が強いのだ。
武器も持たずに荒野に立たされる心境だろうに、憤慨を噴出させずに身を削りながら透羽吏史を使うことを選ぶという苦渋の選択を取り道を進もうとしてる彼女が、――必要のないことなんてするわけないだろう。
吏史なんかに救出された礼を示すより、壊したい私情の方がきっと強かった筈だ。
「(なのに、何でだ。どうして、オレより彼女のことを知ってるはずなのに。そう断言できるんだ?)」
ハントは、吏史より先に彼女と知り合って連絡を取り合うほど親睦を深めているのならばハントは話は聞いてる筈。なのにハントは複雑なカミュール自身の心を、何も酌み取ってはいない。
アストリネだからという理由で、カミュールという少女の理解を、拒絶してる。
「…っ、……、…っ!」
発言が自由にできれば、間違いなくふざけるなとハントに怒鳴っていただろう。それだけ吏史は怒りを覚えていた。
「(アストリネに何も悩みがないと思ってるのかよ!)」
少し触れて話し合えばわかる筈だろう。
アストリネにだって、心がある。
機械ではない、喜怒哀楽が欠如してるわけじゃない。足りないところがあって失敗してしまうことだってあるけど、人類には不安を持たせないよう必死に生きて振る舞って隠し通してるだけだ。
それを感じてる立場だろうに歩み寄らずに、何もせずに全てを任せて放任するだなんて、身勝手で無神経にも程がある。
「(クオーレさんのことも知ってるのなら、ローレオンのことも知ってるだろ。……あんなの、絶対に守れなかったことを悔いてるのは、伝わるじゃないか。だったら、尚更、何で、まだ全部アストリネに任せていいって決めてるんだよ!)」
自らの力で兵士に望み共に進み生きようと望む【ルド】で過ごしてきたからこそ、より、強く、感じて。毒で神経が麻痺する中でも吏史は踠き足掻こうとした。
「…………何もそう、暴れずとも…」
毒が効いてるのに随分と無理をするものだと、若者の無茶を憐れむようにハントは近づき見下ろす。
「大人しくしておくだけでいい。ワシは何も、これ以上傷つける気は…っ」
手負いながらに暴れる獣に対して優しく声をかけて安心させるようにすれば――一つの事象に気付き、ハントは息を呑む。
「…なんだ?」
吏史の双眸の夏空。青と金色の瞳に違和感を持つ。
アストリネが異能を発揮する際、ある種の証明のように煌めいているわけではない……だが。
揺れる水面に月の輪郭が映り出すように、その瞳孔の金色が浮かんだ気がした。
「……なん、なんだ。今のは……」
人とは思えぬ変化の片鱗。未知を前にして怖気付くようにもハントは数歩ほど下がる。
その動きで腰が机に当たり、大きく揺れた机の上に乗った空のカップが、ゴトンと大きな物音を立てて真横に倒れていく。
中身のないカップは転がり床に落ち、衝撃に耐えかねて、パァンと派手に砕け散る。白粉が木製の床を染めるようにも汚していた。
「――――こんばんわ」
同時に、起こる。
空いていた玄関の扉から、透明感のある声を乗せた強い突風が、巻き上がった。
「…っ、」
それは、思わず目を瞑ってしまうような強い突風だ。
吏史も渇いた瞼を閉じてしまうが、それでも、一体何者が現れたのかと乱れた白黒色の髪を整えきれないまま、瞑った双眸を緩やかに開く。
「ああ。でも、今はこんにちはの時間か。間違えちゃったかも」
ガタン、と今度はハント自身から。腰が抜けて膝から崩れ落ちる音が部屋に響いていた。
「―――…ぇ…?」
続けて吏史からは、疑問に満ちて虚を突かれた声が零れ落ちる。
それだけ動揺を覚える非現実的にして衝撃を与える存在が、玄関に佇んでいたからだ。
「こんにちは、お久しぶり。元気、だった?」
純粋で気さくな挨拶をしたその者は、一歩。踏み出す。そうしてハントの部屋に踏み入り、吏史に真っ直ぐと近づいていく。
輝く白銀髪のインナーカラーには、散りばめられた星々が広がるという世にも不思議な色をしている。それ緩やかな三つ編みで纏められており、膝を曲げて屈んでしまえば、床に天の川が流れているようだと錯覚した。
「それとも、君にとって昔のことだから、忘れてしまったかな?」
黄金の月が浮かぶ夜空の紺瞳は緩やかに瞬くたびに月の満ち欠けを表してるようだ。
金の装飾が映える白を基調とした服も含めて、その何もかもが、記憶のまま。
五歳の時、冬の夜。森を潜り奥地で邂逅したアストリネ。
吏史にとっての外を象徴するべき存在で、いつしか再会を望み、仲間か友として対等なる関係を築き上げたいと無邪気に願い求めた夢の相手。
「――――――ぁ………」
白銀の流星。
それが、十年前と何も変わらぬ姿で在るものだから、吏史は喉をヒュッと締まらせてしまうのだ。
決して目を逸らすことができずに視線だけをただ交わすしかない中で、やがて、夜空の瞳が柔らかく細められ、形の良い唇の口角が緩やかに吊り上げられる。
「私は君を昨日のことのようによく覚えているよ」
朧月夜のようにも淡く、微かに。実に儚い印象を覚えさせる微笑みを白銀の流星は浮かべていた。
「なん、……まさか、…そんなまさか…」
――一方、ハントはひどく狼狽を覚える。
未だ腰は抜けたままだ。最早、起き上がれそうにもない。黒目を更に大きく溢れんばかりに目を瞠る中は、乾き切れた唇は開いて震えてしまう。
突如現れた存在を誰何することはない。何故なら、知っていた。
それが目の前に居ることが信じられない、あまりにも信じ難い存在だったが故に動揺と困惑を抱く。
――ハントは、長く生きてきた人類だ。
十五年以上姿を消していたとしても、その者の姓を覚えている。
老いて細胞が減った中でも思い出せる忘れ難い夜空の鏡のような存在。一度見れば必ずや、網膜に焼き付いてしまうであろう光明の星たるが故に。
「………エファム……」
嗄れた声で、その姓を紡ぐ。
「二十五代目エファム…!?………まさか、ご存命……だったのか…!?」
アダマスの悲劇を経て管界から姿を暗ましていた。アストリネ始祖の血縁にして現主の姓を。
…………………追記・アストリネの恋愛模様について
アストリネはアストリネ同士で恋情を育むケースが非常に少ない。
それはアストリネが『一族』と類される理由が起因しているだろう。
曰く、『異能の全ては始祖エファムで分枝し、新たな芽もエファムによって汲まれていく』
つまり、アストリネ同士で血のつながりはなくとも[核]としての繋がりが根深くあるということだ。
肉体的に近親相姦とは決してならないとしても。
故に、アストリネは本能的に同族との睦じい関係を築くことを避けてしまう傾向が強い種族だろう。
但し絆の継承法で代を重ねた場合の者や姓の代数が少ない代主は、その本能反応が強く出ることはない。
例えば初代が二十五代目に恋心を抱く事例もあれば、四十四代目が初代に執着するよう強く惹かれる件もある。




