第七区を目指して
あれから吏史は玄関からリビングに移動をし、床に置かれたクッションに座り込む形で五十代目カミュールの手により左肩の治療を行われていた。
「ごめんなさい。残念ながら、僕の異能は傷を癒すなんて都合のいいものではなく……」
「いいよ。全然。手当して貰えるだけありがたいからさ、お願いします」
ぺこりと頭を下げつつ願ってもない申し出だと伝えた上での合意的行為だ。吏史からの文句はない。
「……手早く済ませます。それと、着替えもしましょうね」
「え?あるのか?」
「大きめの服が予備で置かれてありますよ。持ってくるのでその血がひどい服は取ってくださいな」
承諾を得たカミュールは宣言通り早く済ますために、少しその場から離れた。
数分経つことなく。
カミュールは赤色のシャツと黒のコートを持った状態で戻り、吏史の左側に膝立ちの姿勢で座り込む。
「…始めます」
すぐ横の床に畳まれたそれらの服を置いて、金属製のピンセットを持ってから治療を開始した。
先ずは刺さっていた細かい宝石の破片を取り除き、抉れた肩の傷を消毒液を流した後に軟膏で埋めるように塗り上げていく。
「んぐっ…!」
ひどく沁みた後に異物を入れられる苦痛で顔が歪むが、吏史は大きな声を出さないよう堪える。
「痛かったら痛いと仰ってください」
過剰分の軟膏を綿で拭き取りつつカミュールに言われたものだから、頬を掻きつつ苦笑で返した。
「まあ…でも、結構我慢できる。このくらいなら痛いと訴えるまでもないから気にしなくても……」
「痛いなら痛いと言われないと逆に困りますけどね。加減と限界がわからないじゃないですか」
「…そういうもの?」
「はい。そういうものです。だって、貴方をどう大事にしたらいいのかわからないでしょう」
「――――――」
ぱち、と目を瞬かせる。
言われたばかりの言葉を全く鵜呑みにできてない様子を晒した吏史を見兼ねたように、カミュールは小さく息を吐く。
「ハァ……貴方を育てた方は相当苦労してそうです。…確か…引き取り者は二代目イプシロン…でしたか?彼も、まともな心があるのなら頭を抱えてると思いますよ」
そう、指摘された吏史は。過去を思い出してみる。
五年間、そういう場面があっただろうかと。だけど、それらはすぐに吏史の脳裏に過ぎった。
何もこれまで病気等がなかったわけではない。
流行病の発熱で倒れた時や指南時に負った怪我で動けなくなった時などもあり――そういう状況では、イプシロンは珍しく表情を歪めながら、見守るようにもつきっきりで世話をする。
あの時は心に余裕がなくて、ただ負荷になっているという意識ばかりいっぱいで。
「迷惑をかけてごめんなさい」と謝罪を繰り返して強引に、その場を乗り切ったつもりで。
彼には発言の余地も与えさせてなかった。
今し方、カミュールの言うことが確かなら、あれは迷惑がられていたのではなく、吏史の対処に困らさせていたのかもしれない。
『情はあるよ』
イプシロンの性格を改めて鑑みるならば、気苦労を抱えさせていた方が妥当で、自然だ。
「………」
少し首をゆっくりと横に振りながら、神妙そうな表情で吏史は呟く。
「……頭を、抱えさせてた。かも」
「そうですか。なら。二代目イプシロンは心がある方なのでしょうね。…彼の心労を増やさないためにも、これからの安全のためにもちゃんと明かしてくださいな」
「……うん」
そうしたやりとりの間で、カミュールは吏史の傷に真っ白なガーゼと固定する医療用テープを重ねるように貼った後は、開いた応急箱に医療道具を丁寧に仕舞い込んでいく。
「では、貴方に『エンブリオ』を使用することを目標の一つに組み込みましょうか」
傷の緊急治療や対処、その終わりを示すように、かたん。と音を立てながら応急箱の蓋には錠がかけられていた。
それを合図として受け取った後、吏史は赤色のシャツと黒のコートを取り、それらを着用していく。
あまりに都合がいいことに。身丈にあったサイズであった。
「…確かに。それが使える機会ができたらありがたいかもな。高いところから落っこちたのに肩の怪我以外目立った傷がないのがすごく気になりはする」
「…え?お空から落ちてきたんですか?」
頷きながら話した内容が俄か信じ難いとばかりに、カミュールは目を丸くする。
その反応で、やはり己が五体満足な状態はおかしいのかと再認識した上で、吏史は説明しようと手を動かした。
「ああ、実は此処に来る前に――――……」
ジェスチャーを交えつつも吏史はカミュールを謎の白紐から助け出すまでのことの経緯を素直に伝える。無論、『平定の狩者』となり仲間ともなる彼女には兵器『リプラント』の破壊と間陀邏とローレオンの和解が目的であることも隠さずに。
数分後。
「………そんな、ことが…」
吏史からここに来るまでの経緯全てを聞いたカミュールは、苦々しい顔を浮かべ目を泳がし彷徨わせる。応急箱を持つ手を震わせてすらいた。
そんな挙動のおかしい様子に一体何事かと目を瞬かせていれば、とても大きい溜息を吐かれてしまう。
「あの……ですね…。まあ。何故、無事だったのかという話は置いて、ともかく。……二十三代目間陀邏が、本当にすいません……」
「いやいや。間陀邏が攻撃してきたのはオレは全然。怒ってないよ。当然というか仕方ないし、普通のことだと思う」
「その認識はどうかと思いますが…いえ、一旦は置いておきましょう。僕が申し訳なく思う気持ちの大半を占めるのは、現在の『門』の異常転移原因が間陀邏ではないかと……」
「……つまり。意訳すると『やる』と思われる程の存在なんだな」
「はい。結構強引なお方というか。事起こすのは派手かつ豪快なタイプでして。その度にハーヴァが間に入り宥めて尻拭いしてるのはよくある光景と言いますか」
「…そっか…」
間陀邏の気性の荒さはイプシロンが懸念した通りであったから、特段驚くまではない。
ただ、憂いは湧いた。
その感情の先であるジルは、鍛錬の時に無理をしている影が見えなかったが、単に苦労を見せないようにしていたとも言えるのだろうかと。
「…ジルは、相当苦労してたんだな…」
ジルは笑って楽しそうにしてくれてたが、表面上での対応で、内心では無茶させてたのかもしれない。
何だか無性に申し訳ない気持ちになり僅かに表情を翳らせたが、首を横に小さく振る。
過去ではなく今を気にしようと心を持ち直して、俯きかけた顔をあげた。
「ごめん。質問、いいか?」
「はい。何なりと」
「カミュールから見てさ、間陀邏やローレオンはどういう仲というか…どんな立ち位置だと思う?」
今後必要な情報となり気になる点を尋ねる。彼等が何を思い、行動しているのかの詳細を。
これ自体…精神感応異能であるイプシロンならば真意含めての看破も可能だろうが…彼の異能自体は知られている上に基本は使用厳禁にされている。その関係上、本質を知っているのは同国のアストリネ同士だろうと判断した質問だ。
その意を汲んで理解するように、頷いたカミュールは答える。
「敵――――…ではないことは確定です。悪いことをする『古烬』や兵器の存在を許さない精神性は両者共に備わっているかと。貴方の話を聞いて個人的な主観を踏まえての感想ですが、普段の彼等を踏まえた上で様子がおかしいのは間陀邏で、通常運転なのはローレオンです」
「そっか。…これ…会議の時とかずっと思ってたんだけど。なんで、ローレオンは『古烬』を庇うんだ?」
普通のアストリネであれば無いであろう思考に対し純粋な疑問として投げれば、カミュールは顎に手を当てる仕草をして頷いた。
「昔に………色々あったと。そう、お聞きしております。但し争いを好まない性格なのは彼自身の元々の性格です」
「…そっか」
ローレオンに起きた昔の色々をカミュールは知らない。だが、彼の過去経験がそうしてるのだと伝えられ、疑問は大体解消されたとばかりに吏史は頷いた。
「ありがとう。なら、オレは……ローレオンから会おうと思う。多分、会いに行けば一緒に来ていた同期とも合流できる気がするし」
「…同期さんも貴方と似たような身体能力な持ち主で?」
「ああ。ううん。全然。精神力とかガッツとか。その辺はオレよりあると思うけど兵器とかは持ってないし、ちゃんとした人間で兵士だから戦えるかは怪しいな」
「そうですか……なら、逆に合流しない方がいいと思いますよ。間陀邏を忌避するのなら尚更です」
「……え?」
長い話に飽きたように床に転がって寝始めてる白犬の方に膝をつき、その頭を撫でながらカミュールは呟いた。
「だって。……嫌なことは考えられませんか?その同期を捕まえて監視すれば、いずれ貴方が合流目当てで来る読みで万全の罠を敷いて確実に仕留められますよね?」
「…間陀邏はそこまでするタイプなんだ…」
「はい。します。すると、思いますよ。大胆不敵ではありますが、目的遂行のために悪魔的な手段を選ばない方なのです」
ある意味で負の信頼が築かれているのだろう。断言されたカミュールの意見に眉間に皺が寄る。
「だけど、オルドたちには現状の連絡はしないと…」
そう呟いて吏史は改めて自身のHMTを見つめるが、やはり壊れたことを示すよう点滅すらしないまま沈黙するだけだ。
「…申し訳ありません。僕のHMTが一部通信制限かけられた仕様でなければ、即時解決できたのですがね…しかし…二十年前から永続的な稼働を可能とする新型が出たというのに壊れることが…いや高さ的に仕方ないのかな」
「あ。いや、落ちる際に壊したオレが全面的に悪い話だし、カミュールは悪くない。なにも全然」
「そこは貴方が謝るところじゃないですよ。不便な仕様である僕の立場的問題で迷惑をかけてるのが事実です」
申し訳なさそうにも目を伏せて呟くカミュールに慌てて手を振りつつ告げる。
「そういう事情なら仕方ない話でもあるからさ、そう気に病まないでくれ」
――どうやら彼女は特殊な立場上、【暁煌】内のアストリネにしか通信ができない。そんな仕様のHMTらしい。
カミュールの異能が過剰保護状態にさせてるのだと簡易的な説明を先んじてされていたが、やはり、連絡できないことは仕方ないとしつつも…理由が気になってしまう。
「……その、さ。言えないなら無視してもいいし、そうしても気にしなくてもいいんだけどさ。ちょっと気になったから聞くんだけど。……カミュールの異能ってどんなものなんだ?」
そう尋ねられたカミュールは何度か頻りなく藍白の瞳を瞬かせた。
自分の胸元の白百合の束と吏史を交互に見てから、やがて、自身の胸元に手を伸ばし十数ある内の一輪を抜き取る。
プチっと瑞々しい茎が根本から手折られる音が、やたらその場を支配するよう広く響いた気がした。
「――――――え」
あまりにも唐突すぎるカミュールの行動に、吏史は素っ頓狂な声を漏らす。
それを気にせずにカミュールは吏史に一輪の白百合を手渡した。
「これをどうぞ」
「え。…え?…え??」
「どうぞ」
意図は全く読めないものの、ひとまず吏史は慌てず冷静に花を受け取る。
サージュのあの[核]、月鹿に噛み砕かれた命は白花の形をしていた。
だからこそそれを摘むようなカミュールの行動には肝が冷えたものの……彼女の平然とした態度や様子から想像する。
アストリネには個体差があってカミュールの場合だと特に大した意味のない行為なのかもしれない。
そう、納得して綺麗に咲いた萎れてない白百合を指で回し、くるくると動かして見つめてしまう吏史にカミュールがポツリと呟く。
「『ゴエディア』の持ち主であれば[核]を食べずとも一部を食べるのはありなんですよね?」
「まあ…そうらしいけど」
「その上、一時的にその捕食対象の異能を発揮するのでしょう?」
「うん。言い方そんな好きじゃないけど。まあ、そうだな」
質問には頷く。疑念を湧くまでもない。その節は自間陀邏との対峙、覚醒剤で立証済だった。
その返事を経てからカミュールは手を差し出すような仕草を見せる。
「では、どうぞ」
「……え。何が?」
何のことかわからないとばかりに首を傾げれば、涼しい顔をしたカミュールに告げられた。
「どうぞ。カミュールの花を食べて実感してみてください。僕は他の姓名とは違い、この通り咲く花が一輪ではない形式となる特殊体質です。ちょっとばかし寿命削れたくらいですので、ご安心を。能力使用対象はそうですね…さっき撃退いただいたあの糸野郎とかで…」
理解したと同時に意識が遠のく。
宝石の破片を横一列で床に並べるカミュールが発した言葉そのものが己の幻聴か聞き間違いではないかと耳を疑う。
しかし、正常だ。今の吏史には耳鳴りも聞こえず眩暈もない。至って正気だ。
だから脳内では発言を反芻していた。
今、そう、カミュールは確かに、この白百合を[核]の一部、命の断片であると紡いだことを。
つまり、この。その辺の花を摘んで子供の手土産のように気軽にも渡されたこの白百合の一輪は、カミュールの[核]で命というわけで。
「………」
「おや。食べられないのですか?」
吏史は白百合を握り潰さないようカミュールの手に握らせ返しつつ。彼女の幅が狭く細い肩を掴み、思いっきり息を吸って溜め込んでは荒げた息を吐く。
「いや何で自分の命をそう軽々しく渡してるんだよ!?!?!?」
信じられない対応だ。あまりにも。
普通ならしないし絶対にできないであろうことを平然としてきたカミュールに対し、吠えるように訴える。
「……僕の異能がどんなものなんだと言われたので……正直、説明が難しいんですよね。他の異能よりもあまりに掛け離れた……超常現象がすぎますし。だから、実践?いや、実感、かな。そうしていただくしかないかな、と。それにまだ一輪です。まだまだ花はありますし、僕は死にませんよ。全然。ご安心ください」
「どこに安心できる要素があるんだ!?もど…戻せるのか!?戻せるんなら戻してくれ!!」
「はぁ。試したことはないですが…」
そのまま言われた通りにカミュールは実行する。空いた胸元の花束に手折った白百合を胸元に突き刺そうとしたが、……決して、戻ることはない。
根を切られた花はその時点で成長を止め、後は刻々と枯れゆくのみなのだろう。
何度か試した後でどうしたって戻らないことを実感したように、自分の生命の結晶、欠片と言える白百合を持ち直して、カミュールは諦めた息を吐く。
「無理でした」
「無理でしたぁ!?!?」
そして騒がしい吏史の目の前の床に、戻らなかった白百合を置いてそっと差し出す。
「もったいないので。そのままご賞味ください」
「え?!いや、いやいや食べな…食べない!というかもったいないと思うんなら、なんで今採ったんだよ!!!」
「だって…能力の説明が難しいので…」
説明が難しいからという理由で命を削るものではないし、どこか不満そうな顔でむくれられても困る。自分を大事にするべきだ。
そうちゃんと、伝えて話したいのに。勢いで怒鳴りつけずに上手く宥め説き伏せて理解してもらえる言い回しや説得が吏史には到底思いつかず、頭を抱えて葛藤するばかりだ。
イプシロンたちといい、何故アストリネたちはこう気軽に命を差し出せるのだろうか。吏史にとって大事な、世界に必要な存在たちにはそうしてほしくないというのに。
我儘とはわかってるが、色々軽すぎる。
但し、『誰よりも自身を軽んじるお前に言える筋合いはない』と。
イプシロンを始めにした師匠組が居るのならば間違いなく指摘されていたことだろう。
なんなら先日、イプシロンには遠回しに叱られたばかりなのに、それは今し方起きた衝撃ですっかり頭から抜けて忘れてしまっていた。
「ふすっ……」
そんな二人の間には気まずい沈黙が走るものの、そこに割って入ったのは、あのふとましい白犬だ。
ずっと床で寝ていたそいつは黒い鼻をピスピスと動かした後、床に置かれた白百合を嗅いでくる。
「ぷっ、ぷっ、ぷっ…」
鼻に花粉か何かでも入ったのかもしれない。頻りに小さなくしゃみを繰り返し、刺激物を得てむず痒そうに前足で鼻をかいた後に体をブルブルと回すというカーミングシグナルを起こしていた。
そんな白犬の空気読まない動物的反応は、重苦しい空気を霧散させる。
肩をすくめて息を吐いた後、カミュールは己の命、その断片たる白百合を摘み拾い上げた。
「……まあ、こうして採ってしまったものは仕方ありません。ここは一つ。袋か何かに詰めて保管するとしましょう」
カミュールはそのまま、すっと立ち上がってはリビングから台所の方に向かう。
何度か往復して応急箱と宝石を移動させては上部に設置された戸棚の方に手を伸ばし、引き戸式のそれを開く。そしていくつもの包装が積み重なっている中で、瓶などを包装する際に使用されそうな紙箱と赤茶色の革製の…巾着と呼称できる小袋を取り出す。
「普通の花のように枯れてしまうかもしれませんけど、使えるかもしれませんし僕の[核]の一部は取っておきます。ただ、今し方貴方から摘出した宝石は直ぐに有効活用しましょうか」
箱を開いて茎の根元を濡布巾で包んだ白百合を差し込むように入れ、付着した血を消毒綿で拭いて綺麗にした赤色の宝石を巾着に入れていく。
そうした丁寧に行われるカミュールの手作業を見上げた吏史は、呟くように問いかけた。
「もしかして、間陀邏の宝石は彼の[核]だったりするのか?しないよな…?」
その言い方としては自分なら使えるようになるのでは、と思っての無意識の質問だ。だが、カミュールは小さく首を横に振り否定する。
「いいえ?別に。この宝石自体彼の異能によって生成されたただの鉱石に過ぎません」
「そ、っか。…なら、一体何に使うつもりで…」
カミュールは紙箱の蓋を閉じ、巾着についた紐を両脇から引っ張り結ぶ。そうして口を硬く閉じた。
「これはこの先で売ります」
「…売る?」
売買するという宣言に目を丸くする吏史に、カミュールは意図を説明した。
「これより第七区『爛』に向かおうと思っているんです」
「え?…それって、カミュールはオレに着いてきてくれるのか?」
「何を仰いますか。僕は貴方に味方すると申し上げましたよ?だから、お供いたしますよ。最後まで」
それ自体は覆さない決定事項だと主張した後、吏史が反論せずに小さく頷いたのを視認してからカミュールは話を続ける。
ただ、内容は良くないことではあるので、藍白の瞳は若干俯いていた。
「まあ。そのつもりなんです、が。…僕は多くのティアを支給されているわけではないので。換金できるものは持っていきたいというわけなんです」
「第七区……」
【暁煌】第七区『爛』――それは、遊具に溢れた享楽の区だ。
カジノを始めにした賭博までが合法とされた娯楽施設で溢れてる歓楽街である。
それ自体は存在はしているとは又聞きで知っていたものの、これから自分たちが向かう必要があるのかがわからず、吏史が首を傾けてしまうばかりだ。
「はい、第七区に向かう理由自体は幾つかあります。そのうちの一つは最新医療機器『エンブリオ』。これが第七区にもあるんです」
「…成程……」
説明された一つの理由だけでも十分、納得できた。
利用したい『エンブリオ』が第一区外にあるのは僥倖だろう。間陀邏とローレオンの件がある以上、いずれは第一区に向かう必要があるだろうが、万全でない今の状態で再び間陀邏に出会うのは致命的だ。今度こそ彼の怒りの下に処されることに直結する。
現段階では彼を忌避して避けるフェーズであるのだから第七区なものを利用するのは必然的なのかもしれないと、吏史は首肯するものの先ほどのカミュールの発言、『換金』という単語を思い出す。
自らの顎に手を当てがって思案しては、やがて、一つだけ閃いたように手のひらを拳をポンと叩く。
「なあ。もしかして、【暁煌】ではティアを支払う形で利用を可能にしている制度なのか?」
「…ええ、そうなんですよ」
肯定するようカミュールは再び頷き、片手で三本指を立てて示す。
「因みにこれに特例はありません。アストリネであっても使用する際はそれを払う必要があります。必要金額は三百万ティア」
「さっ…!?」
「維持費、薬剤費を考慮しても少ないくらいだと仰っておりました」
ふぅと息を吐いて手を下ろすカミュールを前に、吏史は口を開けたまま愕然とする。掲示されたティアはそれだけの額、大金だ。
吏史の認識知識でこの金額がどれほどのものかと例えるのであれば―――サージュが年間分として配布されていたティアとほぼ同額である。つまり、贅沢を好まない一家庭を一年間賄うには十分な額だ。
一回だけで年間を支払うのは、驚愕しても仕方ない。それだけ高価だったのかと動揺し、道理で医務室にて朝海が平伏せてしまうだけあると改めて実感する。
「…高い、とはそこそこ聞いてたけど…【ルド】では割と気軽に使ってるせいで、そこまで高いとはわからなかった…」
「国によって額が違いますよ?【暁煌】では三百万、【ジャバフォスタ】では百万、【ルド】では数十万だったかと…」
「……えっ!?く、国ごとにそんな…費用が変わるのか…!?」
「それは…各国で異なるティアの価値観と素材の調達の難易度が大きく関係しているのかもしれません。ほら、あれです。【ルド】では娯楽品は高かったりしませんか?此方では対応電子機種があるのならば無料だったりするケースもあるような感じなんです」
カミュールは首を傾けながら呟く。
逆に【ルド】では娯楽品が高価で【暁煌】では安価だったりするように、国特有での入手難易度が関係した故の額ではないかと推測を立てた。
「『エンブリオ』には、一部の寒冷地帯にしか生息しない植物を用いて造られる再生薬と、強力な酸性性質を中和する高濃度のアルカリ性…鍾乳洞の地下水を用いる必要があります。これら二つは【ルド】ならば入手は容易ですよね?」
「…それは、確かに…」
「数十万ティアも高額ではありますが、他国と比べて安価である真髄はそこにあるのでしょう」
吏史は脳裏に得意げなネルカルの姿が脳裏に過ぎる。その笑みが崩れない理由に納得した。
【暁煌】がどれだけ嫌がらせを仕掛けても本当に意味がない。大した財源はなくても、国力を損なわないピースが揃っているのだから。
世界が『エンブリオ』を必要としている以上、素材提供を求めて頭を下げなければならないのは【暁煌】の方だ。
ただ、そうして一つ。気になったことが浮上して、吏史はカミュールに尋ねる。
「なあ。このことは間陀邏とローレオンは…知ってるんだよな」
「?はい。そもそもアストリネであれば知って当然だと思いますよ」
その解答では、疑問の解消はない。寧ろ余計に謎が深まるばかりで、悩ましげにも吏史の眉間には皺が寄る。
ならば何故、【暁煌】のアストリネたちはティアを不当に搾取しようとしてたのだろう。
【ルド】への嫌がらせにもなりはしないのは簡単に察せられるだろうに、何故、そのような行動に出たのが思いつかない。お金を集め続けることに意味がある故に別の狙いがあったのか。
そうして思案し熟考し続けている吏史を見て、カミュールは不思議そうに目を瞬かせる。
「それが何か、どうかされたのですか?」
「あ。それは…いや、ごめん、何でもない」
慌てて謝罪をし取り繕う。
味方―――だと公言してくれた手前ではあるが、ネルカルとイプシロン、三名で話しあったことを赤裸々に明かすのは流石に良くないと判断した上の対応だ。
それに、今はこの件で深く考えるべきではないだろう。真意を探るにしても吏史一人ではたかが知れる。大した結論も持てずに堂々巡りだ。
でも、これについては流石に考えすぎだろうか?だけど、色々探っていそうなイプシロンがあの時…異論を上げなかったのに――――
「……あ。」
邪推しすぎかと思い進む前に、意識的に頸を触れた。
其処にはHMTとは関係のない電子機器が埋め込まれている。吏史の生存信号と発言は監視担当するアストリネたちに流れる機能がついた機器が、だ。
精神干渉の異能を持つイプシロンであれば間違いなく多くを知っているのだろう。
しかし――もしも、吏史を介してジルやアルデには知らせるわけにはいかない話題であれば、必ず口を慎む。
監視担当するアストリネ三名は互いに姓ではなく名で呼び合う国の垣根を超えた信頼がある。とはいえ、彼等は共通して己が属する国の利を優先していだはずだ。
イプシロンは肝心な情報を共有する際は必ずHMTの書面で送る。吏史を弟子にすることを決めた経緯や真意を全てを明かすことなく晒さないように立ち回り、線引きしている。
それを加味すれば、やはりそうなのだろうと思えた。きっと、重要な情報は慎むに違いない――だからもう少し、ティアに関する話を慎重に踏み込んで聞くしかないのだろう。
既に遠回しに明示されてる可能性もあるとはいえ、任務を潤滑に進行するならば必要に違いない。
その思考を経て吏史は頸に触れていた手を下ろし、起動しない腕時計型のHMTに触れる。
HMTも直さなければならない。そもそも朝海の安否も気になるのだ。きっと無事ではあるだろうけど。
自然と掴む力を強めてしまいながら、吏史はこの場に居ない者たちを想う。
「まあ、なので、利用するためにこの宝石を換金する必要がありますし…お伝えしたとおりすごくお高いので…換金して小銭を作り、賭け事に挑んで稼ぐ必要があるかと………ところで、そのHMTも直されたいのですか?」
「えっ。あ。まあ、そうだな。できれば…そうしてもらえると、助かる」
「ふむ……」
その動きを視認したカミュールはひとまずそのように判断し、唇に指を当てがう仕草を見せながら考え込む。すぐにある一案に行き着いたのだろう。
両手を合わせてから改めて提案した。
「やっぱり色々含めて僕たちは第七区に向かうのが最適ですね。ティアを上手く増やして傷の治療を行いつつ、その第七区を棲家にするアストリネ――二十八代目クモガタの元を訪ねましょう」
「……クモガタ……」
聞いたことはない名前だ、そう素直に思う。
吏史はアストリネとは多く関わってはいたが、三国会議で名乗らず議席に座るだけの存在も多く居るため、知らない名は多いのだ。
それを汲み取ってか、カミュールはクモガタについての説明を施した。
「貴方が撃退してくれた白紐…糸の元にしてローレオン派の部下です。蜘蛛としての側面、本質もあるため、手先が非常に器用。電子娯楽機械開発に励んでおりますし……そのHMTの修復も可能でしょう。また、ローレオンに直接接触する前に奴から事情を聞き出せますよ。…どうでしょうか?第七区に向かうのはあり…だと思いません?」
確かに、と頷ける。実に理に適っている提案だ。多くの目的も同時に達成できるのだから、カミュールの申し出通り第七区に向かうのが今の最適だろう。
ただ、懸念点は残るため、訝しげな表情で吏史は呟いた。
「…説明、ありがとう。それならオレも第七区に行くこと自体は賛成。…だけど、『門』がないなら…どうなんだろう。……此処から第七区は遠くないのか?」
そもそも向かうこと自体が可能な状況だろうか?
どの国でも一区間の距離自体かなりある。…現時点『門』が機能せず使えないのであれば、旧遺産である『飛行機』辺りでも使うしかないはずだ。
足で向かうには過酷すぎるし、まともな移動手段がないからと数日間かけるほど、悠長にしてる時間はない。
「ええ。ええ、仰る通りです。ここからでは第七区は遠いですよ。1500km……普通に歩いて向かうわけにはいきません。相当な時間が掛かります。ですが、『門』以外での移動手段がここにある」
しかしそれら懸念点は何の問題もないと、カミュールが下の方に視線を送る。
「…え?」
移動手段。それを念頭に置いた上で示された先を視認し、吏史は夏空の瞳を瞠目させてその手段を映しながら何度も瞬かせた。
視線の先には、床に転がるあの体格ふとましい白犬だ。
「この四代目白雪に頼ります」
「…………え?」
「ご安心ください。これでもこいつはアストリネの一族ですので異能が使えます。具体的には身体操作の異能――要約すると高速移動が可能です」
「ええっ!?」
瞠目しつつ動揺の声を上げながらカミュールと白犬…白雪を交互に見た。
むふ〜っと自慢げにも荒い鼻息を黒鼻から噴かす白雪がアストリネだとは、どうにも信じがたい。
「は?え?よん、だいめ?四代目?…嘘だろ…この白犬…犬が、アストリネ…!?」
人生一驚いたような大きな反応を示す吏史を前に、カミュールは大袈裟だと呆れたように目を据えては息を吐く。
「人体化しない間陀邏の中身を見た上なんですから、そこまで驚く必要はないでしょうに。…まあ、少し異なる点を説明するなら、こいつは人の姿を取れないんですよ。できてもこうした最小化程度です。ビルダ語も理解してないので喋れません。何となくこちらの感情を汲み取れる程度です。一つ追加して言うなら…食欲に欲望を振り切らせた畜生だとしか…」
「畜生とまで言うのは流石に酷くないか!?」
「え?おやつを渡さないと足を噛み、無視をするなら庭に出て暴れ散らし、泥だらけの体で家の床で転がりまくるのですよ…?」
「………あ…」
吏史は口元に手を寄せて、覆い隠す。その間にもカミュールの淡々とした調子ながらにして力がこもった発言は続く。
「ちなみに散歩と言う簡単な運動には赴きません。その上美味しい餌をくれる方の顔を覚えては懐き、来るたびに媚びるのでこのような基準値を大きく越えた体型に、なっちゃったんですよね」
「………えっと……」
「それと、こいつは犬じゃなくて狐です」
沈黙し、そうして肯定した。認めざるを得ない。あまりに卑しすぎる――と。
的確にカミュールの訴え通りの迷惑行為をしまくっていたのならば、尚更そうだと痛感した。
アストリネは体型を弄れない、不摂生は反映される。
狐を犬と見えてしまうまでに肥えた白雪は、自身が話題にされても大して気にせず、後ろ足を掻くように動かす。しかし、それは肉に埋もれてて意味のない動作になっていた。
「なあ、オレたちは本当に白雪を頼れるのか…?」
むしろ説明通りならば白雪が異能を発揮して動けるまでが怪しいラインだ。
少し前にちょっとした階段でもすぐに横になったのを目の当たりにしている以上、間陀邏のような姿になり高速移動―――なんて、宛になる展開があるとは思えない。
「…頼れるという証明をする前に。ひとつ確認しても?」
「うん?」
そんな吏史に対し、カミュールは人差し指を上に立てて申し出る。
「あの。怪我をされてるところ申し訳ないのですが。アストリネではないんですけど…それ以下くらいの相手と…戦おうと思えば戦えそうですか?」
「………」
少しだけ、瞼を閉じて自己分析。
肩の痛みと体全体の調子。熱やだるさも不思議と無い。
もし、戦闘を持ちかけられてもアストリネ以外であるなら対処可能だと判断してから目を開きカミュールに対して首肯してみせれば、安心したように小さく息を吐いていた。
「ならばやはりすぐに出発する方針かつ、問題ないことを此処で証明いたしましょう。――といっても、実証に近い形で終わりますが…」
それからカミュールは白雪を持ち上げようと手を伸ばしていた。
「へ?!ちょ、まっ…」
無理だと思って吏史は制止すべく手を伸ばす。体感、白雪は数十キロ以上はあった。細身の彼女が持ち上げられるわけがない。
制止のつもりだったのだが、だが。過った。
これまで知り合ってきたアストリネと違い、脆く儚い粉雪のような印象を持つ彼女。
先は緊急事態だったから触れたとはいえ、破壊兵器である己が、掴んでいいものなのかと。
「――――ん?」
心配に反してカミュールは別に白雪を持ち上げることはしない。膝をついたまま白雪のお腹を押し転がし、何かを促すよう揺さぶっていた。
「………何か?」
不思議そうな声をあげて見上げられる。
伸ばした手が行き場なく彷徨って、気まずい空気感は漂う。
だけど、それをどう変えようもない。吏史は観念するかのように、伸ばしていた己の手を下ろす。
「なんっ、でもない……ごめん…」
そう己の浅はかな判断力を詫びるように謝罪した。
「はぁ」
何故謝罪されたのかもわからないため、疑問符は浮かんでいたものの敢えてここは気にせずカミュールは白雪の方に意識を戻し作業を続ける。
そうして白雪はお腹を揺さぶられることで、『何か』が胃から喉、口に迫り上がったのだろう。
「けふっ、けふっ」
やがて。
「ぐふっ」
しゃっくりじみた嘔吐前の声を上げ始めていた。痙攣じみた小刻みな身震いまで起こしている。
それを見据えたカミュールは、バッグを持って濃茶の革靴を履く。そして物を川に流すように玄関の外にまで白雪を転がし移動させた。
「…本当に大丈夫なのか?」
「ええ。すぐに、収まります」
確信を持った回答ごと、答えが示されるように白雪の身が変貌する。
風船が膨張し破裂した――かのように思えば、獰猛な獣性を覗かせる鋭利な爪と牙を剥き出す。
そして、吏史やカミュールなど影で飲み込める大きさ……四メートルは超えるであろう巨大な狐として容姿ごと文字通り大きく変化した。
額から目元にかけて青色の隈取が走り、眉部分からは細く白い鞭か触手のような毛が二本波打つように伸びていて首周りの白毛は増毛して獅子の立髪にも似通っている。
且つ、四足の黒毛は隈取と同じ紺碧に変化するだけでは止まらず、全ての毛先までもが燃ゆる青火が昇ったように染まていた。
今や白雪は先の犬と見間違うような肥えた身体の面影はない。
神に仕える獣が如く、神秘を携えた巨獣である。
そしてスラリとした四肢としなやかかつ艶やかな多毛を揺らしては、吠えた。
「フォン!」
周囲に心地よく渡る晴れやかで透明な声を上げた後に、箒のような尾をパタパタと振り閉じた口からはしまいきれてない長い赤い舌や鋭牙を覗かせる。
変わりきった白雪は何かを待つようにもその場に座り込む。
そんな白雪の前足を真顔でカミュールは優しく撫でた。
「はい、この通り。これから先はこいつに乗って行きます。百キロであるなら十分程度なので、目的地までそうかからないと思いますよ」
「おぉー……なるほどなぁ…………」
今の白雪はかなり、大きい。のけ反るほど見上げないと顔が見えないほどだ。とても大きい。風貌雰囲気変化込みでも相当強そうに見える。
「なぁ、もしかして。白雪って結構、強かったりするのか?」
今の白雪はあの間陀邏に近いサイズであることから、対抗できるのではないか。
そう、ほんの少しだけ期待するよう目を輝かせつつ、吏史は巨大化した白雪とカミュールを交互に見ながら尋ねた。
「いいえ」
――が、尋ねられたカミュールの目は即座に否定しつつ目を冷たい色に染めて据わらせていた。
「残念ながら、臆病な子なんですよ。勇猛果敢には程遠い温室育ちなので」
「ああ。…そっか」
それ自体はあっさりと受け入れる。
できないものや不得意は仕方ない。無理に強要し望むものではないと、吏史は割り切った。
「単に白雪がそうならかっこいいと思っただけだけど…確かに、ちょっとだけ残念だなぁ」
「野生を損なった以上ね…。吏史くんは変身物がお好きなんですか?」
「瞬時に変化するのはかっこいいと思う!オレの師匠たちもそうなんだけどさ、変化の仕方もいちいち的確というか、魅せてきてる感じが凄くて!試合の時とか目が追いつけないほど早いし、槍や弓を取り出すタイミングとか、ここでこうするのかって斬新な手法も見せてくれるんだ!」
突然、目を輝かせて振られた話題に食いついてきた早口の反応に、カミュールは眩しいと言わんばかりの薄目になる。
「…そうですねぇ」
ひとまずは、と。長話になる前に、片手を上げてから物申す。
「ごめんなさい。一旦、落ち着いてもらって。お話は後ででも構いませんか?移動時とかにでも…」
「…あ。ご、ごめん…つい…」
「いえいえ。こちらこそごめんなさい。憧れ…が、あるのは、いいことだと思いますよ。だから後でお聞かせくださいな。僕はネタにして有効活用するので」
ネタ?と意味深な発言をかまされた吏史は首を傾げる。しかしカミュールはその説明を行わず、
「さて。先ずはこの髪から整えないと……服、はぁ……まあ。面倒ですので、このままでいいや」
一旦、外出の準備を開始した。
先ずは今後の作業等で邪魔にならないように、彼女は己の藍白の長髪を紫紺のリボンを複数取り出し、一部の髪を取って腰辺りまで細い三つ編み状に束ねていく。
編み上げてた先をリボンで固く結び、それと別のリボンで巻きつければ長い紐のようになったのをいいことに、髪型を大きく二束に分けて纏めてる形に仕立て上げた。
カミュールの藍白髪量は多く、纏めたとしても肩にかかり流れていたため、軽く手で払って背中側に流す。その一つの動作でまるで空のカーテンを広げてるようにも見える。
「白雪」
そうして吏史に見られながらも平然と髪型を整え終えたカミュールは、白雪の毛を掴むように背に登り切っては、トンとその背を軽く叩く。
「フォン!」
合図を受けた白雪は目を瞬かせながら座った状態から四足で立ち上がった。
直ぐにでも走り出せる、と示すように何度か顔を動かして鼻息荒く動かしている。
「……よしよし。こういう時は聞き分けがいい良い子ですね、君は」
毛並みを梳くように撫でて、カミュールは吏史の方に視線を送り手招く。
「さあ、こちらは準備OKです。吏史くんも早く乗ってください。ひとまずは数十キロ先までは白雪に乗って移動しても問題ないので……迅速果敢にサクッと向かいましょう」
誘われた吏史の夏空の瞳が、何度か瞬いた。
――カミュールの言葉に意図があると気づいてのことである。
この先には何かしらの問題自体があるのだと。
ひとまず一旦は、追求はしない。促された通りに行動に出る。但し白雪の四肢の毛を掴み取って昇る、なんてことはせず。
「よっ、」
吏史は地面を蹴って軽やかに跳躍した。
傷のない右掌を着地姿勢の衝撃を受け止める軸にして、素早く軽やかにカミュールの前に乗り込んだ。すぐ背後にいる彼女の振り返っては確認する。
「それで、数十キロ先には何があるんだ?」
花や宝石を初めに道具を入れた布製の金糸雀色のバッグを抱え直してはカミュールは説明した。
「…そこにはですね、監視と防衛の役割を果たす最新式の自立型機械人形があります」
「監視と防衛…」
「デカ目トロール君と名付けて呼びましょう」
デカ目トロールという独特の呼称を聞いた吏史は頭上に空想を広げる。しかし、想像力は秀でてるわけではないので『鮪の目玉をつけた仰々しい青色の肌を持つ巨人』でしか空想できない。
その自覚もあり絶対に異なるという確信は得られるので、不要なものだと振り払うように頭上を掻き消すよう手の動作で振り払いつつ、カミュールの説明が続く。
「僕らはそいつのせいで出られません。この狭い家に、周囲に何もないところに。ぼくがカミュールとなってから、ずっと軟禁にあります」
己が籠の中の鳥のような状態であったと、さらりと明かす。
思わぬ事情を背負ってることに驚き目を瞠目させる吏史に詳細を尋ねられるよりも先に、カミュールは懸念点を上げた。
「長年情報収集を続けたことが功を奏してそいつの致命的な弱点も分析済ではありますが…それでも僕と白雪だけでは処理は不可能でしょう。強引に逃げおおせてもいいのですが、後先を鑑みて破壊が望ましい」
吏史はこれから先の頼まれごとを粗方察したように目を据えて、カミュールは躊躇して、事を早く運んだことを後悔するよう目を横に泳がしてしまう。
「……ああ、そうですね。しまったな。気遣いがなってませんでした。傷のある身にお願いするのは、よくない。些か気が、憚れる……」
カミュールと白雪。非戦闘要員が連なったところで解決はできない。つまりここから出るに辺りトロールという障害で物理的な破壊を可能とする戦闘要員が必要だ。
そして、この場には手負の吏史しかいない――。
「わかった。オレがやる」
しかし一秒と経たず、吏史は迷わず快諾する。
獲物がないという状態ではあるが、弱点があるのならば対抗しようがあるだろう。
物理的手段は肉体さえあれば、幾らでも成立するものだという考えもあった。
カミュールは藍白色の双眸を瞠目し、瞳孔を揺らす。
「……あの。怪我の具合は?本当に無理になりそうなら全然、日を改めて…」
心配に及ばないとばかりに吏史は左肩、右肩と両方を真っ直ぐと上に上げて大きく回してみせた。
「この通り、平気。動かす分には全く問題ないから」
「……。話が早くて、大変助かります」
「いいんだよ。こういうの、適材適所ってやつだから」
そうして話を済まし白雪に触れて駆け出す合図を送られる前、念の為、一点と。
気掛かりが生じた吏史はカミュールに尋ねる。
「あ。待ってくれ。破壊自体は別にいいし全然引き受けるんだけど。破壊行為はしてもいいものなのか?」
その不安に対して、カミュールは人差し指を立てる。口元に寄せて小首を傾げ、片目を瞑りウインクを披露した。
「今後誰かに問い詰められたら急に壊れたと誤魔化しますよ。初協力は、共犯行為ということで」
「…。オレの会話はさ。基本オルドやジル、ヴァイオラに筒抜けなんだけど…」
「成程、わかりました。先の師匠弟子物語とはまた別に、その三名の弱みを握っていますので……お礼も兼ねてお教えさせてください」
「え?」
耳を疑うような発言だ。
思わず疑問を込めた母音を漏らすものの、カミュールは発言撤回をしない。うんうんと何度も首肯するばかりだ。
「口封じに使えますよ。任せてください。ジルさんには世話になってるのでちょっと弱いのですが……他のアストリネ全員にはここに十五年間閉じ込めてくれた恨みつらみもありますので」
「………え?は?」
「持て余した時間だけ勉強し、あらゆる情報を網羅して全アストリネの弱みを色々調べたのですよ。最低一つは把握しているんです」
聞き捨てならない単語が聞こえた気がしたが、吏史は反応できない。それよりも早く何処か楽しそうにカミュールは動く。両手を合わせつつ色の薄い唇が問題発言を紡ぐ。
「ええ。そうですね、まず、十九代目アルデからいきましょう。なんと彼女には先代当主お兄様が居りまして。この方は家庭を持ちながら、とある方への偏愛が…」
「いや、ストップ!オレにそれを話さなくていい!」
アルデは吏史の尊敬対象にして先生にして恩者なのだ。とんでもない弱みを進んで聞きて握りたいとは思わない。
吏史は血の気が引いた青い顔でカミュールの口を手で覆い塞いでしまっていた。
「いや、そもそも十五年閉じ込められたって何……いや、それにしたって脅しそのものがダメだし、オレは聞きたいとは言ってないから!普通にお願いしよう!?な!?話はきっと聞いてくれるし!」
抑えられた口を手の中でもごもごと動かして、カミュールは不服に満ちた低い声で呟く。
「ですが人もアストリネも口約束だけでは平然と裏切る畜生でしょうに…」
そこに彼女が抱える大きな闇を感じて仕方ない、が。そこに踏み入るのは少々躊躇いと本能的な警鐘を感じざるを得ない。
何故と深く問いかけることはできず、吏史は口を抑える手を下ろす。
「…うん。…とりあえずいいから。本当に。もう早く移動しないか」
「そうですね。これはまたの機会にしましょう」
自身の知るアストリネ達はそうではない、と訴えたくはあるが。そこを主張してもしょうがない話。
願い通り一旦脅迫行為を止めてくれたのだ、『古烬』である吏史としては、それだけで十分だ。
そんな出発前の空気感という合図を何となくで汲み取ってくれたのだろうか。はたまた無駄話しがちな二人を見かねたのか。
「ふすんっ」
白雪は一度大きな鼻息を漏らし、一瞬、何かを示すように目を煌めかせた。
「うん?白雪――」
カミュールの呼びかけに返事なく、後ろ足で大きく地面を抉りながら跳び出す怒涛の勢いで走り出す。
「う、わっ!?」
それはまさに疾風迅雷が如くの速度。
白雪は己が進んだ証拠である足跡という軌跡だけを残しながら、駆けていく。
「まっ、ず……っ!カミュール!」
速度による空気の圧を受けて吏史は振り落とされかけるものの、咄嗟に庇うようにもカミュールの手を取った。
「――――」
手の先から伝わる、彼女の心臓は早鐘を打っていた。声も上げずに酷く緊張して驚いてるのがやたら感じれる。
弱々しく握り返される動きだ。おそらくは振り払われる可能性も考えてるのかもしれない。潜在的な恐怖が汲み取れるような、か弱さだった。
「――……お礼とかさ!」
元よりその気で前に座り込んでいたとは言え、吏史は気を引き締める。吏史は彼女の壁になれるよう、白雪にしがみつく形で堪えて、叫ぶ。
「お礼とか全然考えなくていいから、今はオレにしっかり捕まっててくれ!ここから出たいなら、尚更!」
「……僕は何をされても信頼を貴方に捧げる気概ですが、……それなりに、此処で投げ捨てないくらいには、信じてくれているということで良いのですか?」
「そんなことはしない!!……オレの味方してくれるのに、手当だってしてくれたのに、助けないなんて、ないだろ!」
その返事を受けたカミュールは息を呑むように瞠目する。藍白瞳が震え揺れたが、手の先から伝わる吏史の体温で張った目が緩んでいく。
「……では吏史君。先にいるトロールの処理もよろしくお願いします。やつの弱点、お話ししますので……しっかりと覚えてくださいね?」
後に吏史の手をしっかりと握り返しながら、そのように申し出た。
◆
『トロール』は五十代目カミュールを外界に出さぬように設計された追跡特化の自立型機械だ。
形状としては、自家発電を可能とした蓄電池を主に多くの機能を搭載するために大きくなったら六角形状の主体に地面を高速移動するために多数の節足部が8つほどある。
故にトロールを何かと例えるならば、全長三メートルにも及ぶ薄氷色の巨大な蟹だ。
しかし、蟹に似通っていても愛嬌はない。
何故ならそれには三十センチ以上あることが窺える人体の目を模した視覚用の球体レンズが二つ宙吊りにされるよう垂れ下がっている。それは実に奇妙なデザインだ。きっと制作主の精神状態が危惧されることだろう。
何せ不気味なのは見た目のみならず。その目は三百六十度旋回する。全方位の視認を行うためとはいえ、見たものに不安を与え、嫌悪感を立たせるには十分だ。
その上で目は独特の塗装を施されてるが故に、暗闇の中でも青く発光して灯る。
生物としての形になれなかった……悍ましき怪物と言っても過言ではない。
そして、このトロールの厄介なのは見た目だけでない。戦闘機能面でも充実している。
対象を弱体化させる毒を霧状で噴射するか、直接注入するような機能が多く搭載しているだけでなく、乱暴に捕獲する手段の数々も装填されており最早戦闘機と喩えても間違いではない。
目的に於いてのさまざまな機能性を追求した結果――トロールは不気味かつ悪趣味、凶悪になって造られた機械と言えた。
そんなトロールには明確な意思はない。あくまで内蔵されたプログラムのみを実行する存在。
今日も今日とてトロールは忠実に平静に義務的に、登録された対象を逃すまいと今日も木々の隙間を掻い潜りながら森を巡回し、棲まう獣達を怯えさせていく。
――中天を過ぎたお昼頃。
トロールは活発に動き回り、巡回していた。
大きな目を振り子のように揺らし、グリン、グリンとネジが回る音を立てて回転を繰り返す。三百六十度全てを見渡しながら判断処理を行う。
〈---追跡目標無し〉
〈---無問題〉
然し捕獲該当者は依然として見当たらず。
この現状を維持《継続》すべく、トロールは足を動かした。特定のエリアの境界線を環状線のように回り続けて対象が逃げ出さないかを見張り続けるのだ。
青々とした木の隙間をくぐり抜け、目を回転させて見渡しながら逃げ惑う獣達を無視してトロールは進む。
羽ばたく鳥、地面を跳ねる兎に鹿。走り出す猪に野犬などには目もくれずに。
「………そろそろだ」
そう、トロールは登録された対象を視認さえしなければ搭載された機能を発揮しないのだ。
巡回地点に近い木に昇り、息を潜めて待機していた『古烬』の存在まで認知しない。
まさしく致命的な弱点と言える。
吏史は地上から三メートルほど離れた木の上に座り込むのをやめ、屈めた姿勢で身を乗り出す。
現在、トロールは吏史から五メートル先で周囲を確認している様子だ。
理想は真下からの強襲ではあるが、トロールは節足であるが故に不規則な動きをして真っ直ぐに進まない以上、難しいかもしれない。
そのように判断して片眉を吊り上げたが、すぐに気を切り替えるように両腕に力を込めて息を詰めた。
そうして両腕の装甲――黒骨が連ねたような兵器『ゴエディア』が瞬時に顕現する。
残り三本のうちの覚醒剤を扱えばすぐに終わるだろう。――が、あえて使わない。
機械を止めるには動力と繋がる接続線を破壊すればいい話で、『ゴエディア』を顕現させた恩寵により身体能力は向上してるのだから。
「これで十分だ」
ぐぐ、とより深く、吏史は膝を曲げて身を屈める。力が籠って枝が割れる音がした。
しかし、トロールは振り返らない。木々に身を潜める黒豹めいた存在が己を破壊すべく跳び立とうとしていても認知せずに警戒を取らない。黙々と進んでいく。
「!」
距離間三メートル。切った時点、その瞬間で吏史は黒の外套を靡かせながら現れた。
トロールを大きく飛び越えてその背後に着地し、視認システムを担う目玉型のレンズが回転するよりも速く、息を短く切って拳を握り一撃。
正拳突きを与える。
視認レンズは衝撃に耐えれない。黒骨の拳は、貫通させた。
鉄繊維、機械盤、レンズの破片などが木漏れ日差し込む森中に散る。
それらが粉雪のように霧散するのを、吏史は険しい表情で見据えていた。
突き抜けて開いた風穴からは壊れた電子音が鳴り、絶えずに放電を繰り返し始めてたため、吏史はすぐに腕を引き抜いて、片足を軸に身回す。
「ッもう、一発!」
近くにあったトロールの二つ目の目玉型の視認システムも同様、今度は回転力を乗せて拳を与えた。
今度は全体的に衝撃が響いたのだろう。
細かい亀裂が走った後に、呆気なく目玉型という形そのものを失い崩壊する。
砂のように崩れて土上に砕けた基板等が積まれていた。
〈---エラー〉〈---エラー〉〈---エラー〉
〈---視認システム信号なし〉〈---接続不可〉
〈---エラー〉〈---エラー〉〈---エラー〉
しかし危害を加えられたトロールの防衛システムは起動する。
〈---異常対象〉〈---生命体を感知〉
〈---抹消〉〈---消却〉〈---処理〉
一種のサイレンのように機械音を何度も立たせては、やがて、歯車が食い違ってしまったように軋んだ音を立てながら節足部分を大きくへし曲げて動力部を地面に擦りつけてしまう。
しかし、そこで、制止することはなく。
止まるというコマンドが組み込まれてはないトロールはガタガタと全体を揺らし、壊れ始めの機械はモーター部分を稼働させて何度も義務的に自発的に再起動ながらに実行する。
〈---緊急対処 を 実行 します〉
「させるかよ」
当然、猶予を与えるほど吏史の判断力は甘く無い。地面に動力部をつけた時点で、彼は既に跳び乗り、泥がつくのを構わず強く踏み締めていた。
グッとより踏む力を強めては、黒骨を纏う手で拳を握り大きく振り上げて、鋭く鉄槌を下すように一撃を落とす。
ガァン!と重い金属音が辺り一帯に響くが、流石に分厚い金属板で構築されていたのだろう。一撃では破壊できず拳の形にめり込むのみだ。
吏史に眉間の皺が深く、走る。だが反動等はない、何ら問題もない。一撃で無理ならば何度も下ろせばいい、単純な話だろう。
殴る。ひたすらに拳を振り上げ、殴り続ける。
抵抗のように節足部が迫るようならば体を回しながら蹴り上げて弾き、遠心力をも乗せた一撃を胴体部に叩き込む。
左右から同時に迫り来るようならば、一つを手で掴んで渾身の力を込めてねじ切り、取ったばかりの節足部をバットの要領で半月を描きながら横薙ぎにぶん回して、真上に切り上げるようにする。
そうして金属音をけたたましく鳴り響かせた。
完全にトロールの抵抗を弾き切りいなした上で。そして動力部の殴打を絶やすことはなく、吏史は攻撃を続ける。振り下ろしは絶えず続く。
夏空の瞳は大きく瞠目し、瞳孔は興奮状態で開き切っていた。
今、映るのは破壊対象のみ。
壊れるまで、狩り取れるまでは、止まらない。
〈---エラー〉〈---エラー〉〈---エラー〉
〈---信号〉〈---接続 不能〉
〈---エ ラー〉〈--- エ ー〉〈--- ラー〉
『ゴエディア』は不可解な物質で構築されている。実験の末で分析されたのは、現状の技術では破壊不可能なほど強固ということだ。
その上で武力を得意とするアストリネによって身体を限界まで鍛えられた、それだけの膂力が乗る。
当然、量産される金属で構築された機械程度が耐えうるはずがない威力が与えられるのだ。
故に、吏史が殴りつけるたびに金属板が拳の形に凹み、八角形状の動力部は…いや、最早八角状とは言い難いほど歪んでいる。
機械音が悲鳴のように何度も上がるが、破壊される音にかき消されていく。その信号は、誰にも届かない。
次第に電子音は途絶え始めていた。
〈---エ ー〉〈--- ー〉〈--- ー 〉
視覚システムをも潰されたトロールには何に、誰に破壊されたのかは知り得ない。
緊急信号を発動できないまま、『ゴエディア』の拳が剥き出しにされた蓄電池を、穿つ。
〈・ー ・ー・ーー ー・・・ ー・ ・・ ー・・・ー ーーーー ーーーー ー・ー・ ・ー ・ー・ーー ー・・ーー ー・ーーー ー・ーー・ 〉
その機体全体に白い電流を放電させたのを最期の動作として、トロールは完全機能停止した。
「……」
しかし、それは見た感じこそはの話である。吏史は、安心という慢心をしない。
もう何度か、黙ったまま追撃を真顔で下す。
トロールの穴空いた蓄電池を目標に、強靭な蹴りを与えていた。
そのように衝撃を与え続けてしまえば、壊れた蓄電池は固定されたネジが緩み外れる。
接続されていた幾つものケーブルは音を立てて引き千切れてしまい、遂にはトロールの機体を離れて地面に転がって行った。
その中身は硫酸…だろうか。経年劣化したのか深緑色に変色した液が、地面に流れ行く。
その汚染された川めいた光景を視認できてことで――ようやく、吏史は安堵を覚えたのだろう。
「…フーーーッ…」
深く、重い、息を吐く。
ゆっくりと肩の力を抜き、黒骨の装甲たる『ゴエディア』をしまい込んでは己の両腕を空気に晒した。
そうすれば戦慄くようにも僅かに震えていた手が顕になる。高揚と衝動に塗れて、未だ動かし足りないと訴えるような、手を。抑えるように。吏史は真っ白になる程強く握り締めて拳を作る。
「吏史くん、終わりましたか?」
その背中を、数十メートル先にある木の裏で隠れ見守っていたカミュールが大人しく座り込んでいた白雪と共にひょっこりと顔を覗かせた。
声をかけられたことに吏史の両肩が揺れたが気にすることない。カミュールはそのまま吏史に近づく。
「終わったけど…っ、」
対アストリネ用の兵器が組み込まれた手を、遠慮なく掴む。
「あ。ぃ、や、ちょっと待、ごめん…っ」
「何ですか。さっきはちゃんと握っていたというのに今更此処で照れるのですか?」
「今はそういう問題じゃなくて……っ」
『ゴエディア』を用いた感覚はまだ残ってる。戦った後の動機が落ち着いてない。それだから下手に傷つけてしまうかもしれないし、悍ましいものだと怖がらせたかもしれない、と慌てて丁重に謝りながら振り払おうとする。
「頑張ってくれたのに気持ち悪いって罵ると思いですか?いうわけないでしょう、そんなこと。僕が何か言うとしたら『お疲れ様』、ですよ」
その思考そのものを払うように、嫌悪感も恐怖の感情も持たぬまま無表情で労った上で、カミュールは先を促した。
「さて。お疲れ様でした。吏史君。そろそろ、再出発と行きましょうか」
少しだけ。すぐにするべき返事《対応》が、詰まる。
口を開けてしまい、それがなかなか閉じれなかったものだから無理やりに下唇を強く、噛む。
そうして覚えた葛藤の末、触れてきた彼女の気持ちに応えるようにも微かな力で吏史はカミュールの手を握り返した。
「…うん。………うん。そうだな、行こう」
奥底から湧く何かを噛み締めるよう、何度も小さく頷いた吏史に、カミュールは手を引きながら身を翻す。
長らく監視していた檻の役目を担っていたであろうトロールの残骸に対しては、一暼もくれなかった。
……………………………トロール
・とあるアストリネを監視するために設置された自立型機械。トロールはカミュールが名付けたあだ名であり、本来は『Q-BE式防衛機』と呼称登録がある。
本来は守護する役目を担うように設計されていたが製作者のヴァイスハイトが完成間際で放棄したことにより四代目郷が引き継いだ。
目が浮かぶような独特のデザインは四代目郷が行ったものである。




