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アストリネの一族  作者: 廻羽真架
第一章. 白雷は轟き誕辰を示す【暁煌】
19/38

『平定の狩者』の仮結成、三光の晩餐会

黒腕時計型のHMTは時を示す。

残り時間は七分三十八秒。試練は終わり間際を示していた。


「くっ…私が、進む時だけ…風が弱くなればいいのに…っ!」

時間切れが迫る中、朝海は足掻く。陽が暮れてるのかそうでないのかはわからない。元より第一区は頂天の最上階以外は遮断されているし、今は塔の周囲に立つ風力発電機の糧ともなる険しい風に立ち向かうのに必死で気にしてもいられない。

「ってか、風…強すぎでしょ…なんで、こんな…っの!」

それよりも登る度に強まる風が重い障害がすぎると、朝海は吐き捨てた。

かなり身勝手な文句ではある、そう吐くことしかできない。だけどそう悪態を吐く体力が残っていて、諦めていない自分を自覚できて言霊が敵わず勢いは変わらない暴風の中を進めていける。

また一つ先の足場に向けて、手を伸ばす。

その手は赤い。掌の皮膚の表面は金属面で擦れ、爪は割れて血を滴らせていた。

「も、すこし…」

呼吸も荒い。最早、虫の息にも近く、息絶え絶えだ。脈動は激しく今にも爆発しそうである。それだけ身を削った、疲弊した乱れた象牙色の髪を正せない肌に張り付いたものを放置していた。汗腺は出し切ったのだろうか、汗すら流れていない。感覚が遠い、視界の端に暗雲が過ぎっているように見える。

だけど朝海は止まらなかった。『登る』その行為だけに意識を傾けて進む。


その脳裏に過るのはイプシロンの陽が差し込む翡翠瞳と―――あの夏空。太陽が浮かぶ青と黄色の双眸。白混じりの黒髪から覗く瞳に滲む色。

『自分なら当たり前にできる』と訴えるような、あの淡く滲んだ傲慢。

それが、朝海にはどうしても許せない。自分だけが特別と信じ切っているような出鼻を挫いてしまいたい。


「……私、でもっ…登れる…んだから…!」

落ちなければいい話だ、落ちなければ試練は続けられる。

時間だって終わりを迎えていない、ましてや誰にも止められてはいない。だから、今の朝海には絶対に登り切る気概に溢れていた。

その心の躍起が限界を迎えた身体の行動を促し、血を流しながらもただひたすらに彼女を動かし続け―――やがて。


朝海が次の足場の端を掴んだ、瞬間。

【ルド】第一区『イーグル』全体に重い汽笛めいた音が響き渡る。

それは試練終了の合図であり、兵士候補者たちへの告知だ。一斉にモニター画面の電源も落ち、天を象徴する存在たちの姿も暗闇に消えていく。


「―――ぁ…」

意味をなさない母音、言の葉にもなりきれない声が朝海から零れた。

その鼓膜を揺るがす音が限界到達点であると、強制的に理解させられたからだろう。

これからは順次登りきれなかった者は待機していた兵士に回収されていくだけだ。

与えた時間内に試練を踏破できなかったのなら兵士になるには不十分。その者は守られるべき保護対象《【ルド】の民》として見做される。


「待って!もう少し!後一時間なら…!」

「お願いします、十分だけでもいいんです!まだできます、登らさせてください!」

下の方から悲鳴じみた悲痛な声が上がるのが茫然とした朝海にも聞こえて、今度は緊張と恐怖で強く心臓が鼓動を刻むも、同時に理解できた。


「(私だって、まだできるのに…)」

全身の震えが止まらない。ドクンドクン、と脈動する度に乱れた息が口から漏れて梅色の目端からは溢れた透明な涙が零れ落ちていく。


だけど胸中では、ここまで頑張った努力が報われないのかという悲しみよりも、遠い夜空が視界に映ることも相まって、初めから動き出せば良かったという悔みが優っていた。


『もったいない』

吏史の言う通りだ。頑張ればいい話だった。諦めずに進んで、天に向けて迷わず向かえば、もう少しで届きそうだった夢を、果たせたかもしれないというのに。


「(――私…)」

全力で望んだ。散々身も削ったけれど、朝海の話はここで終幕が降りるのだろう―――。


「間に合わ、なかったんだ。……もう少し、だったかもしれないのに…」

少女の血濡れた手が掴んでいた端を手放していく。心が折れて、諦観に満ちた故にその力が抜けた。


「……っひ、わぅ…!?」

それを振り払うよう塔に渦巻く風とはまた別。一陣の猛烈な突風が頭上から突き抜けて、朝海を薙ぐ。

思わず目を瞑って間抜けた声を上げてしまったが、不思議なことは続くらしい。


誰かが、朝海の話しかけた手を掴んでいた。血に濡れた手を力強く覆うように。


「試練突破おめでとう。間に合っていたよ」

手の主は力が抜けかけていた少女の体を支える強靭な力を込めて、上に引く。

それは次なる足場に連れて行かれるのかと思ったが――どうやら目的地に到着したし、夜も迎えていたらしい。

膝をついて蹲ってしまうが穏やかな風に促されて、ロマネスク建築で広がる街の中央区の下、広がる満天の星空を見上げて実感した。

「………わたし、……わたし、着い、たの?」

「そうだよ。試練を超えて頂天に着いたんだ」

久しく感じる空を呆然と見てる中で呟けば、降り掛かるのは聞き覚えのある声。

それが誰であるかは予想はできるのに、そうであるのが信じられない中で朝海が声の方に向く。


其処には、纏う白の外套や黒髪を風に靡かせて、蒼穹の双眸を笑んで細める三十代目ネルカルの姿があった。


「…ぇ、あ…」

遠い、世界を管理し保護する役目を担う高位種族を、直接出会い認知されることはないと思っていた遠い場所に居る筈の一族を、己が目の当たりにしている。

その上【ルド】の象徴と言える存在に見詰められてる事実に、ひどく動揺して。とても情けない自分を綺麗に映すネルカルの碧眼に息を呑んだ。

「ぁ……わ、…」

心身ともに疲弊してることもありまともな発言ができないで慌てふためく朝海は、ネルカルに告げられる。


「試練を超えて、アストリネと共に並ぶ権利を得られた。今の気分はどうだい、爽快だろう?」

不敵に笑う彼女の深い黒髪が背後に広がる夜空に溶け込んでいるよう―――だったからか。

空は彼女の翼でしかないという荘厳さを感じて仕方ない。

そんな光景を目にした朝海は、質問されたことも、呼吸をも忘れ、息を詰まらせるように喉を鳴らした。


「あの、わたし、」

何か言わなければ、何かを伝えなければと口を辿々しく動かすが――それ以上は紡げない。

「ぁの、……ぁ、わ、…」

ぐらりと大きく視界が揺れて、ネルカルを含めた世界が横転する。

急に飛ばれたのかと朝海のどこかで冷静な思考が思うも、実際は朝海が倒れ込もうとしてるだけだ。


「れ、ぁ」

舌ったらずな間抜けた声と碧眼を大きく瞠目させるネルカルの驚愕した表情を最後に、朝海の意識は暗転した。



【ルド】第一区、専用医療室。


吏史が予想していた通り、朝海が一万メートル開始の試練を超えた。


しかし、彼女の状態としては健常とは言い難いひどい状態だ。

『一番乗り』と興じてネルカルが飛んで真っ先に迎えて朝海を回収したものの、その掌は皮膚だけでなく骨まで見えるほど肉が擦り切れていた。

その上、無事達成した緊張感からの解放を覚えた後、とうに限界を迎えていた彼女は貧血による昏倒まで起こしてしまったのである。


――故に、現在の朝海は最新医療ポット『エンブリオ』を利用していた。

三代目ヴァイスハイトが開発した医療器具の最高峰、人類が元来備える自己修復機能を高めて不治の病すら癒す代物だ。

青を基調とした楕円状の台に対象者が横になることで蓋が閉じ、特殊な溶液で満ちていく。

また医療対象者が酸欠にならないよう酸素の膜で顔を覆うことで窒息を防ぐ――などの特殊技術が起こるらしい。

(原理を詳しく知るのは製作者である三代目ヴァイスハイトのみだ)


使用時間は怪我や病気の種類によっては変動するが、今回の朝海の場合は疲労と怪我である。そのため、治療時間は三十分程度で済んでいた。


「すいませんでした」


朝海は目を覚ました早々、前触れもなく謝罪から入り床に頭をつけた土下座を披露する。

そんな彼女を運んだ上に、濡れた髪や体を乾かす風を当てるなどの世話を焼いたネルカルは突然の謝罪に口を開けて目を丸くした。

「……吏史ー。この子さぁ、ちょっと大丈夫?」

「あーーー、オレの時もなんかされた…」

「土下座癖ついてんのかな?」

傍らで見守っていた吏史も驚きはしたが、自身の試練開始前でも同様のことをやられている。

つまりこれは朝海の癖だろうと判断し、苦笑が自然と浮かんだ。


「取り敢えず、顔あげな?ナイスガッツだよ?むしろ死なれたほうが不味いんだからさ。君が無事でよかったよ」

とりあえずと土下座から起こしては気にしなくていいと労うネルカルの後に、ひとまずは顔を上げるがその表情は深刻そうに強張っている。

「でもこの『エンブリオ』って…高…凄く高いって…お父さんから聞いて…」

「ま、そうだね。めっちゃ高いよ。まあ…【ルド】を安定させるティア一年分かな」

何気ない質問返しで、ただでさえ貧血に陥っていた朝海の表情が蒼白を超えて白くなっていた。別の意味で卒倒しかねない。

そう判断した吏史は慌てて話題を変える。

「一先ずおめでとう。なんであれよかったじゃないか、な?」

「は?」

煽りか何かに捉えてしまった朝海の表情が抜け落ちた。褒め方を間違えたかな、と思う横でネルカルは懸念を呟く。

「吏史くんさぁ。お前が推した子。お前に当たり強そうだけど本当にいいの?大抵の人類は転職理由を『人間関係』を真っ先に挙げるんだけど」

それでも構わないと示すよう拳を握り、吏史は笑顔で応じた。

「うん!いいんだ、折角だからオルドの…『隼派』を成立させるチームにしたい!」

「あーーーー…なるほどね!よしじゃあそれで進めよう!」

絶対に聞けば止めるであろう目的だが、ネルカルはにこやかにHMTを開いて申請を素早く進めていく。悪ノリ大好きな彼女を止める補佐役《当事者》は他の用件で同行しておらずこの場には居なかった。

そのため後で彼は吏史の監視録音で聴き、一員決定理由に頭を抱えるだろうが……この場にいる全員が知る由もない。


タン、とほぼ躊躇せずに申請送信ボタンが押された。

「じゃあ、朝海。君が負い目を感じるのなら今日から『平定の狩人』の一員として励んでくれ」

「……それ、それって確か…昔結成された『古烬』の殲滅隊…!?私がですか!?」

「お。話早そう。いいね、結構マイナーな呼称なんだけど自分で調べたってことかぁ」

より興味を持つよう口元を緩めて頷くネルカルに反し、朝海の顔色は悪く震えが止まらない。否定的に首を横に振り、眉尻を落としている。

「いやいや畏れ多いですそんな私が、」

「だけど君は一万メートルの試練を突破した。すごい子だ」

自己否定して身を引こうとした朝海に対し、ネルカルが身を屈んだ後、顔を近づけ覗き込む。

「君以外適任はいないと思う。それだけの偉業を成し遂げたんだよ」

整った風貌が近づかれただけでなく、澄み渡る蒼穹の瞳に見つめられて人差し指まで突きつけられてしまった朝海は、身を竦めて硬直しつつもネルカルに褒められたことに照れを覚えて口元を緩ませた。


「えっ、ええ、そ、そうですかぁ…?」

「そうそう。あたくしが適性ありと決めて承認した。期待に応えてくれるよね」

「私は…」

「因みに『三光鳥』全員は『平定の狩人』に参加するから。正式に行うのは後日だけどね。まあ何が言いたいかというとつまりイプシロンもついてくるよ」


「わかりました。やります。やらせてください」


「……いいね、面白いじゃん、この子。お前の言う通りわざわざ見に行った甲斐あるよこれ」

途端に真顔になって迷い捨てて即断したその素直さを讃えるよう、一旦覗き込むのをやめて距離を置いた後にネルカルは手を叩く。


「なんか朝海からはそういう感じしたんだよな。ちょっと普通の人とどっか違う感じ」

「へぇ。普通にアストリネと人で感知できてるみたいだし、そういう六感が鋭敏になってるのかもね」

自分にも先見の目があったとどこか満足そうに顎を撫でて自らを褒める吏史と、それを評価するネルカルの横で、朝海は頭を抱えて床にのたうち回る様、悶えていた。

「ああああ…ちが、違うんです、私が頑張ったのはイプシロン様には会いたかっただけですけど別に交流できるとか同チームで嬉しいとか、そういう意味でお近づきになれて嬉しいみたいなそんな潜在的ストーカーみたいな低俗かつ汚れた理由とかじゃ…!」

「その真偽はともかくさ。それで一万メートル開始試練を乗り越えたのは間違いなく君の才覚だから」

事実はそこにある。

吏史と朝海は一万メートル開始した、前代未聞の記録を出して【ルド】に知らしめた。力がある証明を果たした者は評価されるべきだろう。

此処は【ルド】、実力主義の国。『力』の大切さと誇りを知る民で構成されている。


「今は、それを達成した自分を誇りなさい。私も君という子が我が国の民で誇らしいよ」

故にネルカルは労うよう朝海の頭に手を置いて、撫で回して褒めていた。



「……」

これまでの頑張りと痛みが報われた、気がして。

じんわりと梅色の目元に涙を浮かべた朝海が泣き出しそうになる中で、ネルカルは開いた手で人差し指を立てては告げる。

「あ。そうだ。これからの激励を兼ねてさ。この子の家に挨拶に行こうか」

「……え?」

これからの朝海を慮るつもりでの申し出ではあるが、その提案に浮かんだ涙が引っ込んでしまい、その後で首を傾げた吏史は疑問符を浮かべて呟く。

「あれ。でも、確か第四区じゃなかった?」

「そだね〜兵士になるとはいえ、暫く大事な娘さんお身柄をお借りするからさ。『門』を使ってでもいかないと。夜の二時間くらいなら私が不在でも『塔』の電力は予備で賄えるし……よし、イプシロンとディーケを呼ぼう」

「ええ!?」

「え。」

朝海は憧れ相手が実家に尋ねるというシュチュエーションの発生に紅潮して歓声をあげてしまう反面、吏史の表情は苦い。

「いや、こういうの相手方に断れない負荷かけるし、圧をかけるのも当然じゃ…」

そんな吏史の真っ当な懸念点をスルーして面白さを優先したネルカルは、口元を笑みに浮かべながら片手でHMTを起動して電子メッセージを送っていく。


なお、高速で入力された本文は以下の通りだ。

『新兵の朝海ちゃんを『平定の狩人』に迎え入れるため、彼女の両親に軽く事情を直接話しておきたい。これから先、過酷なのはお前も予測できるだろ?自国の民に少しの不安を与えないためにも、誠実な対応に付き合ってよ。▶︎向かう先の地図ココね!』


それを別々に送信することで完了する。恐らくそれは各個人的な用件と判断されて、同じ場所に赴くことになるのだろう。

「んふっ、ふ、ふふふ……。これでよし」

「お前………」

ネルカルの目論見を目視した、してしまった吏史は青い顔で小さく呟いた。


「……絶対、後でオルドに怒られるぞ…」

「たまには顔合わせて置かないと寂しいかなって。あ、ディーケがね」

「………そっか…」

むしろ、此処までイプシロンに露骨に嫌われてもなお嫌悪で返してないらしいディーケにも謎が深まるものだが、吏史は彼とそこまで交流はしていない。イプシロンからも詳細を語られないのだから知りようもない。

語りたくないものを無理に聞くのも気が憚れるから一生知らないままだろうと縦に何度か頷いて、嫌な事故を見たとそれで片そうとした。


「後、当然だけどお前も連れていくから。緩和材で」

「緩和材で!?」

しかしどうやら終わりではなく、吏史も連れて行かれてしまうらしい。

「いや流石に行きたくな……グェ!?」

「こらこらリーダーポジションが何言ってんのさ!」

『事故現場に友達を連れて行って巻き込むのはどうなんだ』と反論する前に、ネルカルに首根っこを掴まれてしまい、アストリネである彼女の剛腕を兵器の力なしに解けるわけもなく。


「ま、…ほんと待てって!せめてちょっと…時間帯ずらせよ!ふたりが会わない様にしてくれよぉ!?」

訴えも無視されて引きずられながら強引に連れて行かれてしまった。



第四区『ピジョン』のとある飲食店。――『スィートグリラ』

朝海の実家にあたる場所にて、【ルド】が誇る『三光鳥』は集結していた。


「あ。これ結構美味しいな」

「それはお通しです。塩茹でした枝豆を香り漬けにニンニクと鷹の爪で油炒めしたものなんですよ〜」

「へぇ〜〜いいじゃん。美味しい美味しい。いくらでもいける味〜」

カウンター席には朝海とネルカルが座り、振る舞われる料理を堪能している様子だ。


女性陣は会話に花を咲かせて楽しげではあるが……――――一方。


残りの男性陣。

案の定、吏史の予想通り。地獄の空気になった。


長方形の机に向かい合うよう相対するのは金髪翡翠瞳の青年に、青髪赤珊瑚瞳の青年。アストリネの一族であるイプシロンとディーケが同席している。

ネルカルと同様のお通しとして振舞われた料理が入っている小皿が人数分置かれているというのに、誰も手をつけていない。


「…………………………」

「…………………………」


その沈黙は重く、お互い癒着したかのように唇を一の字に閉ざしたまま開かなかった。それぞれの目も据えており、揃って冷淡の色を宿している。

まるで親の仇に遭遇しあったような、そんな剣呑さをも感じさせる雰囲気を携えて、姿勢だけはやたら正しく座り込んでいた。


「(く、苦しい…苦しい!十年間の鍛錬以上に、いや、服毒ありきのヴァイオラのマナー講座よりも……ずっと……すごく重苦しい…!)」

その間の通路側の席に座る吏史は、白目を剥いて天を仰ぎたい心地だ。

この場にいないが聞いてくれるであろうジルやヴァイオラに、今すぐ来てほしいと救難信号を送るべきか悩ましいレベルである。他国にいるからすぐに駆けつけるのは難しいだろうが、来れるのならば来てほしい心境だった。


「(何だろう。息をするだけでも肺に鉄砂が溜まるような錯覚がある。何も詰まってもないのにひどく咳き込みそうだ。……なんでこんなに……険悪なんだ……!)」


そんな強く目を瞑って吏史の胸中の救済を求める声と苦しみを感じれない、和やかな空気で形成されてるが故に断絶された境界ができたカウンター席の会話が起こる。


「はいはいお待たせ〜」

ふくよかな中年女性が調理場から現れた。

飴色の髪をお団子にまとめて白頭巾で髪の乱れを抑えながら、服装も長袖で覆うなどの清潔感あふれる服装という見るからに飲食業を営む者である印象を持たせる格好となる。

「此方ね、ご注文いただきましたミルクですからね。どうぞどうぞ〜!」

彼女は頬に皺とえくぼを作り、老いを感じさせない快活な笑顔を浮かべながら、真っ白な液体…牛乳で満たされた大型のコップをネルカルの前に置いた。

「お。やった〜ありがとう!」

喜んで両手でそのコップを受け取るネルカルに対し、女性…朝海の母である美沙は笑顔を向ける。

「いえいえ、こうしてうちの娘が無事に試練を突破して兵士になれただけでなく、直ぐに名誉ある任まで与えてくださったので……少しでもアストリネ様たちのお礼になれば良いんですがね」

「むしろ過酷な現場に連れてく気なのに此処まで歓迎してもらえて吃驚してるかなぁ。…なんなら【暁煌】と違って【ルド】では飲食店自体が貴重だからね。店があるって知れてよかった。美味しかったら今後贔屓させてもらうよ」

「あらぁ!だったら、それをうちの旦那にもお伝えしておきます!三光鳥の方々が来店いただいただけでなく、味も評価されていきつけに成られる運命の時が来たのかもって!」

「あは、ははは……もー、お母さんったらぁ…」

口元を手で覆いつつも嬉しそうに笑う母親の姿に、朝海は笑みが引き攣ってしょうがない。

確かに大宣伝のチャンス到来でテンションが高ぶって嬉しい気持ちもわかる。

露骨にされすぎるとネルカルの反感を買わないかが不安なだけだ。


――それに、一番の関心は別にある。梅色の瞳は横に流れて男性陣の方に向く。


見えたイプシロンの横顔は無に等しい。とはいえ、憧れの相手が実家にいるのは確かなこと。

「……んふふ……」

その事実だけで心が満たされ、浮つく。今日までの努力全てが報われた心地に至り自然と頬が赤らんで口元が綻む。

が、すぐに着付けるように首を横に振って息を吸って吐く。

尚更だ。そう感じた。イプシロン相手だと親のやる気ある姿を見られるのはとても恥ずかしい。だから、親には表に出さずに控えて欲しくもあった。


「…ちょっとした質問なんですが、良いですかね?」

「うん?」

しかし親心子知らずと言われるように、子心を親は知らない。

そんな娘の顔を見た美沙はミルクを片手に枝豆を摘むネルカルに対し、胸を躍らせるような顔でこっそりと耳打ちをした。


「…そのぉ…イプシロン様って、ご結婚とかされてます?あるいは恋仲の方とか…居ないのでしたら、うちの娘とかどうかしら?昔からイプシロン様のことが憧れで大好きなんだけどもワンチャン無い?」

「お゛母゛さん゛゛!!!!!」

頸まで真っ赤にして火を吹く勢いで吠える朝海に、若干ミルクを噴き出しかけたネルカルが口元を手で覆う。

口の汚れがないことを確認してから良いと評価する手のジェスチャーを送りながら満面の笑みを浮かべた。

「いいよ、朝海のお母様すごく面白いじゃん。私こういう恋バナ大好物、大好き」

「そうなんですか…じゃなくて!直ぐそばにその方がいるんです!相手がいるんですよ!!せめていない場所で……!ほら!!なんか、もう向こう、より距離感が空いたっていうか……完全に気まずい空気になっちゃったじゃないですか!!」


しかしその大きな恥から生まれた空気は、吏史としては正直助かる変化ではあることを、女性陣は知らない。


「…っはぁーー……」

漸く呼吸ができた、と。詰まった息を深く吐いた吏史は、一先ず机の上に並べられていたお通し……油で炒められた枝豆がなみなみと入った小皿の上にそれぞれ箸を置いた。

「あ、あのさ。出されたもんは食べないと失礼だってヴァイオラも言ってたからさ。お通しだけでも食べないか?」

「…………………そうだな。己のくだらん意気地で提供された貴重な食料を放棄するわけにはいかない……」

「お前は物をまともに食べれたんだな」

「……………うん?」

「あー!美味しい!この枝豆、すっごく美味しいぞ、オルド!!…グッ…ゲホゲホッ!」

敢えて勢いよくガツガツ食べてしまったことで器官に枝豆を詰まらせかけて咳き込んだ。一瞬眉間に深い皺を寄せていたイプシロンだが、咽せ込んだ吏史を優先し、そっと水の入ったコップを手渡す。

「何してるんだか…」

「ご、ごめ…ゲホッ」

「いい。水くらいゆっくり飲め」

そうして世話を焼く図となり落ち着いたのを皮切りに、ネルカルは片手を上げて横に振りながらも先の美沙に投げられた質問を答えていく。


「とりま彼奴には恋仲も妻もいないよ」

「あらあら〜〜〜へぇ〜〜〜そうなのねぇ!」

「けど、元よりアストリネと人類の恋愛はハードルが高いかな。あいつの場合はもっと難しいかも、そういう相手が簡単にはできないタイプだから」

「っ、」

そしてコップを置いて立ち上がり、瞬時に移動してイプシロンの背後に立ったと思えば、ネルカルは彼の顎を取って美沙や朝海に対して向ける。

「うっ!!眩し…!」

「あら?どうかされたのですか?」

尊顔を真正面から見れたと歓喜の声を上げつつ目元を手で隠す娘のオーバーリアクションを横目に、美沙は首を傾げた。

「……おい。なんだ君、さっきからあまりにも勝手が過ぎ…」

「ほら、見えるかな?よーく凝らしてみて。こいつの目……虹彩、瞳孔なんだけど」

「聞けよ…」

相手を気遣ってか、抵抗自体は薄いイプシロンの目の方に視線を誘導するよう、ネルカルは空いた右手の人差し指で指し示す。

促されて美沙を始めに朝海や吏史、……ディーケ以外の者は皆総じてイプシロンの瞳を見遣る。

「………」

翡翠の双眸には黄金の煌めきが宿っていた。

「(不思議な色をしているよな)」

吏史が水を片手に思う横で、恐る恐ると薄目を開き見た朝海は食い気味に答える。

「はい!見えます!実際の翡翠に劣らぬほど綺麗な翠瞳ですね!」

「なんか素直な感想来たわ。いや、それは違くって。此奴の目さ。こっち。瞳孔。…お星様みたいにキラキラな黄金だけじゃないんだよね…まあいいか。吏史ーお前は目がいいからよく見て」

「…ん?」

ネルカルに促されるまま、薄目で見つめる。

こうして改めて目を見たのは初めてかもしれない。五年前の適性検査以来だろうか、イプシロンの瞳孔は金色に染まってる。

確かに、変わってはいた。色だけではあるが。

しかしネルカルの物言い的に、それ以外に何かおかしな点はあるのだろう。そう不思議に思いながらじっくりと凝らし見つめていた。

「――――――」

ゆらり、とゆらめくの炎か。或いは鳥の翼の羽ばたきか。似たようなものが、揺れた、気がする。

それからは思考を回す事も許されず、視覚に急速な変化が訪れた。

「!!」

瞳孔の金色が渦潮のように広がって、世界を飲む。金から虹、そして混沌の涅色。何もなく何も生まれないその虚無を前にすることになり、身動ぐ抵抗すら許されず、体が呑まれ、宙に放られるような錯覚を覚える。

最早、それは無重力というよりも、大量の影に体の身動きを取られたも同然のような感覚だ。

「(な、に。これは、――ぁ、)」

やがて、錯覚ではないと示すように虚無が伸びる。無数の手を象り、此方の髪一本まで逃さない意思を孕んで、その空間に囚われようと閉じ込めんと。

強制的に、抗えず。虚に、無に、個が。透羽吏史という存在が飲み込れ――


「ッ、ぅわぁ!!?」


ガタン!と椅子から転げ落ちる音と、朝海の驚いた悲鳴がホールに響く。

「え。ちょっと、大丈夫…?」

椅子ごと派手に転倒した吏史に対し、オドオドしつつも朝海が声を掛け、美沙は何度も瞬きしながら心配そうな目線を送っていた。

だが、吏史は気にかけられない。返事もできなかった。今にも破裂しそうなほど高まった鼓動を感じつつ、冷たい汗を頬に伝わせる。

「…!」

弾かれるようにイプシロンの顎を掴んだままのネルカルの顔を見れば、彼女はニヤリと意地悪く笑うばかりだ。

「お前、今、何が見えた?」

問われた為、手の甲で汗を拭いながら素直に答える。

「………なんか。炎か、鳥の翼?…それからは、なんか何もないところに飛ばされた?感覚がした」

「へー?…………え?まじ?お前はそんなんなんだ。つまり……共感性が……高いのかな?」

其処は不意を突かれたように首を傾がれ、自己解釈を得たように何度か頷かれる。

「じゃあ危険だね。今後は今のようにあまり見続けない方がいいかも」

「………なぁ、なんだったんだよ」

それで終わりは納得しない。

明らかに、異常だろうと。吏史は立ち上がって倒れた椅子ごと直しながら、苦言するよう説明を求めれば、ネルカルは答えを紡いでいた。

「イプシロンのこれはね、鏤脳の麗」

「ろーのーのれい?」

「なんだそれ?」

聞き慣れない単語に揃って疑問符を頭上に浮かべて目を丸くする朝海と吏史に対し、ネルカルが笑みを深めては説明を続ける。

「ま、二十五代目エファムによる精神加護フィルターってところ。その効果は真に愛する者じゃなければ正しく見えない視覚変化作用だね」

「………視覚変化かぁ…苺がクランベリージャムに見えて、ピーナッツが蜂に見えるってことか?」

「その例え方はどうなの?…まあ、ある意味間違えてないけどさ」

肯定はされた、一部の効果として納得できた。

だが、先の異常はまだ解明されていない。吏史は抜けてない違和感を拭うよう、質問をする。


「いや、おかしくないか?俺がさっき見たやつは、なんか違うだろ。オルド側がそう見えるってだけで、オレの今見えたやつは、そういう類じゃないような…」


それだけでは到底納得がいかないとばかりに、怪訝そうな表情を浮かべつつ椅子に座りながら、早く離して欲しそうな様子のイプシロンごとネルカルを見据えた。


「あー。さっき共感性って言ったでしょ?たまに、六感鋭い奴が見ると…たまーにあるみたいなんだよね。お前が見たのは――二十五代目エファムとの共鳴。何処かに居られる…始祖の一族の深層心理なのかも」

「二十五代目エファム………始祖の、深層心理」

「うん。そう。だからこそ、この鏤脳の麗があるってことはかの方が存命している証拠でもあるってわけ。そもそも前提として……かの者の異能で発揮されてる精神加護らしいからさ」

「…………」

未だ、多くの謎に満ちている失踪者の名を聞いて、吏史は押し黙る。

先の摩訶不思議現象への疑問が残るものの、言語化できるほどの語彙はないこともあるが、何よりの理由は――先の、自我崩壊を招くような光景。

アレをありのまま、話してもいいのだろうかという迷いが生じて、口を重く閉ざしてしまった。

そんな雰囲気が重い吏史に反し、朝海は呑気に首を傾げる。

「はぇー。二十五代目エファム…様?ですか。それってどなた様ですか?多分アストリネ様なんですよね?って、痛っ!」

「この馬鹿!」

娘の失言を叱責するよう、顔面蒼白になりながらも美沙は鋭く頭を手で叩いた。

「エファム様はトップ中のトップ、アストリネ様を産んだ始祖の系譜の方だよ!……ハァッ!!??」

三光鳥。――基、アストリネたちの視線を感じ取ったことから息を呑み、ぎこちなく微笑み口元で手を覆う。

「…オ、オホホホ…すいません。御三方……うちの娘が勉強不足で…お恥ずかしい限りです……」

そう笑って誤魔化そうとする美沙に対し、一つ一つ枝豆を箸で摘んで食したディーケが手を止めて告げた。


「いや、かの方は人類の前に姿を見せなくなってしまってる。知らないのも、無理はない」

「んだね。まあ仕方ないよ。私たちの中でも二十五代目エファムの顔知らないアストリネはそこそこ多いからね〜」

「……か、寛大な御心に感謝致しますわぁ…オホホホ……」


「――で。そんな話は置いといて、今の本題に戻すんだけどさ」

それよりも、とネルカルは顎を掴んだまま空いてる手の指先で頬をつっつく。

「その鏤脳の麗フィルター掛かってるイプシロンには朝海は丸っこい羊ちゃんに見えてるんじゃない?って話なわけよ。そこはどうなのさ。正直にどうぞ」

「………………コメントを控えさせてもらう」

向けられる好意が分からぬほどイプシロンは鈍くないため、目を逸らす。

それは年頃の女子が傷つかぬように考慮した対応でもある。

だけど、その意味が伝わらぬほど朝海も鈍くはなかったためにショックを受けた。

自分はイプシロンの関心対象としての土俵にすら立てないのかと。

赤くなった顔から血の気が引き、目端には涙が浮かび始めて震える中、ネルカルはイプシロンから手を離しては強力な爆弾を落とす。


「やっぱ、イプシロンには吏史しかまともに見えてないのかぁ」


「ぅわぁああああぁああああああ!!!」

「ぅ゛わぁあぁあぁああぁあああ!??」


一拍してから男女の悲鳴が店内ホールに響き渡る。

床を踏み抜かんばかりの力が籠った猛ダッシュで両腕を交差して前に突き出した朝海が吏史に突撃した音も同時に鳴った。

「朝海!?あんた何してるの!」

「びっっ……くりしたぁ!?なんだぁ!?」

「何、なんなのよ!試練からずっーとそう!貴方が全部持ってるの、ほんと何!?無自覚自慢か!自慢すな!新手の犯罪なんだけど!」

「そんな犯罪聞いた事ないわよ!」

「私が法なら極刑級の超弩級犯罪だもん!」

母の注意も跳ね除けた。吏史の困惑も気にしてられない。それだけ朝海の頭には血が昇っていたと言える。

「しかも、…全力で突撃したのに全然耐えてるし…腹固くて私の頭の方が痛いし…っ」

吏史が鍛え上げた体幹で全身全霊の不意打ちを耐え抜き椅子からの転倒は避けてる上に朝海を受け止めているのも尚、より無性に、己の無力を感じさせてくるものだから苛立ってばかりだ。


「…ねえねえ」

そこで、そっとあえて。わざとらしく聞こえる声量で、ネルカルは吏史に耳打ちする。

「お前さ、可愛い女の子に抱きつかれて嬉しいとかないの?」

「え?何が?確かに今は近いな。普通に早く離れてほしくはあるけど…大丈夫か、朝海。体は折れてないよな?」

凄くあっさりとした淡白な反応だ。異性としては魅力がないと言わんばかりのあんまりな態度でもある。それで屈辱を受けたと朝海は頬に青筋を立てて悔しげに下唇を噛んだ後に、低い声で搾り出す。

「透羽吏史…」

「え?なんだ?なんか【アルケイバ】の砂漠並みに喉が枯れてないかな?……水、飲む?」

何もわかってないで口につける前のコップを差し出す鈍感な少年に、朝海は手袋を叩きつける代わりに人差し指を突き立てる。

「え?」

夏空の瞳が丸くなって何度も瞬く中、悔し涙を浮かべる朝海により宣言が果たされた。


「おまえを………たおす…ッッ!」

「なんでだぁ!?」


突然の打倒宣言を受けて動揺に声を荒げる吏史に、ネルカルが横から鋭く指摘する。

「なんでお前だけイプシロンに特別視されてるんだっていう女心だよ。ちゃんとくみ取りな」

「いや別に手合わせならいつでも……いや、待てよ!オレを倒してもオルドの評価は多分変わんないぞ!?」

「うるさいうるさいうるさーい!!何よ!自分だけが特別だと思って!貴方なんか普通よ普通!普通の人なんだから!むしろ普通だって私が証明してやる!!」

「それは…………」

明らかな敵対心ではあるが、吏史はアストリネ以外の友達などまともにできなかった身の上だ。

それはライバル認定発言だろうかと気が弾む。これから先、お互いに研鑽を重ねていくのが楽しみだとにこやかに微笑んだのは一瞬で、そんな朝海の言動の根本にはイプシロンへの想いがあることに気づいてしまって。

ハッとした気づきを得た表情となる。後にほんの少し気まずそうにも申し出た。

「…一旦まずは五年間、一緒に住んでから…じゃないか?」

「はぁああああ!?特別な名前で呼び合って、愛情?まで持たれてまともに見られてる。その上重ねて同じ屋根の下で過ごす仲だぁ!?」

「イプシロンとは師弟関係だからね。住み込みの」

「なん……な、……っなんでよ!!」

「そこにはね、色んな事情があるの」

ネルカルにより火に油も注がれた朝海の憤慨は止まらない。天に向かう烈火が如く、勢いのまま指先を吏史に突きつけ捲し立てた。

「もう怒った!怒ったから!今に見てなさい!同じチームだからって容赦しないから!絶対……貴方を超えてやるんだから!!」

嫉妬で爆発した朝海の荒れ様に困り果てる吏史のやりとりを、イプシロンは仲を取り持つことをせずに水を飲んで過ごす。

「いいのか?」

「……。彼女は今、冷静ではない。俺が騒ぎを制そうと宥めたところで吏史への擁護としか捉えられかねないだろう」

沈黙は金、と。枝豆を箸で摘むのを再開したディーケの声掛けには冷たく返しつつ、喉に水を流し込んで「ふぅ、」と深く息を吐いた。

ただ何も口出しはしないが手出ししないわけではない。

隣横で男女の揉み合いをニヤニヤとした小憎たらしい笑顔で眺めていたネルカルの頭を、イプシロンは目に見えない速度で叩いた。

「ぇ、は?何?痛いんだけど」

「当然だろう。君は反応がいい相手に対しておちょくる為に過度な悪戯を仕掛けすぎだ」

「これから先、切磋琢磨するであろう男女のキッカケを編み出してたというのに……これだから色恋沙汰に興味ない枯れてるおじさんは……」

「楽しむ以前の問題だな。他人を盤面の駒を転がすように遊ぶな。そもそも君は此処に長居できないだろう。本当の本題にさっさと入れ」

唇を尖らせて文句を溢すが、イプシロンの指摘通りだとわかっている。

第一区の風力電気の関係上、ネルカルは己の時間は長く取れない。

渋い顔をしていたが、一拍で笑顔に変えることで気をも切り替えたネルカルはその碧眼を恒星のように灯らせて、両手を合わせ叩き鳴らす。

空気操作の異能も乗せられたその音は、食堂全体に響く音となった。

「――さてさて!」

驚愕する朝海と吏史の注目を受ける中で、満面の笑顔を浮かべたネルカルは人差し指で上を指し回す。

「なんであれこの場に居るのは新生『平定の狩者』同士だ。種族の違いはあれどよろしくってことで行こう」

「いや複雑にしたのナナじゃ、」

「娘さんは偉業を成し遂げた有能な兵士です。彼女の力をお借りいたします」

吏史の声をスルーしたネルカルは美沙にそう微笑み、応じる様に美沙も笑顔を返す。

「え、ええ。うちの娘を何卒よろしくお願いします」

「…では、今後誤解がないよう直球で申し上げます。彼女は他の兵士より危険な目に遭うと思います。勿論、命に関わることもあるでしょう。それでも、よろしいですね?」

兵士は元より警備等で派遣される。世の平和のために身を懸ける覚悟で挑む者も多い。とはいえ、美沙にも理解できた。その笑みが解けて陰りある表情になる。

ネルカルの発言もそうだが、画面向こうでしか見ない遠い存在である三光鳥が揃ってわざわざ訪ねてきてる以上、朝海は挫折しかねない困難に何度も立ち向かうことになりきっと命を瀕する展開もあるのだろう。

一万メートルの偉業を成し遂げたとはいえ、朝海には酷だ。初め才能がないと判断された以上、戦場に立てばどうなるのか…。想像が容易い。


朝海は何度も傷つく。守る側に立つからこそ、辛く苦しい道を進む。それで何度も泣いてしまうこともあるだろう。


美沙には疑問が浮上する。

――それを容認していいのだろうか?と、


朝海は、我が子は腹を痛めて産んだ大事な子だ。

とてもお転婆で周囲に流されやすく、期待に応える形で試練に望むほど素直に育ち、心では憧れの相手に出会うことを望んだだけの、笑顔が可愛い愛娘に。

――与えていい傷は一つもない。


「あの…ネルカル様…」

せめてこの子を、普通の兵士として過ごせないのか――心配と愛情を込めた問いを紡ごうと口を開けかけたが、制したのは他ならぬ愛娘だ。


「いいの、お母さん。私はこれからすごく頑張るから全然気にしないで!」

「でも……」

「むしろやらせて!?もっと頑張りたいの!………やるって決めたからには折れないし諦めないから!お願いします!」

「………」


言語道断だ。吏史が不動の無意味な体当たりし続けてるという間抜けな姿勢だとはいえ、吠える勢いで決意を熱弁されてしまえば、止めきれないのもまた親心である。


「そう……」

美沙は悩ましげな表情を解き、目を伏せる仕草をほんのり見せてはカウンターからホールへと出た。

そうしてネルカルを始めにしたアストリネ――【ルド】の誇る三光鳥に対し、深々と頭を下げる。


「ご覧の通り、勢いで生きてるようなお転婆な子ですが…自慢の我が子です。どうか宜しくお願いします」

守る立場には立つだろう。だが、朝海の一人の手には余るものからは護ってほしい。

そんな切なる願いを込めた母親のお辞儀だ。


それを前にしたイプシロンもディーケも沈黙し、ネルカルも一瞬、碧眼を大きく瞠目していたが――直ぐにいつも通り余裕の笑みを浮かべては、手を振った。


「大丈夫大丈夫。娘さん超面白いよ。今後もすっごく期待しているし、ちょっと心折れそうだったらイプシロンを餌にしていきますね〜」

「相手に安心できない要素を振り撒く癖を直せ」

「んじゃあ、早速明日から行う君たち…新生『平定の狩者』予定をかるーく、親御さんが安心できるくらいに話そっか」

非難が込められた冷酷な視線を送るイプシロンの翡翠瞳を無視しながら、ネルカルは話を進める。

親の許可をもらった名目はあれど、話せる点まで話そうと決めていたのだろう。

少し不安げな表情を浮かべた美沙に対して明日以降の予定が告げられた。


「先ず確定で決まってるのは、明後日午前五時から君たちは【暁煌】行きです」

「……。え!!??」

吏史の腹部に頭部を押し付けていた朝海がバッと勢いよく顔を上げて、壁に掛かる時計を見る。

現時刻は午後十一時近くだ。明日までは一時間後。

つまり残り三十時間を過ぎることを示す。

「嘘、ですよね?兵士認定式とかすっ飛ばしていきなり任務?早くないですか…?」

「そうだよごめんね早速ブラックかましちゃって。でも仕方ないんだよ。今、【暁煌】が結構混乱してるみたいでさ。早め早めに動きたいの。その代わり、支給対応もさっさとする予定」

タイトスケジュールに驚く朝海に謝罪するネルカルに、熟考するよう己の口元に指を当てながら撫でた吏史が質問した。

「…あれ。でも【暁煌】には表立った噂とか……無かったよな。ジルからも特になかったし。つまり管理側の方…アストリネ達がちょっと大変ってことか?」

「そうなんだよ。でもそれがどうやら内輪…んん。ああ、いや。どうにもちょっと荒れてる臭くてね」

「え?」

「とても大変なんだよ。早急に我が国の介入が必要だろうなって感じでさ」

「うん…?え?え?」

咳き込みを交え濁した物言いだったが、美沙《一般人》を何度か横目に見て送られるジェスチャーから察せれた。

つまり、此処では赤裸々に明かせないという示し。

…態度や言動などもっと隠すべきことはある筈だが、…国の対応ミス、他国といえアストリネの名誉毀損に関わる情報は流石のネルカルといえども伏せるのやもしれない。


「ん…?え、…え?」

しかし、まだ関与し始めたばかりで事情を深くは知らない朝海が察せず疑問符を多く浮かべて戸惑っていたが、ネルカルが濁し言わない事情を理解した吏史が思案する。


――そうして思い出したのは【暁煌】のアストリネにして『管界の六主』の二名。


多くの歴史で代表管理者となっていたローレオン、今代で初めて代表管理者の立場に立つ間陀邏。


数々の記憶の中でも彼等は『古烬』処理について、常々意見が対立してた。

吏史を中心とする三国会議でも、『処刑すべき』『守るべき』と触発しかねない言い争いが絶えなかった印象が残っている。


「(…つまり、問題は『古烬』によるものだけではなく、アストリネ同士の争いまで勃発してるということか?)」

そんな考えを浮かべながらチラリとネルカルを見れば、正解を示すようにニッと白歯を見せられ笑われた。


「ま。今回に関しては【ジャバフォスタ】も全面協力してもらってるからね。安心して向かってほしい」

「あれ。もしかして私たちだけで飛ばされる感じですか?」

「んーーーーー…【暁煌】のアストリネの協力は得られる予定だから」

「なんですごく不安煽るような言い方…い、いやそんなはずじゃ…違いますよね?ね!?」

やや焦りが生まれつつある朝海は、勢いよく吏史から離れてはネルカルに詰め寄る。

意地悪い顔を浮かべたネルカルは長い黒髪を動作で揺らしつつも自らの口元に指先を寄せる仕草を交えて告げた。

「んふふ。ところで余談だけど。イプシロンは自己解決できる子が好きらしいよ?」

「そ、それ…いや、それでは騙されませんよ!?イプシロン様を話題に出せば朝海が何にでも釣られると思わないでください!」

数センチの距離に実物が居るというのに、女子集団は茶化しから始まった会話に花を咲かせ始めている。

ネルカルは楽しそうに猫めいた口で緩みきらせ、朝海は頬を紅潮させて怒っていた。


なお、実物のイプシロンはというと。

翡翠瞳は完全に半月状に据わっており、『付き合いきれない』という心の拒絶が見てとれる。


空気を読んだ吏史は夏空の瞳を逸らして沈黙し、ディーケも無言を貫き己の分である小皿を片そうと箸で枝豆を食べ進めるばかりだ。


「――ま、同行確定の吏史がちゃんと強いから安心して。ビシバシ鍛えられてるし、下手なアストリネより強いと思うよ!」

「そ、ぉ…なんですね…」

朝海の表情が濁る。疑いたくとも、試練のあの動きを見てしまった以上は確かに下手なアストリネよりは強いかもしれない、と。

異能はどうするんだという話にはなるが、朝海はそこまでの懸念が生まれるほどアストリネに深く関わっていないし、認めてしまった自分に対し複雑な感情を抱いて顔を顰めるばかりだ。

その心境を置いて、ネルカルが手を叩く。

「そうそう!それに少人数でもなんとかなるなる!少数精鋭ってよく言うじゃん?そもそも以前の『平定の狩者』は少人数で『古烬』をほぼ壊滅まで向かってるからかなぁ。えーっと、確か人数は…」

その先は二名のアストリネたちの固く閉ざされていた口を開かせた。


「三名だった」

「二名だな」


イプシロンとディーケが答えたのだが、同タイミングで重なりながらモノの見事に解答がズレていたため、互いに視線を向け合ってしまう。

「……」

だが、長らく見つめ合うことはない。早々に顔を苦虫を噛み潰したように歪めたイプシロンが逸らし、身を固めるよう腕を組んだ。


「…いや、そう。ディーケの言う通り。初めはヴァイスハイトとエファム……たった二名だったらしいよ。それで獅子奮迅が如くの成果を挙げてんの。歴史に詳細は載せられてないけど、二名で十八種類あった『古烬』の兵器を製作者含めてほぼ滅してるわけ。まあ、後にアルデ、グラフィスやらも協力してた影響もあるだろうけどさ」

「それは単純にそのお二方が強すぎたって話にもなるんじゃ…」

吏史と朝海でそれを成せるとは思えない。冷静な判断をしながら朝海が青い顔色で訴えれば、ネルカルは不敵に笑んだ。

「かもね。でも、彼等のような働きをしろとは言わないし、君たちの場合は初めから私たちがついてるから大丈夫だよ」

「あ、ありがとうございます。……あの、過去で協力して貰えたアルデ様たちにも事情をお話ししたら協力してもらえるんでは――」

「いやぁ〜彼女たちの『先代』の話だし、どうなんだろう。最悪して貰えないかも」

「……え?」

「………激動が起きたんだな…」

惚ける朝海に反し、冷静な吏史からは素直な感想が溢れる。直接的な被害は受けてないが代変化時代を経験したのであろう美沙は、眉尻を下げながら呟いた。


「『陽黒』や『アダマスの悲劇』を経て、多くのアストリネ様の代が動き、変わられましたからね…」


確かにサージュや二十五代目エファムで結成された『平定の狩者』は世界平和に大きく貢献していたのだろう。結果的に、多くの人類は無事に今を平穏を享受して過ごせている。


「でもね、そんなもんだよ」

ネルカルは告げた。

顔色ひとつ変えることなく、平然と。平和の礎となるようにアストリネたちが犠牲になっただけの話だと。

美沙は心痛めて表情が暗くなっているというのに、ネルカルを始めにした三光鳥たちは、総じて表情ひとつ変えてなかった。


「気にしなくていいよ。私たちはそういうものだから。受け入れてなきゃネルカルは三十代目まで続いてないよ」

されても意味もない同情を払いのけるよう手を横に振って告げていた。


しんみりとした空気に場が染まる前、ネルカルが口を開く。


「……ところでさ」

その矛先はイプシロンだ。彼の頬を指で突き、ニヤニヤとした悪どい笑みを浮かべて問い詰める。

「おじいちゃんさぁ、大丈夫そう?流石に今の間違えるのはな〜〜〜若年更年期障害にしてもまだ早いよね?次代、育てないと不味くない?子供なら三十五歳まで持たないと駄目だよ〜〜〜?」

「君は俺を苛立たせるのが上手で心底嫌になる」

その振られた揶揄いは雰囲気を霧散させるに十分なものだった。

イプシロンは心底鬱陶しいと思っているのだろう。脳面のような無表情を浮かべるイプシロンを見かねて、吏史が発言で間に割り込む。

「真偽はともかく、原因としてあげるなら絶対ナナのせいだろ。仕事でストレス負荷かけてるせいじゃないのか?どの業務でもオルドが細かいところまでサポートしてるし…そんなに心配ならオルドに休暇もっと渡せよ」

「うーん。無理だね。このおじいちゃんが一日でも抜けたら私のスケジュールが緻密になる」

「…ええ…。それが本当ならもっと大事にするべき戦力じゃん…なんでナナはオルド大事にしないんだ…?」

怪訝そうな表情を浮かべた吏史から純粋な疑問を受けたネルカルは、何度か目を瞬かせた後にフッと柔らかく微笑む。

イプシロンから離れたと思えば、吏史の膝に堂々と座り、黒髪を手で払う仕草の後にその肩に手をかけてまでして密着しながら人差し指で唇を撫でる。


「そう嫉妬しなくても、私はイプシロンよりお前の方が大事だよ?」

「突然何言ってるんだよ」

「……んんー?いやさぁ、お前さぁ。お前さぁ。ちょっとくらい、照れたらどう?」

距離間はないに等しい。相手の体温は感じられて、吐息もわかるだろう。なのに、こんなにとても近いというのに。

吏史は照れずにスン、と感情抑制しきったままだ。

「なんで照れるんだ?」

むしろ若干迷惑そうな態度をみせるものだから、頬に青筋を立てた笑顔をネルカルが浮かべた。


「…………」

どうしたって別にときめく状況じゃない上に客観的にシュチュエーションを点数制評価するなら0点という採点と指摘は置いて、イプシロンは小さくポツリと呟く。


「擁護しておくが、彼の感受性が死んでるわけじゃないよ。ハーヴァの前だとすごく良く照れるから」

「待ってオルドその話だけは!!」

「ハァ!?年上巨乳巨尻が好きなの!?なんてやつ!!このすけべ!!」

途端に露骨に慌てふためき、胸倉を掴まれる中で顔が焼けたように赤く染まる。その反応には見学姿勢だった朝海も、眉がぴくりと釣り上がった。

先に体当たりした時、何の反応もされなかったことを思い出しての苛立ちを覚えたのだろう。


女子二名から非難混じりの重い視線を受けながら、狼狽えた吏史は口走る。


「いや、…そ、じゃなくて!そうじゃない!ジルは……すごく、そう、その。すごく。優しいから、嫌な顔しないで嬉しそうにニコニコと明るく、太陽みたいに笑って、たくさん、俺の話聞いてくれるし、槍の修行もとても楽しいし……一緒だと日向ぼっこしてるみたいに心が、なんか、ポカポカして、さ。……気持ちが、浮つくんだ……」

その、聞いてるだけで檸檬味のような甘酸っぱさを覚える辿々しいコメントを受けて。


碧眼を煌めかせてから片手を上げ指を鳴らすモーションを取ろうとしたネルカルを、ディーケが瞬時に手首を掴んで止めた。

「ディーケ離して大丈夫攻撃じゃない此奴の頭を面白いことにするだけだから!」

「やめろ」

くだらないことに異能を使うんじゃないという、真っ当なお達しである。

それを跳ね除けるわけにもいかないので、ネルカルはどこか悔しそうな顔で異能は使わないことでディーケの手を払い、胸倉は未だ片手で掴んだまま何度か分けて揺らす。


「おかしいと思った、おかしいと思った!おかしいと思った!こんなに美人で地位も盤石な美少女が近くに居ながら何も反応しないの、おかしいと思ったよ!性癖が終わってる!」

「シンプルに最低。ほんと終わってる」

「朝海!?何でアンタまで…!っ、ナナはとりあえず揺さぶるのをやめてくれよ!」


修羅場のワンシーンのような光景だ。それを目の当たりにさせてしまった責任も込めて、イプシロンはそっと音もなく美沙に近付き、頭を下げる。

「代表管理者の補佐として詫びる。……情緒不安定な一面を見せてしまったが、今宵の話含めて他言無用で頼みたい」

「え、いえ…いえいえ。そんな。ネルカル様は若く優秀、感受性豊かで賑やかな方とは周知されていますので…むしろ、出生を気にせず平等に接して仲良くできる慈悲深い方と知れて良かったですわぁ。勿論、家庭内の秘密にいたします。我が【ルド】の栄華のために」

頬に手を当てて穏やかに笑う美沙に対し、イプシロンはほんのわずかの間、一瞬だけ翡翠瞳を煌めかせた。

僅かな異能を使用したが、告げられた言葉が嘘ではないことに気づいてからは目を瞑り、息を深く吐く。


「――皆様方!!お待たせしました!!」


そしてその場を割り込む新たな風として、男性の声が突如として飛び込んだ。


お腹が樽のように丸い小太りな体格ではあるが、筋力が多くついた逞しい剛腕を惜しみなく見せる前髪を掻き上げて固定した金髪に梅色の瞳の中年男性。

――朝海の父であるトリスターノが、にこやかな表情で現れながら小麦の焼ける香ばしい匂いが上がる皿の配膳を行い始めた。


両腕に抱えていた木製のスクエアプレートには、並べられている何枚かの円状の薄いパンが載っており、八等分に切り分けられた五枚のパンは、全て吏史たちが座る机の前に置かれていく。


「おお……」

胸ぐらを掴まれたままではあるが、吏史は歓喜の声を上げた。

小麦色のパンには宝石のような彩り豊かな具材たちが乗っている。そのどれもが独自の味をしてるのだろうと予測ができたため、全体的に見比べて何度も見回す行為をしてしまう。

美味しそうな食事を前にして胸を弾ませた吏史を他所に、トリスターノは自信たっぷりに胸元に手を当てて、客人たちに丁重なお辞儀した。


「此方、自作の窯で焼いた新作のピザのフルコースになります。右からトマトソース、ホワイトソース、オイル、バジル…そしてこちらはデザートです。付け合わせにはポテトサラダや、アヒージョを用意しましたのでこちらもご賞味ください」


全ての食事を逐一説明した後で、やり遂げた…とばかりに満足げな表情で額の汗を拭う。先の空気や会話など彼は一才聞かずに魂を込めて手がけたに違いない。

どの料理も美食を追求し作り上げる【暁煌】の職人まで届きそうな芸術品と相違ない品々だ。


「へー凄いな。これって…ピザだよね?【ルド】で出てくるとは思わなかったよ」

興味関心を料理に傾いたのだろう。吏史から手を離しつつ、膝に乗るのをやめて椅子を移動した。後に机の上に並ぶ料理をマジマジと見つめるネルカルに対し、美紗は気を切り替えるよう両手を合わせて進めていた。


「ええ。なんとか品を仕入れて独自の方法で栽培してみたのです。是非食べてみてくださいな。値は張るのですが…どの味もこの第四区では人気なのですよ」


――ただ。父の目論見が親子ということもあり、わかってしまったのだろう。朝海は恥じるように頬を紅潮させて、怒りに戦慄きながら青筋をも立てている。


「お父さんさぁ。…父さんさぁ。……イプシロン様たちにお店の広告塔になってもらう気満々でしょ…」

そんな娘の物言いに、トリスターノは口をカッと大きく開く。

「何を言うんだ!この子ときたら……―――当たり前だろう!?」

ドン!と効果音が背景にありそうなほどの力説だ。娘が愕然するのにお構いなしにトリスターノはゴリ押しで行く。

「むしろ、またのない機会だぞ!?この店の未来を賭けてると言っても過言じゃあない!お前は何をしおらしくしてる!このまま我が家の味でイプシロン様の心を掴むんだ!婿入りを狙いなさい!顔がいい従業員はそれだけでも客引きができる!」

「やめて!?やめてよ!!お母さんといいさぁ、なんでそんなにゴリ押すの!?私には私のペースがあって、……いや、大体、イプシロン様への想いはそんな低俗なものじゃないから…ないんだから!引っ掻き回さないでよぉ!!バカァ!!!」


商魂逞しい上に厚かましい父の根性ごと恥じて流れる朝海の涙をよそに、先に並べられた料理から手をつけたのはディーケである。

彼は丁寧に切り分けられたバジルソースを柔らかい生地に下塗りし上から舞茸を始めにした様々な種類のキノコがふんだんに乗せられたピザを一枚選ぶ。

三角状の金属食器、ピザサーバーを用いて別皿に取り分けてから手で丸め、一口サイズにしてはそのまま頬張った。


「あ。食べた。…………どう?」

十分に咀嚼した後に喉を嚥下して飲み込んだディーケは表情を変えずに尋ねてきたネルカルに答える。


「味が濃い。熱くて美味い」

「食レポが致命的に下手」

そしてあまりにも端的がすぎると率直な不評を受けていた。


しかし全く食欲をそそらない意見とはいえ、味が確かなのだろう。そんな期待を込めて、ネルカルは一番興味が湧いていた切り分けられた焼き林檎が載っているピザに手をつける。

皿に取り分けた分を一口。齧っては、シャキシャキとした林檎の咀嚼音を立たせた後に飲み込んだ。

「…うっ、わ……」

後に碧眼が大きく開き、手で口を押さえる。湧いた高揚に影響してか、彼女の目元は赤らんでいた。

「…美味し……!この林檎のやつ。ヤバ、食感がいいな。クタクタじゃないのすご…。あんま煮詰めてないからりんごの果肉感も楽しめちゃうし、もちもち生地が果汁でしんなりしてないのもすごいな、……これってキャラメル?あ、なるほど。りんごがコーティングされてるから生地に水分が流れるのを抑えてくれてるんだ……」

「あ!美味しいですか?これは私が考案したんですよ。キャラメリゼした林檎の上に更にチーズとバターをトッピングしちゃいました!」

「へぇ。つまりカロリー爆弾じゃん。…………なるほどね?」

「待ってください。…待ってください!今、私のお腹見ませんでした!?」

視線で己の胴体の太さを指摘された心地になり、さっと両手で隠しながら朝海は仕返しも兼ねてネルカルの腹部を見る。

「うん?」

首を傾げて猫のように笑む彼女の腰まである切り揃えられた黒髪が揺れていたが、その反応構わずに朝海はしっかりじっくりとネルカルという少女を視認した。


鍛え上げていることから無駄な肉が全くついてないことが窺える、完璧なプロポーション。

黒髪は輝かしい艶があり、碧眼は見つめてるだけで心音の高まりを得るほど美しく惹き込まれる輝きがある。

胸は臀部は豊満過ぎず、しかし女性としての魅力が存分に感じられるほどの程よい大きさである。

スラリという擬音が似合う長くしなやかな手や足。つま先までのラインまでもが無駄なく綺麗で同性の朝海でも羨み理想としたくなるほどだ。

そのように、頭から先までネルカルという少女をじっくり観察した後、朝海は自身の知識を掘り返しては呟いた。


「…アストリネ様たちって……私たち人類のために人体化…されてるんですよね。容姿とか体型とかって、思うままに変えられるんですっけ…?」

「うんや。実際そーでもないよ?流石に詳細は伏せるけど、私たちの容姿は代替えに必ず行う『継承』前に依存するし、外見の成長自体も異能に依存した全盛期になるまでは進むんだよね。見た目がおばあちゃんなアストリネも居れば、五歳くらいの子供の見た目で止まってしまうアストリネも居たりするの」

つまり外見年齢が止まることはあれどアストリネにはちゃんと個々としての個性は残されるし、人体化する際に七変化できるほど容姿に自由が効くほどではない。

仕様をはっきりと説明で返されて、朝海は目を瞬かせる。


「そう、なんですね…」

そうしてアストリネの容姿が個性的なことに納得する彼女に対し、ピザをまた一口分齧ったネルカルがはっきり告げた。


「そうなの。アストリネでも栄養は取らないといけないから、不摂生で痩せちゃう時は痩せるし、太る時はしっかり太るの。それは人体化では誤魔化せない。――つまりそういうことなんだよ。朝海」


朝海が得たものは同じ女子としての圧倒的敗北感と己の自堕落の自覚だ。強く目を瞑って下唇を噛み、暫し悶絶した後に悔し涙を浮かべながら低く唸りつつ決意する。


「……鍛え…鍛えます……主に、腹筋を…」

「そっか。やるんなら徹底的に!バキバキに割れるまで頑張ってね!でも、私はふくよかな子は嫌いじゃないよ。女の子は花なんだからさ。花は大輪の方が目立つし綺麗だから」

「あ、ありがとうございます…いやでも、ネルカル様…ネルカル様…!でも、女の子だからこそ、常に理想で、最高に綺麗な私でいたいじゃないですかぁ……!」

「んふふ。そーだねぇ〜」

多感な時期の女子としてはそうありたいものだと、両手で顔を覆いながら嘆く朝海を尻目に、ネルカルは猫のようにニンマリと笑いながらもう一口とピザを食べ進める。


そして内心では本評価を下していた。

初めて口にした時のインパクトは十分で美味しくはあるが、一口目以降は、くどく感じるほど甘い。

――これは平均気温が低いことで高いカロリー摂取を好まれる【ルド】ならばこそ気に入られた味で、一般的には一ピースで十分になる万人ウケはしない料理だろう。


それ自体は声には出さず、しかし自国の民の好意を跳ね除けないようにネルカルは頷きつつもりんごのピザを食べ切っていた。


「…………」

「あれ。オルド食べないのか?全部美味いけど」

そのようにディーケやネルカルが手をつけてたこともあるのだろう。以降は遠慮なく全種類をパクパクと食べ進める吏史を、イプシロンは半月状の目を向けている。

「…もう七枚目か?」

「ああ、美味しいからな!」

「そうか」

会話の意図としても、イプシロンは三口で1ピースを食べ切る速度で平らげていく吏史の蟒蛇顔負けな食事に呆れていただけだ。

だが、吏史はイプシロンが一切手をつけていないことを不思議がって首を傾げて勘違いを起こす。


「もしかして、どれか一枚に絞りたい感じか?だったらそうだなぁ……あ、オルドならこれとか好きだと思うぞ。一番味があっさりしてた野菜たっぷりのトマトソース!」

「…………」

「そう警戒しないで、食べてみてくれよ」


警戒してるわけではないのに一方的に勘違いされたまま、イプシロンは吏史に1ピースのピザが入った皿を置かれてしまった。

悪意のない善意を前にして、深い溜息を吐く。

朝海の両親の視線もあり、どうにも不要だとも言いづらいこの雰囲気では食欲が湧かなかろうが否応にも食せざるを得ない。

「………ハァ……」

溜め息を吐きつつも、食そうと手を動かす。但し手袋を汚れることを嫌ったのだろう。イプシロンは金属フォークを手にして、ピザを丸め口にするという珍妙な食し方を披露していた。


暫し、よくよく噛み砕くよう咀嚼し続けていたが、表情ひとつ変えることなく無言かつ真顔で食べている。

そう美味しいともまずいともどちらとも捉えられない様子を見かねてか、ごまをするような調子で両手を合わせ擦りながら近づいたトリスターノがイプシロンに尋ねた。


「あ、あのぉ…お味はいかがでしょうか…?」

長い時間をかけて咀嚼し切って、スッと一瞬据えた翡翠瞳が異能発動を示すよう輝いた後に、イプシロンが言う。

「目的は三光鳥にも味を容認された評価と焼き釜の商品登録申請だろうが、後者は既に【暁煌】に同じのがある。諦めてくれ。味は悪くない。生地の焼き加減も絶妙だ」

「くっ…!ええ、仰る通りでした。申請は残念ですが、高評価ありがとうございます…!!」

「お父さん!お父さん!もう!なんでそこまでするの!本当にやめてよ!」

暴走気味の父を止めるよう、羞恥で肌を赤く灼いた朝海が声を荒げた。

しかしトリスターノは娘の切実な意見を一蹴するが如く。キリッとした表情で宣言を解き放つ。


「相手はアストリネ様であるのは百も承知だ!イプシロン様相手となれば心を読まれるからこそ、オーブンならぬフルオープン!逆に包み隠すことをやめている!上手くいかなければ仕方ない。次、次だ!【ルド】の民は強靭なる誇り高い心を持つ…【暁煌】には決して劣らぬ食堂屋になるぞ!」


その為なら三光鳥をも利用するという鋼精神。トリスターノの根性を浅ましいと印象を受けなかったネルカルは、称賛の拍手を送る。

「いやーいいね。素晴らしい。私たちが何気に仕掛けた圧にも全然負けてない。とても逞しいじゃないか。朝海の根性はお父さんに似たんだね」

舞台上に立ちスポットライトが当てられたような様を褒め称えながら評価したが、横から心底心外とばかりに朝海が泣き顔で声を上げた。


「違います!!誤解です!!」

自分はこんなに厚かましい覚えはない。

イプシロンにもそう誤認されたら困るという想いも孕んだ叫びであったが、横からさらりとピザを堪能していた吏史が何気なく平然と告げる。


「いいことじゃないか?体格も性格も親に似てるって」

「…ぶっ飛ばすぞ…っ!」

見事に地雷を踏み抜いてきた吏史に怒りの矛先を向け、真っ暗に染まりそうな顔で凄むよう詰め寄りながら、胸ぐらを掴んで揺らした。


「え!?あれ、ご、ごめ。え!?ごめんな!?」

自覚はないとはいえ身から出た錆。自業自得だ。

失礼を極めた発言な以上、擁護しかねるため、イプシロンも助け船を出さずに沈黙する。


「ごめんじゃすまない!!すまないから、今の撤回して!すぐに!!」

「わ、うわ。ごめ…わかった!撤回、撤回する!」

流石にまずいと思ったのだろう。何度かの呼吸を済ませてから、吏史は真面目に撤回をし始めた。

「すごく根性あると思うって!ちゃんと可愛いのに、めげずに試練達成したところとか尊敬できる!その体力は見習いたい!」

「え。」

そして突然の褒めに不意を突かれ、朝海の憤慨が霧散したが、眉を下げて必死に訴える吏史の口は止まらない。

「目も大きくて体格も大きくない可愛い女の子だと思う。だから本当にすごいと思ってるんだ!」

「えっと、」

「…これから朝海の同期として仲良くしたいなって思って。…あの時は、発破かけたことは自覚してる。それも怒ってるんだったら謝るよ。ちゃんと謝らさせてくれ」

「いや私は別に今となったらそんな怒ってな…」

「普通に尊敬できる人に拒絶されるのはやっぱ悲しいし、寂しい」

「ぅっ……ふぐぅ…っ」

罪悪感で胸を抑えて呻く朝海に対し、吏史は悪気もなく大真面目に言い放つ。

「あの、怒らせてごめんな。悪い、ほんとにごめん。オレ色々あってこうして可愛い女の子とちゃんと話した覚えがなくて。だから、どうしたらオレと普通に仲良くしてもらえるかもわからないんだ」

悪意のない、或いは無意識な善意が厄介だとはよく聞く話だ。朝海はそれを痛感してる。

吏史は嘘をつけないタイプなのだろうとも察してしまった。

だから、こんな今まで言われたことないような真っ向な気持ちには正直戸惑い、心が揺れる。

「――――ち、」

そんな簡単に揺れて流されそうな自分にも嫌気がさし、朝海は口を大きく開けて叫ぶ。


「……っち、ちがぁあーーーーう!!そういうこと、そういうことじゃあなぁあぁーーーーぃい!!」


色々溜まった鬱憤と嘆きを困惑を載せて顔を真紅に染めた彼女の叫びは、店の壁を超えて天にも届きそうな勢いがあるが、騒がしいと咎めるのは彼女の両親だけだ。

吏史は驚いて目を丸くし、イプシロンを始めとしたアストリネたちは詰ることもなくピザが残らぬように食している。

ネルカルは一言、小声でイプシロンに尋ねた。

「あれはお前の教育?」

「いいや。基本、『人の良いところを認めて褒めなさい』と育てたのは、アルデだ」

「ああ。なるほどね」

その回答に納得したよう肘をついて頬杖をつく。


「ちゃんと味方を作らせようって魂胆ね。敵が多い方が強くなるのに、余計なことをするな。愛想振り撒くだけ損するだけだろうに」


そう呟き、アルデとの相性の悪さを改めて感じてか嫌気ごと払うよう深い溜め息を吐いたが、イプシロンは何も言及することなく沈黙する。


そのままコップに手をつけ残された水を煽り、空っぽのそれを机に置いた。

……………………三光鳥

・【ルド】を代表するアストリネの三強にして三翼。ネルカル、ディーケ、イプシロンを指す。

異能使用する際に有翼種となることから、そのように名称つけられたカリスマ的存在。

但し『イプシロン』は本人たっての希望により試練以外での顔出しは一切行わないため、兵士を除いた人類には姓名だけが周知されている。

【ルド】内では『鷲派ネルカル』と『鷹派ディーケ』で、民や兵士たちの中で派閥分かれて静かなる人気争いが勃発してるらしい。


また、三光の由来は太陽、月、星から。

彼等にそれらが繋がるものがあるため、そう総評された説が濃厚。

太陽をネルカル、月をディーケ、星をイプシロンと当てはめる者が多い。

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