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――『恵』襲撃が始まる約三十分前のことだ。
サージュは自室にて、机に向かう形で座っていた。
日課である書物に長い黒の睫毛を金瞳にかけて、うつ伏せ気味に手に掴むペンを紙に走らせてる。
紙は数字の羅列で埋め尽くされていた。第三者からすればサージュが何か狂気に陥ってるとしか思えないだろう。
だが、サージュとしてはそれでいい。そう思われても構わない。これは必要なことだと確信があるからだ。
下手すると渡すべき相手には解読できないやもしれないが、いつかは真意が汲み取れるだろう。
「(電子形式で残すことも可能で簡単だ。だけど、それでは海底サーバーに記録を残してしまうと同義。今後、先にある脅威を見据えるのならば…奴等に入手しやすい形で残すわけにいかない。それに…)」
同じ夢を見る。そう、誓ったのだ。
託すべき相手のためになることを粛々と遂行し続けるべきだろう。
「…アダマスの悲劇のように、全部上手くいくと思うなよ」
既に懲りて学んだ。対策は施したと、懸命な思いを乗せながら報復の意も兼ねてサージュはひたすらに分析した確率を黙々と書き続けていた。
――キィ、と寂れた金属音を立てて扉が開かれる。
それは集中する中で意識を逸らすものに等しい。無粋な音を立てて阻害してきた来訪者に向けて、冷ややかな金色が横目に動く。
しかし、其処には予測した通りの少女が来ていたようだ。
「―――やぁ。月鹿ちゃん」
ペンを机に置いて置いて笑いながら振り返れば、片手を後ろ手にして開いた扉と部屋の間に佇む月鹿の姿がある。
青のリボンを纏う白色のワンピースを着用していたのだが、明るい衣装に反して月鹿の表情は真夜中のように暗い。
そんな彼女が醸し出す不気味に不穏な気配に臆することなく、サージュは口元を笑みながら足を組み、飄々とした態度を取る。
「吏史が世話になってるねぇ。……何の用かな。残念ながら、もう此処には来ないけど」
態度が気に入らないとばかりに、栗色の髪から灯りを灯さぬ据えたペリドットの目を覗かせては月鹿は淡々と告げた。
「『古烬』は計画を早めることにしました。なので、この村を崩壊させます。多くの人命が灰燼と消えるでしょうね」
サージュの目が細まる中、月鹿は説明を続ける。
「でも。しょうがないんです。こうでもしないと貴方の教育のせいでリッくんは【ルド】に行く我儘を見せてくるし、漸く尻尾を掴ませてくれた貴方は、行方を眩ませてしまう。だからこんな強引な手段にしか出れなかったんですけども…これが人類のためだから、仕方ないことなんです」
此処にはいない、彼女の熱意である存在に向けて、責を押し付けるような物言いだ。
「……それで?」
短く答える。矯正されることなく育った子供の癇癪なんてこれで十分だとばかりに。
眉間に皺を寄せて剣呑さが増していく月鹿の顔の歪みを見てから、口角を深めたサージュは笑っていた。
「そうやって僕に腹いせしても君の悪印象は吏史に根付いてるから無理だよ。君の性根の曲がりようは生粋なものだ。擁護できないし、脱色できない」
「……あたしは性格がいいですよ?中身も完璧な可愛い美少女なんです」
「うーん。笑いどころかな?三流の芸人が会心の出来だと思ってるレベルのつまらなくて寒いギャグ。まあ、全然わかってないようだしさ。ちゃんと言ってあげる」
元より説得を持ちかけようとは鼻から思ってはない。サージュはその思いの上で、月鹿にはっきりと告げた。
「吏史は君の運命じゃない。寧ろ、あの子は誰のものでもない」
真っ向からの否定を与え、この先の未来共に荒れないことを予言し、天井越しにある届かぬ空を見上げるように仰ぐ。
「僕は自分の意思で選択できるよう教育した。間違ってるとは思わないな」
「だけどリッくんは可愛い子ですよ?見てもらいたいから背伸びしてるだけのいい子なんです。指示がなければきっと迷いますよ。貴方がしてることはある種の責任放棄だと、」
「いいや違うな。寧ろそれでいいんだよ。悩み、迷い、それでも前に進むのが人の美徳で良い生き方だと僕は思う。――それに、夢がある者は空に高く飛んで行くものさ」
サージュはもう。伝えたいことは全て伝えた。先を据えて必要な技量を持つ者にも託せている。
だから、後は新たな地に飛び立たさる者の防壁となる存在を片すべきだろう。
サージュは瞼を閉じて開き、一度人差し指を月鹿に当てて己の整った造形に当てるような動作で示す。
「そういうことだからさ、いい加減うちの息子のこと諦めてくれないかな、不細工の嫌われ者。断言するが天地がひっくり返っても吏史は君を愛さない。美意識や道徳、それと謙虚な心。ママのお腹に大事なもの忘れてる時点で終わりだねぇ」
自尊心の化け物の怒りを買い切るような侮辱的発言だ。故に、モノの見事に、彼女の反感を買う。
「……っ……」
月鹿の顔が大きく憤怒に歪んでいたが、ものの数秒間だけだ。
「―――ううん。ここで怒ってはダメ。ダメよ。月鹿。相手の言い分を認めることになっちゃう」
急に水を吹きかけられたように真顔になり、愛嬌のある笑顔を浮かべる。そう面相を付け変えるような仕草だ。
「リッくんはあたしの運命。あたし以外の子と接触できないようにしたの。これが乙女の恥じらいね。リッくんの世界にはあたし一人だけになればいい。…そう。だから、…」
一拍。仰々しい不気味な雰囲気に変わる。場に居るものを溶けた鉛か泥濘に沈ませるような悍ましいものだ。受けたサージュの笑みは歪むことはない。
金色は輝き、荘厳さを携えている。何もかも分析し解読を可能とする瞳。
それが最も不快だと示すばかりに、月鹿は人差し指でサージュの瞳を指した。
「だから、あたし、サージュさんが本当に邪魔だった!!あー本当、ほんと、早く消えてほしくて仕方なかったんです!」
子犬が大きく吠えて噛み付くように嫌悪感を込めて強く叫んだ。
「だから、こうして計画早まって嬉しい限りなんですよ!若者の恋路の邪魔してるって、自覚してますかあ?!」
「まあ君は性格に限らず顔まで僕に劣るからあっても仕方ない焦りか。顔が良くってごめんねぇ」
「はい?貴方の顔立ちの良さは認めてあげますけど。あたしのが圧倒的に可愛いじゃないですか。リッくんが素直じゃないのがおかしいだけで。というか、やっぱり全部貴方のせいってしてもいいですか?」
論理が崩れて相手に謂れのない罪を被らせるという飛躍しすぎた考えを抱き始めた月鹿に対し、サージュは片目を瞑り肩をすくめてから尋ねる。
「……ところで『鏤脳の麗』って、知ってる?」
「…はい?」
「っんふ…」
目を丸くした反応を見て、サージュは小さく噴き出してしまい咄嗟に口元を覆っていた。
「ん、ぐっ。ああ、いやいや、失礼。全然いいよ今の発言は気にしないで。まあ、知っていたところでも僕の主張意見変わらないし。ただ、『勝ち目ないよブス』ってストレートに言った方がよかったかもって反省してる。ごめんねぇ。そこが回りくどくって」
意気揚々と小馬鹿にするようなサージュの態度に苛立ちを覚えそうになるものの、月鹿は堪える。
どうせ足掻いてもここで確実にお別れする相手だ。心を乱し低俗に落ちる必要はない。
「…あたしは最高に可愛い美少女。そして選ばれた者なんです」
膨らみのある自らの胸元に手を当てながら、胸中に渦巻く知識を、サージュを追い詰めるべく明かしていく。
「そういえば、継承を済ませて異能を保持した超自己回復力が備わっているアストリネの◼︎し方は、たった一つだそうですね」
サージュは眉一つすら動かさない。
しかし、アストリネに対しての許されざる侮辱に近しい冒涜行為と等しい言論は続く。
「人体化している際、どこかに隠された核を破壊すること。それは花の種。空気に触れさせることで開花する性質があるのだとか。二つしかない継承法の一つとして、その種を先代から受け取り砕き飲むことで人体として生まれた存在でもアストリネに昇格するとも聞いてますよ」
「…へえ、よく知ってるねぇ。君たち純粋な人類は決してそれに成れるわけでもないのに、若い時間を浪費して一生懸命身の糧にならないお勉強に励んだのかい?」
「ふふっ。そういうわけでもないですよ。私の場合、何も問題ないんです。《《あたしたち》》だからこそ何も問題がない」
嫌味を投げられても月鹿は笑う。自信に満ちた発言と共に、伏せ気味だった目を開く。
「サージュさん、…いえ、」
ペリドットの瞳は一心に、サージュを映す。
「《《三代目ヴァイスハイト》》さん。貴方の花はどんな形をしてるのでしょうか。あたし、すごく興味があるんです。見せてもらってもいいですか?」
看破めいた正体解明を皮切りに、月鹿はずっと後ろ手に回していた武器を前に向けるよう取り出した。
それは、少女の体には到底見合わない巨大な鈍色の鋏である。
白刃の面が多くあり、断つ能力に特化しているのが明白だ。
そして成人男性でも到底簡単に持てぬであろう重さを有してることは視認できる。
しかし、今の月鹿ならば問題はない。
一息にて彼女の両腕には透明な硝子細工じみた装甲を纏わせていた。
《《それ》》は使用すれば限定された時間内に《《ある程度》》の身体能力向上を適合者に与える、生まれ持って《《備わった兵器》》が故に彼女の華奢な体躯でも重き鋏を持つことを許していたのだ。
「…成程。『古烬』の兵器適合者の一人ってわけねぇ」
サージュの推測に肯定するよう、月鹿はジャキンと鋏の刃を合わせ鳴らす。
「そう。だから、貴方はここでおしまいなんです」
磨かれた金属板は鏡面となり、これから断ち切る対象となる獲物を映していた。
「……終わりになんてしないさ。必ず、続かせるよ」
刃が動く前にサージュは素早く立ち上がり、所作も体裁も気にせず自身が座り込んでいた木製の椅子を容赦無くも月鹿に対して投げつける。
だが、椅子は激突することはない。
月鹿は縦一閃真っ二つに断ち、サージュの懐に躍り出ていた。
「無駄ですよ」
今の装甲を纏う彼女は身体能力が向上している。斬撃を繰り出しながら相手に近づくなどお手のものだ。
既に立ち会った時点で雌雄は決したのだと、ニィッと嘲笑うような笑みを浮かべていた。
「貴方は勝てません。だって、どうしようもなく《《弱ってる》》じゃないですか」
サージュが直様反撃に出ようとテーブルの上に置いたペーパーナイフを掴む。しかし月鹿は半円を描いて鋏を回し刃先を開き、素早くその手首ごと断ち切り落とす。
「…っ、が、ぁ゛…!」
強靭な力が乗っていた、容赦なく皮や肉、骨ごととめて片手が喪失する。走る激痛と血が抜ける感覚に顔を歪めて呻くが、悶絶してのたうち回る間もサージュには与えられない。
「…回復力は…やっぱり、聞いた話より落ちてる。でも、利き手の左手にないかぁ。――なら、当てが外れたし一度丸ごと落とさないと。後に解体してじっくり探すしかないよね」
白刃の一部が赤色に染まった鋏が瞬時に開かれ、サージュの首元目掛けて血濡れの刃元の根元があてがわれた。
「さようなら、三代目ヴァイスハイト」
断頭台の刃にも等しい。強靭な力にて扱われる鋏の刃線は成人男性の首をも断つ。
まるで切り戻しの作業のように、花の根元が断ち切られて無情にも地に落とすだろう。
――刹那。己の意識が途切れてしまう今際の際。
サージュは、金色の瞳を緩やかに細めて不敵に微笑んだ。
………… 鏤脳の麗
・「それを見れば忽ち永遠の虜となるだろう。
至上を知った瞳はあらゆる美の誘惑や魅了を凡庸に落とし、性という衝動欲求を欠如させる。真に愛する者しか映させない始祖からの祝福だ。――マハマタル」