鳴く家
ミホは母親が亡くなったことをきっかけに、久しぶりに実家に帰ることにした。
と、言っても少し片づけに来ただけだ。業者を使うとお金がかかるからその節約。
遺産配分は弟が預金。ミホが家と土地。
母親の遺言に倣ってのことなので揉める心配はなさそうだ。
解体費用が掛かるとはいえ、こちらのほうが得であることは間違いない。
だが、ミホは別に「よっしゃっ」と思う気にもなれなかった。
結婚し、子供にも恵まれ運送会社を経営する弟。
それに比べて自分は生涯独身を覚悟した振りをした三十代後半の女。
多分、母が娘を心配、不憫に思ったのだろう。
弟もそれがわかっているからゴネたりはしなかった。
ただ片付けには参加しない。自分ひとり。
それはまあ仕方がないとミホは納得しているが気が滅入った。
ほどほどにやろう。有休もそこそこに。嫌になったら、後は業者に任せよう。
……なにより、この家には良い思い出がない。
ミホは家の前で立ち止まり、ため息をつき見上げる。
築数十年。ペンキは剥がれ、屋根はボロボロ。
部屋の隅っこに白アリの頭が落ちているのを目にしたこともしばしば。
多分、壁の中や柱もボロボロだ。
前に一度リフォームしたことがあったが悪徳業者だったのか
それともボロすぎて仕方がないのか雨漏りがする。
コンセントには焦げ跡。床は軋む、いや沈む。ブレーカーはすぐ落ちる。
冬は激寒、夏は激暑。床暖房どころか断熱材ってなに?
とてもまた住む気にはなれない。
尤も、一番の理由は母がこの家で亡くなった事もそうだが祖父の存在だ。
母と同じく、この家で亡くなった祖父は
生前それはそれは意地悪で自分勝手でおまけにスケベ。
あのアンモニア混じりの加齢臭も、あの怒鳴り散らし飛ばした唾も壁に投げつけた糞も
すすり泣く母のこぼした涙もこの家に染みついている気がしてならなかった。
ミホはまたため息を一つして、鍵を差し込みドアを開ける。
すると、おかえりと言うように懐かしい臭いがミホを出迎えた。
でもただいまと言う気にはなれずただ顔を歪め、鼻をすする。
日当たりは良いはずなのに、家の中のどこも黴臭い。
この前あげた線香の匂いと混じっている気がする。
いや、ただ単に古い家特有の匂いか。
ドアが重い、木製のせいで閉めた時に想像以上に大きな音と衝撃がした。
バラバラと今のは多分、お風呂場の砂壁が崩れた音。
ミホはそれを、はぁ、とため息で上書き。
次いでふぅと一息。これは気合入れ。さあ、やろう。
……と、意気込んだものの、作業は大して進まずに夜になった。
別に懐かしんで手を休めていたわけじゃない。
ただ、この古臭さのせいで自分まで年寄りになった気がして
動きがどんくさくなったのだ。
当然、料理などする気にはなれず、買いに行く気も湧かず
出前にお寿司を頼んで英気を養う。並じゃなく上だ。ちょっと奮発。
なんやかんや言っても大きな収入となる。
前祝いだ、と自分を納得させ、お寿司を頬張った。
「お母さんにもお供えしてあげようかな……わ、ふふっ」
なんとなしの呟き。しかし、タイミングよく家鳴りがし
ミホは返事をされたような気分になった。
「欲しい?」
――ミシッ
「え、また、いや、偶然……よね?」
――ミシッ、ミシッ
「え……嘘」
――ミシッ、ミシッ
「え、あ、あの、お寿司、本当に欲しい?」
――ミシッ
ミホは手で口を押さえ、悲鳴を堪えた。
さっき封を切るのに失敗して指についた醤油の匂いがした。
そのまましばし硬直、そして思案。
偶然。いや、泥棒? でも、ついさっき二階に上がった時は別に誰も何の変わりも……。
「あ、ハクビシンかなにか――」
――ミシッ、ミシッ
「……違うって言いたいの?」
――ミシッ
今度は短い悲鳴が出た。
幽霊、お母さんの、まさか家鳴りでコンタクトを……?
「……あ、会えて嬉しいわ」
――ミシッ
その気持ちは嘘ではない。ただ、ミホは喜びや恐怖より、残念な気持ちになった。
ちゃんとお葬式上げたのに成仏できていないとは。それもこの家に縛られて……。
おのれ、あの坊主め……。
と、感情を半ば無理やりお坊さんへの怒りへ持っていくと少し心に余裕が出てきた。
適当な小皿を引っ張り出し、お供えし手を合わせる。
――ミシッミシッミシミシミシ
「ふふ、喜んでるの? ……何日か泊っていくからまたお供えしてあげるね」
――ミシッミシッミシミシミシミシミシミシッ
「蝉かっ! ふふ、あはははは!」
母が亡くなる前は仕事ばかりで会えていなかったから
ちょっと嬉しくもあり照れくさくもあるミホであった。
「でね、ちょっと会社で素敵な人がいてね」
――ミシッミシ
「まあ新入社員で歳の差は結構あるけど」
――ミシミシミシミシミシ
「なによ、やめときなさいって? 分不相応?」
――ミシッ
「うるさいわよ!」
と、何日かすると慣れ、ミホはこんな風に冗談も言えるようになった。
しかし、ある晩のこと……。
――ミシッ……ミシミシミシミシミシ!
「ちょっと……うるさいわよぉ……さっき、おやすみって言ったよね?
もう、今日はお終い。また明日ね」
――ミシミシ
「ちょっと、お母さん……最近我儘よ?」
――ミシミシ
「お供え物だってもっといろんなのをよこせって言うし」
――ミシ
「と、言うかそろそろちゃんと成仏した方が良いよ? この家も取り壊すんだしさぁ……」
――ミシッ! ミシミシミシミシ!
「え、なによ。嫌だって言うの? でも仕方ないじゃない。
それに、お母さんだってこの家にいい思い出ないでしょ?」
――ミシミシ
「いやいや嘘でしょ。この家を気に入っている人なんてそんなの……」
あの人くらいしか……え、嘘。
ミホは独り言のように呟いた。
「お祖父……ちゃん?」
――ミシッ
「え……そんな……嫌……」
――ミシミシ!
「で、でも! と、取り壊すからね!」
――ミシッ! ミシミシミシミシミシミシミシ!
「お、お、脅したって駄目よ! 生きてた頃だってそうやってさ!」
――ミシッ! ミシミシミシミシミシミシミシミシミシミシ!
「こ、こんな最低な家、取り壊してやるんだから!」
――ミシッ! ミシッ! ミシミシミシミシミシミシミシミシミシ
ミシミシミシメキッメキメキベキベキバキベキメキメキ!
「え、きゃ、きゃああああ!」
……危なかった。
ミホは崩れた家の前で肩で息をしながら両手で顔を覆い、おでこを揉んだ。
まさか倒壊。そこまでボロボロだったなんて……。限界がきていた……のよね?
あの家鳴りは偶然。会話できていたと思っていたのは私の気のせい。
そうよね、母を亡くしたんだもの。ちょっとおかしくなってたのかも。
……それとも本当に祖父? 私を殺そうと? いや、母が危ないと警告?
ううん、家そのものが私に警告? それか怒り、道連れに?
家が倒壊した今、あれが何かはもうわからない。
だが、舞い上がった土煙が夜空に昇る魂のように見えて、ミホはそっと手を合わせた。






