放浪の終わり
拙作「ウソつき勇者とニセもの聖女」を読んだ後に、この短編を読むことをオススメします
ただ存在しているだけの時間は空虚で、灰色だった。何の保証もない約束だけを生きる理由にして、死なないための手段に手を出す。過去の亡霊とは違うと言い訳をしても、やっていることは同じだ。
心に抱いた目的のために、自らの死を誤魔化す。
それでもこの命を終わらせたくなかったのは、また会えるかもしれないという、脆く儚い言葉に縋っていたから。
あの時、自分は愛されていたのだと思っていたいから。
どうか真実であってほしい。
この存在している時間が無駄ではないと証明するために。
*
「ユーグ、生きてるかー?」
軽やかなリズムで扉がノックされ、続いて陽気な声がした。無遠慮に開け放たれた扉から、クァンドラが顔を覗かせる。彼女も慣れたものだ。ノックをしても自分が返事をしないことは、とっくに学習している。
「あーあ、また徹夜で研究してたな? ちゃんと寝ないとダメなんだからな!」
部屋を見回したクァンドラは、分厚いカーテンを開けて日光を部屋へ取り入れる。開けた窓から涼しい風が入り、夜の間に淀んだ空気をかき混ぜた。
「休憩ならしてるよ。食事を摂ったりシャワーを使ったり」
「じゃあ大丈夫かな? いや、やっぱりダメ! ベッドで寝ないとバカになるって兄貴が言ってたよ!」
今すぐ仮眠しろ、さもないと部屋を壊すぞと脅すクァンドラに根負けして、ユーグは仕方なく寝室へ移動した。クァンドラはご丁寧に扉へ封印を施し、何が何でもユーグを休ませる気だ。
疲れが溜まっていないわけではない。
夢を見るのが怖かった。幸せな夢から目覚めた後の虚しさ。あの約束が果たされなかった未来の光景。それらが複雑に混ざり合い、心を削ってくる。
最悪の場合を想定しなければいけないのだろう。けれど、それを乗り越えられるほど強くない。
せめて夢を見ないように眠ろうと、錠剤の睡眠薬を口に含んだ。柔らかいベッドに寝転がり、ただ苦いだけの薬を舐める。こうしていると眠りは唐突にやってきた。
由利を送ったあと、様々な雑事を片付けて各地を放浪していた。人間が暮らす世界を見てみたかったのもあるが、どこか落ち着ける場所が必要だった。だが長い時間をかけて魔王に荒らされた国々は疲弊しており、まずは国土の回復と治安維持に重点が置かれている。希望を叶えてくれそうな土地は見つからなかった。
ほぼ唯一、タルブ帝国は国内情勢が安定していたが、これから行うことを考えれば滞在には向いていない。
教会から正式に禁呪と指定されたことを研究するのだから。
結果、頼りないツテを利用して魔族が統治する地域へ赴き、過去に知り合ったクァンドラという女の魔族のところに転がり込むことにした。
魔族の社会は契約で成り立つ。要望に見合うだけの魔石をクァンドラの前に積み、ある研究が終わって出ていくまで、場所を提供してほしいと駄目元で契約を持ちかけた。
いくら寿命が人間よりも長い魔族といえど、先が見えない契約はしないだろう。期限を区切られるか、もっと魔石を要求されるか――そう身構えていたユーグに、クァンドラは少し考えてからこう尋ねてきた。
「それはユーリに関係してる?」
「もちろん」
由利との約束がなければ、そもそも研究しようなどとは思わなかった。勝手に回収した賢者の資料は中身を読まずに廃棄していただろう。
「そっか。じゃあいいよ」
能天気で陽気なクァンドラは、由利と自分の微妙な距離感を察していた。辛くなったら魔族の国へ来いと言っていたほどだ。何があったのか聞くことなく、好きなだけ滞在しろと許可をくれた。
早速、彼女の家の一室に必要資材を運び込み、誰にも言えない研究を始めた。
誤算だったのは、クァンドラが『人間らしい暮らしをしろ』と言って世話を焼いてくることぐらいだ。人間はすぐ死ぬほど弱いのだからと。食事の手配をしてくれるのは楽でいいが、睡眠管理までは必要としていない。放っておけば過労死するとでも思われているのだろうか。
どうも自分は表裏のない性格の者には逆らいにくいようだ。彼女の言葉の端々に、あの人の影がちらつく。
おそらく四時間ほど眠ったはずだ。太陽の位置が南に移動している。
窓を開けると眼下に豊かな庭園が広がっている。魔族の国は今ひとつ構造が分からないが、クァンドラはそれなりに豊かな暮らしをしているらしい。
魔石を栄養にできる魔族は、人間のような食事はほとんど必要としない。だが美食には貪欲で、食材や調理法にはとことんこだわる。魔獣を品種改良して食肉にするのは当たり前。植物もまた、人間の国では見たことがない種類のものばかりが揃っている。
その品種改良に携わっているのがクァンドラだった。自ら会社を立ち上げて運営していると聞いた時は驚いたが、見かけによらず経営手腕はあるらしい。今だに潰れることも、乗っ取られることもなく存続している。
寝室の扉にかけられていた封印が解けている。隣室へと移動して、研究を再開することにした。
広い机の上には、何度も修正した魔法式が紙面に散らばっている。
研究しているのは、魂に刻まれた情報から人体を生成することは可能なのかという内容だった。エッカーレルクが器として利用していた技術を転用すれば、可能になるはずだ。
この体は兵器として作られたものだ。いつの日か使用期限が来る前に、何らかの手を打たねばならない。これを乗り越えられないなら、再び会うことなど不可能だから。
禁忌を犯している自覚はある。かの賢者と同じことをして、欲を満たそうとしている。もし地獄なんてものが存在するなら、真っ先に落ちるべき罪人だ。
たとえこの魔法式を使うのが自分一人だけだったとしても。
――もし、覚えていてもらえなかったら?
泡のように不安が現れる。
いつもそうだ。思考の隙間をくぐり抜けて、意識の端に上がってくる。漠然と抱えていたことが言語化されると、心に刺さる楔になった。
魂の位置を観測する賢者の魔法と、魂を呼ぶ反魂。この二つであの人を呼べるはず。けれど、自分に関することを全て白紙にされていたら。
可能性は十分にある。本来、死んだ者は魂の傷を修復される過程で記憶を失い、そして新しい世界に生まれてくるものだから。ただの欲で過程を歪めていいわけがない。
――結局、賢者と同じか。
この心は欲で埋まっている。どうしようもなく汚れていて、自分のために世界を騙そうとしている。
こんな自分でも、あの人は受け入れてくれるだろうか。愛して、愛されて、そんな存在になれるだろうか。確かに心が繋がったと感じたあの瞬間は、本当は妄想だったのではないのか。
――もし駄目なら、その時は。
魔族の国は契約で成り立つ。魔石を積めば、一人の人間を消してくれる魔族はすぐに見つかるだろう。
*
いつの頃からか日付を数えるのを止めていた。
時間の感覚が人間とは違う社会の中にいると、曖昧になってゆくらしい。脳内に存在しているコンテンツにはカレンダーがあるから、いざとなればそれを見ればいい。どうせ覚えていても虚しいだけだ。
*
居候をした初期に、醤油をクァンドラに見せてみたことがある。似たような調味料があると紹介されたが、それは魚醤と同じ味だった。残念だと思っていると、彼女の何かに火がついたようで、時間はかかるが開発することを請け負ってくれた。
そして今日、日本から持ち込まれた醤油とほぼ同じものが出来上がった。エルフの里では米の栽培が本格的に始まっている。
楽をして美味しいものが食べたいという願望が実りつつあった。有能な人材のもとに研究材料を持ち込めば、期待したものが完成するという恰好の例だ。職人の好奇心には本当に頭が下がる。
あの人の真似をして料理に挑戦したことがあるが、どんなに工程を真似ても同じ味にはならなかった。食材の切り方から微妙な火加減、味付けが違うらしい。見た目だけは似ていても、いつも何かが足りない。
まるで自分そのものだ。目標へ向かって走っているはずなのに、到着するのは別の場所。軌道修正をしている間に別の誰かが成功を掴んでいる。
不完全なくせに、完璧を求めて足掻き、それで失敗しているのだから情けないものだ。
*
たまに脱線をしつつ、本命の研究が完成した。それと同時に、あの人の魂がこちら側へ来てくれた。こちらでは数年しか経っていないようだが、地球ではそれなりに経過しているらしい。やはり時間のズレがあるようだ。
ともかくどこへ行くのか観測を続けた。魂の保護のため、こちらから手出しはできない。糸を頼りに追跡してみると、人間の子供として産まれてくることが分かった。
手出しはできない――が、思いつく限りの保護魔法をかけておいたから、大抵の災害では死なないだろう。死んでもらっては困る。母親の方にも魔法をかけておくべきかと思ったが、それは諦めた。本当なら今からでも護衛につきたいが、見知らぬ男に側をうろつかれては胎教に悪いだろう。
――念のために、恋に興味を持たない『お呪い』をかけておこうかな。
やはり保険は必要だ。どこの馬の骨とも知れない有象無象に、転生してきた大切な人を盗られたら、世界を滅ぼせる自信がある。特に幼馴染との結婚なんて認めない。絶対にだ。
*
戦友の結婚式に参加してきた。贈り物は入念に調べてから選んでおいたから、世間の常識とかけ離れていることはないだろう。彼らの未来が輝かしいものであることを願う。
*
聖典派が作った器に限界がきた。急激に体の魔力が低下している。クァンドラに研究室の保管を依頼して魂を移さなければいけない。
これが最後の転移になる。己の魂の情報を読み取り、一から作り上げた体だ。
成長して、歳をとり、老いて死ぬ。そんな当たり前のことが可能な、自分だけの体。共に生きていきたいという願いを叶えるための手段。
失敗しても成功しても、この情報は破棄しておこう。存在していてはいけない技術だから。
*
ユーグは天井を眺めた。新しい体は制御に時間がかかったが、馴染みが良い。慎重に作業を進めた甲斐があった。ふと日付を確認してみると、眠りについてから十六年の歳月が経っている。
「十六年!? えっ……ウソでしょ!?」
何度も日付を確認して太陽の軌道も計算してみたけれど、残念ながら間違いではなさそうだ。
「ユーグ、起きたのかー?」
急いでシャワーで清めて身支度をしていると、クァンドラが物音に気付いて部屋へとやってきた。
「おー、やっと起きたんだな。何年経っても目を覚さないから心配したよ」
「そ、それは魂と肉体の同調に時間がかかったからで……起こそうとしてくれてたの?」
「十年ぐらい経ってから、死んでるんじゃないかって心配になって。寝てるみたいだから、二日に一回ぐらいの割合で? とにかく生きてて良かったね!」
頻繁に体が変わったことで、魂への負担が大きかったようだ。自動化していたプログラムが起動して、修復作業に力の大半を取られていたらしい。せいぜい数年と見積もっていたのに、誤算だった。
「とにかく一度、由利さんの様子を見に行かないと……」
「とうとう迎えに行くのか?」
「でも十六年か……あの地域では結婚できるのは十七歳以上だったっけ? 誰かと婚約してたらどうしよう……いや、そもそも僕のことを覚えてるのかな」
悪い癖が出た。どうしようもなく不安で、足が止まる。
「もうここまで来たら行くしかないよ! 大丈夫、ユーリはちゃんと覚えてるよ!」
「そう、だといいけど」
「ユーグが自分で行かないなら、あたしが運ぼうか?」
「それはいい。君の飛行より僕の転移の方が速い。後で戻ってくるから、部屋はこのまま維持してて。自分で片付ける」
「はいはーい! 心配しなくても魔石いっぱいもらったから、何があっても守っておくよ!」
明るいクァンドラの声に見送られ、ユーグは急いで目的地へ向かう。視界が一瞬で切り替わり、豊かな秋の森の中へと転移した。
――目印が指してるのは、あの子。
麦畑に囲まれた道を歩く少女を見て、すぐに分かった。赤みがかった薄いベージュ色の髪が、歩くたびに風に揺れている。光を浴びて透明感が生まれ、愛らしい顔立ちに美しさを演出していた。俯きがちの表情はどこか憂いを帯びていて、庇護欲を掻き立てられる。
ユーグはさっと鏡を取り出して外見におかしなところがないか確認した。久しぶりに会うのに、みっともない姿は晒せない。
「変じゃないよね?」
緊張する。けれど、もう後回しにはできない。
転移して一気に距離を詰め、声をかけようとした。だが久しぶりに会える嬉しさと不安で着地地点を誤り、由利の肩にぶつかってしまった。
「ごめん、大丈夫?」
謝罪をしてから、由利には敬語で話しかけていたことを思い出す。やはり由利が絡むと焦ってしまうようだ。
「こちらこそ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて……」
見上げてきた由利の瞳は澄んだ青色だった。その姿が、仕草の一つ一つが愛おしい。言うべきことがあるのに、苦しくて言葉が出てこなかった。
「あの、私達、どこかで会ったことがある?」
不安げな彼女の声に、はっと我に返った。
何を浮かれていたのだろう。急激に心が冷めてゆく。前世のことを覚えていないのは普通のことだ。まれに前世を覚えている者もいるが、己が望む過去を引き出せるとは限らない。
こうなることは予想していた。思い出してもらうための魔法も作っている。少し力を使えば、自分の存在は思い出してもらえるはずだ。
――それで元通りになれるのか?
相手は長い時間を生きて、日本での人生を終わらせた。
その時間の中で、心が変わってしまっていたら。
愛情が薄れていたら。
むしろ恨まれていないと本当に言えるのか。
変わっていないのは、己だけではないのか。
「……君が覚えてないなら、知らないことと同じだろうね」
何も出来なかった。
魔力が霧散する。
別れの瞬間までを思い出してもらったとしても、何年も続いた彼女の新しい生活に入り込めるのか。
自分はこの世界に紛れ込んだ異物なのに。
――帰ろう。
あの部屋を片付けて、どこかへ。
改めて魔力を集める。
都合の良い夢は終わった。欠陥品だった自分にも、誰かを本気で愛せる心があったと分かっただけでもいいではないか。どうせこの気持ちも、死ねば空へ還るのだから。
「待って!」
袖を掴まれて意識が戻される。
心に消えかけていた光が淡く灯る。
もしかして、と続きを望んでしまう。
「……東雲?」
その唇から聞こえた言葉が、信じられなかった。
この世界では意味を持たない、音の羅列。けれど同郷なら通じる、暗号のような響き。
泣けばいいのか、笑えばいいのか分からなくなって、その小さな体を抱きしめた。
「やっと会えた……」
手放したのは自分のくせに。
後悔してほしくなかったのは本当。一緒にいる時に、他の誰かのことを考えてほしくなかったから。独り占めしたいけれど、そんなことを言って困らせたくなくて、意地を張っていた。だから苦しいのは自業自得。
触れている場所から溶けていきそうだった。優しく抱きしめ返してくれる力で、互いを求めていたことを知る。
もう少し。あと少しだけ、こうしていたい。そんな願いは無粋な怒声でかき消された。
「おいお前、うちの娘に何してる!?」
「お、お父さんっ」
慌てた彼女が離れる。
そういえば農道のど真ん中だった。遮るものが何もない場所で抱き合っていたら、確かに目立つだろう。収穫の真っ只中で、麦わらを手にこちらを見ている人々がいる。
鎌を片手に走ってきた男性は、何となく彼女と顔立ちが似ている。これが彼女の父親かと感慨深くなった。愛情を持って彼女を育ててくれたことは、想像するまでもない。
「あっ。この子のお父さんですか? 娘さんを僕にください!」
「帰れ」
うっかり結婚の申し込みをしてしまった。いくら嬉しかったとはいえ、浮かれすぎている。しかもこんな場所で言うことではない。出直してこいと言われるのも納得だ。
「それは後日、改めて家に招待してくれるということですね? なるほど、正式に挨拶をしに来いと」
「いや、何でそうなる!?」
「末長くお願いしますね、お義父さん」
「お、おお、お前にお義父さんと呼ばれるいわれはないぞ!」
それを言うなら『筋合い』ではないのか。見知らぬ男に娘を取られそうになっているせいで、混乱したのだろう。
しかし義父のこの反応は、俗に言うツンデレかとユーグは思った。一般的な父親というものは素直になれないから、こうして照れ隠しをするのだと前世の職場で聞いたことがある。
「……そう言えば君の名前を聞いてなかったね」
ユーグは混乱している義父を放置して、腕の中にいる彼女へ問いかけた。
転生したのだから、親にもらった名前があるはずだ。
「娘の名前も知らずに求婚したのか!?」
「だってお義父さん。早く言わないと余計な虫がつきまとうかもしれないし?」
「お前もそのうちの一人だよ」
改めて名前を尋ねると、彼女は花のように可憐に微笑んだ。
笑い方が変わっていない。些細な共通点に、また心が満たされる。ずっと、この笑顔の先にいたいと思っていたから。
「リリアーヌ。貴方にはリリィって呼んでほしいな」
「リリィ……」
それは奇しくも前世で名付けたものと同じ。彼女もそれを思い出して、同じ名前で呼んでほしいと言っている。
この喜びをどう表現すればいいのか。彼女は自分が欲しかったものを惜しみなく与えてくれる。
――だったら、もう躊躇わない。
二人で歩いていけるように。
これからはリリィのためだけでなく、二人で幸せになれる道を選んでいこうと思う。
ようやく時間が動いたのだから。
本編の補足的な話です。
終盤は東雲視点からの最終話なので『視点を変えただけの同一シーン』が苦手な方は申し訳ありません。
どうしても東雲の心情を書きたかったけど、本編に入れたくなかったので削った部分でした。
主役の由利の視点で終わりたかったので。
このまま眠らせておくのももったいないので短編に書き直して投稿しました。