ウラノス
外に出ると、かすかに吹く風が長い髪を揺らす。アリシャは大きく空気を吸い込み、吐き出した。右に左に首を横に振るが、誰かが見ている気配はない。思ったよりも自由に行動できることに安堵した。生粋の地味スキルがここで活きているのかもしれない。
アリシャは花の香りに誘われるように庭に向かって歩き出した。少し歩けばカミルの言うとおり花畑が広がっている。ピンクに黄色、赤の花が誇るように咲いている。アリシャはしゃがみ込み匂いを嗅いだ。甘い匂いに自然に頬が緩む。
この一週間、笑っていなかったなと思い出す。怒涛の勢いで変わる状況に、ついて行くのでやっとだった。抜け出した誕生パーティーで聖龍と出会い、そのせいで王宮に連れてこられた。そして、第一王子の婚約者となることを告げられたのだ。ただの伯爵家の令嬢が。混乱しないはずがない。
貴族の社会では政略結婚は決して珍しいものではない。けれど、婚約者となるまでにはお互いを知り合う時間が設けられるのが常だった。けれどアリシャの場合それすらないのだ。お互いを知ることすらなく、出会った瞬間にすでに婚約が決まっていた。
アリシャの口から無意識のため息が出る。ため息は出さないようにしていたはずなのに、それでも出てきてしまう現状に、アリシャは苦笑を浮かべるしかなかった。せめて前を向こうと、下を向く顔を持ち上げる。そのときだった。
「ウルー」
遠くでそんな声が聞こえた。数日前の出来事を思い出させるその声に、アリシャは空を見上げた。
「ウールー」
そこにあったのは、綺麗な白。青い空に浮かぶそれは、大きな翼を広げ、向かってきた。遠くから見ても、美しい。
「白龍…」
もう会えることはないのだろうと思っていた。けれど、だんだんと自分に近づいてくる白龍の姿に、カミルの言葉は本当だったのかもしれないとアリシャは思う。人間と心を通わす白龍が彼で、その人間が自分ではないのかと。そして、心が落ち込んでいる今、自分の元に駆けつけてくれたのかもしれないと。
白龍が翼で風を切る音が徐々に近づき、ゆっくりと高度を下げた。風圧で強い風が吹く。アリシャは思わずスカートを押さえた。長い髪が顔に絡みつく。それをほどきながら、白龍に目をやる。
「ウー!!」
綺麗に翼を折りたたみながら、どこかうれしそうにそう鳴く。
「…会いに来てくれたの?」
「ウル!」
頷くような白龍のしぐさに、アリシャは笑みを浮かべた
「ありがとう」
首を伸ばしてきた白龍に、アリシャはそっと手を伸ばし、頭を撫でる。白龍は嬉しそうに目を細めた。
「来てくれてうれしいわ」
「ウ~」
「私がつらいときに傍にいてくれるの?」
「ウル!」
「…ありがとう。あのね、…なんかね、全部、嫌になっちゃったの。私が第一王子の婚約者なんて、なれるはずもないのに、何も言えない。決まったことなら受け入れるべきなのかもしれないけれど、自信もない。私じゃなくルシアだったら、第一王子の婚約者だって務まるのに…。何もできない自分がすごく嫌なの」
「ウ~?」
どこか首を傾げるようなしぐさにアリシャは微苦笑を浮かべた。
「こんな時、あなたみたいに空を飛べたら、すっきりするのかもしれないね」
「ウルッ」
思わず愚痴がこぼれる。もし祖母がここにいたらきっと叱られてしまう。それでも言わずにはいられなかった。そんなアリシャの言葉に反応したように、白龍はアリシャの服を口で掴み、持ち上げる。
「え…?」
急に変わった視界に驚きの声を上げる。けれど不思議と怖さはなかった。そのまま持ち上げられ、ゆっくりと白龍の背中に降ろされる。うろこのような皮膚には、よく見れば小さな毛が生えていた。白龍の翼が少しだけ持ち上がる。アリシャが誤って落ちることのないようにという配慮に思えた。思いのほか温かい白龍の背中に、アリシャはしっかりと掴まる。
白龍は持ち上げた翼をゆっくり動かし始めた。浮遊感に周りを見れば、少しだけ浮いているのがわかる。アリシャの願いを実現するために空を飛ぼうとしてくれている。思い切り空を飛んで見たかった。けれど、アリシャは今や第一王子の婚約者である。そんな立場で黙って王宮から出ていいのかわからなかった。けれど、悩んだのは一瞬。
「…行って!」
気が付けばそう叫んでいた。気づかれないうちに戻ってくれば問題ない。そう結論づける。
アリシャの言葉に白龍は嬉しそうに翼を広げた。どんどんと上昇していく。空の綺麗な青に近づいていく白龍の背の上で、アリシャは思わず笑みを浮かべた。
頬に受ける風は気持ちよく、アリシャは思わず目を細めた。空は青く、下を見れば、木々の緑が目に映る。
「気持ちいい」
白龍の背中の上は安定していて、怖さはなかった。頭と翼でアリシャに当たる風を防いでくれているのがわかる。どうしてここまで自分に尽くしてくれるのか、アリシャにはわからなかった。けれど、初めて白龍に会ったときと同じ「繋がり」を感じていた。
「ねぇ、…名前がないと不便ね」
呼びかけるために声をかけたが、ふとそんなことを思う。「白龍」でいいのだが、龍の王族がみんな純白なのならば、「白龍」ではこの龍のみを指すことができない。
「…ウラノス」
初めて会った時も、今日も、目に焼き付くほどに綺麗な青空。だった「ウラノス」はナーリ国で「綺麗な青空」の意味を持つ言葉。
「ウラノスって読んでもいい?」
「ウールー」
白龍はどこか少しだけ高い声で返事のように答えた。その声がどこかうれしそうだったので、アリシャは思わず笑みを浮かべる。
「じゃあ、あなたはウラノスね」
「ウル!」
「…ねぇ、ウラノス、私が急にいなくなって、カミル王子たち、心配してるかな?それとも……いないことにも気づいてないかな?」
アリシャは一人になりたいときたびたび、家の前にある森に逃げ込んだ。そんなアリシャを誰も探しに来なかった。一人になりたくて家を抜け出している。それでも心の奥底では探しに来てもらいたいと思っていた。きっと、ルシアが家を抜け出せば、みんながすぐに探し回るのだろうなと思うと、胸が苦しかった。森の中から家の様子をうかがえば、いつもと変わらない様子で、いてもいなくても一緒だといわれている気がした。
きっと今回も自分を探しに来るわけないとどこか自嘲的に思う。第一王子の婚約者と言えど、お飾りだ。それなら、こんな風に黙って王宮を飛び出しても問題ないのかもしれない。
もしかしたら自分は怒っているのかもしれない、とアリシャは思った。突然、連れてこられ、突然、第一王子の婚約者になったと言われた。準備も何もせず、いきなりだ。そして、第一王子の立場で君を好きになると言われたのだ。嘘でも、一目で君を気に入った、君がいいのだと言えないものだろうか。幼い頃から政略結婚をする覚悟はあったつもりだが、順序を一つも踏んでいないこの婚約にもやもやを感じるのはしょうがない。だからこそ、アリシャは逃げ出してしまいたかったのかもしれない。王宮からも、婚約からも。
「ウラノスには何でもお見通しってこと?」
「ウールー!」
ウラノスの反応にアリシャは小さく声を出して笑った。この行動は自分が望んでいたことなのだろう。そう思えば自ずと向かっている場所の見当がつく。