プロローグ
雨の降る森の中、まるで死んでいるかのように倒れているボロボロな一人の少年がいた。
体中に傷があり、今もドクドクと血が流れている。そんな少年の目は虚ろで、夜空のような紫紺色の瞳には光がない。少年は、ここに来るまでも多くの現実に直面し、もがき苦しみ、抗い続けた。
しかし、この世界の理不尽は、少年が越えてきた壁とは比べ物にならないほど強大で、今まで積み上げてきた努力を一蹴した。少年はそれに打ちひしがれ、遂に心が折れてしまったのだ。人並み以上の精神力を持ち合わせているつもりだった少年は、自身の無力さを嘆き、絶望し、この世すべての理不尽を呪っていた。
視界が暗くなり、体の感覚も徐々に失われ、薄れゆく意識の中で、少年は後悔の念を抱いてもいた。
幼いころ、共に過ごした一人の少女。離れ離れになる前に、ある約束をしたその少女と、高校の入学式で再会したが、あることに対する恐れから、声をかけることはなかった。
そんな少女とまともに会話したのは、つい数日前、実に十年ぶりのことだった。その日の夜、月の光で照らされた室内で、二人は紅茶を飲みながら思い出話に浸り、その中で少女の抱える怯えを知った。それを知った少年は、幼い日に誓いをしたあの時のように、ある約束を交わした。
——何があっても僕は死なない。そして、何かあった時には、守ってほしい。
少年は男として情けない気持ちもあったが、ちっぽけな力しかない少年には、それ以外に言えることがなかった。それを聞いた少女は、驚いたような表情をしたが、直ぐに頬を赤らめ、決然とした目で頷いた。
しかし、少年はそれを守ることができなかった。その気持ちと、脳裏を過る光景に、少年の折れた心がわずかにざわめいた。約束をした夜に見た少女の春のような暖かさを帯びた笑み、そして耳に、いや、心に直接語り掛けるような声を少年は聞いた気がした。
——ハルくん。
「っ!」
少年はその声を聴くと、虚ろだった左の瞳に光を取り戻し、目を見開く。力の入らない体を鞭打って力を込め、血があふれるのも気にせず立ち上がった。少年の両脚は今にも崩れてしまいそうなほど震えていたが、思い切り力を込め、まっすぐと前を見据えた。
その瞳には、決意と覚悟、生への渇望、そして、自身に襲い来るであろう“敵”への殺意で満ちていた。
(こんなところでくたばるくらいなら、人間性を捨ててでも生き抜いてやる。俺は、俺の敵を殺す。それを軽蔑されようと、失望されようと、生き抜いて、戦って、故郷へ帰るんだ! 誰が何と言おうと、この覚悟は本物だ。だから……)
ここから先、自身に待ち構えているだろう困難、心のどこかで思っている不安、それらを越えるために、少年は歩き出す。満身創痍の体ではあるが、その足取りは、確固たる意志を感じさせる。
霧で先の見えない森を、少年は自分の願いをつかみ取るために、躊躇なく進み出した。
傷だらけの少年、天宮ハルトがこれからの道を歩む話は、今は置いておくとして、こうなった経緯を綴ろう。彼がこの異世界“エニクス”に召喚されたのは、今から数週間前に遡る。
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「はぁ……」
高校二年生の天宮ハルトは、ここ最近でますますため息が増えた。整えた黒髪、夜空のようと評される紫紺色の瞳、ほどほどに整った顔立ちの彼が、現在のように無気力気味になったのは、この公立高校の入学式以降である。
「相変わらず無気力だな、ハル」
ハルトに声をかけてきたのは、もう十年の付き合いになる友人だった。
「あぁ、おはようカズ……」
そこにはやや大柄な体格をした少年、大川和人がいた。小学校二年生の時に転校してきた和久は、黒髪を短く切りそろえ、やや強面なことから、初対面の人からは怯えられがちだが、「話してみると案外いい奴」であり、友人が多い。力仕事などを頼まれることもあり、後輩からも頼れる兄貴のように慕われている。
「お前、まだ声かけてないのか?」
「だーかーらー、僕にそんなことできる度胸があるように見える?」
「お前なぁ……」
和斗は呆れた目でハルトを見ている。そんなハルトは、ある方向に目線をやった。
その目線の先には、誰もが振り向くほどの美少女がいた。
一ノ瀬美咲、クラスのマドンナ的存在で、学校で知らない者はいない有名人である。
腰まで届くほど長い髪、クリッとした輝く紫がかった黒い瞳、桜色の唇、均整の取れた体、バランスの整った顔立ちをした少女は、才色兼備を体現したような人物だ。
心優しい性格で面倒見がよく、責任感も強いという非の打ち所がない人格とその美貌から学年問わず絶大な人気を誇り、更に成績優秀で家事も得意という優秀すぎるくらいに優秀な彼女は、ハルトにとって、忘れられない思い出の中にいたのだ。
しかし、ハルトはそんな美咲に声をかけることができないまま、二年生を迎えた。
内心では諦めている部分もある。なぜなら、美咲の隣には学校一のイケメンがいるのだから。
羽山勇輝、薄茶色の髪に女子を魅了する甘いマスク、長身が目を引く。成績優秀スポーツ万能な完璧超人の彼は、といることが多く、噂では付き合っているのではとも言われている。
「はぁ……」
ハルトは再びため息をついた。これで本日六回目である。
「おはよう天宮君。今日も元気なさそうね?」
そんなハルトに声をかける凛とした声をした少女がいた。
黒い髪を長いポニーテールに伸ばし、引き締まった体と声と同じように凛とした雰囲気が特徴の少女、東道椿の姿があった。
「……おはよう東道さん。これが僕の通常運転だよ」
「ならいいのだけれど……。本当に何かあったらいつでも相談してよね?」
「まぁ、何かあったら、お願いするかも……」
勇輝とは家が隣同士の幼馴染で、美咲の親友である椿は、175㎝という女子にしてはかなりの高身長で、体格の良さと雰囲気から人気があり、剣道部として全国大会には何度も出場しており、一部の女子たちからは「御姉様」と呼ばれている。
世話焼きな性格の椿は、何かと無気力気味なハルトのことを気にかけており、ハルトも苦労人である椿の“苦労”も知っているため、それなりに親しい関係を持っている。
「よぉ東道。こいつ、相変わらずこんな感じでさぁ……」
「大川君もおはよう。まぁ、大川君も何かあったら言ってちょうだいね?」
「あぁ。その時は頼むわ」
ちょうどその時、始業のチャイムが鳴り、みんなが慌ただしく動き始めたのを機に椿は自分の席に戻った。教室の窓側、一番後ろの席に座るハルトの前に和斗が座る。ハルトは時々外の景色を眺め、考え事に耽っている。
もちろん、完全に自分の世界に入るのではなく、半分くらいは授業に意識を集中することで担当教師に怒られるのを防いでいるのだ。だから以前和斗に「質が悪い」と言われたことがある。ノートを取りながら時々外を眺める。そうしていくうちに、自分の気持ちに整理がつき、余計なことを考えなくて済む気がするのだ。そんな時間があっという間に過ぎ、授業の終わりのチャイムが鳴る。
次の授業の準備をしながら、気づけば 美咲のことを目で追っている自分に、なぜか自己嫌悪に陥る。延々と繰り返す自分が、ハルトはたまらなく嫌いなのだ。
「はぁぁぁぁぁぁぁああ……」
「溜息長くねぇか!?」
机に突っ伏して盛大な溜息を吐き出すハルトに、和斗は思わずツッコミを入れた。
「はぁぁ……。なんか無限ループに陥ってる気がする……」
「む、無限ループ?」
「そう。うまく説明できないけど、気持ちの整理をしようとする。→気づいたら目で追っている。→そんな自分に嫌悪感を抱く。→気持ちの整理をする……なんてことを延々繰り返しているから、なんか頭が無駄に疲れた……」
「お前さぁ、そんなことならさっさと本人と話してはっきりさせちまえよ」
「それができたら苦労しないのに……」
「お前ってそんなに面倒くさい奴だったっけ?」
和斗からすれば、以前のハルトは目的に向かってまっすぐに行動する印象があった。しかし高校入学後から急に変化してしまったことに、正直困惑し、不安を抱いていたのだ。
「……なぁハル。お前が抱えている悩みとかがさ、もしも杞憂だったらって考えたことあるか?」
「ない」
「おい!」
またしても和斗の鋭いツッコミが入る。それでも投げ出さずに、和斗は自分の親友のために言葉を選んで話を続けた。
「ハル。俺からすれば、お前が考えるほど深刻じゃねぇと思うぞ?」
「と言うと?」
「いいか? お前にはほかの連中にはない有利なポイントがある。それは今現在、お前しか持っていないものだ。相手があの羽山だっていうだけで、実はお前の持ち味を生かせば打開できると思うんだが?」
「あんな完璧超人に敵うわけない……」
「はぁ……。お前、昔こう言ったよな? 『人間っていうのは、不完全であるからこそ魅力があり、生きる意味を持ち、存在しているんだ』って、これはお前の持論だったよな?」
「う、うん……」
「あいつが完璧だろうが、お前にはお前なりの魅力があると、俺は思うぞ? 確かに羽山と比べると、お前が実力を隠している部分もあるけど、劣ると思う。でも、それがどうしたよ? だから何だよ? ようはお前が“今いるそこから一歩踏み出すかどうか”じゃねぇの? そこで立ち止まったままで、何が変わる? 俺から言わせてもらえば、何にも変わんねぇ。どんな結果になろうと、挑戦することに意味があるんじゃねぇか? 結果次第では当たって砕けるかもしれないけど、今お前が陥っているこの状況よりはずっとマシで、そこから先に進めるはずだろ? 違うか? 今のお前は、自己完結しようとして、煮え切らない思い持て余している半端野郎に見える」
「うっ。た、確かに……」
「だったら、自分のタイミングで別にいいからさぁ、一回話はしたほうがいいと思うぜ?」
ハルトは数秒ほど思案するように俯くと、深呼吸してまっすぐに前を見据えたような目になった。決心がついたようだ。
「……正直、今自分から話しかけるのは難しいし、時間がかかるかもしれないけど、やってみるよ。そうだね、止まっていても何も始まらない。忘れていたよ」
「ようやくか。まぁ、今すぐじゃなくていいから、頑張れよ?」
「うん。頑張ってみる」
「……って、次の授業、移動教室じゃねぇか?」
「ん? あ、そろそろ移動したほうがいいね」
「だな」
次の授業のために教室を後にしたハルトと和斗を、じっと見つめる少女の姿があったが、ハルトはそれに気づいていなかった。
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午前の授業が終わり、昼休みになった学校は、朝以上ににぎやかだった。
「いやぁ! ようやく飯だぁ!」
「ほんと、この時間になると元気だよね、カズは……」
ハルトは自分で作ったお弁当を食べながら呆れを含んだジト目を、購買で買った大量のパンやおにぎりを両腕で抱える和斗に向けた。
「わかってねぇな~。飯は人間のエネルギー源! そして俺にとっては大事な学校での数少ない楽しみ! これを元気にやらずして何が学校生活か!」
「カズも大概寂しいね」
ハルトの冷静なツッコミが飛ぶ。
「うっ。で、でもよぉ。それを言ったら、ハルなんかまるで死人みたいなオーラ纏っているだろう? それに、お前なんか稽古か勉強くらいしかやってねぇだろ? 自分から遊びに行ったり、遊びの誘いを受けたところを、俺は見たことないんだけど?」
「……別に遊ぼうと思わないし」
ハルトは少しだけムスッとした表情になり、若干言い訳じみたことを言う。これには和斗も呆れてしまう。だが、ハルトが何のためにそんな生活をしていたかを理解しているからこそ、少し複雑な気持ちになってしまうのだ。
その後も他愛のない話をするハルトと和斗。そんな二人を美咲はじっと見つめていた。
「どうかしたの?」
「え? ううん。何でもないよ? 椿ちゃん」
「そう……」
ハルトをじっと見つめる美咲に椿は声をかけるが、自分のことを隠すような返事をされてしまい、気まずそうな表情をする。そんな二人のやり取りを見ていた勇輝と廉太郎は、そろって首を傾げる。
——と、そんな時だった。
突然教室が光に包まれ、スパークが迸りだしたのだ。
「な、なんだ!?」
「こ、これって!?」
「みんな! 気をつけろ!」
ハルトも突然の事態に目を見開き、和斗と視線を合わせた。そして光はますます強くなり、白く塗りつぶした。
教室の中が強烈な光に包まれたかと思うと、フッと光は消え、中にいたはずの生徒の姿が、影も形もない。そして、のちにこれは“神隠し事件”として知れ渡るようになる。
——これがすべての始まりとなる。
初めての投稿で、非常に緊張しております。
これを読んで楽しんでいただければと思っております!
不定期で申し訳ないのですが、よろしくお願いします。