朝霧木蔦
「これ、俺なんだけど」
佐藤から手渡されたスマホを美夜は見た。
画面には紛れもない佐藤さんの小さな写真が何枚かあり、その全てが正面を向いていない。
写真の下には朝霧木蔦は、日本の小説家。ウィキペディアと書かれている。
「あさぎりきづた」
美夜は顔を上げず言った。
写真よりずっと美しい本人が目の前にいるのに、スマホの画面から目が離せず、画像をすべて表示にした。
するとまだ見たことのないスーツ姿の佐藤や、半そでのTシャツ姿の佐藤の写真が出て来た。
顔も少し今より完成されていなくて、美人女優さんの学生時代の写真を見ているように、やっぱりこの頃から可愛かったんですねと言った、月並みな褒め言葉しか浮かばないのが、恥ずかしく口に出せなかった。
「美夜ちゃん?」
顔を上げると自分を労わるような瞳で見る佐藤さんがいた。
「あの、取りあえず、無職じゃないってわかってもらえた?」
「えっ?」
予想もしていなかった佐藤の発言に美夜は驚いた。
美夜は佐藤が無職だとは思っておらず、仮に無職だったとしても別に問題だとは思っていなかった。
働かざる者食うべからずとか言うけれど、どうしても働けないのなら仕方がないと思う。
これは美夜がまだ高校生で労働による現金収入を得たことがなく、結婚相手に望む年収だとか職業なんてものを漠然と想像することすらないからだと思う。
美夜は父親の職業を会社員ということと、勤めている会社の名前を知っているくらいで、具体的にどんな仕事をしているのか知らないし、母親が勤めている介護施設の名前は知っているし、一か月のシフトも台所のカレンダーに書き込むため知ってるけど、その施設で何をしているのかは知らない。
姉二人は看護婦さんで市内の私立病院に勤めているけど、病院に縁のない美夜は働いている姉達を一度も見たことはない。
そう、何と言うか、まだ働くと言うことが身近ではないのだ。
だから将来何になりたいかもまだわからない。
ぼんやりと大学に行くのかなって思っている。
一人暮らしなんてできそうもないし、お父さんとお母さんが許すはずないから、家から通えて合格できそうな大学に。
「美夜ちゃん?」
「あっ、すみません。えっと作家さんだったんですね?すみません。私全然本とか読まなくて」
「ううん、そんな知らなくて当然だよ」
「でも、こんなに写真いっぱいあって、有名な、その、方、なんですか?だったらすみません」
美夜は再びスマホの画面を見た。
画像には佐藤の写真だけでなく、美夜でも知っているような若いイケメン俳優と呼ばれる人の写真や女優さんの写真も混ざっていて、映画のポスターらしきものもあった。
そのイケメン俳優より佐藤さんの方がずっと綺麗で繊細だと思ったけど、それは言う必要ないだろう。
この容姿が世間にはもう披露されているのだ。
もうきっとさんざん言われている。
関連キーワードなど見なくてもわかる。
朝霧木蔦 イケメン 彼女 大学 結婚
そんなところだろう。
此処に滋賀が加わったら、ちょっと面白いのにな、そんなことを思い美夜は顔を上げた。
「美夜ちゃん、俺は別に言うつもりはなかったんだけどね、ちょっと美夜ちゃんに手伝って欲しくて」
「何をですか?」
小説を書くことだとは思えないけど、この流れなら小説に関することだろうとは流石に美夜でも想像できた。
でも何だろう?
誤字脱字?そんなものわかるわけがないし、プロの作家さんなら去年ドラマでやってたみたいにそれを見つける人が出版社にいるんだから違う。
佐藤さんが例えば漫画家さんとかだったら、このポーズ取ってとか有り得なくもなさそうだけど、作家さんって小説書いてるんだよね。
小説って何にも書かれていない四百字詰め原稿用紙に字を敷き詰めていくわけだよね。
美夜は中学の夏休みの宿題の読書感想文を思い出し、ぞぞっとした。
毎年大変だった、原稿用紙三枚分も何かを書くと言うのは。
「美夜ちゃん。あのね、俺と歩いてほしいんだ。彦根を」
「へっ?」
「ごめん、いきなり。駄目かな?勿論お礼はするし、二時間くらいでいいんだけど」
「えっと、ただ歩くん、ですか?彦根を?」
「うん」
「あの、彦根って何にもないですよ。お城くらいしか」
「お城有れば十分だと思うよ。国宝だし」
「そうですか」
「うん、それに別に何もなくていいんだ。そこで何をするかだから、風景描写はそんなに」
「はあ」
よくわからないが頷いた。
風景描写は美夜が本を読むのをいつも邪魔してくれる。
冒頭にこれがあるだけでもう読む気をなくす。
皆これを乗り越えていくんだろうけど、残念ながら美夜は今だこの壁を越えられない。
せっかくヒースクリフさんと言う名前を覚えたのに、屋敷の入ったはいいけれど、そこから一向に進まない。
優ちゃんの言っていたこれ以上の愛の告白はないという「私はヒースクリフです」など、いつになることやら。
まだヒロインは姿も見せていないのだ。
「彦根が舞台の小説を書きたくて、毎日歩いているんだ。でもいつもは歩いてるといくらでも会話文は思いつくんだけど、何か今回はさっぱりで、だから誰かと歩いてみたいなって、それで、ダメ、かな?」
「あー、私で良ければ」
「本当?」
佐藤さんは控えめに躊躇いがちに聞いてきたが、初めて声のトーンが変わるのを感じた。
男の人なんだから高い声なんか出るはずないのに、心持高く弾んだ少し熱のこもった声。
もし佐藤さんが同性で同級生だったら、美夜の手を取り顔をずいっと近づけて瞳をキラキラとさせて、こんな一面もあるんだと、高値の花と思っていた清楚な学校一の美少女のギャップに驚いたりする場面だろうな。
こういう発想はできるのに、これを文字で読むのは苦痛なんだ。
もう全部漫画にしてほしい。
彼が毎日読んでいるのが漫画だったら良かったのに。
そうしたら、こんなに考えなくてもいいのかな。
「美夜ちゃん?」
美夜がスマホに目を落とし眼鏡の彼のことを思い出すと佐藤は心配そうな声で名前を呼んだ。
「すみません。いつにしますか?」
「いつでもいいよ、明日は学校お休み?」
「明日は土曜日なので部活があるんです。あの、日曜日じゃダメですか?」
「日曜日は部活ないの?」
「はい、日曜と水曜が休みなんです」
「そう、じゃあ日曜日でいい?何時がいい。美夜ちゃんの時間に合わせるよ」
「何時でもいいです。一日暇なので」
「友達と遊びに行ったりしないの?」
「彼氏がいるので」
「そうなんだ、美夜ちゃんはいないの?」
「はい、いません」
「そう、じゃあお昼一緒に食べてくれる?」
「はい」
「じゃあ十時に此処でいいかな?」
「はい、じゃあ明後日の十時に此処で」
「うん、じゃあ又明日」
「はい、又明日」
自転車に跨り家に帰った。
家に帰ってすることはもう完全に決まっていた。
夕飯の前に「朝霧木蔦」を調べる、これ以外することなど何もない。
花恋ちゃんにラインを送るのも、その後だ。
まずは「朝霧木蔦」を知らなければならない。
ああ、でも本名だけは知ってるな。
佐藤、佐藤新一さん。
滋賀県彦根市在住。




