夏目漱石
翌日学校に行っても、坊ちゃん熱が続いている様に、体の血が沸騰している様に熱かった。
リュックの中には佐藤さんから借りた「坊ちゃん」が入っている、お守りのように。
昼休み今日も高瀬君は本を読んでいる。
顔をわざわざ左に向けないと見えないのがもどかしい。
でも席が近すぎたら見つめているのがばれてしまうから、この距離が本当は理想的。
部活中はひたすら時間が過ぎるのを待った。
家に帰るとお弁当箱を掴み自転車に跨ってペダルをいつもより早く漕いだ。
早く佐藤さんに話したかった。
祖母にお弁当を渡してすぐに帰ろうとすると開封されたキャラメルコーンの赤い袋を無言で手渡された。
母に頼んで買ってきてもらったのだろうが、多分少し食べるだけで良かったのだろう。
台所から輪ゴムを貰い赤い袋をぐるぐる巻きにして祖母の家を後にした。
佐藤さんの家のチャイムを鳴らすと佐藤さんはすぐ出て来て、家に招き入れてくれた。
「台所でいい?」
「はい」
佐藤さんは冷蔵庫から冷たいペットボトルのレモンティーを出してくれた。
「美味しいです、すみません。急いできたから喉渇いてて」
「そうだね、顔真っ赤だね」
「そんなにですか?」
美夜は両手で頬を押さえた。
手も熱いから頬の熱を冷ましてはくれない。
「美夜ちゃん、色白いからね」
「佐藤さんも白いです」
「そう?何か食べる?」
「いえ、もう夕飯なので」
「そう、残念」
「あの、坊ちゃん読みました。すっごく面白かったです」
「そう、それは良かった」
「はい、面白くって一気に読んじゃいました。疾走感があるっていうか」
「あるね」
「どんどん喋ってくれるんです、勝手に」
「勝手にかー、そうか、そんなこと思うんだ」
「はい、坊ちゃんが可愛いです。清さんのこと思い出したり、清さんも可愛いんです、越後の笹飴調べちゃいました」
「俺も調べたよ、調べるよね」
「はい、本当に最初から最後まで面白かったです、でも最後清さんが死んじゃうと思ってなかったので、驚いたんですけど、もう一度読んだら最初に書いてあったんですね。今となっては返してやれないって」
「十倍にしてね」
「清さんがヒロインだったんですね?」
「そうなるね」
「読んでてすっごく気持ち良かったんです、こんなの初めてです」
「そう」
「涙をぽたぽたと落としたって可愛い表現ですよね」
「可愛いね、目に浮かんでくるでしょ?」
「はい、あの、まだお借りててもいいですか?」
「いいよ、あげる」
「え?」
「あげる。もらって」
「でも」
「いいよ、夏目漱石は全集持ってるし、一冊くらい持っててもいいと思うよ、ひょっとしたらお家にない?」
「わかんないです、本棚見ないし」
「夏目漱石は一家に一冊って言うより、一人一冊って作家だから貰っといて」
「はい」
「狭いけど、また本の部屋行く?」
「はい」
時間がないから一気に喋っちゃったけど、昨日言いたいと思ったことはほとんど言えた。
でも本の感想と言うより、自分の体感だけど。
「でも良かった」
「何がですか?」
「昨日さ、美夜ちゃん帰ってから考えてたんだ。高校生の女の子に勧めるのに坊ちゃんはどうだったんだろうなって」
今日も圧死させるくらいの量の本が静かに鎮座している。
狭い本棚と本棚の間でまるで隠れる様に二人は並んだ。
「少し子供っぽかったかなって、でもそんなに面白かったって言ってもらえると良かったんだね?」
「はい、今まで読んだ本で一番面白かったです、と言っても全然本読んでないから、あれなんですけど」
「これからだよ、夏目漱石読む?」
「はい、わからないので、佐藤さんが貸してくれたの読んでいきます」
「そうだね、同じ作家さんの続けて読んだ方がいいと思うよ、俺いつもそうしてた、というより読みたくてたまらなくなって、全部読まなきゃ気がすまなくなってはまるとその作家ばかり読んでた」
「夏目漱石、全部ですか?」
「うん、書簡集も読んだし、奥さんが書いた本も読んだ。面白いよ、文豪の手紙」
「人の手紙がですか?」
「うん、でもそれは取りあえず置いといて、小説読もう」
「はい」
「吾輩は猫であるは少し長いから、夢十夜にしよう、俺実はこれ大好きなんだ」
「大好きですか?」
「うん」
男の人が大好きというのをこんなに近くで聞いたのは初めてだった。
その声が無邪気で幼ささえ感じられ、一瞬だけ同級生の男子と話しているような錯覚を覚えた。
「書き出しがいいんだよ。夏目漱石のはいつも。よく思いつくなって思う。書き出しで完璧に掴むんだ」
「そうですか」
「うん、坊ちゃんの最初憶えてない?」
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」
「覚えちゃうでしょ?」
「はい、確かに。野田は大嫌いだ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまった方が世界のためだ」
「日本の、だね」
「あー」
「でも美夜ちゃん、覚えるくらい読んでくれたんだ」
「面白くて」
「面白いよね」
「はい」
それは「こんな夢を見た」から始まっていた。
第十夜まで読むと第一夜に戻って、第一夜だけ何度も読んだ。
第一夜が一番好き。
明日佐藤さんに言ってみよう。
佐藤さんはどれが一番好きかな。
高瀬君は読んだことあるかな。
高瀬君はどれが一番好きだろう。
「百年はもう来ていたんだな」
普通の単語だ。
難解なことなど少しもない。
辞書を使わなくても美夜でもわかる。
特別な材料など何も使っていない。
ありふれた誰でも使える言葉を組み合わせ方だけでこんなにこんなに美しくできるなんて。
「百年はもう来ていたんだな」
部屋を暗くし目を閉じても何度も何度もポツリと呟くような男の人の声が聞こえてきた。
それがいつの間にかお婆さんの声に代わり、お墓のなかで坊ちゃんが来るのを楽しみに待っておりますと何度も言った。




