今日中に読めると思うよ
玄関に入って右の部屋は台所と炬燵の部屋だった。
炬燵の上にはハードカバーの本が何冊か積まれている。
台所のテーブルにも文庫本が何冊か乗っている、ちゃんとブックカバーを付けて。
佐藤さんがたい焼きを電子レンジで温めてくれて、二人で台所の椅子に腰かけ食べた。
苦いコーヒーが美夜は飲めないのでお砂糖と牛乳を入れてもらった甘いコーヒーと一緒に。
「美味しい?」
「はい、あんこいっぱい入ってて美味しいです」
「良かった」
佐藤さんはマクドナルドで見た顔と同じ顔で美夜を見ていた。
美夜がご飯粒を頬につけていたら綺麗な指先でそれを取ってくれるような、お母さんみたいな顔。
たい焼きを食べると再び本の部屋に戻った。
本棚が倒れたら本に生き埋めにされてしまいそう。
でも自分はそんな死に方はしないだろうと美夜は思う。
その死に方をするには美夜は本を読まなさすぎる。
佐藤さんは埋まっても笑って出てこれそう。
意外と底力がありそうだし。
「坊ちゃんでいい?」
「はい」
「本当に面白いよ。兎に角読んでみて。これは命より大事な栗だ」
「え?」
「面白いよ、最初っから最後まで飽きないで読めるよ、着地が見事に決まってる、完璧な小説」
「着地?」
「うん、ホントは美夜ちゃんにあげてもけど、返す約束しないと読めないだろうから返しに来て」
「はい」
「読みだしたら一気に読めると思うよ、俺は一気に読んだ。ページめくる手止まらなくなって」
「そんなことあります?」
「あるよ」
「あの、佐藤さんの本は?」
「俺の本?」
「ここにはないんですか?」
「二階にあるけど、俺の本はいいよ」
「どうしてですか?」
「他に面白い本いっぱいあるから」
知り合いに自分の本読まれるのって恥ずかしいものなのかな。
でも、本屋さんに行ったら置いてるし。
昨日本屋さん行ったのに探すの忘れてた。
何て要領が悪いんだろう。
おとぼけって言われてもしょうがない。
「美夜ちゃん。世の中には本がいっぱいあって、生きてるうちに読める本は限られているんだよ。俺も美夜ちゃんくらいの年の頃思ったよ。どこまで読めるかなって。全部読んでから死にたいなって」
「そんなこと思ってたんですか?」
「うん、小説書きだしてからは、これ書き終わるまで死ねないなって、いつも思ってた」
作家さんっていうのは皆こうなのだろうか。
死が酷く身近だ。
まるで足元に置いてある。
いつでも手に取れるように。
「美夜ちゃん、高瀬君と話せるといいね」
「えっ?はい、でも何て話しかけたらいいですか?」
「何読んでるの、でいいんじゃない?」
「聞かれたいですか?というより本読んでるときに話しかけられたいですか?」
「うん、だって教室なんて人のいっぱいいる所で読んでるってことは、話しかけられても文句言えなくない?」
「そうですか?」
「うん、だって誰にも知られたくなかったら家で読むし、文芸部に入ってるってことは部活で読んだ本の話皆でしてるだろうし」
高瀬君が快活におしゃべりしているところを想像することができない。
最も高瀬君のこと見てるだけで何も知らない。
一年間ただ見てた。
教室の騒めきの中に時々聞こえてくる低い声に耳を澄ませた。
クラスが替わってしまったらしまったらそれすら聞くことが出来なくなる。
休日の寂しさが永遠に続いてしまう。
「頑張って読みます」
「うん、頑張って」
「春休み中に読めますよね?」
「今日中に読めると思うよ」
「そうですか」
この薄さならそうだよね。
ぺらぺらだ。
ポケットに入れても重くなさそう。
「読めたら坊ちゃんの話しようね」
「できますか?私読書感想文ホントに嫌いで」
「そんな長いのいいよ、面白かったでいいんだから、難しく考えないで、また一緒に美味しいもの食べよう」
「はい」
「今日食べたもの全部美味しかったよ、久しぶりにいっぱい食べた」
「いつもあんまり食べないんですか?」
「うん、そんなに食べないかな。でも今日食べるのっていいなって思ったから、今日からはいっぱい食べるね」
「はい、いっぱい食べてください」
「うん」
帰り際昨日渡せなかったと言ってガーナ焦がしミルクの板チョコをくれた。
家に帰りスタジャンを脱ぎ「坊ちゃん」を手にベッドに寝ころんだ。
鉄は熱いうちに打て。
せっかくだから貰った板チョコも開ける。
今日のは誰にもあげない、一人でこっそり食べる。
チョコレートを舌で溶かすのは大好き。
噛んじゃうのはもったいない。
舌で丁寧に丹念に形を無くしていく。
坊ちゃんは面白く、お母さんに「お婆ちゃんの所行って」と呼ばれるまでずっと読んだ。
「お婆ちゃん、坊ちゃん読んだことある?」
お弁当箱を開けてお豆腐ハンバーグに微妙な顔をしている祖母に遂聞いてしまった。
誰でもいいから聞きてみたかった。
佐藤さんにはもう一回読んで今夜整理してから話したい。
「当たり前でしょ。夏目漱石なんて皆読んでるよ、道後温泉もお爺ちゃんと行ったし」
「行ったの?」
「行ったよ、お団子も食べた」
「美味しかった?」
「普通」
「面白かったよね?お婆さんがヒロインだとは思わなかったけど」
「同じ墓に入れてくれってやつ?」
「そう、それ」
「もう忘れたよ、お爺ちゃんが何回もお風呂入りに行ったのしか覚えてない」
「いいなー」
「行けばいいでしょ、大人になったら」
「すっごくね、面白かったよ。目の前で話聞いてるみたいで、坊ちゃんが勝手にべらべら喋ってくれるの」
「そうだっけ?」
「うん、お客さん無視して喋ってるの、だからついていくのに必死になる。坊ちゃん全力疾走するんだもん。休憩なしで」
「あ、そう」
「面白かった」
「良かったね」
「うん」
家に帰り、台所にいるお母さんに祖母に話したことと同じことを言った。
姉達には今頃坊ちゃんと呆れられた。
お風呂で延々と明日佐藤さんにどこから話そうか考えた。
同時に高瀬君にも考えたけど、佐藤さんがすぐ傍で優しく微笑みながら話を聞いてくれるのは想像できるのに、高瀬君との会話はまるで想像もつかなかった。




