おはよう
「おはよう」
「おはようございます」
佐藤さんに朝の挨拶をしたのはこれが初めてだ。
「もう、すっかり春だね」
今日の美夜はミニスカートの下に黒いタイツを履いていいるが、上は黒いスタジャンを羽織っただけで、もうすっかり春の装いだ。
「はい、少し風有りますけど、暖かいですね」
「うん、いいお天気だね?」
「はい」
佐藤さんは黒い薄手のジャンバーを羽織り、上までしっかりチャックを閉めていて、首は黒いタートルネックのセーターでしっかりと覆われていて、見えているのは美しい顔と、大きな手だけだ。
「佐藤さん、寒がりなんですか?」
「うん、そうだね。つい厚着しちゃうんだよね」
「そうですか」
「行こうか?」
「はい」
美夜達は並んで歩き出した。
「松原の方行きたいんだけど、いい?」
「はい」
どういうタイミングで言ったらいいのか、どれから言ったらいいのか、昨日結局考えているうちに眠ってしまい、気が付いたら朝だった。
「朝霧木蔦」に関しては情報量が膨大なのと、そのほとんどが著作に関するものなため、途中で読むのを放棄してしまった。
何という根性のなさ。
でもウィキペディアって、卒業した高校とか大学は載ってあっても、身長体重血液型、家族構成、父親の職業、得意科目苦手科目、好きな色好きな食べ物好きな動物、趣味特技、といった情報は載っていないからキャラクターのプロフィールとしては物足りないものになっている。
「桜、月末には咲くかな?」
「多分咲くと思います。毎年入学式の頃桜咲いてるので」
「お城の方綺麗だろうね?」
「はい、綺麗ですよ」
「石垣と桜って合うよね?」
「合いますね」
「美夜ちゃん。春休み、桜が咲いたら一緒に見に行ってくれる?」
「はい」
「本当?嬉しい」
二人で松原遊泳場の傍の道を並んで歩く。
まだ泳いでいる人はいないため、全くの無人。
民家もないため、誰も歩いていない。
琵琶湖からの風がきつく、美夜の長い髪がばさばさと揺れた。
「今日は髪下してるんだね」
「はい、学校行かないとそうですね」
いつもの美夜は長い髪を耳の下で二つにくくっている。
本当は髪短くしてみたいけど、勇気がなくて一度も切ったことはない。
幼稚園からずっとこの髪型だ。
アルバムを見ると余りの変化の無さに自分でも驚く。
投身だけ変えていったキャラクター設定画みたいだ。
「この先何があるの?」
「かんぽの宿です」
「行ったことある?」
「ないです」
「そう」
そう言われて初めて美夜は自分が今日のため何も調べてなかったことに気づいた。
自分は生まれてから今日まで一度も彦根を出ることなく彦根で生まれ彦根で育った、生粋の彦根市民だ。
本来なら佐藤さんを自分が案内しなければならなかったのではないだろうか。
知る人ぞ知る彦根の絶景おすすめスポットに。
そう考えてからそんな場所彦根にはないと気づく。
嫌知らないだけであるかもしれないが、それなら多分ネットの情報で十分だろう。
佐藤さんはスマホの地図を見ながら歩いたりはせず、ただ真っ直ぐに何もない田舎道を写真を撮るため立ち止まったりすることなく歩いている。
「あの、佐藤さん」
「何?」
「あの、何にもしてませんけどいいんでしょうか?」
美夜は心配になって聞いてみた。
祖母の家から結構歩いた。
その間北野神社があったり、ドラッグユタカから彦根城の櫓が見えたり、今だって目の前には日本一の湖琵琶湖が透明な美しさを静かに広げている。
だけど佐藤さんの目にはそれらは写っていない。
将棋の棋士さんが盤上の駒は見ていないと言っていたけど、そういう感覚なのだろうか。
だとしたら佐藤さんには何が見えているのだろう?
作家さんだから、原稿用紙?
それとも自分が作り出す佐藤さんの彦根だろうか。
その景色は美夜にはわからない。
美夜は佐藤さんの本を一冊も読んでいない。
正体を明かしたと言うことは、本を読んで欲しかったのだろうか?
でも何故自分に?
「何もしなくていいんだよ、ただ歩きたいだけだから」
そういえば歩くと脳が活性化されるってテレビで言ってたな。
血の巡りが良くなって脳細胞に十分な酸素が送り込まれるって。
「歩くと脳にいいからですか?」
「うーん、健康のためってわけじゃなくって、昔からなんだよね。歩いてるとキャラクターが会話しだすんだ」
「勝手にですか?」
「うん、そんな感じだよ」
「会話しだすってことは、二人いるってことですか?」
「うん、三人の時もあるし、四人の時もあるよ」
「それっていきなり思いつくんですか?」
「うん、結構そうかな」
「今もですか?」
「今は何も、美夜ちゃんと喋ってるし」
「あの、それじゃあ私お邪魔なんじゃ」
「ううん、いいんだ。今度の主人公は無口な子だから」
「もう考えてるんですか?」
「うん、今その子が歩いている景色を見てる」
「ここ歩くんですか?」
「うん、そうしようかなって」
「誰も歩いてないですけど」
「そっちの方が都合いいからいいよ」
井伊家の家紋の入った赤い遊覧船が見えると佐藤さんは立ち止まり指さした。
「彦根って感じがするね」
「そうですか?」
「うん、美夜ちゃん乗りたい?」
「いえ、あんまり」
「そう、じゃあまだ歩きたいけど、いい?」
「はい」
「喉渇いてない?大丈夫?」
「はい、平気です」
まだ日差しも強くなく、汗ばむ陽気ではないし、風が冷たい。
でも水面がきらきらと光っていて、穏やかな春の休日と呼ぶには十分。
聞きたいこと、聞かなきゃいけないことなら、聞かなきゃいけないことが最優先されるべきだろう。
だから、聞かなくちゃいけない。
佐藤さんが作家さんだって皆に言ってもいいですかって。
何を躊躇っているのだろう?
ウィキペディアに本名も載っていて、顔だって公表されているのに。
でも言うつもりはなかったと言っていたから、話したくない事情があるのかもしれない。
それなら、聞きたいことが優先だ。
音読も結局上手くいかなかったし。




