自動ドア 6
気まずい、非常に気まずい。
時刻は19時を回り夕日の沈んだ今、外はすっかり暗くなっていた。普段なら、寄り道しなければとっくに家に着いて着替えを済ませ、夕飯を食べているところだ。しかしながら、現在私は暗くなった教室の明かりも点けず、椅子に座ったまま俯いた頭を上げることが、中々できずにいた。正面にいる木蒔さんが、じっと私のほうを微動だにせず見つめている。できればあんまり見ないでほしい。穴があったら入りたい。
木蒔さんに促されるまま泣きじゃくった私は、聞かれてもいない事の経緯を説明し、優しい相槌を貰うたびにまた大きな声を上げて泣きじゃくるのを、散々繰り返した。結局使わせてもらったハンカチは、涙と鼻水でびしょびしょになり、とてもお返しできる状態ではなくなってしまった。散々泣いてようやく気分を落ち着かせることができたが、冷静になればなるほど自分の失態を悔やみ、恥ずかしさのあまり木蒔さんの顔を直視できずに現在に至る。いろんな意味で夢であれ!と願うも、握ったままのハンカチから伝わる湿り気が、私に現実を突きつける。ああ、今目の前の同級生は、どんな心境で私を見ているのだろうか。タイムマシン欲しいな。誰か作ってくれないかな。
「守坂さん?」
「ひゃい!」
急に声をかけられ、びっくりして変な声を出しながら反射的に起き上がり、木蒔さんを見た。相変わらずの無表情で、彼女の心境は読み取ることができない。
「大丈夫ですか?目薬使います?」
でも、彼女の気遣いから、暖かい優しさを感じる。涙を拭くとき、目の周りが腫れないように、優しくハンカチで目元を押さえてくれた。目の充血を消すために、目薬をくれた。理由が理由だけに、泣いたことが他の人にばれないようにという気遣いだろうか。私を心配してくれているのだろうか。
「ありがとう・・。」
彼女を見ていると、さっきまでの自分のネガティブ思考が馬鹿馬鹿しく思えてしまう。見ず知らずの他人に対してこんな気遣いができるのだから、彼女は純粋に優しい人なのだろう。私の抱いた心配や羞恥心は、この人には失礼に当たるように思えた。
「ごめんね、こんな時間までつき合わせちゃって。木蒔さんのおかげでもう落ち着いたから。」
「私のことはお気になさらず。いつもこのくらいの時間まで教室にいるので。」
目薬を鞄にしまいながら、彼女はそう言った。どうやらアツシの話は本当だったらしい。
「そうなんだ。でも最近日が落ちるの早くなってきたし、あんまり遅いと危ないよ?・・・今日は私のせいですが。」
「家が近いのと通学路が人通りの多い道なので、心配いりませんよ。守坂さんこそ、気をつけてくださいね。」
逆に心配されてしまった。
「木蒔さんってすごく優しいね。こんな時間まで私に付き合ってくれたし。」
「それはまあ、目の前で女の子にマジ泣きされたら、大抵の人は優しくなると思いますよ。」
あう、今木蒔さんの言葉が私の心に刺さる音が。本当ゴメンナサイ。
「ふふふ、それではそろそろ帰りましょうか。」
「うん。あ、よかったら番号交換してもいい?私、木蒔さんのこと大好きになっちゃった。」
スマフォを取り出しながら彼女に尋ねる。彼女は一瞬とまどい、次に頭を下げた。
「ごめんなさい。私そういう趣味はないので。」
「いや私にもないよ。大好きっていうのは友達になりたいって意味だよ。」
私が突っ込むと、彼女はまたふふふと笑っていた。この人冗談言うんだ。最初はクールで取っ付きにくい印象だったけど、この短い時間で彼女の印象はがらりと変わっていた。こんな彼女の一面を、このクラスのみんなは知っているのだろうか。いつも一人でいるらしい彼女だが、実は社交的で、こんなにも優しい。こんな彼女を知っていれば、みんなもっと木蒔さんに声をかけるだろう。最初は、噂の真相を確かめるために木蒔さんに近づいたが、もうそんなことはどうでもよくなっていて、今はただ純粋に彼女と友達になりたかった。だから、なんでいつも一人でいるんだろうという疑問も、このときにはすっかり忘れてしまっていた。
「そういえば、木蒔さんの名前ってなんていうの?」
「自己紹介がまだでしたね。私は木蒔マキといいます。」
彼女のフルネームは木蒔マキさんか。その苗字と名前を聞いて、私は大きな木をイメージした。その木は長い時を生きていて、別の細い樹木が絡みついてなお成長しているような、そんな立派な大木だった。・・ん?木蒔マキ、きまきマキ、きまきまき。わ、すごい。名前が回文になってる。
「木蒔さんすごい!名前が回文になってるよ!」
木蒔さんが人生で何度も言われているであろうことを、私は興奮気味で報告した。そう思ったままを言葉にした途端、木蒔さんの顔が少し強張ったように見えた。あれ、あんまり言われたくないことだったのかな。小さい時にそれでよくからかわれたとか、あり得るかもしれない。気を悪くしてしまっただろうか。そんな風におろおろしている私に、
『そうだよ。』
ふいに、後ろから女の子の声が聞こえた。
「え?」
私は、急に現れた声の主に少し驚きながら、とっさに振り返ろうとして、しかしその前に木蒔さんが両手で私の両頬をつかみ、
「後ろを向いてはだめ。」
と言って、私の頭を自分の顔の前に固定する。初めて見る木蒔さんの張り詰めた表情を前に、何がなんだかわからない私だったが、
あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
突然後ろから聞こえる大きな笑い声に、体温を奪われ、頭の中を真っ白にされるような、ぞっとする寒気と痺れにも似た衝撃に襲われた。それは子供のようで、大人のようで、老婆のようで、それでいて人のものではないような、ひどく歪な声だった。自分の後ろからはっきりと聞こえている、その笑い声から漏れる生暖かい吐息が首筋にかかるような距離の近さに、突然やってきた錯覚のような恐怖が、ますます現実味を帯びていく。
「ひぃっ!」
その歪な笑い声にはっきりと恐怖を感じ、とっさに目を閉じるも、小さな悲鳴を漏らしてしまう。笑い声は自分の周りのあらゆる方向から聞こえ、まるでここから逃がさないと言われているような気がして、余計に身がすくむ。やばいやばいやばい。さっき枯らしたものとは別の涙がこみ上げる。逃げたくても恐怖で体が動かない。動いたとしても逃げる際に、「それ」を必ず見てしまう。そのどうしようもない絶望感が、さらに私を混乱させた。そう震えることしか出来ない自分に、ふいに清涼剤のような声が聞こえた。
「落ち着いて。見なければ大丈夫だから。」
金縛りにあったかのように動けず怯えている私の額に、木蒔さんの額が当たる。
「見なければあの子は何も出来ないから、そのまま目を閉じていれば大丈夫。」
私の耳を手で覆いながら、彼女はゆっくりとそう言った。恐怖も混乱も消えはしないが、こうしていれば大丈夫という彼女の言葉と、手から伝わる温もりに、黒い世界が少しだけ灰色に近づいたような気がして、こんな状況にもかかわらず、なんだか今キスをしようとする恋人同士みたいな体勢だなぁと、暢気なことを考えてしまった。