自動ドア 5
「こんばんは。何読んでるの?」
C組に足を踏み入れた私は、意を決して本を呼んでいる木蒔さんに話しかけた。余程本を読むのに集中していたのか、私が教室に入ってきたことに全く気付いていなかった様子で、しかい動じる気配もなく、ゆっくりとこちらに顔を向ける。図書室で会った時は考えに夢中で気付かなかったが、こうしてまじまじと顔を合わせると、素晴らしく美人さんだった。整った顔立ち、頭の動きに合わせてさらっと揺れるきれいな黒髪、その黒髪とは対照的な透き通るような白い肌。なるほど、これは噂になるはずだ。
「・・・こんばんは。」
少し間の空いたあいさつと彼女の声に、私に対する警戒心を少なからず感じた。失礼ながら、あまり社交的には見えない彼女が、ほとんど初対面に近い私に急に声をかけられたのだから、それは仕方のないことだろう。
「木蒔さんだよね?私はA組の守坂アサヒ。今日図書室の前で会ったんだけど、覚えてない?」
図書室前でのあのやりとりは、私にとってかなり印象に残るものだったのだけど、彼女の方はそうでもないらしく、んーと首をかしげては思い出そうとしている様子だった。傾けた頭と一緒に揺れるさらさらの髪を羨んだ目で見ていると、彼女はあっと口を開けた。どうやら思い出してくれたらしい。
「確か、昼休みにハンカチを拾ってくださった方ですよね?その節はありがとうございました。」
「いえいえ。でも私はなぜかそのハンカチを貰ってしまったんだけどね。あれってどういう意味だったの?」
「意味を聞かれると困りますが、強いて言うならなんとなくです。」
うおおお、いきなり不思議ワールド全開だぁ。自分に返ってきた落し物を拾った人になんとなくあげる心境が、私にはさっぱりわからない。かといってしつこく問いただすなんてしたくないし。私も困ったが、やっぱりハンカチは返したほうがいいよね。
「な、なんとなくなんだ。でもやっぱりハンカチは返すよ。初対面で理由もなく物を貰うのもなんか悪いし。」
そういって、私は彼女にハンカチを差し出した。しかし、彼女はそれを見つめはするが、受け取る様子を全く見せない。
「それはもうあなたのものです。それに、一度人にあげたものを返してもらうのも、なんだか変な話ですし。」
そう言って、頑なにハンカチを受け取ろうとしなかった。結構頑固だこの子。というか変な話になったのはあなたのせいでしょうに。
「それに、理由ならあると思いますよ。」
「え、あるの?さっきなんとなくって言ってなかった?」
「きっとその内、あなたにハンカチが必要になるからだと思います。」
なぜ必要になるのかはわかりませんがと、まるで他人事のように彼女は語った。いや、こっちはあなたの言ってることがさっぱりわかりませんよ。
「まあ確かに、今日はたまたまハンカチを持ってくるの忘れたけどさ。そもそもハンカチを使う状況って誰にでもあるでしょ。食後とかお手洗いの後とか、他にも・・・。」
他にもと言ってすぐに、心当たりが思い浮かび、口をつぐんだ。今日、私にハンカチが必要な理由。確かにある。それは、
「・・・失恋して、涙が止まらなくなる時とか。」
そう口にした瞬間、私の目から涙がすっと流れた。ずっと我慢していたものが、必死に堪えていた感情が、なぜだか今、抑えきれなくなってしまった。それは多分、このハンカチのせいだろう。木蒔さんが偶然落として、私がなぜか貰ってしまったこのハンカチ。このハンカチが私にとって必要になると聞いたとき、誰かに慰められるような、温かい優しさに触れたような気がして、気が緩んでしまったのだ。それが思い違いであったとしても、一度溢れ出てしまった涙を止めることはなかなか難しくて、それでも無理に堪えるものだから、余計に大きな嗚咽を洩らしてしまう。木蒔さんが横にいるというのにだ。急に話しかけてきた初対面の同級生が、急に隣で泣き出したら、私ならかなり困惑してしまうだろう。きっと引かれてしまう。気持ち悪いと思われるかもしれない。そんな気恥ずかしさも相まって、余計に涙の勢いは増すばかりである。だから必死に嗚咽を堪える私を、しかし彼女は、何の事情も知らないはずの彼女は、隣に立ち、私の手からハンカチを取って、そっと涙を拭いてくれた。
「泣きたい時は、変に我慢せず思い切り泣いた方がすっきりします。」
優しい表情で、穏やかに、落ち着いた口調で、彼女はそう言った。不意打ちのような彼女の慰めに、私は、小さな子供のように、わんわんと泣き続けた。<続く>