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白い花瓶

作者: 竜極ときま

 たとえばこの現実が、自分の脳ミソがうみだした幻だとしたら。

 呆れたような目をするな、思春期真っただ中の少年の、くだらない戯言だと思って聞き流してくれてもかまわない。

 お前がいま暮らしているその世界は、本当に現実に存在するものなのだろうか。

 お前がいま話している相手は、家族や友達は、本当に実在している人物なのだろうか。

 目の前にあるものはお前の脳が勝手に作り出した幻影、あるいは妄想であると言う仮説を否定できるものはこの世に存在しているのだろうか。

 もしかしたらその現実は、すべてお前の脳が生み出した幻想かもしれない。生活に疲弊し、学生生活に未練のあるお前がおっさんになって造り出した幻かもしれない。

 もしかしたら、なにも存在しない混沌から、お前と言う一つの意志が創造した世界なのかもしれない。そう考えるとすごいじゃないか、お前は神様ってことになるんだから。


 ーこれが俺が親友と交わした、最期の語らいである


 幸崎幸助。そんな、幸福に満ち溢れた人生を謳歌しているような名前をもつ親友は、昭和54年の4月に、17歳と言う若さでこの世を去った。幸崎の死は、それなりに悼まれはしたと思う。

 教室で黙祷が行われた時、クラスの奴らは皆黙ってうつむいていたのだから。

 以前クラスで飼っていた兎が死んだ時は、競う様に涙をしぼりだしていた女子共も人形のように佇んでいた。

 教室の、幸崎のものだった机の上には、今も白い花瓶が置かれてある。あの日から、教室の空気は心なしか暗くどんよりとしている。そんな教室の中に花瓶の白色はういているようでいて、妙な存在感をはなっている。それは沈んだ生徒たちの中で白々しくあり続けていた。

 花瓶にいける花は毎日クラス委員長によって取り換えられる。花にくわしくない俺はそれが何と言う名前のものなのかは分からないし、そもそも興味がない。

 ただ、死人に花をたむけたところで何になるのだろうと、思っていた。


 事件は幸崎が死んで間もなくして起こった。

 始業のベルが鳴る頃、おもむろに席を立ち上がった女子生徒が幸崎の机に飾られていた花瓶を持ち上げ、床に叩き付けたのだ。

 華奢な花瓶にもかかわらず、分厚いガラスを砕いたような重たい音が弾け、破片が飛び散る。花はみじめに水をかぶり、淡い桃色の花弁は濁った色になった。

 束の間の刹那の後、クラスメイトがざわめきはじめた。異様なものを見る目で、花瓶をたたき割った犯人を非難しはじめる。

 どうしてそんなことするの、死者に失礼だろ、と。


「死人に花をたむけたところで何になると言うの。」


 花瓶を割った女子生徒が、静かな声色で告げた。

 はっとした俺は、その場で女子生徒を盗み見た。

 彼女の名前は道真(みちざね)(とばり)。セーラー服にかかった水など意にも介さない様子でけだるげにクラスメイトを一瞥し、自分の席についた。

 悪びれもしないその態度にクラスメイトたちは言葉を失う。そしてそれ以上、彼女を糾弾しようとする者は現れなかった。その理由は担任が教室に入って来たからではない。

 道真は、もとより近寄りがたい存在としてクラスから浮いていたからだ。なにもいじめを受けていたわけではない。癖の無い長い黒髪に、長いまつ毛、吸い込まれそうなほどに黒い大きな瞳。手足は白くて細長く、スタイルも良い。そんな人形のような美しい容姿にくわえ、頭脳明晰、運動神経抜群、ひのうちどころがない彼女は高値の花、違う次元の存在など、そう言った名称で囁かれながら誰も干渉することができずにいた。


「何があったんだ。」


 割れた花瓶と、それを囲むように立ち尽くす生徒を見た担任が質問を投げかけた。誰も何も言わない。大半が担任と目を合わさないように視線を泳がせている。しかし、一人の女子生徒が声をあげた。

「先生、これは、道真さんが……。」

 クラス委員長の草薙洋子だ。

「そうか。道真、だめじゃないか。ぶつかって落としてしまったのなら、ちゃんと後片付けをしないと。」

 担任の中で、花瓶は事故で割れたことになったらしい。

「……まあ、破片で怪我をしてはいけんからな。ほらそこのお前ら、ちゃちゃっと後片付けせんか。」

 そう言って担任に指名された男子生徒たちは、腑に落ちない表情で顔を曇らせながらも教室の隅にあるロッカーからほうきと塵取りを持ち出して、破片の片づけをはじめた。委員長は自ずと雑巾を持ってきて、床に飛び散った水滴をふき取っている。


 担任はがたいの良い体を教卓に傾け、もったいぶったように腕を組んでいる。

 俺の席からでは道真の顔を見ることはできないが、その背中をみただけでも、きっと道真が涼しい顔をしていることは分かった。

 普段は空気のようにそこにいるだけの道真がどうしてこんな行動をとったのかは分からない。幸崎に何か恨みでもあったのか?いや、それは考えられない。道真は誰からも干渉を受けないばかりか、自ら他人と距離をとっている。きっと人間に感心すらないのだろう。そんな女が誰かに怨恨を抱くなんてことは想像がつかない。

 皆も俺と同じことを感じているのだろう。

 異様だとか、頭でも打ったのかもしれないとか、そう考えてる奴もいるかもしれない。けれど俺だけは違う。

 俺だけは、道真帳の中にあるものの正体が、分かる気がした。


「ねえりん君。」

 昼休みのこと。学校に来てすぐ、貧血だとか言って今まで保健室で休んでいた幼馴染が尋ねかけてきた。

 こいつの名前は春日井優雅。ちなみに「りん君」とは俺の愛称である。この名で俺を呼ぶのは今や優雅のみとなったのだが。

「なにかあったの?」

「なにかあったって?」

「みんな、いつもよりピリピリしてるから……。」

 保健室へ直行した優雅は道真がしでかしたことを知らない。それでも敏感に、クラスに漂う険悪な雰囲気は感じ取った様子だ。男女合わせてたった15人のクラスなのだから、まあ気づかない方がおかしいのかもしれないが、優雅は子犬のような目で辺りをせわしなく見回している。

「べつにお前が気にしなくてかまわんことだ。それよりお前、食堂に行くんじゃなかったのかよ。今日はカレーだって喜んでたじゃないか。」

 カレーは1カ月に一度の御馳走なのだ。

「ああそうだった!そうなの今日はカレーなの!りん君も一緒に行こうよ!」

 一転した優雅は座っていた椅子を倒さん勢いで立ち上がった。小柄なくせに大食漢で、黙ってればまあまあ可愛いのに落ち着きがない。特技は大食いと早寝、趣味は間食と昼寝と言うなんともめでたい奴で、名前とはまるで正反対な16歳である。

「俺はいいや。」

 人ごみは嫌いだ。鞄からいつもの昼飯をとりだす。シルバーのパッケージにチューブがついた、片手サイズの栄養飲料である。学校側から配給されるものだから、少なくともこれを摂取しておけばぶっ倒れることはないだろう。しかし優雅はいつも食い下がる。

「だめだよりん君、またそんなもの食べて!ちゃんとしたご飯食べないと倒れちゃうよ!?」

「晩飯は固形物を食ってるから大丈夫。はやくしないと、カレーみんなに食われちゃうぞ?」

「う……。」

 優雅は黒板の上にある時計を見て、昼休みの残り時間を確認する。あと30分だ。

「それじゃあ私、行くね……。そうだ、良いこと思いついた!りん君のために水筒にルー入れてもらってくるね!」

「いらねえよ気持ち悪い。」

 水筒から生ぬるい茶色の物体がドロリと出てくる様を想像して気分が悪くなる。

「さっさと行ってこいよ。」

「わかった!」

 優雅は跳ねるように駆けて行った。


 教室には机を寄せ合って軽食をとるクラスメートが数人いる程度だ。俺はいつも1人で食っている。時折優雅と一緒に飯を食う時もあるが、それ以外はこうして一人、窓際の席で空を眺めながらチューブをくわえている。

 今日の空も、鉛のような曇天だ。

「矢島凛太朗君。矢島、凛太朗君。」

 柔らかな高い声が、俺の名前を呼んだ。半信半疑で声の主を見る。

 道真帳の顔が、すぐ目の前にあった。それはもう互いの吐息がかかるほどすぐ近くに。

 俺は息をのんで後ずさろうとし、自分が椅子に座っていたことを思い出し、転げ落ちそうになったところを踏ん張って居直った。

 道真は薄ら笑いを浮かべていた。前の席にある椅子をまたぐようにして反対向きに座り、俺と向かい合う格好になっていた。道真の席は俺の前ではないのだが。

「なんですか、道真帳さん。」

「少しお話をしましょう。」

 たおやかな動きで頬杖をつき、美しい顔に微笑を浮かべている。こう近くでみるとやはり、人形のようだ。サクランボ色の唇と良い、透き通るような肌と良い……雪のように、いつかすっと溶けて消えてしまいそうな雰囲気をまとっている。

「お、はなし?」

 数テンポ遅れて道真の申し出を理解し、訝しく思う。道真はいつも、昼時になると姿を消す。食堂に行っているわけでもないみたいだし(優雅が言っていた)どこに行っているのかは誰も知らない。なにより道真は、自分から他人に話しかけることなど一度だってなかったのだ。

 今日の道真は明らかにいつもとは違う。どう言う風の吹き回しどころの話ではない。どう言う風の吹き荒びだ。

「私が幸崎君の花瓶を割ったことについて、あなたはどう思っているのかしら?」

 見据えるような、見定めるような、そんな視線で問われた。

「どうって……普段大人しい道真さんが、いきなりどうしたのかなって、そんくらいだよ。」

「そんな答えは求めてないわ。私の聞き方が間違っていたのね。それじゃあ言葉を変えて再度質問します。

……私が亡くなった人へのたむけの花を、意味も無く壊したことについて、あなたはどう感じたの?」


 やはり、意味も無く壊したのか。


 道真帳は依然として不敵な微笑を浮かべている。俺は視線を漂わす。道真の質問の意図が分からない。なんでこんなことを、俺に、聞きたがるんだよ。

 俺はひどく、イライラしてきた。

「死人にたむけた花にあんなことするなんて、死者への冒涜だ。」

 俺が吐き捨てるように答えると、道真は、ブハッと品の無い声をあげて笑った。俺は目を疑ってフリーズする。

 道真はひとしきり肩をふるわせたあと、一言だけ呟いた。

「この、ウソつき」と。

 道真は呆然とする俺の制服のポケットを見て、こうとも言った。

「そのポケットの中にあるもの、そのうち私にも見せてちょうだいね。」

 無表情に戻った道真は、そう言い残して自分の席へと戻って行った。俺は道真に見られたポケットを押さえる。どうしてアイツが、コレの存在を知っているんだ?

 ポケットがじんじんと、熱い。心臓がばくばくとうるさくなる。


 ねえ、りん君。本当は分かってるんだろう?道真帳はお前と似ている……いや、酷似していると言うことを。お前がうずうずしていた衝動を、お前の変わりに道真帳が成し遂げた。それを目の当たりにして怖くなったんだろう。お前は、自分の中に潜むものの正体から目を背けて生きてきた。しかしとうとうそれに向き合わなくちゃいけなくなった。なのに臆病なりん君は、全てを拒絶した。道真帳の問いかけにもウソをついて。

 相変わらずつまらないな、矢島凛太朗と言う生き物は。もっと自分の内なる世界に目を向けてはどうだ?


 うるさいな、幸崎。人間はどれもつまらない生き物だって笑っていたのはお前じゃないか。

 クラスメイトに靴に画びょうを入れられても、ノートに落書きされても、体操着をゴミ箱に捨てられても、裸にされて体育館で縛られても、笑っていたのはお前じゃないか。俺と優雅の助けも拒絶し

「たかが人間のやったことだ」と言って。爆笑していたじゃないか。さよならも言わず、この世界に飽きたとでも言わんばかりにあっけなく逝っちまったのは―


 それからというもの、酷く頭が痛みはじめた。授業中は机の上にたてた教科書に隠れるようにしてうつぶせになった。教室を歩き回りながら教科書を読む教師の声はくぐもっていて、何重にもなって遠くから聞こえてくるようだった。だから煙草のにおいが近づいてくると、背筋を伸ばして勉強に専念しているふりをした。居眠りをしているだなんて思われたら、罰則がかせられるからだ。


 そうしてなんとか午後の授業をやり過ごして夕方。そそくさと男子寮へ戻る。全寮制の学校だから、寮へは徒歩5分で到着する。こんなに部屋が近いことに感謝したのは今日がはじめてのことだろう。


 一階には事務や管理人、警備員の控室と、浴場と食堂、厠がある。二階は生徒たちの部屋だ。部屋には擦り切れた畳がしかれ、簡素な三つの机が設置されている。隅っこに敷きっぱなしで置いてある薄い布団に制服のまま潜り込んだ。足先の指が冷たいから、今日は靴下もはいたままでいる。


 布団を頭からかぶってじっとしていると、まるで心臓が耳元にあるかのように自分の鼓動がうるさくなった。頭は重く、ポケットの中にあるアレは、ずっと脈打つような熱をはらんでいる。


「まじでやったのかよ、お前。本当に誰にもばれてないか?」

「ばれてないよ。あの時間帯、マバラはもと保健室だった場所で、清掃員と麻雀してるんだからな。」


 部屋の扉が開くやいなや、興奮しきった二つの声がした。どちらも俺と同じ部屋で寝起きしている男子生徒だ。マバラと言うのは、一つ下の学年を持つ教師のあだ名だ。由来は禿げが目立ち始めた頭部にある。この二人の会話からして、マバラの机からこっそり、また何かをくすねてきたのだろう。


「けどそのマッチ、ちょっと湿ってないか?」

「いけるいける、なんだったら明日また盗ってくれば良い。」

「それじゃさっそく試してみようぜ……て、なんだよ矢島。」

 ルームメイトは布団から顔を出した俺を一瞥して言った。

「いや。今度はなにくすねたんだよ。」

「煙草だよ、煙草とマッチ。」ライターは見当たらなかったけどな、と、得意げに笑っている。

「さすがにそれはばれるだろ。」

「今度は良い子ちゃんのふりか?そんなんだからいつもお前は一人きり、みんなにはぶられんだよ。矢島抜きで試そうぜ。二本しか入ってないし。」


 二人は見せつけるように箱の中から煙草を取り出しはじめた。時折教師から漂ってくるヤニの匂いを嗅いだ時は気分が悪くなるが、教師が校舎の影で煙をくゆらせている姿を見た時や、漂ってくる煙を嗅いだ時は胸がざわめく。あれを吸えばこのけだるさも何もかもが吹き飛ぶんじゃないか、と、期待したのに。白い煙草は今や、男子生徒の汚い唇にはさまれている。必死になってマッチを擦っているが、火がつく気配はない。

 俺は舌打ちをついて立ち上がり、扉を乱暴に開け放って部屋をあとにした。

 

 次はこいつらのどちらかが死ねば良いのに。


 そう、心の中で吐き捨てて。


 行き場の無くなった俺はふらり気の赴くまま、運動場の先まで重たい体を引きずってきていた。今更またあの陰気臭い校舎に行くのも気が進まなかったし、ここが一番、空気が軽い気がするからだ。

 金網ごしに外の世界を見つめる。外の世界と言えど、ここから見えるのはうっそうと広がる木々のみだ。なにも変わり映えはない。顔をあげて曇天空を見上げる。校舎の剥がれかけた汚らしい壁の色に似ていた。


「またここにいた。りん君って、なにかあるとつもこの場所に来るんだね。」

 気が付くと背後には優雅が立っていた。いつもの笑顔を浮かべている。しかし目の下にできたクマは心なしか濃くなっている気がした。

「……お前こそ、いつも追いかけてきやがるよな。」

 俺は優雅から視線をそらせて、何メートルもの高さがある金網を仰ぎ睨んだ。

「りん君、だめなんだからね。この金網をよじ登っても、学校の外には出られないんだから。」

 子供に向けるような静かな声色で優雅に諭しかけられる。

「分かってるよ。だからいちいち見張りにくんなよ。」

「……この金網を登りきったとしても、外には出られない。

頂上には電熱線が張られていて、高圧電流が流れてるの。ここから出る前にそれに少しでも触れたら、死んじゃうんだからね。」

 本当に分かってるの?と、念を押された。分かっているさ、そう言い返してやろうとしたその時、校内中に午後5時を知らせる旋律が響いて空気をふるわせた。

 生徒は寮へ帰れ、と言う合図である。

「ねえりん君、いつも思ってたんだけど、この曲ってすごく綺麗だよね。どこか哀しくて、優しくて。」

「そうか?確かに優しい感じの曲だけど……俺は気味が悪いと思う。」

「また、幸助君みたいなこと言うんだね。」

 優雅は笑顔を沈めた暗い表情で、俺の制服のポケットを見つめた。俺は反射的にその中身を隠すように、両手でポケットをおさえる。

 幸助とは、幸崎の名前である。

「りん君、まだそれを持ってるの?」

「嗚呼。まさかお前、他の奴には打ち明けてないよな?」

 道真はコレの存在に気づいていた。コレの存在を知っているのは今や、俺と優雅の二人だけ。まさかとは思うが、優雅が口を滑らせた可能性は十分に考えられる。

「打ち明けるわけないでしょ。」

 優雅は首を横にふった。俺は眉をひそめる。

「だったら、もう寮へ帰れよ。曲が流れたんだ、センコーらに見つかったら懲罰もんだ。」

「分かってる。りん君もちゃんとお部屋に戻るんだよ。」

 そう告げて踵を返した優雅は、途中で足をとめてもう一度、こちらを向いた。意を決したように胸に拳を握りしめ、ゆっくりと、震える瞳で俺を見た。


「もしかして、さ。りん君、気づいてるの……?」


「……よく分かったな。」

 唇の端を吊り上げるようにして、俺は苦笑してみせる。

 優雅はそんな俺を見て、大粒の涙をボロボロ零した。

 そして走り去っていった。


 俺は隠すようにしていたポケットから、一通の手紙を取り出した。

 差出人は、幸崎幸助。宛先人は、俺。

 黄ばんだ封筒から、3枚の便せんをとりだした。


 以下、便せんの内容

---

 

 拝啓、矢島凛太朗様。

 なんてあらたまるのもいかがなものだろうか。なにせこれは僕の日記なのだから。

 日記を便せんに記し、それを他人に宛てるのは至極おかしな話かもしれない。そもそも自分の日記を他人に見せる時点で、それは本来の意義から逸脱していることだ。

 しかしその話は、デザートのようかんの隣にでも置いておくことにしよう。僕には露出壁、ひいては露悪趣味があるとでも思っておいてくれ。

 さて、お前がこれを読んでいるということは、幸崎幸助はもうこの世にいないことだろう。

 ……この台詞は生涯で一度は言ってみたかった台詞なのだから、それが実現するのは嬉しい。


 僕は教室でいじめにあい、無視をされ、虫を扱うような態度もされた。いやはやどれも貴重な経験だった。

 同じ境遇に立たされても、恐怖の前で人間は、所詮人間でしかないことが証明されたのだから。

 自分より弱い立場の人間をつくり、己の不満のはけ口とし、いじめて、心の安定を保とうとする。それで連帯感を得ようとする。本当に人間と言うものは、つまらない生き物だ。

 奴らはまだ僕を蚊帳の外にすることで安心感を抱いている。しばらくは様子見だ。


 四月十二日。

 様子見をはじめてから一週間がたった。教師はいじめに気付いているが、見て見ぬふりをきめこんでいる。あの正義感の強い委員長ですら、クラスの圧力には逆らえない様子だ。

 それにしても、優雅ちゃんは良い子だ。草薙さんすら、皆にたてつくことはしないが、優雅ちゃんは僕をかばおうと刃向かってくれた。あの屈強な教師に対しても、だ。

 まったくもって、愛らしくて、哀らしい。

 彼女は救いようがない。 


 そう言えば僕にも、学校で古くから噂されているアレが見えるようになった。

 アレとは、一言で称するなら「死神」。見る者によって「死神」は姿を変える。

 すでにこの世を去った「死者」の姿を模して、次に死ぬ者の前に姿を現すんだ。

 死の予定調和……いや、死の前触れ……いやいや、ただの現象と言うべきか。

 僕はひどく興奮している。怪談なんてくだらないと思っていたが、アレをこの目で見てしまったのだから、もう信じるほかないだろう。

 ここで僕が出会った「死神」の姿を明かすことは避けよう。

 純情な少年のデリケートな部分を詮索するのは野暮であるということは、教えておいてやろう。

 今後の展開が楽しみだ。

 

 四月十五日。

 予期せぬことが起こった。

 いや、想像はしていたしかし、まさか、どうして

 生徒たちは僕への暴力をやめた、それは、なにをされても表情を変えない僕が気味悪くなったからかもしれないが、それにしたって、やりきれない、

 まさか、ああ、こんなに声はうるさくなったのに

 どうして僕じゃない、ぼくは、しんじつがみえなくなった


 四月十七日

 あの日からずっと思考を、めぐらせていた。僕たちはなんの為に生まれてきたのだろうと。僕たちは生まれたその瞬間から、死に追われることになる。否、死に向かって歩いている。その限られた時間の中で、自らの存在意義を見出すことが、知能を与えられた人間の生きる理由だと思っていた。

 しかしあの日から何も分からなくなった。筆を握ることが億劫になった。そして分かった。僕たちは「死」の圏外にいるのだと。僕たちは、体に、生きるというしがらみに囚われた奴隷に他ならない。人生の上にのさばる大きな存在には抗えない。人間は一体、何が楽しくて生きているのだろう。

 人間は、重たい枷である体から解放されることこそが救いなんじゃないか。

「死」への道程など関係ない。「生」から解き放たれることが最大にして絶対の褒美なのではないか。そう考えた方が明瞭じゃないか。


 この日記は、これでおしまいだ。

 りん君、先に深く謝罪する。これから僕ははじめて君に暴言を吐く。


 僕は君が嫌いだ。きっと生まれ変わることがあるのなら、その時も僕は君が嫌いだ。

 だから、死なせない。


---

 

 幸崎の手紙はそう締めくくられていた。

 三枚目の便せんの字は、小学生の殴り書きのようにのたうっていて解読に難をきたした。四月十五日からの話である。思い返せば幸崎がおかしくなったのはその頃からだ。もともと幸崎は変なやつだったが、精神的な面で陰りを見せ始めたのはその頃だ。手紙の内容は如実にそれを物語っている。意味が分からないのはやはり四月十五日からの内容だ。幸崎はなんらかの事態に遭遇して、動揺している。そして、最も気になるのが四月十七日の最後の一文だった。

 幸崎が俺を死なせない。

 とんだ笑い話じゃないか。言って早々、幸崎はその誓いを破ろうとしているのだから。


「なあ、幸崎。」

 吐息と共に吐き出した。


 日はすっかり沈み、校舎裏には暗闇が蠢き、冷たい風が吹き上げて、金網をがたがたと揺らした。俺はねっとりとした黒い空を見上げながら、背後に感じる「存在」の名前をもう一度呼んだ。

 幸崎幸助。

 俺が見ている「死神」。俺が見えるようになった「死神」。

 もうすぐ俺は幸崎と同じくして死ぬ。幸崎がおかしくなる前に遭遇した現象と、死神と遭遇してしまったのだから。


 この学校……いや、この施設には一つの言い伝えがある。それこそが幸崎の手記に記された「死神」のことだ。一週間後、死をむかえることになる生徒の前に、同じくして死んでいった生徒が生前の姿で現れ、つきまとうのだ。幸崎も俺もそんなオカルトなんて信じていなかった。それでも目の当たりにしてしまったのだから信じるほかない。

 幸崎は四月十二日に見えるようになったと記している。そして一週間後の四月十九日に、死んだ。

 いや、殺されたと言い換えても良い。

 この施設の大人たちに選ばれて、細菌兵器の被検体にされたのだ。


 この施設は、身寄りのない子供のために設立した学校を装っているが、それは表向きの姿である。裏では、禁じられたはずの非道的な研究が行われている。世界大戦時代から極秘で引き継がれている実験で、政府の人間が絡んでいるという説もある。でないと、こんな山奥にぽつんと佇む異様な施設に警察が関与しないわけがない。そしてここに幽閉された俺たちは実験材料のモルモット。優秀で従順な生徒は、後の研究を引き継ぐ名誉が与えられるらしい。現時点では道真帳がその候補である。一方、名誉に値しないと判断された子供は、一人ずつ、実験の材料として消える。


 クラスの連中はそれに怯えながら生きていた。そして自分たちが助かるために、幸崎を陥れようとした。それが現実となって、連中は、後悔した。幸崎が……いや、自分たちの身近な人間が消えたことに恐怖を感じたのだ。罪を悔やんだわけではない。ただ、どうせもうすぐ自分たちも同じ道をたどることになるのにと、いっそそうなってしまえばここから解放されて楽園にでも行けるのだろうかと、すがるように、死んだ幸崎の机の上にある、白い花瓶を見つめていた。


 死人に花をたむけたところで何になるというのだ。


 幸崎をいじめた奴らが憎いとかいう、つまらない正義感はない。誰だって自分が可愛いだろうし、死にたくないがために他人を突きだすのは、人間のできあがっていない子供なら仕方のないことだろう。だから俺は、そんな人間らしくいじらしい部分が、生きることでわきたつ埃のようなものが、どうしても気になって、どうしても拭って消し去ってみたくて仕方がない。


 俺は手の中にある手紙を握りつぶした。

 この手紙を見つけたのは、幸崎が死んだ次の日の朝だった。俺の靴箱の、上履きの中にねじこまれていた。幸崎が大人たちに連れていかれる前にこっそりしこんでいったのかと思っていたが、よくよく考えるとそんな時間はなかっただろう。あの日、あいつは、俺と一緒に寮へ戻って、くだらない語らいをして部屋に寝に行ったのだ。それから間もなくして、3人の男が幸崎を連れ出して行ったのをクラスのやつが目撃している。

 つまりは、幸崎の手紙を俺の靴箱に届けた第3者が存在する可能性があるということだ。そしてその第3者こそ、道真帳だということはありうるのではないか。そうだと仮定するならば、あの女が手紙の存在を知っているという説明がつく。しかしどうして他人と距離をとっていた道真がそんなことをしたのだろうか。俺はため息をはいた。いつかサツマイモ掘りに行った時のことを思い出す。苦労して掘りおこしても、また次の芋が顔をだしているのだ。俺はサツマイモが嫌いだ。


「そもそも俺はもうすぐ死ぬんだ、こんなことを考えたところでなにになる。」


 厳密に言うと、恐らく俺は5日後に死ぬ。俺が死神を見たのは一昨日だからだ。

 どうせ死ぬのなら脱走計画でもたててやろうか。幸崎という死神につかれた俺にあるのは死という決定的未来。それでも大人しく死ぬのはなんだか勿体ないし、悪あがきくらいはした方が良い気がしていた。いや、別に命が惜しいわけじゃないし、本当に逃げだしたいわけでもない。物心ついた時からこの場所にいた俺が、外の世界に放り出されて上手く生きていけるとも思えないし、そもそも自分の命に価値など見いだせないからだ。


 だったらそれこそ、自分の命に価値をつけるのはどうだろうか。生きていた意味、生きた証、俺が生きた人生、命の代金。幸崎がよくぼやいていたことだ。

 限られた時間の中で、自らの存在意義を見出すことが、知能を与えられた人間の生きる理由であると。人は生きる目的を探すために生きているのだと。


 思い至った俺は、なんだか体が軽くなったような気がしたし、くしゃくしゃになった手紙の熱さも頭の重さも、なにもかもを笑って受け入れられるような気がした。

 さて、ならば命の価値とはなんだろう。きっと、価値あるものは軽くない。重いはずだ。ならば命の重みとはなんだろう。幸崎を陥れようとした奴らの、人間という醜悪な命をたくさん積めば、俺の命のかさは増すのかもしれない。

 いやそれだと、金はどうなる。吹けば飛ぶほど金は軽いのに、その価値は絶対的だ。たとえば俺の親が、金目当てに一人息子を差し出したように。だから、命の価値は重さに比例しない。

 だったらどうすれば良いだろう。

 そもそも、自分のものに主観的な価値をくだすこと事態おかしいのかもしれない。評価は他人に与えられてこそ成立する。だったら、誰かに俺の存在を認めてもらえば良いというわけだ。問題はその相手だ。俺はすぐに優雅のことを思い出した。あいつはいつも俺の後ろをついてきた。1番俺を理解している人間なのかもしれない。それなら俺が何をすべきかは明白だ。


 優雅をこの腐った場所から逃がしてやる。

 そうすれば少なくともあいつは、得体の知れない実験で死ぬことはないし、運が良ければ優しい人間に助けてもらえるかもしれない。

 そしてそのきっかけを与えた俺は、命の重みを感じながら死んでいけるのかもしれない。


「なあそうだろう幸崎。だったら俺はつまらない人間じゃないよな?」

 幸崎は何も言わなかった。


 脱走は明日の深夜に決行することにした。善は急げと言うまでもなく、俺に残された時間は少ないからだ。


 次の日、放課後急いで帰ろうとする俺に、道真帳がまたもや話しかけてきた。

「あなた、今日はとても機嫌が良いのね。」

 今日の俺は確かに機嫌が良かった。

 いつになく世界が明るく見えて、足取りも体もなにもかもが軽くて、ふわふわと浮いているようでさえいた。

「手紙の内容を教えてやろうか。」

 俺はポケットの中のそれをたたいて笑ってみせた。道真帳は汚いものでも見るような目で俺を見た。

「もうそれは良いの。どうせ中身は知っているのだし。」

「やっぱりこれを俺に届けたのはお前か。」

「そんなこと、もうどうだって良いじゃない。」

 道真帳はつまらなさそうな顔で言葉を続ける。

「あなたは私に似ているわけではなかった。それが分かってしまったのだから、もうあなたに関わっても得るものはない。

 あなたはやはり人間よ。

 死神の姿を見て発狂した奴らと同じ、普通の人間にほかならない。なんてつまらないんでしょうね。」


 道真帳が何を言いたいのか分からなかった。ただ、それについて深く考えるとせっかくのこの気分がおちていくのは想像できたから、何も気づいていないふりをした。


 その夜、俺は優雅を呼び出した。寮の裏手にある空き地だ。こんな所を教師に見つかればたたじゃすまないが、それでも優雅はちゃんと部屋を抜け出してきた。

「一緒に逃げよう、抜け道を知っている」

 そう言うと、すんなりとこの脱走計画に応じてくれたのだ。

 ちなみに、俺は本当にこの施設の抜け道を知っている。

 この中庭と反対側にある場所には、施設の敷地を囲む檻ともいえるフェンスが伸びているのだが、唯一ここを出られる扉がついていて、しかもそれを封じる錠前は、野ざらしにされてきたせいか酷く錆び付いていて役割を果たしていない。幸崎と見つけた事実だった。

 ただ脱走にはリスクをともなうし、そのフェンスが見える位置にある部屋の大人をどうにかしなければ成功しない。

 だからここで、俺の命を使うのだ。

 俺が大人の気を引いているうちに、優雅をフェンスの外に出す。優雅にはあとで必ず行くと伝えてある。こいつならきっとそれを信じるし、この作戦はきっと成功する。


 さあ、最後の試合開始だ。


「りんくん、だめだよ。」

 優雅が小さな声で繰り返した。

「だめって、なにがだよ。黙って殺されるのはおかしいだろ。

それとも不安か、けどやらなきゃやっぱり死んで、花瓶になるだけなんだ。」

「だめだよ。」

「だから、なにがだめなんだよ!」

 イライラしてきて、ついに声を荒らげてしまう。それでも優雅は動じなかった。

 暗がりの中で、セーラー服のスカートが風になびく。そういえば最近、優雅はずっと制服姿でいる。

「とにかく行くぞ!」


 りんくんはそんなに優雅ちゃんを救いたいんだね。しかし、自分の命を差し出して人を救えると思っているあたり、やっぱりお前はまだまだ子供だ。命を量として見ていることがそもそもの間違いだと、いつになったら気づくのか。


 うるさいな幸崎。お前も優雅を救いたいなら、死神なんてやってないで何でも良いから手を貸せよ。


「私はりんくんとは行けないよ。」

「なんでだよ!そんなに外が怖いのかよ!」

「そうだよ。だってりんくんは臆病者だもん。」

「なんだと?」


 どうして俺の話になる。優雅の顔は暗がりにぼやけていた。もう1度問いかけようとした時、誰かが草を踏む音が聞こえた。


 心臓がぎゅっと潰れるような感覚がした。血の気がひく体を無理矢理動かし、俺は後ろを向いた。目をさすような眩しい光。その光源、ライトを持っていたのは、見張り員でも教師でもなかった。


 華奢ですらりと背の高い女、道真帳だった。

「ねえ、矢島凛太郎くん。あなたはいつも、1人で誰と話しているの?」


 は?


「あなたは1人で誰と話しているの?」


 道真帳は繰り返した。俺は、どくどくとうるさくなる心臓の音に押されて倒れ込みそうになりながら、暗がりに見えない優雅を見た。


 俺は春日井優雅と話している。


 俺はいつも春日井優雅と話している。


 俺は今も春日井優雅と話していて、これからこいつを逃がしてやるんだ。


 それなのに、道真帳は何を言っているのだろう。道真帳は、まるで春日井優雅が見えないといわないばかりに、俺だけを見ている。

 そういえば、クラスの連中も、優雅が遅刻しようがとやかく言わないし、そこにいないように扱っていたこともあった。


「思い出しなさい、矢島くん。4月15日、幸崎幸助くんはどうして錯乱したのかしら。」


 うるさい。


「幸崎幸助くんは耐え難い事実を目の当たりにしたからよ。それが、春日井優雅の死。」


 聞きたくない。


「幸崎幸助の前に、春日井優雅が被検体に選ばれ、殺された。」


 やめろ。


「幸崎幸助は、春日井優雅の異変に気づき、救ってやれなかったあなたを恨んだ。」


 だから…


「だから、あなたを死なせることはしない。死んで楽にさせるわけがない。

 幸崎幸助は矢島凛太郎に生きることを強いたの。

 春日井優雅を救えなかった罪悪感を背負いながら、生涯を全うしろと。」


 それじゃ、俺の傍にいた優雅はなんなんだ。俺が見ている幸崎幸助はなんなんだ。


「あなたが見ているのは全て虚構。

 春日井優雅も、幸崎幸助も、全てあなたの妄想よ。」


 だったら死神は嘘だったのか。


「科学文明の昨今に死神なんて存在しない。全ては噂。死に瀕した人間が叫んだ狂った虚構。

 あなたが見ていたのは、救えなかった罪悪感が見せる幻影、望んでいた日々。

 あなたがクラスに独りで浮いていたのは、あなたが異様だったから。


 人間の中でも人間らしく異様だったからよ。」


 ああ、そういえば、そうだったな。


 俺は熱がさめたかのように、ひどく頭はすっきりしていた。

 視界ははっきりと鮮明で、今日が雲一つない晴れであることに気づいた。星が降ってきそうな夜空だった。


 臆病な俺は、大切な2人が死ぬ時も何もできなかった。

 自分自身に、2人が生きているという白々しい嘘をつきながら、しだいに、それが俺の中にある真実になっていた。


 俺は腹を抱えて笑った。そしてフェンスをのぼった。


 この先は、高圧電流が流れている。


 最後に道真帳をみおろした。


 彼女はにやりと笑っていた。



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[一言] 拝読させていただきました。 ラストが好きです。スッキリしたような、しかし清流のなかにひとつ石が投げ込まれてしまったような、そんなざわつきがあって。途中、この先どうなるのかと、読み入っている自…
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