桜の花が咲く頃に
久しぶりに戻ってきた地元の鹿児島。俺がいる大阪からは一時間程の飛行時間で、着陸する前は桜島の雄大な光景を目の当たりにすることが出来、その度に乗客からは静かな歓声が聞こえることも多い。また着陸前は撮影禁止だが、桜島側に座っていると、前や後の座席からシャッター音が聞こえることも少なくない。
飛行機で降り立つと、そこからが遠い。空港と言うものは立地条件も当然なのだろうが、利便性も重要視するべきだと思う。だが、鹿児島空港はかなり不便な場所にある。俺の地元は空港からバスで二時間近くかかる。電車のない山奥にある空港は、俺が飛行機に乗って鹿児島空港に降り立つ時間よりも、空港から実家までバスに乗る時間のほうが長いという、不便極まりない場所にある。昔は海の近くにあったのだが、着陸の失敗で滑走路をはみ出し、海へ落ちる事故も度々あり、今の場所に移転された。昔のままなら実家までは一時間もかからないし、羽田や関空のように利便も良かったなぁ、などと小言が漏れることは未だに多い。
「バスは嫌いなんだけどなぁ」
うんざりしながらも空港バスに乗り込み、久々に視界に入る故郷の景色に郷愁を感じる。仕事の転勤と言う名目で俺は地元を離れた。確かに仕事もあったが、一番の理由は、地元にはどこに居てもあいつとの思い出があり、それを毎日感じながら地元で暮らすのが、当時の俺には耐えられなかった。
二時間近くバスに揺られ、降り立った久々の思い出が詰まった地元。俺はその思い出を辿る旅行に来たわけではないため、タクシーを呼んで、花屋へ向かい花を購入すると、今日戻ってきたことを伝えるために、あの場所へ向かった。
「変わってないな・・・・・・」
桜の花びらがそよ風に謳う季節。高台に位置するここは、柔らかい日差しと温かい風、時折頬を撫でるように舞う桜姫たち。遠くには青じゃない少々灰色がかった海が見渡せる。その先には世界でも珍しく、火口のすぐ麓まで人々が暮らしている、地形としては珍しい場所に鎮座する県のシンボルである桜島。
「今年もまた桜の時期が来たぞ」
周囲には人影がない。先ほどまで柄杓とバケツに菊の花やらを抱えたおばあさんがいたが、線香を上げるとその姿はいつの間にか消えていた。平日からこんな場所を訪れる人間はそれほど多くはないし、好き好んでくる人間もまたいないだろう。鶯の明るい鳴き声がどこかからかいくつか重なってハミングを奏でている。
「もう何回目かな」
近くの水道でバケツに水を入れると、予めご両親だろうな。活けていた花の水を入れ替え、俺が持ってきた花と混ぜてもう一度彼女の前に飾った。他の所に比べると、ボリュームが倍の彼女への花はひときわ存在感を感じさせる。元々目立ちたがり屋でもなく、人見知りをする、どちらかと言わずとも目立たず、大人しい奴だったあいつを思うと、笑みが浮かんでくる。
「大阪に出てから、初めてだっけな? ここに帰ってきたのは」
月命日に、地元にいる頃は欠かすことなく来ていたが、仕事で大阪に転勤になってからは数回しか戻ってこれなくなった。いや、その日だけは戻ろうと強く思っていても、他の日はどうしてもあちこちにあいつとの思い出や温もりが残る場所に戻ろうと思う決心がつかなかった。だから、仕事なんて言い訳に過ぎないことは自覚していた。
墓石に水を流すと、桜島がいつか爆発したのだろう、灰が流れ落ちた。世界的にも珍しい、火山が県の真ん中に位置する鹿児島は、その火口の麓にまで人々が生活をしている。そのためあちこちに避難場があり、近くの小学生なんかは徒歩だろうと、ヘルメット着用で登下校をする。火山を恐れることよりも、利用することで、共存をしている。風の影響で桜島が爆発するたびに薩摩か大隈地方が灰の雲に覆われ、灰が雪のように舞う。慣れている県人にしてみれば、またか、と思うことだが、しばらく県から離れていると、懐かしくも感じる。初めて目にするような他県の人間にしてみれば、一種の軽い興奮状態になることもある。爆発したら天気予報で灰の降る予報が出るのは珍しいかもしれない。
「相変わらず、こっちはゆっくりだよな」
新品の雑巾で墓石を拭きながら、久しぶりに見る地元の風景にしばし時を忘れる感覚に陥る。空を見上げれば大阪のビルで切り取られた四角い空ではなく、どこまでも広がる青空がある。流れる雲も空を舞う鳥も穏やかに俺には見える。遠くに見える桜島を取り囲む錦江湾を白波を立てて船が行き来するのもゆっくりに見える。
「大阪はさ、みんなせっかちって言うか、徒歩も車も早いんだよな」
昔テレビで聞いたことがある。日本一歩く早さが早いのは大阪。日本一歩く早さが遅いのは鹿児島。てっきり沖縄かと思っていた俺はちょっと意外だったのを覚えている。初めて大阪の地を踏んだ時は、つい意地を張って大阪人と同じような速さで歩いたら、足がつりそうになった。
「お前だったら絶対に歩けない都会だよ」
一人で笑う。応えてくれるはずがないのは分かっている。だが、静かに墓石を綺麗にしてお参りと言うのは寂しすぎる。だからいつもこうして俺が過ごしてきたことを一人で勝手に話す。別に誰に聞かれても良い。ここなら誰もがそこで眠る人と会話をしていることだ。恥ずかしくも何ともない。
「でも、悪いことばっかじゃないんだぞ。こっちじゃなかなか見かけないような洒落た物や、お前の好きな可愛い小物も沢山あってなかなか面白いところだよ」
昔、約束していたことがいくつかある。
『いつか私ね、可愛い小物をいっぱい集めた小さなお店を持ちたいの』
普段はあまり自分を主張しないあいつが、夕食後いつものようにソファで二人してテレビを見ていた時に、何を思ったのか突然そう言った。
『だったら、俺が経理をしてやるよ。お前計算苦手だしな』
だからと言って、俺も別に驚かない。他の人間にはあまり見せない顔かもしれないが、俺には良く見せてくれる突拍子もない顔だ。だから見慣れている。下手に話に乗れば、調子に乗ってきてひたすら語る。だから、先に用件をこちらから言えば良いだけの話だ。
『意地悪』
笑う俺に、頬を膨らまして反論しようとするが、事実なだけにそれ以上はいじけるだけ。
『意地悪結構。お前が経理なんてやったらすぐに資金が底尽いて倒産だな』
四年ほど前にそんなやりとりをしたのを今でもはっきり覚えている。出会いはまだ中学くらいだったが、当時として誰が誰を好きだとかの話題は、弄られるだけで思春期の俺にはプライドを砕かれることと同じことだったから、見栄を張っていた。今思えばそんなものさえ捨てていられれば、きっと俺たちはもっと変わっていけたはずだと後悔することが多い。自分のことながらプライドを優先したことに未だに呆れている。当時に戻れるのであれば、昔の俺を殴ってでも変えたかもしれない。結局結ばれたのは大学に行ってからだった。もっと早く俺が大人になれていれば、あいつとの時間も無駄にはしなかったのに。
何だかんだで、俺はあいつの夢を軽く流しただけで、叶えてやる事は出来なかった。あまり自己主張しないあいつの、せっかく目を輝かせて語ってくれた唯一の夢を。
そんなことを思い出しながらも掃除を続ける。サワサワと吹き抜ける温かい春風に花が揺れている。桜の花びらも親元を巣立つ子供のように枝を離れて風と共にどこかへ舞っていく。全てが離れていった。そう感じた。
「お前を一度は大阪に連れて行きたかったな」
きっと可愛いものがあちこちにある都会に行けば、あいつは俺が見たこともない表情を見せてくれる光景が見える。そして、都会の時間についていけず、それに苦笑する俺の姿も簡単に俺には浮かんだ。もうそれは夢の中でしか叶えられないのに、妙にリアルだった。
「だけど、未だに大阪のおばちゃんには苦笑するしかないな。やっぱり世界最強だよ、大阪のおばちゃんって」
熱血というわけじゃないが、かなりの切れ者が多いと思う。毎日顔を合わせているのに、話題が尽きないのは凄い。一人が喋りだしたら軽く三十分は止まらないんじゃないかと思う。現に家の近所のおばちゃんたちは自転車に乗りながらもひたすら喋りながら買い物へ出掛け、帰ってきたかと思うと、先ほどと同じ話題をまだ話しながら帰ってきたことがあった。
「仕事のほうは順調だよ。朝の満員電車は今でもきついけど。たまに女の子の近くだと苦痛じゃないけどな」
こんなことを言ったら、頬を膨らませてブー垂れて嫉妬してくれただろうか。それともいじけるかな。墓石を磨きながら凄く近くにあいつの顔が浮かんでくる。
「それとまた出張が入ったんだ。今度はNYだとさ。海外なんて行ったことないってのに、何で俺が行かなきゃならないんだって感じだよな」
『それだけ認めてもらえてる証拠じゃない。ダメだよ、そんな弱気なこと言っちゃ。私がいるんだから、愚痴は一杯聞いてあげるから。他の人の前じゃもっとピシッとしなきゃ』
俺が愚痴や弱音を吐く度に、いつもそう言って俺の背中を支え、押してくれた。きっと今もそう言ってくれている様な気がする。振り返ると、そこにはあいつが俺を見上げるように浮いてる姿が桜の舞う中に見えた気もした。
「大丈夫。お前以外にこんな弱気なことは言ってないよ。格好悪いしな」
あいつの想いを無碍にしないために、俺はどこにでもなく見栄を張るように言った。
一通り墓石の掃除を済ませると、カバンの中から線香とあいつが好きだったお菓子と俺がこっちに帰って来る時に見つけた、小さなぬいぐるみを取り出した。先ほどのおばあさんが焚いた線香の香が微かに鼻についた。静かな自然の音と、穏やかな壮観を背に、俺も静かに線香に火をつけた。
『ちゃんと、あれ持ってきてくれた?』
そんな声が聞こえそうな気がした。
「大丈夫。ちゃんと持ってきてやったぞ」
酒が飲めなかったあいつには、甘いジュースと口直しの紅茶が、いつも俺の晩酌に付き合ってくれた時の必需品だった。そんな些細なことすらも、今の俺にはとても大切で、かけがえのないものなんだと、供えて気づく。
「次はいつ来れるか分からないから、ちょっと多めに持ってきたけど、一気に飲み食いするなよ。腹壊すからな」
いつでも笑みを絶やさなかったあいつは、少々の無理はその笑みで隠してきた。俺がもっとあいつを護っていれば、と考えることは今でも尽きることはない。
《私は大丈夫だよ。だから、悠はちゃんとお仕事に行って》
夜中に酷く咳き込んだ彼女を一晩中看病し、翌日仕事を休んで病院に連れて行くつもりが、そう言って追い出されるように仕事へ行かされた。行きたくなんかなかったのに。
《ねっ? 私は平気だから。私のことよりも今は仕事の失敗が許されない時期なんだから、しっかりね》
そう言って手渡された弁当が、まさかあいつの最期の手料理になるなんて思わなかったから、いつものように空腹に任せて、一気に昼に腹の中へ入れてしまった。
帰宅した俺をいつもならお帰りと温かい笑みで迎えてくれた彼女の姿は、その日はなかった。部屋には電気が灯っていて、トイレか風呂かと思ったが、昨夜のこともあり、嫌な脈打ちを心臓が打ってきた。
《夕衣っ。おいっ!》
リビングに顔を出した俺がまず発したのは、ただいまではなく、夕衣を呼ぶ声だった。
俺の勘はたまに良く当たる。それも悪いほうにばかり。だが、今回は勘じゃなかった。夕衣は元々先天性の心疾患を患っていて、色々と制限されることも多ければ、体調を崩すことも多々あった。それは俺が初めて出会った中学の頃から知っていたことでもあった。
いつもいつも体育は見学していて、昼休みも静かに過ごしていた夕衣。当時の俺は遊ぶことがメインで生きていたような子供だったから、目に止めることはほとんど無かった。大学に入って付き合うようになってから、夕衣のことを知り、一回は夕衣から離れようとしたが、俺がそれをさせなかった。それ以来、体調を崩す度に俺は他の事を投げ出してでも、夕衣の傍にいたが、今回は押し切られる形で仕事に出てしまった。今思えば、その時点でおかしいはずだった。それに気づけなかった俺は、生涯において愚か者だ。夕衣のご両親に、幸せにしますと誓ったのに、夕衣にも誓ったのに、まるで果たすことが出来なかった。
《夕衣っ、夕衣っ!》
すぐさま救急車を呼び、近くに暮らす夕衣のご両親を呼んだ。
あれほど無理はするなと、大人しくしているように言ったのに、あいつはいつものように無理をしながら、笑みを浮かべて我慢していたのだろう。俺が見つけた時は掃除をしていたのか、モップが倒れていて夕衣の手には手に取るのが精一杯だったようで、携帯が握られて既に電源は切れていた。着信履歴の所に俺の番号があった。時間は昼を少し過ぎた辺りで、呼び出しをしたが、俺に届く前に切ってしまったのだろう。夕衣からの着信は俺の携帯には届いてはいなかった。自分の妻だというのに、自分の大切な人だというのに、俺は彼女に押し出されるまま仕事へ行き、夕衣は俺が帰ってきた時に家が綺麗であるようにと、重たい体を無理やり起こしていつものように家事をこなしていた。ベランダには洗濯物も干しっぱなしで、それを思った俺は気が動転しすぎて、夕衣のご両親に余計な心配を掛けさせてしまった。分かっていたはずなのに。あいつが本当に辛い時は無理やり笑う。だから、そうさせないために俺は傍にいたのに。傍にいると誓ったのに。
当時の俺は毎日毎日そんな後悔で自分を責め続けていた。今思えば、夕衣は分かっていたのかもしれない。だから、俺にその最期を見せたくはなくて、俺が帰宅した時はいつものように綺麗な部屋で、風呂も夕食もすぐに取れるようにしようとしたのかもしれない。それが俺にしてやれる最期のことだと、自分を信じてやり遂げようとした。いつものことを、ただそれだけのことを。
だが、そんなものを俺は望まない。いつだって俺は俺のために夕衣と結婚したわけじゃない。夕衣と一緒にいるために、夕衣となら楽しく生きていけると思ったから、俺は彼女に指輪を贈ったんだ。支えあうことが夫婦のはずなのに、俺たちが見ているのはお互いじゃなく、それぞれの道の交差する先を見ていた。俺は夕衣にしてやれることを。夕衣はおれにしてあげられることを。馬鹿だ、本当に。
あの日以来家に帰っても、ただいまと迎えてくれる笑顔も温かい食事も、なくなった。今まで当たり前のように受け入れていたことが急になくなると、人は心がどこかへ行ってしまったように、何をするにも無気力になり、覇気がなくなる。それだけ今まで当たり前だと思っていたことが、長い時間を掛けて積み重ねてきた賜物だということを、俺は身を持って知らされた。
「知ってるか? 来週は四年目の結婚記念日なんだぞ」
本当なら、五年目の来年には俺はちょっとした企みを考えていた。可愛いものが好きなあいつに、二人でドイツのメルヘン街道へ旅行しようとこつこつと貯蓄していた。今でもそれは続いている。もう二人でどこかへ行くことは出来ないが、癖が身についてしまい、そのまま貯蓄は続けている。あいつのためにと始めたことだから、他の事に使う気にはなれず、溜まるばかりだ。
「少し早いけど、お前に贈り物があるんだ」
俺はカバンから小さな小箱を取り出した。指輪の小箱だ。結婚当初は金がなく、ろくな指輪を贈ることが出来ず、やっとあいつが欲しいと思いながらも、俺には絶対に口にしなかった指輪を手に入れることが出来た。本当は驚かせてその表情を楽しみたかったが、仕方がない。静かに墓石に捧げた。夕衣は自己主張もしなければ、自分の欲しいものも滅多に口にしない。俺がいれば良いなどと言って、他には特に望むことをしなかった。その言葉は素直に嬉しかったが、俺としてはそれに応えるだけの夕衣からの要望は欲していた。だから、あいつと偶々買い物に出た時に立ち寄った宝石店であいつの見せた微かな表情の変化を俺は見逃すことはせず、それから驚かせてやろうと思い、貯蓄に励みようやく手に入れた時には、夕衣の笑顔を二度と間近で見ることが出来なくなっていた。
「驚いたか? お前は隠してたみたいだけど、俺をなめるなよ。それくらい簡単に分かるんだからな。何てったって俺はお前の世界で二番目に良く見ている男なんだからな」
一番はお義父さんだ。俺は永遠にお義父さんには夕衣を愛している気持ちには勝てないが、その次は胸を張って俺だと言える。言ってみせる。
「なぁ、夕衣。これからも俺のこと、よろしくな。俺はお前じゃないと、ダメだから。他の誰かじゃ・・・・・・っ・・・・・・無理・・・だから・・・・・・っ」
おかしいな、声が上手く出せない。目の前が滲んでくる。今までこんなことなかったのに。目の前を淡い色の花びらが舞っている。役目を終えたように最後の演目を優雅に演じるように。
「ふっ・・・・・・うぅ、っ・・・・・・」
ダメだ。これ以上抑えられる自信がない。もう三年になるのに。
「泣いて良いのよ。ううん、泣きなさい」
崩れ落ちるように墓石にうなだれると、そう声が掛けられた。その言葉が俺の堰を決壊させた。もう自分でも抑えられず、大の大人のくせに、子供のように声を上げて泣いた。
恥ずかしさだとか、妙なプライドだとかどうでも良かった。あいつがいないことが俺にはプライドなんてものじゃ変えられないほどとても、とても大きなかけがえのない女性だったから。
「夕衣っ・・・・・・夕衣っ・・・・・・っ!」
夕衣の名前を呼ぶ度に、今まで溜め込んでいたものが次々と溢れてくる。自分でも分からないほど、どこからこの涙が溢れてくるのか、止まることがない。止めることが出来ない。
『情けないなぁ。そんな子供みたいに泣いちゃって』
きっと笑われる。それでも良い。夕衣にならいくら笑われたって構わない。あいつがそんなことでも笑ってくれるのなら、いくらだって泣いてやる。目が腫れ上がっても構わない。もう一度、いや、ずっとあいつが笑っていてくれるなら、俺は何だってする。
「悠・・・・・・。やっと泣いてくれたわね」
背中から温かい温もりが俺を包んだ。甘えん坊の夕衣が、よく家で寛いでいると、背中に子供のように抱きついてきたことがあった。その温もりに似ている。ずっと恋しくて、恋しい彼女の温もりに包まれているようで、振り返ることも出来ず、俺は泣き続けた。
「落ち着いた?」
どれくらい馬鹿みたいに泣いていたのかは分からない。やっと嗚咽が収まり、振り返ったら、そこに夕衣のような笑みを浮かべた義姉さんがいた。
「・・・・・・何とか・・・っ」
喉がカラカラだ。鼻水が止まらない。何度啜っても涙と一緒に出てくる。
「目、真赤ね」
「恥ずかしい・・・・・・」
夕衣の姉の麻衣さん。今でも俺の義姉さん。
「恥ずかしがることはないわ。悠は今まで一度もあの子のことで泣いたことがないでしょ? ずっと私は心配してたのよ」
ダメだ。話を聞いても照れ笑いさえ、今は出来ない。人前で泣くなんて恥ずかしいから、男が泣くなんて、と思っていたが、義姉さんの前じゃ、偽れない。夕衣と同じ血を引いて、同じ温もりを持っていて、微笑む表情が夕衣とほとんど変わりない優しいもので、その面影が何をしても夕衣と重なって見えてしまう。
「ふっ、あぁ・・・・・・ダメだ。止まらない・・・・・・っ」
「止める必要がどこにあるの?」
あれだけ涙したのに、まだ溢れてくる。だがもう羞恥の感覚はない。
「私以外、誰もいないから、遠慮しなくていいわよ」
「・・・はいっ・・・・・・っ」
それからしばらく、俺は情けないが、義姉さんの胸の中で馬鹿みたいにもう一度泣いてしまった。
「ごめん、汚した」
ようやく今度こそ落ち着きを取り戻したら、義姉さんの上着は涙で濡れていた。
「良いわよ、これくらい。いつでも使って構わないわ」
二人でもう一度、墓前に静かに手を合わせると、展望台としても格別な、墓の先にある社の近くの柵の前の古ぼけたベンチで、一息ついた。
「はぁ・・・・・・」
義姉さんが持っていた水を貰い、喉も潤った。体内の水分を出し切った感があるくらいだったため、一気に飲み干してしまった。胃の中に入ってくる冷たい水の感覚がよく分かる。すぅと身体に沁みこむ水が俺の気持ちを落ち着かせ和らげてくれる。
「それにしても、悠の泣いた顔は始めてみたわね」
どこかおかしそうに、嬉しそうに俺を見てくる義姉さん。きっと夕衣と同じ顔だ。
「誰にも見せたくはなかったんだけど、無理だった」
静かに吹き続ける風が、俺の全てを宥めるようだ。優しい温もりが似ている気もする。
「でも、良かった。悠がお通夜も式も、その後も一度たりとも涙を見せなかったから、私だけじゃなく、父さんも母さんも気にしてたのよ。悠が一人で気負って、我慢して、堪えているのを」
お世辞じゃない、家族を心配して、やっとホッと出来たような安堵の表情を俺に向けてくる。それすらも夕衣と重なって見え、今日の俺はどうかしてるな、などと心の中で笑った。
「泣かなかったわけじゃない。人前じゃしなかっただけ」
家に帰っても誰もいないという寂しさや孤独感で、枕を濡らした日も数多い。でも、ここまで泣いたことは今までなかったから、すっきりしたというか、気分が少し晴れた。空へと漏れていくため息が心なしか軽いものになったような気がする。余計なものを背負いすぎて、それを降ろした時に急に肩が軽くなって、空でも飛べそうな感覚がするのに似ている。
「本当に泣くと、すっきりするでしょ?」
「確かに」
どこまでも広がる青空と、温かい日差しがさらに俺を落ち着かせてくれた。
「悠」
義姉さんが、先ほどまでの表情を一変させて、俺を見て来る。その表情からは俺の今までではなく、これからのことを見るように言うような顔だった。
「あんたは良いの? このままで?」
どういう意味かだなんてすぐに分かる。
「まだ若いんだから、新しい付き合いをした方が良いわよ。あと、引越しとか考えたら? あの家じゃ、どこにいてもあの子が甦って辛いでしょ?」
麻衣さんは結婚して子供もいる。だからその経験から言ってくれるのだろう。だが、俺は新しい彼女を探す気もしない。振り切れていないし、区切りをつけられたわけじゃないという理由がほとんどだが、それよりももっと強い思いがある。大阪に出てすぐのことだった。だから夕衣は大阪のことを知る前に死んだ。数日間の短い間だけ過ごした、二人の家。それを失くすわけにはいかない。
「あいつ、俺が浮気するのは許さないっていつも言ってるから。それに、引越しなんてしたら、あいつ一人で、ずっとあの家で待ち続けそうな気がして、なかなか・・・・・・」
昔からそうだった。控えめなくせに意外と独占欲が強く、細かいことにも気づく奴だった。だから、今でも俺は夕衣の申し出に従っている。悲しげな表情を思い出したくはないからなのかもしれない。俺があの家を離れたら、あいつの帰る家がなくなりそうで、踏ん切りがつかない。
「それも昔のことでしょ? 今ならあの子もきっとそれを望んでるはずよ」
そうかもしれない。あいつは自分のことよりも他人のことを優先するような馬鹿だ。だからきっと義姉さんの言う通りに思っているかもしれない。
「良いんだ。俺は別に家庭を持って子供を持って老人になってってことを望んでいるわけじゃないし、俺が誰かと再婚すれば、あいつは一人になる。だから俺は、これを死ぬまではずすつもりはないよ。あいつが向こうで待ってるかもしれないし」
桜島のほうに、目の前にかざした左手にある少しだけ値の張る夕衣が欲しがっていた指輪の片割れが、夕衣の旦那である証。ダイヤなんて高価なものは付いていないシンプルな白銀色の輝き。俺はこれを外すつもりはないし、はずしたくなんてない。単なる我が侭だということも分かっている。けど、俺は別に家庭を持って老後を迎えることは望まない。夢を見続けるのかと言われれば、それはそのまま受け入れよう。俺はそうやって生きていくほうが幸せだと思っている。これが今の俺とあいつを繋いでくれる思い出以外に唯一のものだと思っているから。
「頑固ね。いつか寂しくなるわよ?」
義姉さんが苦笑しながらも、どこか嬉しそうな笑みを俺に向けてくる。
「平気だって。夕衣だって別に嫌がりはしないさ」
傍に感じられなくても、これがあればいつでもあいつの俺が好きな、俺に向けてくれる笑みがいつまでも傍に浮かんでくる。将来孤独になろうが、俺は孤独をもう感じない。いつでもあいつが後から抱き着いているような温もりを忘れないから。なんと言うか、夫婦なんだけどあいつがいない今は、夕衣に片思いしていた頃とまるで同じかもしれない。俺が死ぬまで抱き続ける片思いでも良い。
「まっ、泣きたくなったらいつでも来なさい。姉に甘えるのも弟の義務よ」
「義務なんだ?」
義姉さんの言葉は俺の考えを否定しない。賛成をしているほど納得もしていないみたいだが、見守るというだけ言ってくれた。十分すぎるほどだと思う。だから、その言葉が申し訳なくて、嬉しくて、思わず苦笑が漏れてしまう。
「当然。妹の分も一生甘やかせてあげるわよ」
「じゃあ、そのうち甘えるよ。たぶん」
すぐに気持ちの切り替えなんて無理だ。だから、どうしようもなくなった時は、姉に少しだけ夕衣の温もりを分けてもらおう。
「さてと、俺、出張があるから行くよ」
元々日帰り予定のため、そろそろ空港に向かわなければ、飛行機がなくなる。このためだけに今回も地元に戻ってきただけだ。これ以上夕衣との思い出を辿っては、今感じている気持ちに揺らぎが生まれてしまう。この気持ちが冷めないうちに、これ以上恋しくならないうちに、この桜が全て散る前に、綺麗なままで地元を去ろうと思う。俺の中で既に美化され始めた俺たちの思い出を色褪せさせないように。
「そう。無理しないようにね。あの子も変に心配するわよ」
俺は先に背を向けると、帰り際もう一度墓前に手を合わせて地元を後にしながら、思って空を仰いだ。
「夫婦って、片思いし続けるものなのかもな」
結ばれたからそれで想いは叶う。そういうわけじゃなさそうだ。ただ、一緒にいると忘れてしまいがちな想い。きっと、俺はこれからもずっと、片思いしながら生きていく。
「今日も良い天気だよ、夕衣」
振り返った墓地は、桜で染まっていた。
「どうして男ってのは、不器用なのかしらね」
悠を見送った麻衣は、そのまま静かに墓前に歩み寄り、悠が大雑把に飾りつけた花を見栄えの良いよう飾りなおしながら、そこに眠るたった一人の妹にそっと呟いた。
「夕衣、あんたも恵まれてるわね。あんなに今でも想ってくれる旦那様を射止めたなんて。ちょっと羨ましいわよ?」
そう言って、麻衣が青空を仰いだ。青い空が桜島を取り巻く海とどこかで重なっていた。
『うんっ。私の自慢の旦那様だもん』
そんな夕衣の微笑みが悠を追って、麻衣の前から消えていった。