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壁の穴

作者: 秋川

「本当に二万円でいいんですか?」

 僕は思わず目の前の男に聞き返した。

「ええ……。本当に借り手がいないんですよ」

 男はハンカチで額の汗を拭いながら答える。


 裏野ハイツ1LDK15畳、最寄りのターミナル駅まで徒歩7分、風呂トイレ別にベランダ、独立洗面台に駐輪場。おまけに徒歩5分以内にコンビニやスーパー、百円ショップまである。

 ただし、木造築30年という歴史は少々気になるし、それに――

「事故物件……ってヤツなんですよね?」

 僕はさっき言われたばかりの言葉をオウム返しにする。


「ええ。世の中、意外と縁起をかつぐ人が多いですからね。でも、ちゃんとお祓いも済んでますし、〝出る〟って話も聞きませんし、49000円の他の部屋と何も変わりゃしませんよ」

 なんでも、僕が紹介された203号室では変死体が見つかったことがあるらしい。

 だが今までの住人が幽霊を見たということはないようだし、もし仮に〝出る〟のだとしても、僕はその手のモノは全く信じていない。テレビや映画の心霊ホラーより、世間を騒がせている無軌道な犯罪者や何かの方がよほど恐いというものだ。

 何より二万円の前には全てが霞む。学生の身にはとかく金がないのだ。


「そうですね。そんなことで安くしてくれるなら御の字ですよ。何なら、黙っていても良かったのに」

「いやぁ、そこはほら、告知義務ってのがありますからして。はは……」

 笑いながらハンカチをしまう不動産屋の目は、しかし笑ってはいなかった。


 それから二人で実際の物件を見に行ったが、そのアパートは築年数の割には外観も内装もマシな方で、現在空き部屋のためすぐに入居できるという条件も僕の決心を後押しした。

 結局書類に判を押した僕は、週末には引っ越しの準備を始めていた。


      ●


 段ボールの家具や荷物をあらかた引っ張り出して、僕は床に仰向けになった。散乱した荷物でスペースがなく、頭はウォークインクロゼットの中の床にはみ出している。


 ちょっと疲れたけど、やっぱりこのアパートに越してきて良かったと思う。

 変死体なんて言うから治安や環境が悪いのかもしれないなんて不安もあったが、引っ越しの最中にたまたま鉢合わせた住人たちもいい人そうだった。


 一階に住んでいるらしい50がらみのサラリーマンは感じよく挨拶してくれたし、同じく一階の角部屋の夫婦はもう何年も住んでいると話してくれた。

 まだ全員と話した訳じゃないし、特に肝心の隣人――この203号室は角部屋なので、202号室の人だけだ――とはまだ顔を合わせてはいないが、この様子ならそんなに心配も要らない気がした。

 それにしても疲れた。首が痛い。僕はだらしなく寝転んだまま、首を左右に振って凝りをほぐした。


 それは、最初黒いシミのように見えた。クロゼットの中の壁にできたシミ。直径1~2センチほどのそれが何となく気になって見てみると、段々と別のもののように見えてくる。

 四つん這いになって顔を近づけてみれば、確かにそれはシミではなかった。


 穴だった。


 覗いた先はぼんやりと薄暗い空間で、しばらく目を凝らしていると、床と壁の見分けが付くようになってくる。

 穴から見えていたのは向こうの部屋だった。

 イスや小さなテーブルらしきものもあったが、人の姿はない。確認できる範囲は広くないが、そもそも何の気配もないので誰もいないのだろう。


 僕は、起き上がってクローゼットから出る。

 不動産屋に言って修理なりして貰った方がいいのかもしれない。

 でも、正直面倒くさい。穴はクローゼットの中の死角に隠れていて、小さな子供か何かでもなければ普通は見つけられない場所にある。

 確か、隣の202号室の住人は若い男とかいう話だった。修理するとなれば、当然隣人にも話は行くだろう。

 別に僕が穴を空けた訳でもないのに、トラブルになっても困る。そもそも知らない男の私生活なんて覗きたいとも思わないのだから、こんな穴なんて無視してしまいたい。


 忘れかけていた疲労が戻ってきたような気がしていた。

 結局僕は、壁の穴を見なかったことにした。


      ●●


 平穏無事に時は過ぎ、僕はこの街に越してきて初めての夏を迎えた。

 ようやく決めた大学のサークルにも馴染んできて、夏合宿にも参加した。打ち上げの飲み会を終えて、僕はふらつく足で裏野ハイツまで辿り着く。

 どうやら飲み過ぎたようだ。

 歩いてさらに酔いが回ったのか、普段は使わない手すりに縋り2階まで上がったものの、僕の部屋までが遠い。


 ふと、手前にある202号室の様子が違うのに気がついた。

 ドアの脇の窓から少しだけ明かりが漏れている。もっと早い時間に通ることが多かったせいか、いつも真っ暗だったのだ。

 ということは。今は202号室の住人がいるということだ。

 あれから数ヶ月が経った今も、僕は隣人とは顔を合わせたことがなかった。根本的な生活サイクルが異なっているのか、そもそも留守がちなのか、たまに壁越しの物音くらいは聞くこともあったけどそれだけだ。


 僕は部屋に戻ってシャワーを浴びたが、まだ眠くはならない。

 今日に限って、何となく隣が気になっていた。酒で気が大きくなっていたのかもしれない。僕はこっそりクローゼットに近づき、四つん這いになった。かすかに光が漏れる穴に片目を寄せていく。心臓の鼓動が強く、早くなり、まだ見ぬ隣人に聞こえるのではないかと思った。


 まず目に入ったのは、肌色だった。風呂上がりなのか、丸みを帯びたその身体は軽く火照っていて、僕は思わず唾を呑んだ。


 ――女?


 僕が声を上げなかったのは奇跡だったかもしれない。見間違いではない。何故なら、彼女は覗く者の存在など意識するはずもなく、バスタオルを巻いただけの上半身には女性らしい豊かな膨らみが存在していたからだ。

 残念ながら顔は見えなかった。どんなに下から見ようとしても、相手が立っていると角度の関係で首から上がギリギリ見えないのだ。

 もどかしく体勢を変える僕のことなど露知らず、彼女はエアコンを操作すると、飲み物でも取りに行くのか歩いて行ってしまう。


 彼女が視界から消え、僕は次第に冷静になる。

 ――一体何をやっているんだ。これじゃ覗きだ。

 僕は未練を感じながらも、クローゼットから抜け出し、改めてベッドに横たわる。


 彼女は誰なのだろう。隣人の男の彼女か何かだろうか。しかし、ずっと見ていても誰かと会話を始めることはなかった、別の人間がいたとは考えにくい。

 若い男というのは勘違いで、隣の部屋の主は実は女性だったのだろうか。それとも最近引っ越してきた?

 どちらにしても、この深夜に部屋にいる以上、部屋の主かそれに限りなく近い存在には違いなかった。


 それにしても……。

 大学に入って数ヶ月経った今も、恋人を作るという密かな目標は達成されていない。そして、穴の向こうの彼女の身体は余りにも生々しかった。


 僕は邪な考えを振り払おうとした。仲良くなりたかったら正面切って話に行けばいい。既に引っ越しの挨拶をする時期は逸してしまったが、隣に住んでいるならいくらでも機会はあるはずだ。

 自分に言い聞かせたが、それは空論に過ぎなかった。再び穴の向こうを見なかったことにするには、さっきの光景は鮮烈すぎたのだ。


      ●●●


 それから、僕は毎日のように穴を覗いた。

 酒を飲んだ日だけ。

 一日一回だけ。

 夜だけ、朝と夜だけ、彼女が居そうなときだけ……。

 自分に課したルールはどんどん甘く、意味を為さなくなっていった。

 覗いたとき穴の向こうにいたのは、いつも彼女だった。スーツ、私服、パジャマ、あられもない下着姿……。彼女は社会人のようだった。出入りの様子は全く見えないのでいるかどうかしか分からないが、何日も空けることもあれば一日中部屋にいることもある。

 気づけば僕はサークルにも滅多に顔を出さなくなり、理由を付けては壁の穴を覗くための時間を取るようになっていた。


      ●●●●


 朝起きていつものように壁の穴を覗く。

 今日は部屋にいるものの、どうやら寝ているらしい。

 僕は少しがっかりしながら、必修の授業を受けるため大学へ向かった。


 部屋を出ると、すぐ近くに人の気配があった。

 驚いて見たが、それは201号室から出てきたらしい老婆だった。

 無視するのも難なので声をかける。


「おはようございます」

 しかし耳でも遠いのか、あるいは引っ越しの挨拶をしなかったのが気に入らなかったのか、こちらを見もしない。

 気を取り直して通り過ぎようとすると、老婆は突然呟いた。


「隣の部屋の人には気をつけなされや……」


 ギョッとして立ち止まった僕を、老婆のギョロついた双眸がしっかりと見据えていた。

 ――隣人? それは、彼女のことだろうか。気をつけなければならないことなんてあるとは思えない。

 何にしても、僕のしていることを見透かされている気がして、ひどく居心地が悪かった。

 返す言葉がなく、曖昧な笑顔で会釈だけして通り過ぎた。

 僕の背中で、老婆はヒヒヒと厭な笑い声を立てていた。


 大学では一日中上の空で過ごした。

 あの老婆の言葉が気になっていた。あの人は知っているのだろうか。気を付けられてしかるべきなのはむしろ僕の方ではないのか。

 僕は改めて自分のしていたことを客観視した。まるで痴漢かストーカーだ。あんなことはいつまでも続けていてはいけない。

 彼女に穴の存在を知らせよう。

 そう決心して、授業が引けたら脇目も振らずに家に帰る。


 202号室のチャイムを鳴らしても、ノックしてみても誰も出ない。出かけたか、それともまだ寝ているのか。

 僕は仕方なく……そう、仕方なくまた壁の穴を覗いた。

 彼女は起きていて、イスに座って何かを食べていた。

 出なかったのは来訪者を警戒していたのだろうか。まあこんなセキュリティもロクにないボロアパートのことだ、そういう考えを抱いても何もおかしくはない。

 でも、ならばやはりアプローチは壁の穴からするしかない。僕は意を決して穴から声をかけた。


「すいません、すいません!」

 僕の声は彼女に聞こえたようだった。不安げにキョロキョロと辺りを見回し、右往左往する。

「えっ……誰? 誰かいるの?」

「驚かせてすみません、僕は隣の部屋の者です」

 なるべく紳士的な声に聞こえるよう心掛けたせいか、彼女は落ち着きを取り戻し、冷静に辺りを探し始めた。そしてすぐに壁の穴に気付き、僕の視界いっぱいに彼女の顔が映る。


 ……美人だ。

 歳は三、四歳上に見えた。

 女性の顔立ちにはいわゆる可愛い系統と美人な系統があると思うが、彼女は明確に後者で、僕の好みそのものだった。

 胸の高鳴りを抑えて話しかける。

「突然すみません。今日掃除をしていたら、ここの壁に穴が空いてるのを見つけて……」

「あ、そうだったんだ」

 嘘をつくのは心苦しかったが、本当のことを話して彼女に軽蔑されるのはもっと耐えがたかった。

「でも、ありがとうね。教えてくれて」

 そう言って穴に向かって笑顔を見せてくれる彼女に、僕は心を奪われたことを悟った。


 結局、修理するのは面倒だし、君もいい人そうだし、と言われて穴はそのままにすることにした。

 さすがに着替えや就寝中などだろうか、見られたくないときは穴の前に箱で目隠しをされたが、そうでなければ時々穴を覗いたり覗かれたりしながら会話するようになったのだ。

 話をしたくなったときはノックをするという合図まで決まった。

「だってさ、こういうのってちょっと楽しくない?」

 こんな風に悪戯っぽく笑いかけられて、勘違いしない男がいたら教えて欲しい。


      ●●●●●


「このシャツどう? 友達は変だって言うんだけど」

「うーん、ちょっと無いかなー。君にはもっとシンプルなやつが似合うよ」

 今日も僕たちは壁の穴越しに会話する。

 一つだけ気がかりだったのは、部屋に遊びに行っていいか、あるいはこちらの部屋に遊びに来ないかという誘いに彼女が決して乗らないことだった。

「ごめんね、それは無理。私はここから出られないし、君がこっちに来たら……きっと悲しいことになるから」

 部屋から出られないというのは何か詩的な比喩だとしても、悲しいことになるというのが気になった。でも、もうこの奇妙な関係を手放す気にはなれない。

 そして、僕と彼女はどんどん仲良くなっていった。

 少なくとも、僕はそう思っていた。


      ●●●●●●


 ある日、大学から帰った僕は202号室の前に若い男がいるのを見つけた。アロハのような派手なシャツを着崩し、髪はくすんだ金髪に染めた男。

 男は階段から現れた僕をちらりと一瞥したが、すぐに興味もなさそうに視線を戻す。

 一体こいつは誰なのか。彼女に何の用があるというのか。僕は動揺を隠して声を掛けた。


「……こんばんは」

「あ? おお」

 男はふてぶてしくも、今気付いたとでもいうような鷹揚な態度で答える。

 いけ好かない男だ。チンピラの類いだろう。少しでも怪しい素振りを見せるようなら、警察への通報も考えた方がいいかもしれない。

 鍵を開けるのに手間取っているフリをして、男の様子を横目で伺っていると、信じられないことが起こった。

 男が鍵を取り出し、202号室のドアノブに差し込んだのだ。

「あっ……」

 おかしな声を上げた僕を不審げに見て、男は部屋の中に消える。乱暴なドアの音に続いて、鍵が閉まる音。


 僕は阿呆みたいに廊下で佇んでいた。

 一体どういうことだ。ヤツが202号室の住人だとでも言うのか?

 それとも、彼氏?

 まさかそんな。彼女があんな男と付き合うはずが……。

 でも、確かに彼女に付き合っている相手がいるかどうか確かめた訳でもないし、そもそも彼女が部屋を借りているのかどうかすら定かではないのだ。

 ――きっと悲しいことになるから……


 馬鹿な。何かの間違いに違いない。

 確かめたかった。どうすれば? そうだ。


 ――覗けばいい。


 僕は急いで自分の部屋に入り、一直線にクローゼットに向かった。

「なんで……」

 穴には目隠しがしてあった。部屋にいないときは、いつも目隠しはされていないのに。

 厭な想像が頭の中を巡る。

 わらにも縋る思いで僕は壁をノックする。しかし、しばらく待っても何の反応もない。

 ドタン! と大きなものがぶつかるような音がして、それっきり何も聞こえなくなった。


 僕はその日、一睡もできなかった。


      ●●●●●●●


 僕は毎日しつこくノックを繰り返し、彼女と再び話ができたのは二日も経ってからだった。

 穴ごしに見た彼女の美しい顔は片側が赤く腫れていた。


「それ、どうしたんだ!?」

「……何でもない」

 顔を見せたがらないから、おかしいと思ったらこれだ。

「何でもないってことないよね? 誰にやられたの」

「転んだだけ」

 彼女は嘘を付いていた。

 あの男に対する怒りがふつふつと湧いてきていた。

「あいつにやられたんだろ?」

 彼女は目を逸らして答えない。それが答えだった。


「君がどういう事情でその部屋に住んでるのかは知らないけど、どうにかした方がいいよ。あいつ、絶対まともじゃない」

 僕の部屋に来いと言いたいところだったが、また拒否されるのが怖かった。それに、さすがに避難先が隣では落ち着こうにも落ち着きようがないだろう。

 そんな僕の配慮も知らず、彼女は静かに首を振った。

「出られないの」

 何か、想像以上に込み入った事情があるのかもしれない。しかし、あんなチンピラと一緒にしておいたら、次はどうなるか分からない。

「僕があいつに言うよ。もうやめろって」

「……知らないふりをするだけよ」

 虚ろな視線が宙をさまよう。僕は居ても立ってもいられなかった。無理矢理にでも彼女を連れ出して警察に行った方がいいのではないか。あの腫れ上がった顔を見せれば話くらいは聞いてくれるだろう。


 外に飛び出して202号室の前に立つ。脇の窓は真っ暗だった。まるで誰もいないみたいに。

 ドアを叩く。返事はない。

 ダメだ。彼女はきっと、恐怖で頑なになっている。部屋の奥で膝を抱えているのだろう。

 僕は、あの男を問い詰めるため帰宅を待つことにした。


 ――隣の部屋の人には気をつけなされや……

 201号室の老婆の言葉は、あの男のことだったのだ。滅多に姿を見せない男でも、昔から住んでいる者なら知っていただろう。あのチンピラのような男の暴虐ぶりを目の当たりにしていてもおかしくはない。

 馬鹿正直に部屋の前で待って、変に警戒されても面倒だ。僕は建物の死角から敷地の出入り口を窺うことにした。


 小一時間経って、やっと誰かが入ってくる。二人……いや三人か?

 残念ながら、あの男ではなく一階に住む夫婦のようだった。三歳くらいの小さな子どもを挟んで三人手を繋いでいるが、よく見れば子どもの足は両親に引きずられて地面を擦っている。

 夫の方は楽しそうに何事かを子どもに語りかけ、奥さんも口に手を当て笑う。微笑ましい家族そのものだった。子どもがボロボロの人形であることを除けば。


「こんにちは!」

 突然真後ろから話しかけられ、僕は飛び上がった。

 振り返ればそこには口角を上げた50がらみのサラリーマン。一階に住む男だ。

「な、なんですか……」

「いえ、私はいつもにこやかに挨拶をする、感じの良い男ですからね」

 僕の目を瞬きもせず覗き込むと、去っていってしまう。


 どいつもこいつもどうかしている。

 薄々感じていたことだが、このアパートの連中はどこかおかしい。

 一見まともに見えても、何かがずれているのだ。

 この一件が終わったら、引っ越しを考えるべきかもしれない。そう、家賃が多少張っても2LDKくらいがいい。2人でも住めるような……。

 夢想しながら待っていたが、202号室の男は現れない。


 日が暮れた。男はまだ来ない。


 夜中の2時くらいになって、ついに男が現れた。階段を上る男の後を足音を殺してついていき、後ろから

声を掛ける。

「あの!」

「うわっ!! な、何だお前」

 男は目に見えて驚いていた。

「話があるんです。彼女に暴力を振るうのをやめてください」

 男は段々と落ち着いたのか、怪訝な顔になる。

「……はあ? 何のことだよ? つーか何なんだ? こんな夜中に、待ち伏せみたいなことして。お前隣のガキだろ?」

 男は僕を威圧してくる。案の定シラを切るつもりのようだ。

「とぼけるつもりなんですか? 彼女に酷いことをするのをやめろと言ってるんですよ!」

 僕が語気を強めると、男は不審の色を露わにする。微かな怯えを塗り隠しているようにも見えた。

「だから、何なんだよ彼女って。頭おかしいんじゃねえのか」

 男は僕に背を向け、部屋に入ろうとする。僕は思わず彼の肩を掴んだ。

「とぼけるなと言ってるだろう! いいから彼女を解放しろ!!」

 男は答えず、振り向きざま僕の顔に拳をめり込ませた。

 僕は廊下の手すりに強かに背中を打ち付ける。息ができず、何度も咳き込む。

「いい加減にしろよ、てめえ。……ちっ、鬱陶しいな。隣にこんな気持ち悪ぃ奴がいたら落ち着けやしねー」

 捨て台詞を吐くと、踵を返して降りていく。僕にはもう追いかける気力はなかった。

 ダメだ……。やっぱり腕力では勝てない。

 どうやらヤツは今夜は戻らないつもりのようだ。でも、いずれはまた帰ってくるだろう。それは明日の朝かもしれないのだ。それまでに何とかしないと……。


      ○


 僕は部屋に戻った。壁の穴の先に彼女はいた。ヤツに殴られた頬が痛くて、荒い息をついた僕に、彼女が声を掛けてくる。

「大丈夫……?」

「うん。どうってことないよ。あいつは当分帰ってこないと思う。さっき追い払ったから」

 僕は少し誇らしげな気持ちになった。

「そう……」

 彼女は思案顔になる。

 やはり不安なのだろう。どうにかしなければ……。

 僕は壁の穴越しに彼女を強く想う。

 この穴がもっと広ければ……。


 ――? そうか。この穴を広げてやればいいじゃないか。

 何という画期的な思いつき! 僕は穴のふちに指を掛けた。ドリルか何かがないと無理なんじゃないかと想ったが、なぜかできそうな気がしたのだ。

 思い通り、壁は指の力だけでボロボロと崩れていく。僕は両手を使って一気に穴を広げた。笑い声が聞こえた。それは僕のものだった。ははは、簡単なことだったんじゃないか。

 気付けば、もう穴は大人が余裕で通れるくらいになっていた。


 僕は四つん這いになり、壁の穴をくぐる。

 そこには、いつも見ていたフローリングと白い壁、イスにテーブルがあった。そして、俯いた彼女の姿も。

 ……違和感があった。この部屋……おかしくないか?

 この部屋は真ん中のテーブルを中心に、白い壁で四方が囲まれている。間取りって、僕の部屋の線対称のはずじゃ……。

 強烈な怖気が僕の身体を駆け抜けた。そもそも、線対称の部屋をクローゼットの中から覗いていたはずなのに、なぜ穴の目の前にフローリングがあったんだ?

 本能的な恐怖が僕に戻れと駆り立てる。だが、振り返ったそこにはもう穴などなかった。

 間取りどころじゃない。この部屋、出口がない!


 僕は、ゆっくりと視線を彼女に移した。彼女は真っ白い顔を上げ、血のように真っ赤な口で笑う。眼球があるはずの場所には、闇が広がっているだけだった。

『やっと来てくれた』

 あの世から聞こえてくるような声。

 僕は逃げだそうとしたが、目の前には壁しかなかった。

『言ったでしょ? お祓いのせいで出られないって』

 彼女だったものが近寄ってくる。もうその原型は残っていなかった。

 僕は壁を叩いて絶叫した。あれだけ脆かった壁は、絶望的なまでにビクともしない。

 意識がなくなる寸前、僕は老婆の言葉の意味を理解した。

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― 新着の感想 ―
[一言]  葵枝燕と申します。  「壁の穴」、読ませていただきました。  暴力を振るわれて困っているらしい隣室の女が、実は化物だった! 正体が化物なら、そりゃあお祓いされたら出ていけなくなりますね。せ…
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