はじめてのこと
翌日、1日の授業が終わったアストレアは図書塔でキルケと待合わせをしていた。今日は、図書委員のこれからを話し合うことになっている。
キルケよりも早く授業を終えたアストレアは、キルケに教えてもらった『委員会のすゝめ』という、学院の委員会についてその歴史が書かれた本を探していた。
どうやらその本には学院に存在する全ての委員会について詳しく書かれているらしい。図書委員の委員長になったアストレアは、無知のままではいられないと勉強することにしたのだ。
「あ、あったわ」
3階にある階段途中の書架の一番上にそれはあった。青い上質な布製の背表紙にタイトルが刺繍されている。歴代の図書委員長が記録したものらしい。
しかし、アストレアの身長ではなかなか取れない。近くに椅子なんてものはないし、キルケが来るまで待とうかと思っていた矢先。
「これを取ればいいんだね」
アストレアの頭上から声がした。上目で見てみるといつの間にか背後に立っていたキルケが、アストレアが取ろうとしてくれた本を取ってくれていた。
背伸びもしたり、少しだけ跳ねてみたりしていた姿を見られていたと思うと何とも言えない恥ずかしさがある。
「はい、どうぞ。今度から高いところのものは僕が取るから、遠慮なく言ってうわっ」
階段の段差近くに立っていたキルケは足を踏み外してしまい、転倒しそうになる。慌ててアストレアが腕を引っ張るが、体格も違えば力も違う。逆に彼女の方がキルケに引っ張られるようにしてそのまま2人とも落ちてしまった。
「う……いたた……」
お腹に鈍い衝撃を受け、ようやく落下したのだと気付く。ゆっくりと目を開け、キルケの無事を確認しようとすると――。
目の前にキルケの顔があった。しかも、少しでも動けば唇が触れてしまいそうな距離で。
「わっ!? ご、ごめんなさい!!」
そこでようやく、自分がキルケの上に乗っているということを理解したアストレアは、慌てて離れた。
お互い赤面しながらそっぽを向きあう。何て声を掛ければいいか分からない。心臓が早鐘する。動揺しているのが自分でも分かる。
「あの……怪我は、ない?」
そっとキルケの方を向くとまるで熟れた果実のように真っ赤に頬を染めていた。何だかその様子が面白くて、恥ずかしさよりも面白さでアストレアはふき出す。
「ふふっ、キルケったら顔が真っ赤よ」
「なっ、そういうアストレア嬢だって真っ赤だよ!」
「わたしは赤くないわよ! 頬を擦っただけよ」
2人して言い合いをしているうちに、それすらもおかしくなってきて、互いに顔を見合わせてくすりと笑った。
「まあ……君に怪我がないみたいで良かった」
そう言い、キルケは微笑みアストレアに向かって手を差し伸べてくれた。
(あっ、まただわ。また胸が苦しい……)
制服を握りしめるようにして胸を押さえるアストレアに、キルケが心配そうな顔をして、彼女の顔を覗きこむ。思わず近くなったその距離に、またアストレアの心臓が脈打つ。
自分の意識を逸らそうと話題を探す。ふと視界に入ってきたのは、先程キルケが手渡そうとしてくれていた委員会について書かれた書物だった。落ちた衝撃で本は開き、ページがめくれた状態になっていた。
「あら、何か描かれているわ」
よく見てみるとそれは何かの紋章が一覧になっているページだった。
「ああ、これは各委員会の紋章だよ。武道委員会は獅子、文化委員会は魚といったように、それぞれの委員会にはシンボルが決まっているんだ」
「図書委員は……ないのね」
「うん、決まっていないみたいだよ。紋章にはきちんと意味があって委員会の『顔』とも言える存在だから僕等も作りたいんだけど」
ふと、ページを指差すキルケの吐息が顔の近くで感じられた。後ろから覗くようにしてアストレアの肩近くで本を見ている。
(ち、近い……!!)
キルケは何とも思っていないようだが、アストレアの方はそうはいかない。心臓がうるさく打ち、彼に聞こえてしまうのではないかと思うほどに音がうるさい。これ以上、彼の顔を見ていたらおかしくなってしまいそうで怖くなった。
この場から早く去ろうとアストレアは立ち上がった。
「ごめんなさい、キルケ。ちょっと考えたい事が出来たから今日は解散ということで良いかしら」
「えっ? 構わないけど急にどうしたの……?」
「ごめんなさい、落ち着くまで1人でいたいの」
不思議そうな顔をして何か言いたげだったがキルケは何も言わず、アストレアを見つめた。彼の吸い込まれそうな瞳にまたも心臓が早鐘する。
(わたし……何かの病気なのかな?)
今まで感じたことのない気持ちに苦しくなって胸を押さえながら図書塔を去った。