半透明人間と41回目のパンプキンスープ
クラスメイトに無視され始めて、どれくらいが経っただろうか。最後に会話したのがいつだったのか思い出せないくらい、遠い昔のことのように感じる。原因が何だったのかさえも、今では記憶が曖昧なほどだ。或いは、思い出さないほうが身の為だから、無意識に忘れたふりをしているのかもしれない。神様が人間に「忘れる」という機能を忘れずに付けておいてくれて、本当に良かったと思う。でなければクラスメイト全員に無視されて、私の心は潰れてしまっていただろうから。
それでも数ヶ月前までは、私は胸に痛みを覚えながら生きていた。楽しそうに会話する元友人達を必死で見ないようにしながら、何故自分が無視されなければならないのかいつも自問自答していた。毎朝目を覚ますと、「今日こそ私は生まれ変わって、皆と『元通り』になれる筈だ」と言い聞かせた。歯を食いしばり、肩を震わせながら登校して…それもホームルームが始まる頃には、何もかもが淡い夢だったと知り、私の心は何処までも底へと沈んでいくのだった。
変化が現れたのは、それから数日後のことだった。私はベッドの中で濡れた毛布に包まれながら、ある結論にたどり着いた。
『無視されているのだったら、いっそこっちから無視してやればいい』
今思うと、開き直っただけだ。だが、それが思いのほか効果を上げた。
まず最初に私は、彼らをかぼちゃか何かと思い込むことにした。彼らを人間だと思わなければ、別に話しかけられないことも苦痛にならないかもしれない、と思ったのだ。野菜に話しかけられることを期待する人間がいるだろうか。そう言い聞かせているうちに、だんだんその気になっていくのだから不思議なものだ。数日後には、あれほど痛んでいた胸が少しだけ和らいでいた。
次に、彼らの話し声は只の雑音に過ぎず、彼らの動きも、表情も、何もかもが道端の石ころと同じようなものだ、と考えた。彼らは、飾りだ。少なくとも、私と同じグループに属する種族ではない。そう考えているうちに、少しづつ彼らの声も聞こえなくなっていった。
そうしているうちに、ある日、不思議な出来事が起こった。
いつの間にか、彼らの姿が薄く見えなくなっていったのだ。まるで透明人間にでもなったかのように、彼らは日に日に透けていった。どんどん色を失っていく元友人達を見て、私は目を疑った。とうとう頭がおかしくなったのかと思い悩んだが…反面私の胸は高鳴った。
逆に好都合じゃないか。
見えも聞こえもしなければ、いないのと同じだ。元々私をいないものとして扱ったのは、あっちの方からだ。そう考えると、目の前の不可解な現象も、神様からの素敵なプレゼントに思えてきた。
そうして、半透明で背景を透かしながら私を無視してした彼らも、数日後には綺麗さっぱり消えてなくなった。一体どんな理屈か知らないが、ある日クラスメイトが全員、透明人間になったのだ。
私は心の中でガッツポーズした。誰もいなくなった教室を、深呼吸しながらぐるっと見渡す。何て広々とした空間なんだろう。あれほど嫌だったみんなの声も、全くといっていいほど何も聞こえない。久々に味わった開放感に、私の心は晴れ晴れとしていた。今夜こそきっと、乾いた毛布の中で眠れるに違いなかった。
それから数日後、私は母に連れられて病院へと出向いた。
「明らかに心的ストレスです」
眼鏡の若い医者が悲痛な声でそう告げた。
「相当な負荷をかけてきたのでしょう。頭で分かっていても、心が拒絶している。彼女は今、見えているものを見えないと言い聞かせ、実際に対象を認識することを拒んでいます」
白い布に囲まれた診察室で、私に寄り添っていた母は泣いていた。その日のうちに、私は入院することが決まった。
朝目を覚ますと、独りでに扉が開き、朝食が宙に浮いたまま私のベッドへと運ばれてくる。「おはよう、時希子ちゃん」透明人間がそういって、朝食をテーブルに置くと、部屋の電気をつけてくれた。
蛍光灯の光が眩しかったので、私は照明を「無視」した。
「きゃっ!?」
途端に、部屋の電気が消え、辺りは真っ暗になった。透明人間が、私の見えないところでしりもちを付いた音がした。どうやら病院全体が、停電したようだった。「なんなのよこの子もう…」薄気味悪そうに、透明人間は慌てて部屋を出て行き、扉にしっかり鍵を掛けて走り去っていった。
私は何故か濡れていた毛布を抜け出すと、扉の前に立ち、鍵を「無視」して部屋を出た。暗い廊下を歩いてロビーに出ても、誰とも出会わなかった。もしかしたら、そこのソファーに透明人間が座っていて、私を見ているのかもしれないが…生憎私の目には何も映りはしなかった。諦めて私は中庭へと出た。
薄い入院服一枚の私に、外の空気は肌寒かった。まるで世界中の人間が出払ってしまったかのように、空が青く静まり返っている。私はあまりの寒気に思わず体を震わせた。その時だった。
「ねえ」
後ろから声をかけられ、私は驚いて振り返った。誰もいないと思い込んでいたのだ。
そこにいたのは、かぼちゃだった。
中庭のベンチに不自然に置かれたかぼちゃが、何故だか私に話しかけている。
野菜に話しかけられて平然としていられる人間が、果たしているだろうか。私は思わず腰を抜かしそうになりながらも、何とか踏みとどまった。一瞬自分の頭がおかしくなったのかと思い戸惑ったが…そんなことはもうとっくに経験済みだったことに気がつき平静さを取り戻した。
「ねえ」
私は話しかけるかぼちゃを「無視」した。
「ねえお姉ちゃん」
それでも、私が何度「無視」しても、小さなかぼちゃは私に話しかけてきた。「なんなのよこのかぼちゃ…」意味不明なこの状況に私は薄気味悪くなり、私は逃げるように自分の病室へと走って帰った。
「中庭にかぼちゃを植えてるんですか?」
「かぼちゃ?かぼちゃが食べたいの?」
あくる日、何となく透明人間にそう尋ねると、何を勘違いしたのかそれから透明人間は毎日かぼちゃ料理を私に持って来るようになった。それからしばらく、私は昼御飯にパンプキンスープを食べる羽目になった。
入院してからしばらく経っても、私が中庭に行くと小さなかぼちゃは必ず中庭にいた。どんなテレビ番組が好きかとか、好きな食べ物は何だとか、私がどれだけ「無視」してもかぼちゃはお構いなしに私に話しかけてきた。かぼちゃは眠るときに、必ず左側を向いて寝るらしい。恐らく私は、世界で一番「間違ったかぼちゃの知識」を聞かされた人間になったと思う。全く持って無駄な時間だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。自分でもよく分からないが、あれから私は毎日昼休みになると中庭に通っていた。
不思議な出来事は、私が34回目のパンプキンスープを飲んだ日におきた。あれだけ目を凝らしても見えなかった透明人間達が、だんだんと…本当にだんだんと、半透明くらいには見えるようになってきたのである。私がそう告げると、薄くぼやけた医者と母は大喜びだった。
「小康状態にあります。このまま回復すれば、娘さんの退院も近いでしょう」
半透明な母の腕の中で、私はぼんやりと母の身体の向こうに透けて見える診察室を見ていた。
だんだんと輪郭を取り戻していく半透明人間達のおかげで、今では病院は大分にぎやかになっている。昼休み、いつの間にか濡れることもなくなった毛布の中で、41回目のパンプキンスープを飲んでいると、半透明の看護婦が不思議そうな顔で私に尋ねた。
「今日は中庭に行かないの?」
「中庭?」
何のことか分からず、私は首を捻った。中庭に、何か用事があっただろうか?
何も思い出せない…どうやら忘れてしまったようだ。
「あれ…?」
そう気づいたとき、何故か私は涙を流していた。頬を伝った一滴はそのままコップの中へと流れ込んでしまい、私はいつもより塩辛いパンプキンスープを一気に喉に流し込んだ。
看護婦との会話の後、私は何となく中庭に行ってみた。中庭には誰も、透明人間すらいなかった。
やっぱり、何にも思い出せない。
私は空を見上げた。晴れ渡った空の下、先ほど飲んだスープがその熱を残し、私の胸をしばらく焦がし続けていた…。