▼8.少年は世界に掲げる
藍風鈴花は一人、やけに人気のない住宅街を歩いていた。空はどんよりと曇り、人どころか鳥の鳴き声一つしない。虫ですら息絶えたように静まりかえっている。
明らかに異常なそこで、少女はぼんやりと思索に耽っていた。
どこか虚ろな瞳で今日の出来事を反芻していた。
少年の優しげな笑顔が目に浮かぶ。
緋ヶ瀬鉄人。先輩。彼氏。イジメから助けてくれた人。好意を向けてくれる人。でも、何かが決定的に読めない人。
鈴花はその少年の前で無様にも気を失ったのだ。突然襲ってきた白昼夢は意味が分からず、けれど、酷く恐ろしいものだったのは確かだ。本当に怖くて、怖くて、気付けば保健室のベッドで寝ていた。
目を覚ましたときに側に居たのは保健室の先生でも、少年でもなく、鋭利な刃物に似た美貌を持つ、黒髪の少女だった。
片岸美月。そう名乗った彼女は鈴花の体を心配するような言葉をかけたが、鈴花がぎこちない笑顔で大事無いことを伝えると、切れ長の目を鋭く細めてただ一言、
「あの人に心配をかけないで」
無機質にそう言った。
込められた冷気に思わず固まってしまい、鈴花はそこから何も言葉を発せなくなってしまった。
そうして、消沈したまま帰宅の徒についているのが現状だ。
「あの人が先輩の幼馴染……噂通りのキレイな人だったなあ……」
向けられた言葉に少々傷ついた、というのもあったが、それ以上に片岸美月の美しさが鈴花の心をかき乱していた。
あんなキレイな人がいるのに、どうして私なんかを。
少年の真っ直ぐな言葉と態度には疑いの持ちようもない。ないのだが、己に執心するその心根にはどうにも理解が及ばなかった。
鈴花は自己評価が極端に低い。虐められていたという事実がその根幹なのだが、事態が改善された今でも、染みついてしまった考えは簡単に消えてしまうものではない。
だから、早退する前に様子を見に来た少年に、意を決して聞こうとした。
「片岸先輩に会いました。幼馴染、なんですよね……?」
たった一言。前フリに過ぎないその言葉だけで、少年はすべてを悟ったかのように瞑目した。いや、事実悟ったのだ。
「なるほど。理解できない、か」
あまりにも察しが良すぎるその言葉に、鈴花は何も返せなかった。もしかしたら、と胸を締め付けるような感覚が襲ってきて、じわりと目の端が滲んだ。
「よく言うだろう?人を好きになるのに理由なんていらないって」
少し前なら、そんな言葉では騙されなかっただろう。けれど、その一端を理解した今、鈴花は否定できず、突き詰めて問うこともできなかった。
鈴花は少年に惹かれている。それは誤魔化しようのない事実だ。けれど、その理由はと問われれば答えに窮するのも間違いない。
確かにイジメから助けてもらった、というきっかけは存在するが、そこから生まれたのは感謝のみだ。なにしろ、救済の手法が過激すぎた。初めて会ったその場で空気に任せて強引に口づけなどと、鈴花の気持ちを無視したものでしかなく、あの場を収めるに必要と言われれば黙るしかないが、一端の子女として許容するには余りある。
それを通論と理解して、それでも尚、美月に嫉妬してしまう自分に驚き、感情が右往左往する。自身が何故少年にこうも惹かれているのか、真実のところ理解できていない。
「美月は……確かにただの幼馴染というには足りない。あえて言うなら、そうだな。俺の母親みたいなもんだ」
「は、母親、ですか?」
「世話になりっぱなしでな。あいつの面倒見の良さはちょっと異常だと思うくらいだよ」
苦笑するような少年の声色に他意は感じられなかった。本当にそう考えているのだろう。それを察した上で鈴花の胸中に浮かぶのは、献身が報われない美月への憐憫と、ほんの少しの優越感だった。
「今日は送って行っても大丈夫か?」
「や、今日も、その」
「そう謝るな。理解してるつもりだ」
「ごめんなさい。本当は私も先輩と一緒に帰りた……や、その。なんでか分からないけど、お隣さんがなかなか諦めてくれなくて。なんでかなぁ……」
「そいつはさすがに俺にも分からないな。けど、本当に耐えられなくなったらその時は言ってくれ。必ず助けてやる」
力強い言葉。真摯な言葉。思い返す度に鈴花は赤面してしまう。その親切が、愛情が、優しさが、とてつもなく嬉しいのだ。もっとも、与えられたそれを跳ねのけてしまっているのだから、そうした想いを抱える己自身が度し難いものでもあった。なんたる傲慢か。分かってはいても尚湧き上がる感情に、別の意味でも赤面してしまう。
結局のところ辿り着くのは内省であり、罵倒する己の声。後ろ向きな気持ちは闇へと沈んでいく。思考の溝に嵌り、暗い影が落ちていく。
暗い影は一つの形をとり、その背後に事実存在していた。
電柱の陰から覗くその姿。年齢でいえば成人して間もない大学生といったところか。猫背で痩せぎすな体には異常な生気がみなぎり、窪む眼窩にはさらに深い闇が宿っている。
その男はじっとりとした視線を鈴花の背に投げかけ、追いかけ続けていた。
鈴花が大きなため息をつく。
そこにいかなる機を見たのか、猫背の男は唐突に行動に出た。口元にうっすらと笑みを張り付けて。
「こんちには、鈴花ちゃん」
びくり、と一瞬震えた鈴花が振り返ると、背後には猫背の見知った男が一人いた。それだけに容姿だけで不審者ととらえることはしなかった。
もっとも、鈴花にとってはあまり好ましい出会いでもなかった。
「あ、ああ───その、こんにちは。どうしたんですか、こんなところで」
「たまたま君を見かけてね。僕も今帰りなんだよ」
「そうなんですね」
「せっかくだから一緒に帰らないかい?」
「えっ、ええと───」
「はは、どうせお隣さんなんだ。行き先は一緒だろう?さ、行こう」
馴れ馴れしく肩に手を置かれ、鈴花は小さく身震いした。またなのか、と恐怖にも似た感情が湧き上がってくる。
男はいつもそうだった。何かあれば体に触れようとし、そして世間話でもするかのように己が信仰する宗教がいかに素晴らしいか───教主の力のほどを語るのだ。曰く、そのご老体は未来視の力があるのだという。得意げに、興奮して説明されるも、言葉が重ねられれば重ねられるほど胡散臭さは増していく。
基本的に鈴花は心根の優しい少女なのだが、その彼女をしてさえ、言葉が発されるに従い表情をなくしていく。他人が見れば、なんと無様な男かと溜息をつきかねない様相だった。
まったく己を省みないその男は言う。
「教主様にね、また相談したんだよ。近所にいる女の子が心配だって。そうしたら、もう一度君の未来を見てくださってね、やがて君を救う人が、つまり運命の人が現れるって予言されたんだよ!」
運命の人。
その言葉で鈴花の無表情に色がつく。朱に染まる。
「私は運命の人に出会えた……?」
「そうか……そうか!ようやく分かってくれたんだね!これでようやく僕も天命に準じることができるよ!」
狂想に憑りつかれた凶相が表れる。
「僕もね、運命を変える人物に出会えるであろうって言われてたんだ!だからさ、やっぱり僕らは結ばれるべきなんだよ!」
「ひっ」
行き過ぎた妄想は狂気になりえる。それを肌で感じた鈴花は怯えるだけで身動きすらとれなくなった。当然だ。彼女は一般的な少女に過ぎず、成人男性にあらがう力もなく、危機を脱するための機転が利く性質でもない。唯一常識から外れる点といえば────
「そこまでだ」
常識外れの少年から目をかけられている点にある。
少女の危機に突然現れるという、まるで白馬の王子じみた救世主性。あるいは物語のようなご都合性。その正体は、少年が鈴花を尾行していたことに起因するものであって、決して奇跡などといったものではない。偶然は必然から作られるのだ。
「なんだよお前はッ!僕と彼女の邪魔をするな!!」
「嫌がってるだろ。誰が見ても分かるほどに」
喚き散らし、今にも襲い掛からんばかりの男を目の前にして、少年はすっと目を閉じた。狂気を前に微塵の恐れもないその雰囲気は、男をさらなる激情に駆り立てる。
「お前に僕らの何が分かるって言うんだ!部外者は引っ込んでろ!」
「それがお前の望みか?」
「ああそうだよ!こんなデブ女でも僕と結ばれる運命なんだ!だったら、だったら愛してやろうじゃないか!ああ、僕はなんて───」
己に酔う、とはこういったことを指すのだろう。実際に目にすれば、それはなんとも醜悪で、愚昧で、とてつもなく見苦しい。
愚かな男は知らないのだ。現実を見ていないのだ。ならば誰かが教えてやらねばならないだろう。誰かが諭してやらねばならないだろう。ゆえに、少年は一片の躊躇なく言い切った。
「黙れ。あいつは俺達の女だ」
「あぁ!?何を勝手なこと───」
最後まで言い切ることができなかった男の目前には拳が添えられていた。男は凝視していたはずの少年の挙動をまったくもって検知できなかった。ただ、唖然。いきなり視界が肌色で覆われ、目を白黒させるしかなかった。
「わからないのか。彼女の恋人は俺だと言ったんだ」
「みっ、認められるかぁーッ!!」
激昂した男は少年の手を払いのけると、なりふり構わず拳を振るい始めた。けれど、それは少年にとって攻撃と呼べるほどでもなく、数回の空振りののち、足をかけられあえなく転倒するという結果にしか届かなかった。
地面を背にしたまま、歯ぎしりで威嚇するように少年を見上げる男の姿は、傍目から見れば、ただただ、無様だった。呆けたように、否、蕩けたように少年に視線を送る鈴花を認識すれば、男自身、その事実を否応なく理解させられる。興味がない。脅威もない。少年は男など塵芥に過ぎぬとでも言わんばかりに目を向けようとしない。それゆえに背を向ける。視線も思考も常に己の求めるモノにしか行き着かないのだ。
「鈴花、怪我はないか?」
「は、はい。でで、でも、先輩なんでこっ、ここに?そ、そのっ、わわわたし……」
鈴花も同様だった。先ほどまで怯えていたはずの顔には赤みが差し、それどころか声に甘みさえ混じっている。それはまるで、目の前の少年に心からの信頼を預けているようだった。もはや隣人に過ぎない男など眼中にもない。
男にとって、それは許しがたいことだった。肥大しただけの愚かなプライドが、男に危険な選択を取らせてしまった。
ナイフ。
ごろごろと遠くで雷の音がした。曇り空の下、異様な空気が渦巻いた。怒り、羨望、嫉妬、憎悪────暗い情念が現実の鬼を呼ぶ。その空気に慣れ親しんでしまっていたがゆえに少年は気づかない。狂気は凶器と化し、白刃が閃いた。
男ががむしゃらに腕を振るったその先には間違いなく少年がいて、赤い飛沫が散発的に飛んでいた。
鈴花は息をのんだ。
少年の腕は服ごと切り裂かれ、だらんと垂れ下がった指先からぽたぽたと血が流れ出ている。鈴花自身知らぬうちに悲鳴が漏れ出ていた。恐ろしい、痛ましい、申し訳ない、そして、悲しくてたまらない。胸の奥から濁流のごとく押し寄せてくる感情の波が鈴花の意識を霞ませていく。
「俺の前で刃物を出したな……」
果たしてそれは、切り裂かれたことによる痛みによるものだったのか。少年の声は、鈴花が一度として聞いたことのない、ぞっとするほど冷たい色をしていた。
涙があふれて止まらない。赤い流れは止まることがない。ただ見ていることしかできない。少女にそれを打破する力は一切ないのだ。しかし、少年は違った。たゆまず行ってきた研鑽があった。独力で壁を打ち崩そうとしているその背中を見て、ああ、と鈴花は呻く。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
消えゆくような声でつぶやくことしかできず、鈴花はその場に崩れ落ちた。
直後、少年の顔が歪んだ。
怒りとも悲しみともつかぬ表情のまま、ゆっくりと倒れた少女に手を伸ばしていく。指先から滴る血が鈴花の頬に赤い筋を作った。
「おっ、俺は悪くない!お前が悪い!お前が彼女を騙そうとするから……!」
「認めろ。自身の醜悪さを」
男は目前の血濡れた少年におののくだけだった。求めていたはずの少女が倒れてもその身を案じることもできない。我が身が可愛い。ただそれだけしか感じられない態度は確かに醜悪で、愚かだった。
「思い知れ。人を傷つけるというものがどういう事か」
鬼がわななく。白い影が手をたたく。
少年はどういうわけかゆっくりと微笑んで、震える男が握ったナイフを腕ごと払いのけた。あっ、と短い声が男から漏れ出た瞬間、その腹が熱く滾った。いつの間にか少年の硬い握り拳がそこにある。
「おげぇえええ!」
男が吐き出したものが降りかかる位置にいたはずの少年は既にいない。体をくの字に折り曲げた男の頭上。空中で美しいほどに真っすぐに足を振り上げている。
男がその姿を見ていれば、命を刈り取る死神の鎌を幻視しただろう。それほどに無慈悲に、躊躇なく、少年のカカトが男の肩に振り下ろされた。
鈍い音と水音が相次いで鳴る。
男はあまりの痛みに呻くことしかできず、自らが吐き出したものに塗れてのたうち回った。手にしていたはずのナイフは転がり落ちてしまっていた。
少年はそのナイフをしばし見下ろし、おもむろに切り裂かれた手を伸ばした。かちゃり、と音が鳴って刃が動く。赤い液体が刃筋を伝ってしたたり落ち、白い刃と共に男の頬に添えられる。
「ひぃいい!やめっ、やめてくれ!ししし、死んでしまう!」
「そうだな。それが人を傷つけるってことだ」
「そこまでにしておきなさい」
少年の動きを止めたのは、この異常な状況にあっても平静を保ったままの女の声だった。その女、片岸美月は、ただ一声で、その存在感だけで、この場を掌握したかのように振る舞う。事実、男二人は美月の様子を窺うように、ぴたりと挙動を止めていた。
「連絡はしておいたわ。然るべき処置がとられるでしょう。あなたにも、この男にも」
男二人へ向けて突き付けられたスマートフォンのディスプレイには、110番が打ち込まれている。
「正当防衛だ」
「分かっているわ。私も証言するし、きっと、この娘もあなたを守ろうとするでしょう」
淡々と美月は言う。少年も淡々と相槌を打つ。男は呻くような声を漏らして泣いていた。許しを請うように、縋るように、ただ少年を見上げている。
「無様だな」
人は追い詰められた際にその本性を表すという。倒れた鈴花には目もくれず、ただ哀願するような眼差しを己に向けられて、少年は吐き捨てるように言った。
「これ以上鈴花に近づくな。あいつの運命の相手はお前ではなく────」
そこで言葉を切った少年は、遠くから響いてくるサイレンを耳にして、空を見上げた。