▼6.少年は世界に過去を問う
緋ヶ瀬鉄人は幼い頃、美月の────片岸家に隣接する家屋から引越したことがある。
引っ越した先は隣の県であり、親は転職、子供は転校することになったのだが、どういう思惑があったのか、両親は引越し先に賃貸住宅を選び、前の家屋と土地を売り払うこともなく、そのままにしていた。
少年にとってはそれも幸運の一つだった。一年と少し前、進学を期にかつての故郷へと舞い戻ろうとした際、住居のことを考えなくてもよかったのである。
ただ、両親には当然のように反対された。
共働きであった二親は、かつてと違って仕事の都合上簡単に引っ越すわけにもいかず、幼い妹もできるならば馴染んだ環境から離れさせたくない。
仮に願いを叶えるなら、必然的に少年一人が戻るということになる。それでいいものかということが家族会議の議題に上った。
「あそこは特別な学校でもないだろう。学力もスポーツもこの近くにあるものとそう変わらんはずだ。なのに何故あそこへ戻りたがるんだ」
父にそう問われたが、結局少年は明確な答えを示すことができなかった。ただ、ぼんやりと答えただけだった。
「そうしないといけない気がした」
普通ならばそれで納得する親などいない。しかし、これもどういうわけか、父は瞑目し、母は気遣うような視線を送ると、すぐさま反対することを止めてしまったのだ。
「鉄人。お前は本当に踏み出せるのか?」
「後悔、しないのね?」
「後悔なんてしない。元々、俺達はあそこに住んでたんだから。ただ、なんとなくだけど焦ってる気はする。あの家に戻らないと駄目だって。いや、言い出した俺自身も良く分かってないけど、今行かなかったら逆に後悔する気がするんだ」
「……分かった。お前の思うようにしなさい」
唯一、幼い妹だけがいやいやと頭を振っていたが、それも全員に窘められる形で決着がついた。
こうして、緋ヶ瀬家旧家屋にたった一人で生活する少年、という状況が生まれたのである。
たまに様子を見に来る両親と妹に心配されながらも、少年はなんとか独りで自堕落にならず生活を送っていた。ただ、それは頻繁に世話を焼く美月の尽力があってこそのものであった。逆説的に言うならば彼女の存在こそが両親の安堵を導いていたのかもしれない。
勿論、少年も事実として美月を心強い存在だと認めていた。たかが幼馴染に過ぎない自分を多分に気にかけてくれる彼女は、もはや女神に等しい。
けれども、そんな支えがあってさえ、少年は徐々に精神を磨耗していく。心が蝕まれていく。
闇が恐ろしいのだ。
その中で揺れる白い影に震えてしまうのだ。
最初は気のせいだと思った。しかし日々を追うごとに「それ」を見てしまう機会が増え、やがて夜でなくとも目にするようになっていく。幻視に幻聴、さらにはありえるはずのない、触感まで。薄ぼんやりで不定形なはずの白い霞は恐ろしいほどにくっきりと、明確に、少年へとその存在を植えつけていく。
少年はその恐怖を払拭するかのように鍛錬に没頭した。肉体を鍛え、疲労で己を追い詰め、思考を放棄し、心中から余分な感情を排出していく。類まれな集中力は何もかもを忘れさせ、力尽きれば泥のように眠ってしまい、何を感じることも無い。
周囲には異常な筋トレ好きだと見当違いの事を思われていたが、それはとても都合が良かった。恐怖を打ち払うための行動がそのまま取り繕うための仮面となっていたのである。
表面上はなんでもないように振舞うことができて半ば安堵していた少年に、ある日突然美月が言った。
「ねえ、あなた。何がそんなに辛いの?」
「何のことだ?」
当然のようにとぼけた少年に、美月はそれ以上何も言わなかった。ただしっかりと少年の瞳を覗き込む。恐ろしいほどに真っ直ぐなその視線に、少年はやがて諦めたように目を閉じた。
「なあ美月」
「なにかしら」
「俺、幽霊が見えるんだ」
「熱でもあるの?」
切って落とすにも程がある。少年としては意を決して言ったつもりであったのに、疑うにしても容赦がない。言葉と共に額に添えられた手が異様に冷たく感じられた。背筋が凍るような感覚に少年はびくりと震える。
「……また見えた。今、テーブルの横にいる」
「何も見えないわ」
変わらず素気無い態度の美月だったが、額に添えられた手がいつのまにか頬へと移動していた。
「怖いの?」
「ああ」
「そう。でも、私以上に恐ろしいものなんてないでしょう?」
美月の目じりが下がり、口角が上がった。それはとても美しい微笑みだった。それ自体が硬質で冷たくとも、柔らかい感情を伴った、確かな笑顔だった。
「……そう、だな。美月を怒らせると俺の日常が崩れかねない」
「なら、幽霊如きにあまりびくびくしないことね。恐怖はより深い恐怖を呼ぶのよ」
「……たいした女だよ、全く」
少年が苦笑と共に力無い声で「ありがとう」と礼を述べると、美月は再び能面のような美しい無表情に変えた上で「どういたしまして」と返した。
たったそれだけで少年は随分と救われた。もちろん、時間経過による慣れというのもあったのだろう。なんにせよ、どうにか持ち直した少年は徐々に白い影と向き合えるようになっていく。
その過程で色々と確認した結果、どうもそれは少年だけにしか認識できないようだった。それも見えたり聞こえたりするだけで、身体的な部分への影響は特に見られない。
問題は精神への影響だ。白い影を目にし、意識する度に少年の中で恐怖にも似た焦燥感が育っていく。
どうにも落ち着かない。それはふとした拍子に突然現れるのだ。幻覚であることを認識しているのに、どうしてか意図的に無視することもできず、一度現れてしまえば粘ついた泥のように視界から離れることがない。あるいは自らの知らない内に危ない薬でもやってしまっているのかと疑うことさえあった。
実際に眼科で診てもらったこともある。結果として精神科医を紹介されてしまったのだが、そちらもほとんど役に立たなかった。
やがて少年は、不思議なこともあるものだ、とそれをなんでもない日常の風景として無理矢理に処理することで心の平穏を保つようになり、気付けば一人暮らしを始めて一年半ほどが過ぎていた。
それだけの月日が流れたことを少年が改めて実感したのは、両親が妹を伴って久方ぶりにやってきた日だった。
「おにいちゃんとお買いものーお買いものー」
軽快な調子の幼い少女に手を引かれ、少年は人通りの多い商店街を歩いていた。
後頭部で結わえられた黒く短い尻尾髪をゆらゆらと揺らしながら、その少女、緋ヶ瀬英那は何が楽しいのかけらけらと笑っている。
「ねー、おにいちゃんは何が食べたいー?私はビーフストロガノフがいいなー」
「ロシア料理か。悪くない。今の時期ならボルシチがいいかもな」
「ぼるしちかー。私食べたことないから味分かんないけど、おいしいのかなー」
「作る人によるかな」
「じゃあきっとおいしいね!おかあさん料理上手だもん!」
語尾に音符でもつきそうな声音に、少年も知らず笑顔を浮かべていた。夕食の買出しを母に頼まれた時は気乗りしなかったものだが、結局妹の笑顔で全て許容してしまっている。
他愛も無い会話を続けながら、愛らしさは一つの武器だな、とぼんやりと考えていた少年へ、横合いから呼びつける声がした。足を止めて顔を向ければ、そこには青い髪の同級生、如月真がいた。
英那は如月に気付くなりぱたぱたと駆け出して少年の後ろに隠れ、覗き込むように顔だけを出した。先程まで純真な光を宿していたその目には、見知らぬ人間に対する少々の敵意が混じっていた。
「よ、緋ヶ瀬。妹さんと買い物か?」
「ああ」
「へー、あんまりお前に似てねーなあ。っていうかなんか俺怖がられてる?」
罰が悪そうな顔をした如月に「悪い」と少年は告げて、英那の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「大丈夫だよ、英那。俺の友達だから」
「ん、んんー、酷いこと、しない?」
「しないしない。可愛い女の子には優しいよ?」
「違うの、私じゃなくておにいちゃんに!」
その愛らしい声に含まれた剣呑な成分に、二人の少年は呆気に取られてしまっていた。まるで母親の物言いである。それほどに兄を慕っているということなのだろうが、予想だにしない母性の発露に少年達は思わず顔を見合わせ、そして苦笑した。
「いやあ、ははは。こいつは手厳しいなあ。俺は結構、緋ヶ瀬……ああ、お兄ちゃんとは仲が良い方なんだけどな」
「そうなの?ねね、じゃー教えて?おにいちゃん、学校でうまくやれてるのかな?コリツしてたりしない?友達他にもいっぱいいる?」
矢継ぎ早の質問に乾いた笑いを漏らした如月が「ああ、勿論だよ」と答えると、「よかったあ」と今度は年相応の表情を見せて、英那は心底安心した様子だった。
少年達も一度は驚かされたが、如月の言葉を素直に信じる純粋さを見てみれば、やはり年相応の少女である。
時を経ず、遠目からゆっくりとこちらへ歩いてくる人物もまたそれを証明していた。
「あー!美月おねーちゃんだー!」
「むう、緋ヶ瀬の嫁さんまできたか」
親しい人物であり、憧れの対象。緋ヶ瀬英那にとって、あるいは兄以上に好ましい美貌の少女は、とたとたと走って体全部で飛びついてきた幼さを受け止め、小さく微笑んでいた。
「ちょっと衝撃だわ。片岸さんってあんな風に笑うんだな」
ぽつりと漏れ出た素直な言葉に、少年は曖昧に笑った。確かに美月は見た目からして笑う所があまり想像できない。実際に笑うことが少ないのだから尚更だ。少年を通してそれなりの付き合いがある如月さえこうである。
「衝撃っていえば、このニュースもそうだよなあ」
如月の視線はすぐ側にあった電気屋の展示テレビに向けられていた。画面の中では見慣れた若い女性アナウンサーが緊張した面持ちで言葉を並べ立てている。
「なんか無差別通り魔出たらしいな。真昼間から誰彼構わず包丁で切りつけたとか。その中には子供もいたって話だし、最近物騒だよなあ。気をつけろよ。こいつは遠い都会の事件だけどよ、用心に越したことねえだろ?」
通り魔。
その言葉を聞いた瞬間、不意に少年の脳裏に赤い霧に包まれた幼子の姿が過ぎった。それはなんとも恐ろしく、心臓を締め付けるかのようなイメージで、思わず顔が歪んでしまう。
「……わりぃ。なんか無駄に不安煽るようなこと言っちまって」
「いや。気遣い感謝する」
苦々しい顔をしながらも少年は本心からそう言っている。これまでの経験からそれを理解した如月はわしゃわしゃと青い髪を混ぜ返して渋面を晒した。
「かーっ、緋ヶ瀬はこれだもんなあ!お前ホントに俺と同い年かよ?あんな年の離れた妹がいるってのがまた余計に意外性たけーし、お前何?ギャルゲの主人公か何か?」
「良く分からんが違うよ」
その短く、真っ直ぐな返答に如月は一つ溜息を吐いた。
「あーうん、確かにお前そういうの興味なさそうだしわかんねーか……間にもう一人ぐらい妹いたりしねーよな?」
「いない。やっぱり、これだけ年が離れてるのは珍しいか」
「確かに珍しいわな。全くいねえってわけでもないだろーけどよ、案外生き別れの妹がもう一人いるんじゃねーの?」
けらけらと冗談めかして言う如月の言葉に少年は酷い焦燥感を覚えていた。もう一人の妹など断じていない。だというのに、少年の内に湧き上がるのは恐ろしいほどの喪失感、今に対する寂寥感、そして何処に向ければよいのかすら分からない憤怒だった。
それら沸き立つ情動は違和感の塊でしかない。どうして、どうして、と疑問ばかりが脳裏に過ぎる。答えが欲しいと体中が戦慄く。だから必死に、ひたすらに、思索に耽って真実を求め続けるのだ。
「緋ヶ瀬?」
「ああ、いや。もう一人妹が居たら連絡するよ」
「なんだそりゃ。お前時々変な冗談言うよなあ」
如月は苦笑しながら「じゃ、俺も用事があるからそろそろ行くわ」と手を振って踵を返した。足を向けた先は例のゲームセンターの方向だ。行き先を聞く必要も無かった。
どこかぼんやりとしたまま少年はその背を見送った。隣ではいつの間にか美月を連れて戻ってきていた妹がぶんぶんと大きく手を振って見送っている。
如月が雑踏の中に消えて完全に姿が見えなくなると、少年はずっと感じていた視線の方へと顔を向けた。妹を挟んだそこには小さな手を握る幼馴染の少女がいる。
「それで、美月。何か用事でもあるのか?」
「これ、お母様からよ」
妹の頭を超えて差し出された紙切れを受け取って少年はああ、と軽く頭を振った。
トマト3、ピーマン2。
見知った字で書かれたそれは誰に聞くまでもなく、母からの追加注文だった。
「わざわざこれを伝えに来たのか?電話くれれば……」
言いながらポケットに手を突っ込み、がさごそと探ったところで少年は言葉を止めた。
「……無い」
「やっぱり気付いていなかったのね。机の上で震えていたわよ」
「すまん」
少年が罰の悪そうな顔で差し出された携帯電話を受け取ると、英那がけらけらと笑う。
「あはは、おにいちゃんは忘れんぼさんだねー」
「ああ、全く。物忘れが酷いな、俺は」