▼5.少年は世界を彷徨う
また飯が無い。
少年が夕食を作ろうと冷蔵庫を覗き込んでみると、そこには例の如くプリン一個だけが入っていた。その他のものは綺麗サッパリなくなっている。
健啖家である少年がそれを一気呵成に頬張ったところで、カラメルの甘さとほんのり感じる苦味だけではとても一晩越せないだろう。少々腹が膨れる程度である。
溜息に混じる倦怠感に料理をする気も失せてしまい、近くのファミレスにでも行こうと玄関の扉を開けてみると、インターホンに手を伸ばしかけた美月が目に入った。
「丁度良かったわ」
夕暮れの中で、相変わらず冷たい視線を向ける彼女の手には、これもまた例の如く買い物袋が提げられている。
「頼む」
「ええ」
短い応答のみで美月は早速台所へ向かった。少年ものっそりとした足取りでその後ろをついていく。
人気の無い台所が一気に騒がしくなった。
炊飯器は音を立てて湯気を噴き、まな板を叩く包丁の音が小気味良いリズムで響いている。
見慣れたピンク色のエプロンを着用し、じゅうじゅうと滾った音を立てるフライパンを操る無表情に近い美月の横で、少年はぼんやりとその手つきを眺めていたが、やがて困ったような顔で口を開いた。
「勘弁してくれないかね」
「なんのことかしら」
「全く、お前は美しいが面倒な女だな」
「そうかしら」
全く表情を変えない美月に嘆息で返事をした後、少年はソファに体を投げ出してテレビをつけた。
動きがあったのはそこまでだった。出来る限り消耗を抑えようと、少年は身じろぎ一つしない。テレビの音を頼りに意識だけは飛ばさないよう気を張って、どこか虚ろな瞳を閉じる。
そうしていても、やはり腹は減ったままだった。香ばしい匂いが鼻腔と空きっ腹を刺激し、唾液が止め処なく溢れ出てくる。時折生唾を飲み込みながら少年はじっと待っていた。
しばらくして出てきた料理を怒涛の勢いで思う様平らげると、少年は食後のお茶を差し出してきた美月の手を掴んだ。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした……何かしら?」
「俺には彼女がいるんだ」
「知っているけれど、それが」
どうかしたの、と続ける美月の表情は揺るがない。能面のような輝きは衰えることを知らない。
「あなたに彼女がいようがいまいが、私には関係のないことでしょう?」
「そうくるのか」
「そういうものよ」
少年は溜息一つ吐いて手を離し、お茶を啜った。
◆
美月が帰ったあとも、少年は電気を消して真っ暗闇となった居間に一人残っていた。見る人が見れば、ソファに座って俯くその姿はまるで幽鬼のように霞んでいたかもしれない。
希薄な存在でもいい、と少年は一人ごちる。
項垂れた少年の前で、白く翳った幼子が不思議そうに少年の顔を覗き込んでいた。
どうしたの、と問われたような気がして、少年は静かに目を閉じる。
「美月の事を考えていた」
「迷惑なの?」
幼子の、どこから発声されたのかも判然としない問いに、少年は黙って首を振る。
「逆だ。迷惑をかけたくない。色々考えたが、結局そう思うことしかできない」
「でもお姉ちゃんはそれを望んでるよ?」
「分かってる。でも、俺の願いにそれは含まれていない」
「うん」
それきり、静寂が空間を支配する。
ゆらゆらとあちこちを走り回り始めた白い影を視線だけで追いながら、少年は尚も何かを考え込んでいた。息すら止めてしまったかのように沈黙を続ける少年の周囲で、幼子の小さな足音だけが響き続ける。
その足音が唐突に止んだ。
「つまんない」
白い影は唯一赤く染まるそこを三日月に開いて、内に潜むものを曝け出した。恐ろしいほどに幼いままの顔で、恐ろしいほどに子供のようなことを言う。
「つまんないね。遊びに行こう?」
「ああ、行こう」
少年は真っ黒なパーカーを羽織り、黒いニット帽を目深にかぶって外に出た。
時刻は既に真夜中過ぎ。徐々に冬へと向かうこの季節では、風が吹けば身震いをしかねない空気が肌を刺す。
少年はどこか青白い顔のままで、ほとんど人通りの無い道をあちらこちらと走り回った。無心に足を動かしていれば、体は熱さを増し、青白い顔も色を取り戻し始め、燃えるような感情が動きに応えるように胸の奥から溢れ出てくる。
熱い吐息と冷たい汗をまといながら、少年は暗がりの中を駆け抜ける。
やがて辿り着いたのは、先日も訪れた商店街だった。
ほとんどの明かりは落ち、点在するコンビニだけがやけに眩しくその存在を主張している。すぐ近くの店舗の前では、若い男達がコンビニで買ったのであろうおでんを頬張りながら地べたに座り込み、ケタケタと笑っていた。
少年はたむろする若者達へと無造作に近づいていく。その目は、内で煮えたぎる感情に反して酷く冷え切っていた。
「うるさいよお前ら」
攻撃的な言葉を無遠慮に叩きつけられれば、大抵の人間は反抗的な意を示すだろう。前のめりに生きている若いうちなら尚更だ。座り込んでいた若者の一人が剣呑な目つきで少年を見上げた。
「は?なんだてめぇ」
「おい、もしかしてコイツ例の黒ニット黒パーカーの……」
「最近チョーシのってるって噂のアレか?」
「俺らにたった一人で喧嘩売ってンの?ざけやがって……!」
一斉に息巻く若者達だったが、少年はその勢いに気圧されることもなく、相変わらず冷え切った目をしていた。
「お前らが気に食わないんだ。裏に来い」
「マジでいい度胸してんな、てめぇ……ッ!」
若い男達は四人。そのどれもが荒事慣れした様子だった。この冷え込みの中、ノースリーブで浅黒い肌とタトゥーらしきものを惜しげもなくさらしている者もいる。
分かりやすいほどに荒っぽい人間達だった。
記号化された、いかにも厳つい強面といった顔つきが恐怖以前に耐えがたき違和感を与えてくる。
どちらかと言えば醜いと評すべき彼らの顔も、二次元世界化された視界の中ではそれ相応の形で整ったように見えて唾棄せざるを得ない。あるべき印象は捻じ曲がり、少年の心は苦痛に呻いて憤怒に歪んだ。
その想念は内に留まらず、外部へと伝播する。幼子の甲高く狂い笑う音が波打ち、震えた空気がぴりぴりとした威圧となって、無頼の徒は呼応するようにその身を強張らせた。
彼らは少年の挑発に簡単に乗っかり、いきり立った様子で路地裏の暗がりへと足を運ぶ。
そして、獣を見た。
空虚な瞳の中に猛る怒りを宿し、少年が全てを喰らい尽くすかのように荒ぶったのだ。声なき咆哮が若者達の背筋を凍えさせる。
「んな虚仮脅しにビビッかよォ!!」
それでも彼らは彼らなりに修羅場と呼ばれる状況を潜ってきている。気勢だけに気圧されて動きを鈍らせるような愚は冒さなかった。
雄叫びを上げて少年へと浅黒い肌のタトゥー男が殴りかかる。豪腕が唸りを上げて空気を切り裂き、少年の顔目掛けて迫った。
少年はさして慌てるでもなく後方に跳ねる。それを追って完全に伸びきった浅黒い肘と手首に両手を当て、ためらい無く拍手をすかすように交差させた。
ぼきり、と鈍い音が鳴った。明らかに関節の稼動範囲を超えた腕を引き、タトゥー男が苦悶に表情を歪めるのを認める間もなく、少年は再び跳ねた。
此度は前方へ、それも高い位置。タトゥー男の顔面へと硬い膝がめり込んだ。わし鼻がひしゃげ、声にならない悲鳴と血しぶきが舞う。
少年はそれでも手を緩めない。飛び掛ってきた別の男の拳をするりとかわすと同時、倒れこんだタトゥー男が手で覆っていた顔面を容赦なく左足で踏みつける。
下の男はびくんと体を跳ねさせたが、それをねじ伏せるかのように全体重を左足へと乗せ、顔面上でぐるりと体を回転させた。右足が剣戟のように鋭く円を描くと、そのまま別の男の鳩尾へと吸い込まれていく。
凄まじい蹴りだった。少年よりも一回りほど体格の大きいその男は咄嗟に後ろに跳ねて蹴りの勢いを殺そうとしたが、それであっても漫画のように吹き飛ばされ、壁に背を叩きつけられた。後頭部も壁に打ち付けてしまったのか、男は悲鳴を上げることもなく、ぴくりとも動かなくなった。
瞬く間に仲間二人をやられて、残る二人は二の足を踏んでしまったようだった。少年が長い前髪に隠れる虚ろな瞳を向けると、それだけで後ずさってしまう。
「ひっ!?」
「なっ、なんなんだ……なんなんだテメェはああああッ!!」
問いに答えることもなく、少年は静かに駆け出した。ほとんど足音のしないその歩法も相まって、迫る姿は幽鬼のようだった。襲い来る恐怖に煽られて一人は泡を食って逃げ出し、もう一人は歯をくいしばってそれを迎え撃った。
おそらく迎え撃つ男には武道の心得があったのだろう。腰溜めに構えて、無造作に顔面へと突き出されてきた少年の左拳を寸前で回避する。腕が右頬を掠めていき、チリチリとした痛みが男の神経を逆撫でた。
驚愕とも怒りともつかない感情を乗せて、男の右腕がコンマ数秒の内に始動し、少年の左腕と十字を作る様に伸びていく。クロスカウンターと呼ばれるその一撃はほとんど人体反射の領域で放たれ、これ以上も無いほど完璧なタイミングで、少年の頬目掛けて鞘走った。
刹那を超える時間感覚で、少年はその反逆の一撃を認識していた。
それゆえに、動く。刹那の反撃へと対応せんがため、途方もない速度でさらに一歩踏み込む。その人外領域の応答を、果たして相手は認識できていただろうか。
その問いに本人が答えることは最早叶わない。爆発的に前進速度を増した少年の額が男の鼻尖へとめりこみ、つんと突き抜ける衝撃が意識を一瞬で刈り取ったからだ。
静かになった暗がりで少年は血塗れた編み上げのニット帽を脱ぎ、ぐっと握り締めた。ぬちゃりと音がして、ぽたぽたと雫が滴り落ちる。
「俺自身がありえない」
ふざけた世界だ、と少年は呟いた。確かに少年は己を鍛えてはいた。目的のために常識の範囲を逸脱して鍛錬に打ち込んでいたのも間違いない。
それでも、厳然たる事実としての今に違和感と驚愕と疑念が湧き出でてしまう。ゆえに、鬼が生ずる。疑心は漆黒の世界で禍津の形を取り出づる。
「まーだだよー」
小さな白い影が視界の端をちらりと掠めた。
「鬼さんこっちらー、手の鳴る方へー」
幻聴に誘われるまま、少年は再び走り出す。白い影をひたすら追って、戸惑いすらも忘れて、ただ走った。導かれるままに、行き先がどこかも考えず、それどころかほとんど無心で追いかけた。
やがて辿り着いたのはぼんやりと街灯に照らされた小さな公園だった。住宅街の中、T字路の角にぽつんと存在するその場所には見知った驚愕の顔があった。
「あ、ああ……!!追いか、追いかけてきたのかよ……ッ!!」
そこにいたのは間違いなく先程逃げ出した若者達の内の一人だ。ブランコに座っていたが、少年を見るなり腰を浮かせて、恐怖に彩られた表情を晒している。
少年は無言で若者へとにじり寄って行く。
「く、来るな!来るなあああッ!!」
取り乱した若者はしかし、動き自体は冷静さを損なっていなかった。弧を描くようにずりずりとすり足で移動し距離を保ちながらも、少年が入ってきたのとは別の公園出口にちらちらと目を向けて逃亡のタイミングを計っている。
荒い息を吐き、油汗を流す若者を見る少年の目は相変わらず冷え切っていたが、逃すつもりがないという意思だけは容易に読み取れた。
「冗談じゃねえよ……!俺らが何したってんだ……!!」
「今は別に。でも、昔やっただろう?これから、やるんだろう?」
「何、言って……!!」
会話で隙を作ってやろうという若者の魂胆は、その本懐を遂げることなく、本人の意思で打ち切られた。先程から窺っていた公園の出口に一人の少年の姿を認めたからだ。
背格好からして中学生くらいのその少年は、おそらくコンビニ帰りだったのだろう。ビニール袋をくるくると振り回しながら暢気に何かを口ずさんでいた。
そのメロディに引き込まれるように若者は駆け出した。全力疾走で道端を歩いていただけの中学生に飛び掛り、慣れた手つきで首に手を回して背後へと位置取る。突然現れた脅威にその中学生も当然抗うが、首筋にナイフを押し当てられては黙るしかなかった。
その一連の行為の合間に、少年もまた公園から飛び出していた。中学生が取り押さえられた時には、既に逃走経路を遮るように道の中心で佇んでいる。その目は先程の冷たい目からかけ離れ、激情を迸らせていた。
「来るんじゃねえ!」
「俺の前で刃物を出したな……」
「こ、こいつは人質だ……!来たら、来たらただじゃすまねえぞ!おっ、俺が行くまでじっとしてろ!!」
人質の中学生と少年の間に因果関係は一つも無い。少年対策に切った札としては馬鹿馬鹿しいにも程があった。そもそも少年は道端で駄弁っていただけの若者達に突如襲い掛かってきたのである。そこから果たしてどれほどの人間が少年の一般道徳的な正義、あるいは常識を期待できると考えるだろうか。
結論、道理など通じえぬ。
それすらも気付かないほどに若者は混乱していたのだろうが、どういうわけか少年は自然体を保ったまま動かなくなっていた。これ幸いと、若者は怯えた様子の中学生をずりずりと引き摺りながら徐々に後退していく。
その背に、突如甲高い女の声が届いた。
「ケータっ!」
「ねっ、ねえちゃん!来ちゃ駄目だ!」
「んだってめぇ!どきやがれッ!」
若者達を中心に、少年との対角線上に現れたのはセミロングの赤髪少女だった。真夜中なので少年の位置からでは顔の判別はつかなかったが、その声には聞き覚えがあった。
「レーミ、安心しろ」
少年は呟きを置き去りにする速度で塀に沿って駆け出した。若者が後ろを向いたその隙を見逃さなかった。
「せっ、先輩!?」
「傷一つつけさせない」
「ひっ!?」
不意を衝かれた若者のナイフが反射的に閃いた。ケータと呼ばれた中学生の首を掻っ切るように動いていく。少年の目にはその様が酷く緩慢に見えていた。
遅い。
少年の手が伸びる。おおよそ人間の限界を超えたかと思われるほどの速度で、煌く白い刃を捉えてしまう。途端に白い閃光は紅色の霧に包まれた。薄暗い街灯しか無い中でもはっきりと分かるほどに紅く、紅く。恐ろしいほど鮮やかに紅く。彼らの眼前を這い回る。
飛び散るその色に若者とケータの顔が驚愕と恐怖に染まった。加速した思考の中でゆっくりと歪んでいくその顔の一つに、少年は躊躇無く拳を叩き込んだ。
めきり、とケータの耳に骨が軋む音が届いた。それでも、彼には若者の吹き飛ぶ音だとは想像が及ばなかった。ただ眼前の鮮血におののいていた。その先に見える暗がりに浮かぶ双眸に怯えていた。
「怪我は無いか」
少年の問いに対する答えは無い。殴られた若者はたった一撃で血まみれになって意識を失い、それを足元に見下ろした赤髪の少女も押し黙っている。夜に相応しい静けさがその場に漂っていた。
血を滴らせた拳を開くことなく、少年は薄く笑う。
「姉が大事か?」
その言葉に、ケータは弾かれた様に後退した。姉の前に陣取り、威嚇するような前傾姿勢で少年を見据える。その好戦的な態度に反して、奥歯はガチガチと音を鳴らしていた。怯えているのは誰の目にも明らかだった。それでも、少年は満足した様子だった。
「そうだ。大事なものは絶対に守れ。姉を守れ。例え相手が誰であろうと」
それが少年という異物であったとしても。
明らかに力及ばぬ相手だったとしても。
肉親のような近しい相手だったとしても。
この世界が歪であろうとなかろうと、人としてあるべき姿は変わらないはずなのだ。
「いい弟を持ったな、レーミ」
笑みを崩さないまま、少年はケータの後ろで震えている少女に視線を投げかける。
「……あっ、あんた、あんた一体なんなんだよぉっ!?」
泣きそうな顔で少女は問うたが、少年はすぐさま振り返ると、何もかもを置き去りにするような速度で走り出した。瞬く間に彼我の距離が開いていく。
否、距離は最初から開いていたのだ。あらゆる全てが少年にとって遠いものなのだ。考えられない速度で走る自身の肉体でさえもそうなのだ。
「笑えてくるな」
車窓から見た景色のように流れる視界の端で、白い影が変わらず踊っていた。
「うん。やっぱり遊ぶのは楽しいもんね」
「そうだな」
呆れるほどに遊びは楽しく、時が経つのを忘れてしまう。子供の頃から────いくつになっても、それは変わらないと少年は確かに感じていた。
◆
朝露が生い茂る草木達を濡らしていた。
太陽は山頂から顔を出し、空はその色合いを青に変え始めている。
少年は冷え込んだ空気に身を震わせつつも、呆けたように力なく歩いていた。夜通しうろついたのである。気付けば、住まいからはそこそこに遠い駅前にまで来てしまっていた。
「はしゃぎすぎたか」
つぶやく裏で、眠いよ、とぼやくような幻聴が響いてくる。
あくびを噛み殺しながら、少年はふらふらと自宅へ向かう。内には少々焦りもあった。今日が休日とはいえ、美月に朝帰りを見られれば無言で咎められるに違いない。日常の一部であっても、心胆寒からしめるその光景は出来る限り回避したいものであった。
陰鬱さに呑まれそうになる少年とは裏腹に、朝はとてつもなく清々しい。
澄んだ空気の味だけは二次元も三次元も関係なく、目を閉じればいつもと変わらない感慨が確かにそこにあった。
雀の鳴き声がしている。
かの鳥は果たして何を求めて鳴いているのだろう。親を呼ぶ声、子を呼ぶ声、助けを求める声、罵る声、はたまた、単なる朝の挨拶か。
「おはよう」
前方から渋みのある声が届いて、少年は俯きがちだった顔を上げた。
目前には中年の男性がいる。黒い布製のズボンを履き、上は煤けたような灰色のコートを羽織っていて、特に不審なところはない。どこにでもいるおじさんといった風情だった。特徴といえば白みがかかった茶色の髪と、綺麗に整えられた鼻下のヒゲくらいだろうか。
「おはようございます」
「なんだか雰囲気が変わったようだね」
「……ああ」
にこやかに笑う中年男性の顔に過去が重なった。少年はこの男を知っている。びきびきと軋み始めた頭に少年は顔をしかめた。
「辛いのかい?いや、それも当然か。私の顔を見て嬉しいはずもない」
「そうじゃない。見れるものが増えすぎた反動だ」
「これは驚いた。私はほんの少しだったのに」
「みたいだな。それも知っている」
どこか苦々しげに男は笑うと、少年へと缶コーヒーを放り投げた。買ったばかりのものだったのだろう。受け取るなり、熱いほどにたぎるものが伝わってきた。
「本当はもっと美味しいコーヒーをご馳走したいのだがね」
「ありがとう」
言いながら、少年はつかつかと男に歩み寄り、その腕を強く引いた。よろめいた男が突然の行為で呆気に取られていると、べちゃり、とすぐ側の地面から音がした。
鳥の糞である。少年に腕を引かれなければまず間違いなく頭で受け止めることになっていただろう。
「本当に驚いた。君はどれだけ見通せるんだ?」
「さてな。ただの偶然だが、礼にはなっただろう?」
「いやはや、これが偶然とは恐れ入る……」
頭を振りながら、男は困ったように笑った。対する少年はぴくりとも表情を動かさない。まるで感情がなくなったかのようだった。
「目的は果たせそうかい?」
「おかげさまで」
「それは私の目的も含めてかな?」
「そうだ。心配しなくていい。始まりの男は俺に任せてくれ」
「でも具体的にどうするんだい?君が悪事を働くとは思えないんだがね。いや、それすらも見えているのかな?」
少年は答えない。
会話を続けるつもりもないのか、ぼんやりと朝焼けの空を見上げていた。
男は再び苦笑を浮かべてから、小さな溜息をついた。
「さて、私は失礼するよ。どの口が、とも思われるだろうが、影ながら君の幸せを願っている」
男はそれだけ言って、空を見上げている少年の横をしっかりとした足取りで通り過ぎていく。
「別にあんたを恨んでるわけじゃない」
上向いたままの少年は声を届かせるつもりがあるのかないのか、離れていく男に向けて小さな声でつぶやいた。
「だから、というわけでもないが、娘の事も任せてくれていい」
その言葉で、男は弾かれたように振り向いた。その顔は驚愕に包まれていた。何故、と問い質そうとする気配を発し、しかしすぐにそれを引っ込めて顔を歪ませる。
少年は男の動揺を察しつつも振り返らずに歩き出した。ふらふらと、やはり覚束ない足取りで、世界に幻惑されつつも道を違えることなく進んでいく。握り締めた缶コーヒーが変わらず熱かった。
「ああ、本当に、君は一体どれだけの……」
遠ざかるその背には、後悔と期待を滲ませた視線が送られていた。