▼2.少年は世界を見かねる
たらふく飯を食べ、膨れきった腹のまま居間のソファで安穏と眠っていた少年は少女に叩き起こされた。
「起きなさい。学校へ行く時間よ」
「美月か……お前いつから俺の母親になったんだ」
「出来の悪い息子を持った覚えはないわ」
少年は少女に言われるまま学ランを着こんで学校へと向かった。
少年としては、上手く動けないこともあって休みを取るつもりだったのだが、幼馴染の少女であり、同じ学校の生徒でもある美月に向けられた無言の圧力に負けてしまったのだ。
朝食を取っている間も襲いくる妙な威圧感に敵う男などそうはいまい。味噌汁の美味さだけが唯一の安らぎだった。
出来る限り朝食の味だけを思い起こしながら少年は歩く。周囲の色とりどりの景色に眩暈を覚えながらもなんとか歩く。
遠近感は相変わらず掴めていない。気持ち悪いほど一色に染まっている民家の囲いが憎らしいのに、それに文字通り縋りつかねばろくに進めない現状に憤っていた。その怒りが微妙な足取りに反映されることはない。あるいは反映されているから尚の事なのか、視界も体も妙にぐらついたままだ。
ただ一つ、学校の近くに家があったことは幸いだったな、と少年は通り過ぎた自転車通学の生徒を見て思った。家が遠ければ自転車に頼るしかないが、現状では自転車に乗ること自体が夢のまた夢だろう。足が悪いのではなく、平衡感覚がおかしいのだから。
「遅いわね」
「そう言うな。ゆっくり行こう。学校は逃げやしない」
「時間は浪費されているのだけど」
美月は凛とした姿勢のまま少年の歩調に合わせて歩いている。気に食わないなら先に行けばいいだろうに。そう少年は思ったが、それを口に出すのは無粋だとも考えていた。
美月はこう見えて優しい。
他者が近寄ることを憚るような雰囲気を持つ彼女であったが、その実、情に深く、心の機微に敏感だ。冷たいと思える言葉も優しさの裏返しであることが多い。
恐ろしいほどの美貌と、それに見合った凛とした佇まいは誰であっても見惚れるよりも先に冷たさを感じるだろうが、それはただの先入観でしかない。
けれどもその先入観が人心を惑わすのも事実だった。
今の少年にとって、その先入観は凄まじいものになっている。記号化された二次元世界が視界を通じてもたらす情報は、間違いなく通常三次元よりも干渉力が強い。
それはそうだ。元来、記号化というのはそういうものなのだから。一昨日まではほとんど無かった印象が、今は急激に強まっている。
ああ、なんと恐ろしい世界だ。
こんな世界で普通に暮らして行くなど、考えただけでも不可能に近い。
「ままならないな」
呟いた少年に、少女は相変わらず平坦な声で言葉を返す。
「原因は全部あなたよ」
「そうだな、悪い」
少女の無言の視線を感じながら少年はすっと手を上げて謝罪する。やり取りはそれだけで、その後も少年は歩く。歩き続ける。言葉も無く、ただこの道を歩き続けた。
◆
通学路では何人かの見知った生徒に声をかけられたが、そのほとんどが美月への挨拶だった。中にはお姉さまなど呼んでいる輩もいたが、少年は気にしないことにしていた。
「上手な生き方の秘訣は無関心、って奴かな」
「私はそれほど無関心のつもりはないのだけれど」
「違うさ。美月のことじゃあない」
少年と少女の二人は、普段の倍近い時間をかけて学校へ辿りついていた。それでも始業時間に間に合ったのは、普段の三倍前に家を出てきていたからだ。
美月は起きてからずっと意図的に少年を時計から遠ざけていた。もちろんテレビも「うるさい」の一言でつけることを止めさせている。
その結果、いつもよりかなり早い時間に家を出ることになったのだ。おそらく、少年の体調を見越して一計を案じたのだろう。そうまでして学校へ行くくらいなら休ませてくれ、というのが少年の素直な感想であったので、感謝の気持ちはあまりない。
どちらかと言えば陰鬱な気持ちの方が勝っていた。
それは半分は美月のせいでもあるし、半分はこの世界に苛立っているからでもある。
そして極めつけが今目にしてしまった状況だ。
二年生である少年達の教室は二階にある。ゆえに一階、一年生教室前の廊下が一度目に入るのだが、そこで一人の女子が複数人の男女に囲まれていた。
そこに漂うのは剣呑な雰囲気であって、確実に仲の良い人間が集まっているわけではない。聞きたくもない罵声が聞こえてくれば、尚の事それは確定的な事実となる。
「おい、デブ。てめぇなんで生きてんの?お前がいるだけで気温上がっちまうだろうが」
「汚えデブ菌がうつっちまったらどーすんだよ」
「へらへらしてんじゃねえよ気持ち悪ぃ」
罵声が飛び交っている。だのに囲まれた少女は笑っていた。
仕方ない、と現状に諦めを覚え、けれど決して他人に屈してはいない。目が死んでいない。少年はその瞳の輝きを介して、恐ろしいほどに強い心を垣間見た。吐き気を催す程の芯を感じてしまった。
「大体顔自体が気持ち悪いんだよお前。みんなのためにその不細工な顔隠せよ」
「おい、誰かビニール袋もってねえ?被せてやろうぜ」
「ハハハ!そりゃいいぜ!」
酷い言いようだった。身体的な特徴をあげつらい、大勢でもってそこを責め立てる。間違いなくイジメの現場だ。そしてそれを止めようとする人間は誰もいない。見て見ぬ振りか、加担するか、そのどちらかしかいない。
「なるほど、無関心ね」
「ああ」
少年はふらつく体を押して歩む。真っ直ぐに、ただ歩む。背後で「どうして」と美月が震えた声を出したのにも構わず、ただ真っ直ぐに。
「ちょっと良いか。後輩達よ」
「ああ?なんすか、先輩」
生徒達は皆同じデザインの制服を着ているが、袖口にある細い線の色で互いの学年を知ることができる。それでも分かりやすいようにと、あえて後輩と一緒くたに呼んだ少年に応えたのは、口調と同じく刺々しい赤い髪を肩ほどに伸ばした少女だった。
その堂々とした態度と群れを割って前に出てきたことから少年が類推するに、この集団のリーダー的な存在らしい。
少年はその顔を見て、髪を見て、体格を見て、顔を歪ませる。
どいつもこいつも揃ってアニメ調だ。髪の色も色とりどり。けばけばしい程に鮮やかな単色になっている。だが、何よりもやはり顔だ。
そこには不細工などと呼べる人間は一人も存在していなかった。
苛められていた少女もそうだ。不細工だのデブだの言われていたが、アニメ調であるが故に、太ってはいても顔の膨らみは比較的抑えられていて、全体的なバランスを見れば美しいと呼べるほどに整然としている。美しいがゆえに歪なそれは、歪な世界に奇妙なほど溶け込んでいる。
美しい?
脳裏を掠めるその言葉が微妙に外れていることに気付いて、少年の歪んだ顔が一転、笑みに変わった。
苛められていた少女の顔つきは美しいというよりも可愛いという響きの方が似合う。絵で言うならば萌え系の漫画そのものだ。幼さを象徴する大きな瞳に柔らかそうな頬。ツインテールという髪型も、雪のように白く染まった髪色も、その顔つきには酷く似合っていて、もう少し年下に見えないこともない。太ってはいても肉がたるんでいるわけではなく、単純に膨らんでいると言った方が良い。
うん、膨らんでるなあ、おっぱい。
身長低い割りにでかそうだ。
触りたい。
唐突に思い浮かんだそれは完璧に桃色であった。結局、狂ったように感じていても少年が一人の男であることに変わりはない。比較的この世界に対する余裕が出てきた途端にこれである。
いや、きっとこれからやろうとしているヒロイックな行為に酔っていることもあるのだろう。
少年は緩んでいた顔を引き締め、真顔に戻す。見れば、赤髪のリーダー的少女はあからさまに不審者を見る目をしていた。
「何やってるんだ、お前達」
「見ての通り、友達とおしゃべりしてるだけなんですケドぉ?」
「そうか。でもあんまりデブとか言ってやるなよ。ぽっちゃり程度にしてやれ」
「はぁ!?デブにデブっつーのは当然でしょ!こいつがぽっちゃりって頭おかしいんじゃないの!」
突然ヒステリックに叫んだ少女の甲高い音に少年は眉をひそめた。頭がおかしい、などと言われたのは初めてだった。だが、言い得て妙だ。確かに己は頭がおかしくなったのかもしれない。
「……その子、十分可愛いだろ?なんで辛く当たるんだ?」
「可愛い!?うわ、やべーよ先輩!あんたマジで頭おかしいわ!このクソデブのどこが可愛いってぇーのよ!コイツが可愛いんだったらあたしならアイドル並みの可愛さだわ!ねえ、そう思うでしょ皆!」
そうだ、そうだと周囲の生徒達は囃し立てて笑った。つられて少年も笑ってしまう。
「ハハハ、いや確かに。後輩、お前は凄く可愛いよ。心の底からそう思う」
少年の言葉にピタリと笑いを止めて、赤髪の少女は矢のような視線を少年に向ける。
「……何が言いたいのよ」
「いや、そのまんまだ。お前は可愛い。自信を持って良い。アイドル並みって言ってたが、その気があれば本当になれるんじゃないか?」
「そ、そう?分かってるじゃん。先輩結構アレね、口がうまいね?」
「そんなことはないさ、事実そう思ったからな」
満更でもなさそうな赤髪少女の軟化した態度に少年は再び緩く笑う。
チョロ過ぎるんじゃないのか、と。
三次元世界では中々見れない反応だ。周囲の男共が殺気だったことまで含めて、やはり通常の三次元世界とは異なるのだな、と少年は改めて感じていた。
「けどな、やっぱそういう可愛い女がイジメをやってるのは正直似合わないと思うんだよ」
「……けっ、結局それかよ!!このクソ先輩!あんたアタシのやる事に文句があるってだけなんだろ!こんなクソデブ守ろうとしてアタシを騙そうっての!?」
「俺は全部本気なんだがなあ……本気でお前は可愛いと思ったのに」
「なっ、何度言われてもアタシは……っ!」
困った様に呟く少年の姿は真に迫っていて、叫ぶ赤髪少女も思わず言葉に詰まってしまう。明らかに動揺している。やはりチョロすぎる。
しかし、彼女の取り巻きはそうチョロくは行かなかった。横合いから金髪を短く整えた背の高い男がずいと出てきて威圧的に顎を上げ、あからさまな怒気を振りまく。
威圧に晒されても少年は動じない。平衡感覚が悪いので多少揺れたりもするが、それは心とは関係のない部分だ。少年は常に落ち着き払っている。青筋を立てた後輩を見てもああ、こいつも整った顔だなあ、イケメンだ、と思うだけだ。
「オイオイ、先輩さんよぉ。あんた横からしゃしゃって来てレーミを口説こうってのかよ?良い度胸してんじゃねえか、ああ!?」
「口説くというか本音を言っただけだ」
「るっせぇよ!大体てめえ、最初はクソデブが可愛いとかネジ飛んだこと言ってたじゃねーか!結局はレーミ目当てだなんてフザケンナよ!!」
それはイジメをやっていた人間が言ったにしては酷く正論だった。イジメを止めようとしてその実イジメていた方の女を口説こうなどとは、やり口が汚いにも程がある。
しかし、少年は今この時まで何一つ嘘をついてはいない。全てが本心であり、なに一つ矛盾したことを言ったつもりは無い。
「彼女目当てというわけじゃない。さっき言った通りだ。そのぽっちゃりの子が可愛いから……」
「はぁ!?コイツが可愛いだあ!?こんなデブ女がレーミより良いってのかてめぇは!目ぇ腐ってんのかよ!?」
金髪少年が血走った目をぽっちゃり少女に向けると、周囲の人間全ての視線が釣られて吸い寄せられた。
ぽっちゃり少女は顔を赤くして、少しばかり俯いていた。白い素肌と白い髪のせいか、丸みを帯びた頬の朱色が妙に目立つ。先程までは罵声を浴びせられても、強い意思を秘めたまま曖昧な笑みを浮かべていたというのに妙な話である。しかし、その恥ずかしがっている姿に、少年は何かグッとくるものを感じていた。
「うーん。まあ、そうだな……」
「ちょ、先輩あんたアタシの方が可愛いって……!!」
「いやお前も可愛いよ?でもどっちが、って言われたらなあ?」
誰も気付いていなかったが、いつの間にか論点がすり替わってしまっていた。レーミなる赤髪少女と、苛められていたぽっちゃり少女のどちらが良いか。あるいは少年がどちらを狙っているのか。イジメの現場から一転、ただの色恋沙汰になりかけていた。
「あ、アタシがこんなデブ女に負けるだなんて……いや、違う違う!大体こんなクソデブと比べられるなんてこと自体が間違ってるし!……そいつが可愛いだなんて冗談もいいとこだよ!!」
「いや、冗談じゃない」
「だったら……だったら証拠見せろよぉっ!!」
「証拠かあ……こういうときは、えぇと、アレかな。キスでも見せればいいか?」
「はぁっ!?」
その場にいた全員が驚いていた。先程まで怒髪天を衝くといった状態だった金髪少年ですら、その言葉の意外さに大口を開けて間抜けな顔を晒していた。
そんな顔のまま金髪少年は震える指先をぽっちゃり少女に向ける。
「コイツと?」
「ああ」
「キスすんの?」
「ああ」
「正気かてめえッ!?」
「ああ」
少年は常に本気で、本音しか言っていない。出会う人間は可愛い女と格好良い男ばかりだし、誰であろうが構わない気持ちもあったが、ぽっちゃり少女はその中でも頭抜けて少年の心を惹きつけた。
「たぶんアレだ。一目惚れしたんだと思う」
その言葉でざわざわと戦慄がひた走った。あまりの衝撃に誰もが言葉を忘れ、赤髪の少女など、真っ赤な顔で口元を押さえて呻いている。
しかし少年は周囲を意に介すことなく、自らの言葉を現実のものにしようとふらつきながらゆっくりと前へと進む。彼が一歩進むたびにぽっちゃり少女を囲んでいた人垣が割れていく。それはまるでモーゼの如き、救済者の姿だった。
「あ。あの、わた、私は……」
「初めまして。俺は緋ヶ瀬鉄人。君の名前を聞かせてくれないか?」
「藍風、鈴花……です」
ぽっちゃり少女は俯いたまま答えたが、意を決したように顔を上げ、鉄人と名乗った少年の顔を正面から真っ直ぐと見据える。視線が交錯し、互いの瞳が互いの輝きを映し出す。
途端にぽっちゃり少女の鈴花はただでさえ赤かった顔を更に紅潮させた。慌てた様子で再び俯く。
「藍風。いや、鈴花。俺をもっとしっかり見てくれ」
「あ、ああっ?」
少年は大胆にも少女のふくよかな体をぐいと抱き寄せた。少年の胸ほどの高さしかない彼女は少年の顔を間近で見上げる。目の端には涙すら浮かんでいた。
その涙は羞恥からか、恐怖からか、あるいはまったく別のものからなのか。少年には分からなかったが、柔らかな温もりが心地よくてすぐにどうでも良くなった。気持ちが赴くままに少女を見据え、その言葉を口にする。
「聞こえていたかもしれないが、一目惚れだった。俺と付き合ってくれ」
「わた、私は、その、あの……」
「嫌か?それならそれでもいい。君の答えがなんであれ、俺の気持ちは変わらない。今日のように君が困っていたら必ず助けに来ると約束する。だから、損得抜きで本音を言ってくれ」
「うえ、ああ……」
「言葉にできないなら行動で示してもらうけどいいか?」
「うぇ?」
「今からキスをする。いやなら振りほどけ。俺の胸を叩くだけでも良い。そのときは俺から止めよう」
少女は頷くこともできぬまま、少年の唇へ視線が吸い寄せられた。徐々に近づいてくるその唇から目を離すことが出来ない。抵抗することも、いや、そもそも抵抗する気すら沸いてこない様子だった。
それゆえに。
やがて、少年少女の唇は優しく触れ合った。
「うわっ、うわああああああああーッ!!本当にやりやがったあああああーーッ!!」
それはもう、盛大な叫びが上がっていた。誰も彼もが目の前で繰り広げられる桃色の光景に叫ばずにはいられない。青い少年少女の熱き情熱の迸りは留まることを知らない。
ならば、と少年はさらに推し進める。ふくよかな体をきつく抱きしめ、唇の隙間から舌をねじ込んだ。紛れもないディープキスである。
少女は初めは驚いたものの、結局はそれすらも拒むことはなかった。映画のワンシーンのように互いの唇を貪りあい、唾液を交換する。時折漏れ出る吐息は艶かしく、あまりにも少年少女達には刺激が強かった。
ちらりと盗み見るように少年が薄目を開けると、赤髪の少女が重なり合う二人の姿を食い入るようにみつめていた。視線が合うと、びくりと肩を震わせる。それが膝の辺りまで伝わったところで、少年は再び目を閉じた。
思う存分絡み合ったあと、少年は今度こそ目をしっかり開けて、ゆっくりと口を離した。少々寂しい気もしたが、そろそろ始業のチャイムが鳴ってしまうことに気付いたのだ。
「鈴花……大丈夫か?」
「え、えぅ……はひ……」
「そうか。ちょっと目の焦点が定まってないから心配したぞ」
少年は抱きしめていた手も離し、一歩後ろに下がった。そして今度は横並びになって彼女の肩を抱き寄せる。そのすぐ側の床に、なぜか顔を真っ青にしてガチガチと歯を鳴らす赤髪の少女が座り込んでいた。
「俺達は晴れて恋人同士になった。きっかけになったお前達には感謝している。でも、もうイジメはやめてくれ」
誰も頷かない。反応しない。けれどもなんとなく大丈夫だろう、と少年は思った。
だから呆けた鈴花を彼女の教室、その机まで送り届けて座らせると、いやにあっさりと一部始終を眺めていただけの美月の元へ戻ってきた。
「あなたが私以外の女に可愛いだなんて言う所、初めて見たわ」
「そうだっけか。ま、お前は特別だしな。可愛いよりも美しいの方が似合う」
「そう」
美月は小さく頷くと、上履きをコツコツと鳴らしながら階段を登っていく。後に続いて少年も上るが、踊り場にたどり着くなり美月が振り返った。
「……あなた、昨日から少しおかしいわよ」
「まるで俺が俺じゃないみたいだ、とか?」
「そこまでの事はないけれど」
「だったらいい。俺は俺だよ。違うといったら彼女が出来たことだ」
「そう」
美月は顔色一つ、眉一つ動かさず頷いて、再び階段を上り始めた。
俺は罵倒が下手すぎる。