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▼1.少年は世界に酔い潰れる

 何か、おかしい。


 その少年が目を覚ましたときに感じたのは痛烈な違和感だった。

 覚醒間もないゆえだと少年は咄嗟に思ったが、いつまで経ってもぼやけたままの視界にやがて頭痛を覚え、吐き気すら催してくる。


 少年は獣のようなうめき声を上げながらベッドから起き上がった。近くのクローゼットに手を突き、体重を預けることでなんとか倒れないよう苦心する。

 クローゼットから伝わるのは触り慣れた木の感触だった。当たり前の現実。そう思える、思わずにはいられない常識的な光景であるはずなのに、いつまでも整わない、狂う視界に諦めを覚えて目を閉じる。


「違う。ここは違う」


 呟きはしゃがれた声となって虚しくその部屋に響く。そこは少年の自室。紛れもない自室。けれど、けれども、おかしいのだ。


「遠近感が、狂う……色彩感が、狂う……現実感が、狂う……」


 あるいは己の頭が狂ったのか。少年は再び目を開いてみたが、狂った視界は未だ収まっていない。それどころか違和感は増していくばかり。


「夢、夢だ。夢の中……」


 息を荒げた少年は、やがてその違和感と頭痛と吐き気と、耐えようもない絶望感の中で意識を失った。



 ◆



 うめき声と共に少年は再び目を覚ます。相変わらず視界は狂ったままだった。


「変わってない。確かめないと……」


 頭痛と吐き気に耐えながら、少年は外へ出ようと必死に体を動かす。一歩、二歩、三歩。踏み出すたびに平衡感覚が崩れ、今にも倒れそうになる。

 体は脂汗か冷や汗か、あるいはいつの間にか溢れていた涙か、とにかく自らが噴出す体液でびっしょりと濡れていた。張り付く寝巻きの感覚は覚えのあるもので、けれどもその濡れた体を目にすれば狂った視界と同じとなる。


 少年は壁に体を預けながらも自室から出た。その先にあったものもまた、いつも通りのはずである我が家の中だった。たった一人で生活している一軒家だった。


「一人で、暮らす……?」


 少年は再び違和感を覚えて独りつぶやく。


「なんで……?家族が、いるのに……?」


 父も、母も、そして幼い妹も。不幸があって消えていなくなったわけではない。少年の家族は今でも元気だ。つい昨日会った記憶もある。なのに何故独りで暮らす必要がある?

 いや、もちろん理由はあるのだ。単純な話だ。少年は一人、この家に戻ってきた。この地に戻ってやることがあった。それだけの話で、一時的に独りで暮らしているに過ぎない。


「それでもおかしい」


 ああ、やっぱりおかしいのだ、と少年は呟いた。あらゆる記憶があるのにあらゆる記憶に覚えがない。


 少年はふらついたまま家中を徘徊する。居間も、食卓も、炊事場も、妹の部屋も、両親の部屋も、玄関も、風呂場も───どれもが知っているもので、どれもが現実感が無い。


「そうだ、現実感だ」


 少年は洗面台の前で立ち尽くしていた。大きな鏡に映る見知った顔。それは紛れもなく自身の顔であるというのに、やはり現実感が無い。


 目にまでかかりかねないさらさらの黒い髪をかき上げる。恐ろしく整った顔つきが鏡の中に現れた。明らかに憔悴した瞳と、乾いた唇、蒼白になった肌が余計に異常さを際立てている。


 異常であるのも当然だ。それら全てが等しく現実感が無い。


「悪い冗談だ」


 からからに乾き、水を欲しているはずの喉からしゃがれた声が漏れ出ていた。この顔はまるで、まるで───


「アニメの登場人物じゃないか」


 それは比喩ではない。紛れもなくそうだったのだ。少年の知識にある三次元の世界にはありうるはずも無い、人間でありながら非人間的な顔つきはそう呼ぶしかない。


 そもそもが顔つきだけの話ではない。家の中の景色であってもそうだ。

 例えばフローリングの床。よくよく見れば傷がついていたり、窪んでいたり、汚れていたり、埃があったり、というのは常識的に考えて当然のことだ。だが、現状はどうだろう。

 たった一人で大きな家に住んでいて、きっと手入れなど行き届いていないだろうに、汚れや傷、経年劣化の跡がほとんど見当たらない。綺麗過ぎるのだ。


 言ってしまえば、そこは絵画の中の世界。細部の再現までは必要とされないが故に凹凸おうとつの無い、あまりにも平坦で、あまりにも美しい現実が今ここにある。


「だから、現実感が無い。気持ち悪い」


 聞こえるはずのない幼子の甲高い笑い声が耳朶を打つ。


 異物だ。世界にとって、己にとって、互いの存在が今は異物でしかない。三次元世界として構築された二次元世界はひたすらに奇妙で、歪で、少年と相容れない。


 仮想現実ヴァーチャルリアリティよりも酷い世界だ、と少年は呻いた。




 それから呆けたまま時間だけが過ぎていく。居間のソファに横たわった少年は、ガラス戸から差し込む日差しを体中に浴びつつ、テレビ画面を凝視していた。


「これがバラエティ?アニメじゃなくて?」


 画面に映る世界も完全に二次元世界だった。芸能人も、建物も、食べ物も、あらゆる全てがアニメ調である。通常の三次元世界よりもさらに画一化された人間の顔が気持ち悪い。しかし、それよりも嫌悪している感覚があった。


「三次元で感じる妙な間というか、現実の人間がやっているからこそ感じる独特のテンポが絵面に合わない。違和感しか感じない。出来の悪……いや、出来が良すぎる3D映像だ」


 何もかもが歪だ。少年は呟いて居間のガラス戸に目を向ける。日が落ち始めた外の景色もまた二次元世界である。赤焼けた世界は夕暮れには違いないが、色彩が完全に三次元世界と異なる。


「……とにかく、全部がけばけばしいんだよな」


 毒づく少年だったが、それでも目覚めたときよりは随分と落ち着いた様子だった。人は慣れるものなのだ。ずっと目にしていただけだが、少なくとも目を開くだけでは頭痛や吐き気には襲われなくなっていた。


「けどなあ、動けないのはどうしたもんか。さすがに腹も減ってきたし、飯食いたいんだが……」


 少年はすっと立ち上がってみたが、しばらくするとふらつき始め、諦めたように目を閉じると再びソファで横になった。


 頭痛も吐き気も収まった。けれどもいかんせん、遠近感だけがいまだに掴めない。感覚的なものなので言葉にはできないが、とにかく結論として、少年は『歩けない』。

 何も無いところでこける、尻餅をつく、ドアに頭突きする、足の小指を柱の角にぶつける。色々と足掻いた結果、そういった散々な目にあったのだ。


 起きてすぐ家中を歩き回ったときにはこんなことはなかったのに、と少年は再び毒づく。普通に考えればありえない事態だ。ありえない世界にいる自分もありえないか、と力なく少年は笑った。


「このまま餓死するのかね……」


 歩けないなら歩けないなりに、這いつくばって冷蔵庫までたどり着くことはできた。結果としてアニメ調のプリン一個を手に入れることは出来たが、これを食べるだけでも相当に苦労した。


 まずはスプーンですくうことがなかなかできない。なんとかスプーンですくえても、遠近感がおかしい故に口元まで運ぶのに苦労するのだ。何度も零して、ようやく口に入れたそれは埃でもついたのか、じゃりじゃりとした感覚があった。結局最後には器に直接口をつけ、すするようにして無理やり流し込んだ。


 が、それは大した問題ではない。味は普通のプリンであったし、それなりに腹も膨れた。問題は食料がそれだけであったことだ。外に買出しに行くしかないのだが、歩けない以上、それもできない。

 這ってでも行くべきかと一時は考えもしたが、二次元世界とはいえ現実には違いないのだ。這いつくばって道を進む人間など、下手をすれば精神病院行きである。


「飯が向こうから歩いてくればなあ……ああ、そうか」


 酷く単純な見落としに気付いて少年は笑った。

 動けぬのならば、飯が向こうから歩いてくるように仕向ければいい。友人、あるいは家族に頼んで持ってきてもらえばいい。違和感は拭えないが、確実に知己は存在しているのだ。それも駄目なら宅配という手もある。


 少年は早速這いつくばって動き出す。連絡を取るにも携帯電話は自室に置いてあるので取りに行かねばならない。


 時折目を閉じて休みを挟みながら、少年は匍匐前進を続ける。慣れたとはいえ、精神的疲労が濃いせいか、体まで気だるく、進みは遅い。


 やっとの思いで居間から這い出し、玄関から続く廊下に出た時だった。突然、呼び鈴が鳴った。少年は反射的にびくり、と震えた。迎えに出ることもできず、声を出すことすらせず、ただ荒い息だけがしんと静まり返った玄関前に響いている。


 少年が玄関に目を向けてじっと待つことほんの数秒。外にいる人物は家人が迎えにくるのも待たず玄関を開けた。その動きの早さからすれば、当初から迎えを待つつもりはなかったのだろう。


 普段と何一つ変わらない、平然とした顔で玄関前にいたのは、少年の知己である一人の少女だった。


 紺のセーラー服と、胸にかかる汚れ一つ無い純白のリボン、校則に違反しない程度の膝丈のスカートと、その身姿は現実感が薄くなる程にきっちりと整えられていた。


 服装以外は少年の持つ、幼い頃の記憶からほとんど変わっていない。


 流れるような黒髪は腰の辺りまで伸びていて、前髪はきっちりと眉にかかる程度で揃えられている。

 何よりもその顔つきだ。鋭いとすら呼べる切れ長の眼と白い肌に添えられた薄桃色の唇は、人形のように気味が悪いほど整っていて、全てが絵画的だった。


 少年は思う。ああ、やっぱりこうだった。絵の中の、冷徹ささえ感じさせる美貌を持つ女が目前にいる。けれどもそれは立体的で、現実世界のものであることに間違いはない。


 凍えるように冷たくて、酷く気持ち悪くて、輝かんばかりに美しい。


「あら……」


 見る見るうちに細い切れ長の目が見開かれていき、その少女の口から透き通るような、冷たい音が紡がれる。


「……どうしたの?」


 少女の背後から、暗くなっていた玄関前に西日が差し込む。それはまるで、後光のようだった。


「ああ、天使……いや、悪魔か。迎えにきたのか……」


「何物騒なこと言っているのかしら?」


 目を細めた少年の様子に呆れを浮かべながら、少女は手荷物を適当に置くと、靴を脱いでゆっくりと歩み寄る。


「悪魔って綺麗なんだな……」


「そうね、私は悪魔かもしれない」


 少女は少年の横に座り、その額へと手を伸ばす。細く華奢な手はそのまま肌の上を滑って動き、頬をすりすりと撫でた。手のひらから伝わる温もりは間違いなく人間のそれで、少年は何故だか無性に悲しくなる。


「一応、生きてはいるのね。あまり心配かけないで欲しいわ」


 そうだ。少年は生きている。この世界に生きている。それは溜息をつきたくなるほど空虚で、笑いたくなるほど滑稽で、涙を流すほどに物悲しい。


「……なんで泣いているの?」


「悪魔が冷たすぎるのが悲しくてな。人肌の温もりが欲しい」


「冗談も程々にして」


「ああ、そうだな。じゃあ、美月みつき。飯をくれ」


「お腹が空いて動けないの?昨日おばさん達が来ていたでしょうに」


「ああ。けど食料が無い。どういうわけか、無い。泥棒にでも荒らされたかな」


 少年のあまりにも投げやりな言葉に美月と呼ばれた少女は嘆息した。仕方ないわね、と呟いて少年をその場に放り出したまま炊事場へと向かう。


 その手には隙間からネギが飛び出した買い物袋がげられていた。


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