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終章

(一)


 二初旬、東京近郊の墓地。朝方から降り続いた雪が辺り一面を覆っている。

 はらはら落ちる冷たい花弁の合間に遠く、鈍色の海が見える。夏になればきっと鮮やかな色へと変わり、さやかな潮風を運ぶのだろう。

 理沙は暫くの間、その高台からの眺めに足を留めていた。オレンジ色のコートにも白い雪が降り積もる。それでも彼女は払おうとしない。寒さも気にならなかった。



 ――どうして東京から?

長野へ進学し、一人暮らしを始めてから受ける、定番の質問。

『雪が好きなんです。ママが北国の生まれだから』

 理沙の、どことなく日本人離れした端正な顔立ちや瞳の色・淡い髪色から誰もが納得し、嬉しそうに手を握り返してくれた。

『ここも、良い国だよ』

 定番の切り返しがたまらなく嬉しい。故郷を、そのまま国と呼ぶ。その暖かさが好きだ。思い切って東京を離れ、良かったと思う。

 暮らすまでは不安が大きかった。

 父は仕事で忙しく平素から離れがちで、その上、母や弟とまで離れるのは寂しい。それに……


 理沙には、誰にも話していない秘密がある。悲しい過去だ。父と母しか知らない。そしてそのことを、両親は案じていた。わざわざ連想させるような土地へ行かせて良いのかと。

 ――真っ白に飾られた山々。それは理沙へ、忘れてはいけない痛みを常に語りかける。



 吐き出す息が、淡い痕を残して消える。寒いといっても、その程度。深く深く芯まで冷やす、盆地のそれとは別格だ。

 ほんの半月前、理沙は身の凍るような体験をした。雪深い山荘で。

 それまでの価値観を塗り替えるような三日間を過ごした。



 ――降り積もる雪、白くそびえる山並みは理沙の心の傷だった。

 それは未だ十歳の頃。母の実家・スウェーデンに帰郷と旅行を兼ねて滞在していた時の事。

「こわいよ、にいさま……。こんなところまできて、だいじょうぶなの?」

「大丈夫、理沙は僕が必ず守ってあげる」

「ほんと? ほんとにほんと? やくそくよ?」

「はは、臆病だな、理沙は。約束するよ、お前を守るためなら僕は死んでもかまわない」

「いや! にいさま、そんなこといわないで! ウソでもいやよ!」

 その日、理沙は七歳上の兄に付き添ってもらい、スキーを楽しんでいた。まだまだオチビの弟は母の腕の中でお留守番。

 日本でもスキーの経験はそれなりにあるが、外国のスキー場となると全く雰囲気が違う。頼る相手は兄しかいない。

 優しく勇気があって、強い兄。だからこそ、本当に自分の為に無茶をしそうで怖かった。

 兄は笑いながら謝り、理沙は頬を膨らませる。いつになく暖かな昼過ぎの事だ。

 どこか遠くで、叫び声が聞こえた。滑走禁止区域の辺りからだと思う。新雪を求めて柵越えをする客がいると話は聞くが――

 遭難ではなかった。

 それは。

 雪山で一番恐ろしい――……

 真っ白で冷たい波が、何もかもを呑みこむ。その中で、兄は理沙を抱きしめ守り通した。

 捜索隊が二人を発見するまで……確かに兄は、大好きな兄は、言葉の通りに理沙を守ったのだった。――その命を落としてまで。



『理沙は生きて』

 それが兄の最期の言葉で、願いであった。決して理沙が悲しみに暮れることを望んだわけではない。

 ようやく理解できたのは事故より十年近く経ってからだ。あの頃の兄の年を越えてしまった。

 理沙は雪で覆われた石畳へ踏み出し、いつもの場所へと向かった。誰の足跡もついていないその道は、不安と背中合わせの未来への期待も予感させた。

 抱えた花束が歩調に合わせてフワフワと揺れ、季節を先取った柔らかな香りを放つ。

 ――今シーズン初めて長野の山々を雪が覆った日。理沙はワンルームから出ることができなかった。

 カーテンを閉め切り、兄を思い出しては一日中泣いていた。

『理沙! 見た見た? こっちはもっと凄いよ!』

 そこへ、学部の先輩である村上梓からメールが届いたのだ。

 入学当時、知り合いもおらず戸惑っていた理沙の手を引き、それ以来たくさん楽しい事を教えてくれたのが彼女だった。

 しかし夏休み中に、「理想の人を見つけたの!」と連絡があり、そのまま休学。なんでも、サークル仲間と合宿で使った山荘の料理が非常に美味しく、オーナー夫妻の人柄も素敵で、シェフを目指す身として暫く住み込みで働く事にしたという。理沙はその行動力に呆気に取られながら、電話でメールで、楽しい事をたくさん教えてもらい、朝霧山荘への興味を膨らませていた。その名の通り、早朝・霧が立ち込める時間帯の景色が最高らしい。

 そんな彼女からの、雪山メール。

『理沙もおいで。一緒にバイトしようよ。絶対絶対、楽しいから』

 梓は理沙の過去を知らない。けれど、だからこそ変な気遣いなしの言葉が嬉しかった。

 東京に居た頃は、たまに降る雪にさえ怯え、そんな日はママが一日中抱きしめてくれていた。でも、そうやって甘えていては大人になれないのだ。成長するために、自分は長野に来たのだから。

 世間の冬休みが終わり、観光シーズンも一度落ち着く頃合いに短期間のバイトをスタートする事になった。

 ――自分なりの荒療治。そう覚悟を決めて「朝霧山荘」のドアを叩いた。

  

「セ、センパイ!」

「……どうしたの? 理沙」

「あ、あの、あのひと……食堂で、お食事中の」

 一月十五日。この日の宿泊予定は四名。けれど、この雪で到着が遅れているらしく、食事時間もバラバラ。飛び入り客もいる。新米の理沙がオーナー夫妻と一緒に食堂で配膳やこれからの仕事内容について教えてもらいながら、ベテランの梓は一人で山荘内の点検・飛び入り客の対応に回っていた。

 そこへ、息せき切って理沙が駆けてくる。

「あぁ……えぇと、今日から二泊の山田さんね、一号室。どうかしたの?」

「山田さん……。いえ、なんでもないんです」

「そう? ……だったらいいの。ね、何かあったら私に話してね。怖い事とか、絶対よ」

「え? ハイ、頼りにしてます、センパイ!」

 面倒見が良いのはいつもの事だけれど、自ら誘っておきながら不思議なほど心配症の梓へ理沙は小首を傾げながら笑顔で返した。

 事件は、既に始まっていたのだ。しかし、理沙は他の事で頭がいっぱいになっていた。

 ――先程、夕食を運んだ男性客……、あのひとは。



「山田さん……。今日はとても良いお天気ですよ。毎日押しかけて迷惑かも知れないけど、もう少し我慢をしてくださいね。だって少しもお話をしないうちに、山田さんは遠くへ行っちゃったんだもの」

 出来あいの仏花ではなく、お気に入りの花屋でいつも、彼に似合いそうな花束を作ってもらっている。      

 シンプルだけど決して埋もれない強さのある色合い、バランスを考えて。

 山田孝樹。命を落とすのに、あまりにも彼は若すぎた。彼の思いを知るには、あまりにも接する時間が少なかった。

 それでも、理沙は信じているのだ。

 きっと、彼は自分を守ってくれたのだと。

 そして、狂気にも似た山荘での三日間を、そっと守り続けていてくれたのだろうと。



 ――あ、あの…… ゲームでもしませんか、その、一緒に

 食堂の片づけをしているところへ、山田という宿泊客が理沙へ声をかけてきた。

 異性相手の誘い文句、それ自体には理沙は慣れていた。慣れてはいるが、相手の本心を読みとった上で丁重に断ることが得意なわけではない。

 少なからず意識していた相手からの言葉に、理沙は動揺する。自分が勝手に思い込んでいただけで、東京によくいる軽薄な手合いだったら……。理沙が迷っている間、相手も一生懸命に言葉を探しているようだった。

「一人で……やってもつまらないですし、二人くらいで楽しいのがあって。わからなかったら、……ぼ、僕が教えますし」

「…………ごめんなさい。まだお仕事が……」

「そっ、そ、そうですよネ! すみません。ですよね、お仕事中ですもんね。……えぇと、その……山田孝樹です」

 そういう時は、一度断って反応を見るのよ。梓から教えられた事を、とりあえず試すようにしている。大抵は、更に慣れ慣れしく触れてきて付き合いを強要するか、一方的に悪態を吐き捨てて去るか。その度に、理沙が悲しい思いをすることを男たちは知らないのだ。けど……このひとは、違った。

「は、……はい?」

 驚いて、理沙の声が裏返る。顔を真っ赤にして、名乗った青年はしどろもどろに続ける。

「僕、山田孝樹っていいます。お、お名前、教えて頂けますか?」

「あぁ! あはは。香山理沙です」

 なんて人だろう。理沙の警戒が、一気に解けた。春の暖かさに自然と融ける雪のような、優しい感情が胸に広がった。

「ありがとうございます! それではっ」

「はい。それでは」

 山田孝樹さん。ちょっと不器用で紳士的、そして、とっても優しそうな人だった。

 彼は二泊の予定だという。もし、また誘ってくれたら一緒にゲームをしよう。自分の知らない楽しい世界を教えてもらおう。

『おいで、理沙。教えてあげるよ』

 ――悲しみの雪で凍っていた記憶の中に確かに在った、兄の記憶がよみがえる。兄の姿が、山田の背に重なった。




「私……あなたが先輩を殺しただなんて一度だって思いませんでした。山田さんが優しい人だってことは最初からわかってました」

 初めて言葉を交わした事を、理沙は何度でも思い出す。

 兄の死を忘れようとして忘れられなくて苦しくて悲しくて、思い出の全てはその色に染められてしまった。

 でも、今は違う。

 山田と交わした少ない会話、一緒に過ごした短い時間を、何度でも思い出す。そうするうちに、兄との思い出も不思議とその色を変えてゆく。

『理沙は生きて』

 引き換えとするにはあまりにも大きかった兄の命。それでも、自分が生きている事を否定するのは

 間違いだと知った。ようやくわかった。

 梓が、惨い形で冷たくなっているとの報に山荘内の空気が凍てついた翌日、山田もまた命を落とした。食堂だった。

 敬愛する梓の死は確かに悲しく、犯人が憎く、許せないものだった。でも、それは絶対に山田の犯行ではないと、確信に近い思いを理沙は抱いていたのだ。

「それなのに黒井さんや偽オーナーがあなたを疑った時、心では「ちがう、ちがう」って思いながら、何一つ弁護してあげられなかった。それが悔しくて、自分の弱さが情けなくて、思い出すたびに涙が溢れるの」

 食堂は、理沙が山田と初めて会話をした場所で、「仕事が残っているので」と山田の誘いを断った場所だった。

 奇しくもその頃、理沙は山田が誘った娯楽室の清掃をしていた。

 山田は、理沙を待っていたのかもしれない。仕事を終えるのを待ち、休憩時間を一緒に過ごさないかと、声をかけようと待っていたのかもしれなかった。

「本当はね、山田さん。初めてあなたを見たとき、私……震えていたの。あなたは大好きだった兄様にそっくりだったから」

 今となっては、もう遅いだろうか?

 そんなことは無い。失われた命は戻らなくても、残してくれた命はここにある。

 守ってくれた命を、自分は生きよう。

 山田孝樹の墓前に、理沙は二人分の誓いを立てる。



 ――私には、よくわからないんだがね……

 山荘から解放される間際に、黒井警部が理沙へ見せた物がある。山田の携帯に残された日記だ。

 そのフレーズに、理沙はあふれる涙を止められなかった。

『1/15:食事を運んできたおんなのこにハートをワシ掴みされた』

『1/16:理沙ちゃんは僕が必ず守ってあげる』

『1/16:理沙たんを幸せにできるなら僕は死んでもかまわないゾ』


 確かに、山田孝樹は亡き兄にそっくりだった。

 そして、兄とは違う想いで、理沙を見守ってくれていたのだ。

 花を手向けて立ち去ろうとしたとき、黒井警部がやってきた。遠目からでも、あのトレンチコートを見間違える事は無い。事件以来の再会だ。

「黒井さん?」

「やあ、理沙ちゃんも来ていたのか」

 そこでようやく理沙は自身に降り積もっていた雪を払い、歩み寄る黒井の到着を待った。

「どうして、ここへ?」

「いやあ、山田氏に詫びようと思ってね。自分のウカツさがまったく嫌になる」

 黒井は苦く笑い、膝を着いて仏花を供えた。理沙の花束の横に、そっと。

 手を合わせたまま、話を続ける。山田の犯行を宣言した時、理沙が食堂から出て行った意味を後になってから気付いたのだ。誤認逮捕もいいところの大声に、純粋な心を持つ理沙には……山田の無実を信じたい理沙には、耐えがたい事だったのだろう。彼女へは人一倍、心を砕いていたつもりの黒井に

とって今は合わせる顔がないというのが本音だ。

「警察には辞表を出したよ。前から思っていたことだが、今回でつくづく思い知った。私は刑事には向いていない、アハハ」

 辞表。

 重い響きに、理沙は大きく目を見開く。愉快でおおらかで頼りがいのある警部さん。父が家庭に居たら、こんな感じだろうか。そんな思いを寄せていた人は、大きな覚悟を持って事件と向き合っていた。

 刑事には向いていないなどと言うが、それで三十年も続けてこられるわけがない。黒井自身にも、大きな変化をもたらした事件だったのだ。

「それで……これからどうするのですか?」

「まだ決めてない。できれば小さな本屋か喫茶店でも始めようかと思っているんだが」

「それなら!」

 立ち上がった黒井の腕を、理沙が掴む。

「り、理沙ちゃん?」

「私のパパに、会って下さいませんか?」

「う、うむ。……うん? い、いや理沙ちゃん、確かに私は妻と別れた身だが、」

「パパが、黒井さんにとっても感謝しているの。一度、きちんとお礼を言いたいって」

「あ、……ああ。なるほど……」 

 君のような若い娘さんから親に会ってほしいだなんて、一瞬ナニ事かと思うだろう。という想像をしてしまった自分が恥ずかしく、黒井は考え込む風をして誤魔化す。

 そういえば理沙の父は、大会社の社長だ。もしかしたら夢の実現に一役……いやいや、そんな下心で刑事を勤めていたわけではないが、だがしかし。

「うーむ。じゃ一度お目にかかってみようかなあ……別に礼なんていらないけどね、ハハハ?」

 下心は無い。断じてない。昔も、刑事を辞めた今もだ。

 しかし……誰かを前に己の夢を宣言する事は、悪い事じゃあ、ないハズだ。

 黒井は心の中の誰かへ、必死に己の正当さを主張した。





(二)


 約三ヵ月前。

 彼は高嶋篤哉という名を騙り、プロを夢見る歌うたいのフリをしたサラリーマンだった。

 四月初旬現在。東京。

 彼は橘祐樹、二九歳。プロを夢見る歌うたい。定職は無い。



 表参道の桜並木を、誰に遠慮するでなく誰の許可を得るでなく、たくさんのカップルが歩いている。

 その中に、周囲の目を引く一組の男女が並んで歩いていた。それをジッと見つめる人影には気付いていない――女性の方は。

 男性は三十代半ば頃だろうか、長身の美形。通り過ぎる女性たちが、どこそこの表紙で見ただの、いいやスポーツ選手だなどと噂し合うが残念ながらいずれでもない。

 緊張した面持ちで彼にエスコートされているのは女子大生くらいの娘。

 デートが初めてなのか、大人の男性に緊張しているのか……初々しさが前面に出ており、時折はにかんで見せる白い八重歯がなんとも可愛らしい。

 実に似合いのカップル……の、ように見える。見えるのが許せないのか許すべきなのか、橘祐樹は木陰から命の恩人と妹を見守りながら歯がみした。

 妹・真綾の大学前で待ち合わせをして、それから入った喫茶店で実に楽しそうにおしゃべりする二人を見守り続けて一時間近く経つ。事情を知らない通行人が、彼を怪訝な顔で見ながら歩き去る。

事情を知ったなら、更に怪訝な顔をしたかもしれない。もちろん、祐樹はあらゆる視線に気付いておらず、妹も気付いておらず、そこは似た物兄妹といえよう。

 デート相手は祐樹も知っている男だ。名は橘潤一郎、しかし橘兄妹との血縁関係は全くない。「同じ姓とは運命かな?」とでも口説いたのかと思うとイラッとするが、当時の状況を考えれば仕方がないのだと、祐樹はこの日、何度目かの同じ言葉で自分の心を鎮めさせた。


 橘祐樹が『高嶋篤哉』を名乗った頃、怪盗スペードジャックは『橘潤一郎』を名乗っていた。

 年の離れた妹と出向いたスキー旅行は、漫画かゲームか二時間ドラマかと思いたくなるほど、日常から非日常へと見事に滑走した。

 義賊だなんだと巷を騒がす『怪盗スペードジャック』は悪漢より真綾を救い出し、妹を人質に取られ悪事の代行としいて兄が向かった朝霧山荘へと駆けつけた。

『何かお礼をさせてください』

『東京に戻ったらもう一度会いたいな。それだけで十分だよ』

『は、ハイッ!』

 録音された約束は、兄も確認済みである。

『妹さんをさらいに行くから、彼女の電話番号教えてもらえる?』

『そう言われて、答える兄がいると思いますか』

 山荘から解放される間際のやり取りも、忘れていない。妹からアドレスを聞きそびれるくらい、急いで来てくれたのだと思う事にする(たぶん、直接きけば自分の番号も教える事になるから不都合なのだろう。祐樹にだってそれくらいの理解はあった)。

 だからせめて、教える連絡先は自分のものにした。

 そして今に至る。


「真綾ちゃん、楽しかったよ。今日は付き合ってくれて本当にありがとう」

 駅へと折れる交差点が別れの場所だった。

 『東京に戻ったらもう一度』。一度きりなのだと真綾も察しており、言葉に詰まる。本当にもう、お別れなのだろうか。でも、もしかしたら。

「あっ、いえ……私こそ楽しかったです。ありがとうございました!」

「真綾ちゃんは素直で可愛いな。そんなところは兄さんとそっくりだね」

「あ……それは喜んでいいのかナ。お兄ちゃんは人が良すぎるって。……友達からは天然だって言われてるし」

 事件以降、真綾の呼び方は「兄さん」から「お兄ちゃん」へと逆戻りしていた。

 兄の帰着後、第一声で「おにいちゃんのばかッッ」と叫んでから、引っ込みがつかなくなったらしい。

「アハハ、もちろん喜んでいいんだよ。人を疑らないでも生きて行けるのは幸せなことだ。君たち兄妹を見ていると本当にそう思う。自分の醜さが嫌になるほどだ」

「橘さんが醜いだなんて! そんなことは絶対にありません! だって橘さんは私たちの……私の……ナイトだから…………」

 真綾が反射的に声を上げる。顔を赤らめながら、最後の言葉は尻すぼみとなる。

 真綾ちゃんはいじめたくなるタイプだな、という感想は胸にしまい、潤一郎はキラリと白い歯をこぼした。

「ありがとう真綾ちゃん。でもナイトはそろそろ国に帰らなきゃいけない。真綾ちゃんとも今日でお別れなんだ」

 タイミングを見計らい、潤一郎は真綾の肩へ手を乗せる。たぶん、そこから更に手を移動させようものなら物陰から攻撃を受ける。そんな予感を抱きつつ。

「えっ……」

「喫茶店でも話したように僕は東大で数学を教えているが、四月からは英国に招聘されてOxfordで研究生活に入る予定だ。人類最後の難問と言われる<アルベルト定理>を僕の手で解き明かしたいと考えている。……ずっと前からの夢だったんだ。最低でも三年は帰らない。解明するまでは研究室に籠って外に出ることもしない」

 文系の真綾には、潤一郎の話すことは難しすぎてなかなか呑みこめない。途中で察したらしい彼が、言葉を優しく変換して伝える。

「だからキミとも、もう会えない」

 日本での最後のひと時に君のような素敵な女の子と会えたことは生涯の思い出になるだろう、そう続ける潤一郎の言葉は真綾の耳に届かない。

 潤一郎は言葉を切り、そっと手を差し伸べる。握手をしようということらしい。しかし、真綾はあまりのことに呆然とするばかり。

 同じ街に居れば、偶然すれ違うことくらいできるかもしれない。そんな甘い望みさえ、砕かれてしまったのだ。仕方の無い事だろう……と、物陰の祐樹は妹の気持ちを察し、見事なケジメをつけた潤一郎へ心の中で拍手をした。さぁ、さぁさぁ握手でお別れだ!

 潤一郎は身動きできない真綾の様子に、フッと笑みをこぼしてから軽くハグをした。兄は硬直した。

「じゃあ、元気で」

 それが最後の言葉だった。潤一郎は立ち去ってゆく。

 真綾はただ見送ることしかできない。涙が止めどもなく溢れだす。やがてしゃがみこんで両手で顔を覆う。桜吹雪が彼女を包む。

 ついでに、妹を見守る兄も包んだ。


 ――あの九条という警視は確かにヤバイ。しばらく身を潜めるしかないだろう。真綾ちゃんは惜しいが俺にはちょっと幼すぎる。遠くから俺を睨み付けているアニキも哀れだしな……フッ。

 ナイトにも色々と事情があるのだ。

 が、

「三年後、か……」

 聞きだした彼女の電話番号(本物)が変わっていないといいナ。

 怪盗スペードジャックの独り言もまた、桜の花弁に乗っては消えた。


「まーや……」

 泣きじゃくる妹の姿にいたたまれなくなった祐樹が飛び出そうとした時、「高嶋さん」と聞き覚えのある声がした。

「どうしたんですか? こんなところで?」

「か…… 香山さんッ」

 振り向くと、そこには確かに香山理沙が居た。

 祐樹の妹・真綾も、身びいき抜きでカワイイが、理沙は抜きんでている。山荘での事件を共に過ごした彼女を、忘れるわけがなかった。

 ……妹

 そういえば、香山さんは真綾と同じ年頃だよな。

 正直、今の真綾にどう言って慰めたらいいのか祐樹にはわからない。

「あの、あー ……ひさしぶりだね」

「はい。お元気でしたか?」

「うん。僕はね。僕は元気なんだけどサ」

 祐樹は妹の件を理沙に相談した。

 彼女は少し物思いにふけったような表情をしたあと、笑顔で答えた。

「良いお店を知っているんです。妹さんも誘って一緒に行きませんか?」



 ――『朝霧山荘殺人事件』

 潤一郎の行く先に、妖艶な美女が立っていた。

 深いスリットの入ったタイトスカートに革のジャケット。艶やかな髪は闇より黒く、桜より紅い唇に笑みを浮かべている。陽光の似合わない女性だった。

「これはこれは、スペードのエース。ご機嫌麗しゅう?」

「感傷に浸ってるのよ。学生時代の友人を二人もなくしたわ。一人は獄中だけど」

「……それは知らなかった」

「嘘つきは嫌いよ」

「それは、知ってる」

 スペードのエースと呼ばれた女性が意味ありげに微笑む。

「俺は人殺しが嫌いだよ。アンタとは組まないって言ってるだろ」

「あなたと一緒の時は、殺しをしないと言ってるわ。大体、私だって直接手を下してるわけじゃない」

「そうは言うけどね、結果は同じだろう」

「約束したわ。覚えているでしょう、三年前よ」

「あー……。アレね。本気?」

「今度は英国。Oxfordのある街ね」

「……ワオ」

「三年間は戻ってこないんでしょう? 丁度良いわ」

 ああ、本当になんてお誂え向きな。

「怪盗ブラックジャック、結成。オーケー?」

「オーケー」

 ――ところで、さっきの物騒なフレーズは何さ?

 ――獄中の友人が、物語に仕立てて一発当てるって言ってたわ。

 ――タフだなぁ、堀口さん………… 




(三)


 東京。新宿。戸塚町。

 理沙に連れられた先には赤いレンガの古風な建物があった。

 一階は推理小説専門の貸本屋で二階は喫茶店のようだ。英国ヴィクトリア朝時代を思わせる雰囲気の作りだが、建物自体は最近改装されている。

「『珈琲館 四つの署名』……シャーロック・ホームズですね! 私、大好きなんです」

 吊り下げられた看板を読みあげた真綾に理沙が頷きを返す。祐樹には解らなかったが、多分、推理小説のタイトルなのだろう。金田一耕助なら、ちょっと解るんだけど。

 そういえば自分が使った偽名の「篤哉」、自分は「アツヤ」と発音したが、「東川篤哉トクヤ」という売れっ子作家がいるらしい。妹が家に持ち込んだ推理小説から、無意識に引用していたという事だ。

 祐樹は置いてけぼりにされながらも、理沙の案内でドアをくぐった。

 本独特の匂いが三人を迎えた。入れ替えの多い一般的な書店とは違う。どこか薄暗くカビまじりの匂い。子供の頃に通った図書館を思い起こして、ワクワクしてくる。

 店内は学生たちで結構にぎわっていた。アレは読んだ・コレが入った・ダブッて借りた・オチは話すな、……微笑ましい光景だ。

「え、あ、 ……黒井警部さんッ!」

 店の奥、貸出カウンターでは……驚いたことに黒井警部が慣れない手つきで客の応対をしていた。

「高嶋……じゃなくて、橘くんかあ! ああ、ややこしい」

 黒井もまた、大声で返す。図書館ではないので怒られる事はない、もとより店主が黒井なのだ。

「良いお店でしょう」

 理沙がニッコリと笑った。



 高嶋篤哉の本名は、橘祐樹である。

 それは東京へ着いてから、手紙で黒井警部へ報せていた。長野で伝えなかったのは、そうするとスペードジャックの正体がバレてしまうから。

 橘潤一郎のトップシークレットを守り通すことが、事件に関して『高嶋』にできる最後の役目だ。

 もっとも、終始徹底して軽い調子だった橘潤一郎を「実はスペードジャックなんです!」と公表したところで、黒井警部は信じなかったかもしれない。

 潤一郎の正体には触れず、祐樹は本名の件を道すがら理沙にも明かしていた。黒井からは何も聞いていなかったようだ。

 『じゃあ、あの時は橘さんがお二人だったんですね』察しているのかいないのか、理沙もまた「そういうこと」にしておいてくれた。

 そして、今は手が離せないから二階で待っていてくれという黒井の言葉に従い、三人は階段を上る。

 そこもまた学生客でいっぱいだった。本、そして豊かな珈琲の香りが重なり、時の流れを忘れそうな空間を作り上げている。

「えぇええええっ?」

 そこでも更に、祐樹は驚きの声を発する。

 片隅のテーブルに腰を落ち着けてからカウンターを見ると、なんと松村がいるではないか!

 若い女性客が多いのはどうやらそのせいらしい。

 松村は二人に気付くと慌ててやってきた。

 白いシャツに黒ベスト。ネクタイとスラックスをシックな色で合わせて、さも英国紳士然とした姿が似合うのは松村ならではで、なんのコスプレかとも思わせる。もしかしたら所属劇団から衣装を持ちだしているのかもしれない。

 黒井としては「正統派英国の雰囲気」を醸し出そうとしたのだろうが、いま流行りの「執事的なアレでソレ」と紙一重だ。扱っている書籍、提供するフード・ドリンクの質で一線を保ち続けなければいつ崩れるともわからない。が、流行を気にしない黒井であれば、その心配も不要だろう。

「いやあ、忙しくて大変ですよ。もうすぐ舞台が始まるっていうのに、黒井さんたら無理ばっかり言うんだから」

「え? じゃあオーディション受かったんですね!」

「ああ、何もかも理沙ちゃんのおかげさ。勇気と自信をもらったからね。オーディション当日も付き合ってくれて、恋人が焼きもちを妬くほどいろいろと世話をしてくれた。」

 いつの間に、そんなことが。僕も東京在住なんだけど。 

「フフ、それは言いすぎです松村さん。あんな素敵な方が私なんかに焼きもちを妬くはずないじゃないですか」

 すみません、ここには四人いるんです。悲壮な事件をくぐり抜けた仲なので、どうかその空気に僕も入れてください。祐樹は心の中で叫ぶ。

 その時、コーヒーを運んできたウェイトレスが理沙に微笑みかけた。

「そんなことないわよ。私、本当に心配だったんだから。だって理沙ちゃん、可愛いんだもの」

「あーっ、絵里さんもご一緒だったんですね。今日はお仕事お休みなんですか?」

 はっきりした目鼻立ちが印象的な、強気系美人だった。紹介されずとも解る、長野のスキー場まで来て『急用が入ったから』と松村を放置して東京へ帰った、彼の恋人だ。

「滋と海外旅行をするつもりで休暇を取ってたの。だけど黒井警部は彼の恩人でしょう。バカなことをしたのに許してくれたのだから、これくらいの恩返しはしなくっちゃね」

 これくらい、と言いながら、誂えられたように似合いのウェイトレス姿である。クラシックなタイプだ。彼女の為に用意されたものに違いない。

「黒井さんは逮捕する気マンマンだったけどな……。だけど僕たちはいつまでも手伝ってられないし、黒井さんどうするつもりなんだろう。この店は理沙ちゃんのパパがスポンサーなんだろ。黒井さんに任せて大丈夫なのかい?」

「それで高嶋さんと妹さんをお連れしたの。お二人にこの店を手伝ってもらえないかと思って」

 寝耳に水だった。気を抜いた舌に熱々の珈琲だ。

「えッ? た、確かに僕は会社も辞めて、今はギター弾きの修行中だから時間はたっぷりあるけど……」

 貯金があるうちは、バイトを詰め込む必要もない。ブランクが長いので、祐樹はとかく場所を探しては路上で弾き語りをしていた。

 問題は何もない、が、黒井が警察を辞めた事も、こんなところで店を開いている事も、そのスポンサーが理沙の父であることも、松村のオーディション合格も、ドのつく美人な恋人も、理沙が祐樹を頼ろうとしていた事も、知ったばかりで対応ができない。

 固まっているうちに理沙はドンドン自分の案を話してゆく。彼女はこんなに積極的だったろうか。

 あの事件が、彼女を強くしたのだろうか。

「真綾さんは早稲田って聞きました。ここなら大学にも近いし、少しくらいならバイトできますよね?」

「は、はいっ、ちょうどバイト探していたんです。ここ、すごく感じがいいし、私も推理小説好きだから、私は働かせていただきます。ウェイトレスなら経験あるし、お兄ちゃんだって学生時代は喫茶店でバイトしてたよね?」

「あ……ああ、まーやが働くなら僕だって」

 祐樹は、妹の上目遣いに弱い。反射的に口にして、それから「……一人じゃ心配だしな」と付け足すも、誰も聞いていなかった。

「それじゃいいんですね。嬉しい! この喫茶室には音響システムも入っているんですよ。高嶋さんの音楽活動にも使っていただきたくて準備しておきました。私も学校が長期休みに入れば手伝いに来ます」

 手を合わせ、はしゃぐ理沙。

 え 今、なんて

 ……音響?

『高嶋さんの音楽活動にも使っていただきたくて準備を』

 …………え? なんで?

 動揺を鎮めるために、何とか材料を引っ張り出す。そうだ、警部さんは歌が好きだったな。歌声喫茶世代だ。だから……でも、たしかにいま……

『寂しさを知ってる香山さんなら、きっと暖かい家庭を築けるよね。そうだな……たとえば僕とかどう?』

『うーん……高嶋さんは恋人と言うよりもお兄様かなあ』

 そんな山荘でのやり取りはあった。祐樹としても場を和ますつもりの冗談だったが、反撃の傷は意外と深かったので、よく覚えている。

 まさか、真に受けたわけでもないだろうし、ではどうして、

「ゆうきさん」

「はいッ?」

 ぐるぐる考えているところで、急に下の名で呼ばれ、祐樹は文字通り飛び上がった。周囲が笑う。

「いつまでも『高嶋』さんはおかしいし、橘さんじゃ二人だもの。ね。祐樹君」 

 今の話、聞いていなかっただろう。松村が意味ありげな視線を送りながら名を呼んだ。

「祐樹さん、真綾さん、どうか黒井さんを助けてあげてくださいね」

「こちらこそ宜しくお願いします!」

 真綾は理沙と旧知の仲のように睦まじく話している。さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。

 祐樹は思う。理沙は天使なのかも知れない。黒井も松村も自分も真綾も、この笑顔を絶やさない少女によって救われた。

 本人に自覚があるのか無いのか、それはわからない。ただひとつ言えること。

 それは祐樹にとって新たな発見。真綾以外の異性の微笑みが、こんなにも暖かく美しく感じること。

 手が届かなかった、もう届く事のない真奈の笑顔を思う。安らぎを与えてくれるそれは、母に求めるものに良く似ていた。

 ――それでもきっと、あれも恋だった。そう思う。

「やだなあ、お兄ちゃん、じっとしてて」

 真綾がハンカチを取り出し祐樹の口元をそっとぬぐった。どうやら涎が出ていたらしい。

 それを見て松村と絵里が笑う。

 あの時は布巾でしたね。理沙が笑った。


 朝霧山荘の三日間を共に過ごした六名の宿泊客のうち、オタクと麻薬Gメンは非業の死を遂げ、麻薬売人は薄暗い獄中にあり、盗賊は少女の心を盗んで海外へ逃げ、残った路上演奏家と舞台俳優だけがこの場所にいる。


 店内の北側、太陽の光が一条差し込むレンガの柱の上に、二枚の写真が飾られている。

 一枚は白銀に映える朝霧山荘と睦まじく微笑む二人の男女。もう一枚にはスキー服姿の若い女性。

 理沙がその写真に微笑みかけた時、階下から声がした。

「理沙ちゃん、私にもコーヒー頼むよー、それとちょっと手伝ってくれないかなー」

「はーい!」

 元気よく声を返してから、三人は目で笑いあった。



 窓から、ひとひらの花びらが舞い込んだ。

 やがて季節は移ろい、若者たちは新たな道を歩きはじめるだろう。

 朝霧の中、誰の足跡も付いていない真白な雪原を前に、それぞれだけの光を選び取ってゆく。

 生き抜いて、行くのだ。

 触れあい、すれ違い、拾い上げる事の出来なかった輝きを力に変えて―――……。





TRPG/朝霧山荘殺人事件/了



最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

twitterを利用した、仲間内でのTRPG・自キャラ視点のノベライズです。

個人サイトに掲載したものを整え、同人誌として発行したものとなります。

サイト版はこちら(TRPGでの詳細もあります)

http://sspiral.fool.jp/twimat/index.html

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