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序章

 ましろが世界に広がっていた。

 雪原の白銀、広がる空の青とのコントラストが目に染みる。


 生きている

 生きている


 当たり前のことなのに、なぜだか泣けてきた。

 広がるあしたを、さぁ、どうやって生きていこう。


 ましろのゆきが花弁のように、ひらり舞い降る。

 ひらり、ひらり、風が吹き、流れてゆく。


 さぁ。

 生き抜くために、どこへ行こう。



   ◆  ◆  ◆ 



 約四時間前。

 僕は橘祐樹という名前で、しがないサラリーマンで、妹と二人で重沢高原へ訪れたスキー客だった。



 妹が疲れた疲れたと連呼するものだから、自力で持ち帰る予定だったスキー用品を宅配便で返送し、軽くなった体をコーヒーで暖めた。

 夜のゲレンデも綺麗だね。陽の暮れてゆく雪原を眺め、妹が言った。

 帰りのバスまで時間もあるし、ちょっと散歩しようか。そう言ったのは僕だ。

 朝のような夕のような、曖昧な色に染められた雪原を、笑い声を上げて二人で歩いていた。



 今となっては、それが夢なのか現実なのか、今が現実なのか夢なのか、実に曖昧だ。

 夢であれば良いのにと、この現実を確認している。

 雪にまみれ、遭難手前という風体で『奴ら』に指定された山荘へ辿りついた僕を、スタッフと見える女の子が出迎えた。

「宿泊ご希望ですね、えぇと、予約は無し、と。オーナーに確認してきますので、少々お待ち下さい」

 大学生くらいだろうか。キビキビとした動き、笑顔に好感が持てる。僕は雪を払いながら、彼女の後姿をぼんやりと眺めた。夏はテニス部、冬はスキー部。そんなイメージだな。

 やがて彼女が戻ってくると了解の旨を伝えられ、続いて宿帳の記入をすすめられた。

「……どうかなさいました?」

 ボールペンを握ったまま固まってしまった僕へ、女の子が小首をかしげる。活発さを表すようなポニーテールが、動作に沿って揺れた。

「あ、いや」

 僕は返答に詰まる。

 宿帳という響きに、床へ置いたはずの荷物が重く感じられたのだ。

 ソレの中身が何であるのかは知らない。見るなと『奴ら』からキツく言われ、誰に監視されているでもないが僕は忠実にそれを守っているからだ。しかし、あんまりヨロシクナイモノに違いはあるまい。ロクデモナイ事件に関わっていることは明白で、つまり僕もロクデモナイ事件の片棒を担いでいるというわけだ。

 一呼吸置いたことで、結論に辿りつく。

 ――本名は、ヨロシクナイかもしれない。

 咄嗟に高校時代のクラスメイトから姓を拝借し、下は適当に繋げた。

 タカシマアツヤ。ゴロが悪い。ただ、音の中に妹の名が入っていることに満足し、住所に関しては誤魔化さず記入した。何かあれば、直ぐに引っ越せばいい。どうせ男の一人暮らし、身軽なものだ。


 一月十五日、午後八時三十分。朝霧山荘にて。

 こうして僕は、高嶋篤哉となった。身元を保証するものは、一切ない。



 痛いほどの空腹で目を覚ました。

 朝六時。一月十六日、月曜日。

 身に着けたままだった腕時計で確認する。悲しいかな体内時計は正確で、普段であれば出勤準備で飛び起きている頃だ。

 身体を起こすと、ギシリと痛みが走った。日頃の運動不足の賜物である。

「久しぶりのスキーに……ここまで、歩きっぱなしだったもんなぁ」

 ふは、と息を一緒に弱音を吐き出して、揺るがない現実を呼び戻す。


 長野県・重原高原スキー場は、都心からバスで約六時間程度の距離にあるレジャースポット。

 僕と、九つ年下の妹・真綾は東京から日帰りで遊びに来た一般客だった。

 いい年をした兄と妹が他に相手も居ないのかと言われてしまえば反論に詰まるが、都会に出てきて田舎者と笑われないように意地を張るのも疲れるものだ。実家へ帰るほどの余裕はないけれど、兄妹水入らずで気分転換するくらい許されるだろう。

 そんな、ちょっと時期遅れのふたりの「冬休み」だったんだ。

 月曜日には、僕はサラリーマン、妹は大学生。いつもの生活が待っているはずだった。

 が。

 現実は、オカシナことになっている。


 兄は悪事の片棒を担がされるべくスキー場から徒歩一時間の山荘へ転がり込み、妹は人質として『奴ら』に連れ去られた。

 帰りの高速バスへ乗る前に、ちょっと散歩をしようとした先でのことだった。ひと気の無い雪原で、林となっている方向から『奴ら』は現われた。

明らかに一般人さんとは住む世界の違う風体。言動。僕の脇腹に突きつけられた拳銃が玩具かどうか疑う余裕はなく、目の前で羽交い締めにされる妹の姿で頭がいっぱいだった。

「いいか兄ちゃん、女の命が惜しけりゃオレ達の言う事をよーっく聞きな!」

 三文小説のフレーズよろしく、『奴ら』は僕へ命令した。

『朝霧山荘へ行け』

『明日の昼食時に暗号を呟け』

『その後、取引相手から連絡が来る』

『明日の夜までには重沢高原ホテルへ戻ってこい』

 こうして、僕たちの日常は引っくり返ったのだった。


「まあや、大丈夫かな」

 アヤシイ鞄を持たされて、吹雪の中を延々と歩き続けて、それでも僕はなんとか朝を迎えた。

 妹はどうだろう?

 今年で二十歳になるといっても幼いイメージはいつまでも拭えない。僕が高校を卒業して上京する頃、真綾はまだ小学生だったのだから。

 真綾。乱暴なことはされてないか?

 真綾は可愛いからなぁ……いっそ、その可愛さを逆手にとって上手いこと逃げ出すくらい、したたかな娘に成長していたら……それはそれで、お兄ちゃんは心配です。

 僕の手荷物は少ない。というか、ほとんどない。

 『奴ら』に捕まった時点で携帯電話を含め全て取り上げられた。財布も、現金以外で身元の割れるものは抜き取られた。幸い、挟みこんでいた妹との写真だけは拉致から免れた。

 ベッドから這い出して、床に脱ぎ捨てていた上着から財布を取り出す。真綾の大学入学式に撮った二人の写真が、何も知らぬ顔で幸せそうにこちらを見ていた。

 取り戻さないと。薄っぺらな紙の向こうの、日常を。

 悪事だろうがなんだろうが、遂行するしか選択肢はなかった。

 決意を新たにして、振り向いたところで呼吸が止まる。

 なんて危険なものを、むき出しで!

 室内に二つあるベッド。未使用であるドア側のその上に、例の鞄が無造作に放ってあった。

 パッと見は、なんの変哲も無い黒革のビジネス鞄、が、やや不自然に膨れている。

 慌てて、僕はアヤシイ鞄をベッドの下に隠す。それから内鍵で満足していた自分を叱りつけながらチェーンロックもかける。

 周囲を見渡し、他にマズイ点は無いか確認した。

 ツインベッドの洋間。これは全室共通だという話だ。鍵は内鍵とチェーンキー。建物の中央が吹き抜けになっていて、玄関ホール奥にある階段を軸に客室は二階にL字型で配置されている。数は八。

 ドアの左手に小さな姿見、その隣に三連の木製フックとハンガー。角の小さなスペースがトイレになっている。バスは付いておらず、一階に共同の浴室が常時使用可能となっているそうだ。

 各部屋にトイレが付いているだけありがたい。小洒落た内装デザインであるが、ごく一般的な山荘のように思う。特に変わったところはないよな……。

 二つのベッドの間のサイドボード下に収納スペースもあったが、そこに収まるサイズの鞄ではない。クローゼットもないので、安直だと思いながら咄嗟に窓側のベッド下に鞄を隠したが、やはり他に適当な場所は思いつかなかった。

 本音を言えば肌身離さず持っていたいところだけれど、食堂へ持ち込むわけにも行くまい。その辺に放り出しておくよりは良い。あとは、ひたすら部屋に居るしかないか?

「それにしても……。この天候で、外に出られるのかな」

 適当に室内をうろつきながら、開けたカーテンの向こうに広がる銀世界が不安の色と変わる。

 昨夜、山荘に辿りついた時の吹雪はそのままで、まったく緩む気配を見せていない。視界は真っ白で、どこからどこまでが積雪なのか雪原なのか判別できない。

 とはいえ、出ることが可能だろうが不可能だろうが、やるしかないのだ。妹の命がかかっている。

 この条件だと、今日の夕飯前にはチェックアウトすることになる。万一に備え、部屋は二泊でとった。宿泊費は自腹である。背に腹は代えられないとはよくいったものだ。金を残したというのは、こういう意味かと嬉しくもない事実を理解した。

 ぐ、と腹に力を込めると、それは抗議の声で応える。

「……なんとやらでは戦さはできぬ、か」

 食事は七時から。もう少し、間がある。

昨夜、応対してくれたスタッフの村上梓さんが部屋の案内途中に設備など含め手際よく説明してくれた。彼女の話の内容と部屋に備え付けのパンフレットを照らし合わせながら、食事時まで少しだけ、考えを整理する事にする。

 

 冬のレジャースポットとして有名な重沢高原には、宿泊施設として最大規模を誇る重沢高原ホテルの他に、小さなホテル、ペンションなどがある。ここもその一つであり、高原から更に奥へ進むこと徒歩一時間程度の距離にある、小さなペンションだ。

携帯電話の電波は届きませんので、連絡の際はフロントロビーに設置している公衆電話を御利用下さい。

 ……ツッコミどころとしては「徒歩で約一時間」。歩いてみたが、無理だった。一本道だから迷わないのは夏場の話であって、暗い雪道なんて「御自由に遭難して下さい」に等しい(そういえば、上京直後も「駅から徒歩十五分」のフレーズに騙されたものだ)。そんな立地から、スキー場付近の山荘でありながらも、夏や秋の方が繁盛しているという話にも納得できる。山奥なので交通機関が徒歩しかなく、だったら誰でも散策が楽しい時期を選ぶ。

 電波が届かないということは、現実の束縛から離れたい人には適しているだろう。そして、秘密の取引にも……。

警察へのSOSさえ、すぐには届かないのだ。仮に僕が内通したとして、救援が来るまでに僕自身が『処分』されてしまう方が早いに違いない。僕は始めから、電話を使うつもりはない。

 浮世から隔離された山荘には、軽い運動ができるジム、映画鑑賞などを楽しめる娯楽室もあるそうで、運動、芸術鑑賞、自然満喫、好きなように時間を過ごせるようになっている。

 そしてフランス仕込みだというオーナーの手料理が何よりもの自慢だそうだ。

修業後、日本のレストランでも経験を積み、当時ホールスタッフだった女性と結婚して、山荘を買い取り改装して三年前にオープンしたのが、この「朝霧山荘」である。

 今が閑散期とはいえ、雑誌に紹介されたこともあるようなペンションへ飛び込みで宿泊だなんて……。

もしも満室だったら、どうすればよかったんだろう。『奴ら』も、せめて別名義で予約を入れておけばいいものを!

 ……恨む相手が目の前に居ないので、独り芝居も空しい。


 パンフレットを一通り読み終えたところで、朝食の時間となった。浴室と洗面室が一緒になっているので、顔を洗ってから出向くとしようか。

 そうして、鞄を部屋に残し、僕は自室を出た。

 外側から鍵を掛け、ふと周囲を見渡す。シンとした朝の空気を揺らす気配は無く、まるで僕一人だけが宿泊しているような錯覚に陥る。

 飛び入りの僕は廊下を折れて突き当りから二番目の七号室を与えられていた。予約順に空き室を宛てているとしたらギリギリセーフだ。

人気のペンション、でも豪雪シーズンは閑散期。一風変わったこの宿に、どんな人達が宿泊しているのだろう。

 とぼとぼ廊下を歩く。ぺたん、ぺたん、情けないスリッパ履きの足音がついてくる。

 吹き抜けのロビーを右手に見て階段の位置で曲がると、その先に「娯楽室」と書かれたプレートが見えた。その向かい側に、「一号室」のプレート。ホテルなどでは「四」は忌避されるというが、ここは数字通りに部屋番号が宛てられていた。一から五までが一列。廊下を曲がり、六・七・八と並ぶ。

 階段を降りはじめると朝食の良い香りが流れて来て、吸い寄せられそうになるのを必死に耐え、洗面室へ向かった。

「おはようございます……」

 酷い寝不足面を確認したのち、声をかけて入った食堂には既に三人の客が居た。皆、一斉にこちらを見る。心なしか、空気が重たい。

 ひとりは「やぁ」と快活に片手を挙げ(男前だ。僕も長身だけど、それよりも高い)、

 ひとりは軽く会釈をし(男前だ。こちらは、やや優男な感じ。背が高いどうこうではなく、モデル系といった体つきか。ええい、こっちは一般サラリーマンだ! 比べるだけ空しい!)、

 ひとりは一瞥しただけで向き直り、眼鏡のブリッジを上げながらコーヒーを口に運んだ(やだこの人怖い! やたら仕事のできる後輩を思い出してしまった)。

 きっと他にも客は居るはずで、僕は少し考えてから寡黙な男前の隣、怖い眼鏡さんの向かいに腰を下ろした。

「おはようございます。ドリンクはフリーとなっていますので、あちらからどうぞ」

「あ、はい。……ありがとうございます」

 まもなく、ほかほかと湯気を上げた朝食が運ばれてきて、ぎこちない空気など吹き飛ばしてしまった。

 オーナーの奥さんだろうか、村上さんとは違う落ち着いた物腰の女性がトレイを僕の前に置いた。

 清潔感のある黒髪を横結びにしており、控えめな笑顔が印象的だ。 

 うっかり彼女に見惚れてから、僕は朝食と向かい合う。

 焼きたてパンに、サラダ、スープ。チーズとトマトを包んだふんわりオムレツや、熱々のグラタンがたまらない。

 朝から活力の出るメニューだ。不幸中の幸いって、きっとこういうことを呼ぶのだろう。

「おかわりありますからね、たくさん召し上がってください」

 オーナーが調理室から顔を出し、笑顔で声をかけてくれる。目が糸のようになって、「いい人」全開だ。

 こんなところで、僕は……。

 ハッとなり、僕は周りを見回した。僕を含め、揃いも揃って三十歳前後の男たちがテーブルを囲んでいる。ビジネスホテルならいざ知らず、リゾート地においては異様な光景である。

 この中に、僕の取引相手が居るのかもしれない。想像してしまい、自然に辛気臭い顔となる。

 僕は少しだけ背を丸めて、パンのおかわりを頼んだ。

 真綾は、ちゃんと眠れただろうか。食事を摂っているだろうか……。

 向かい合った二人が立ち去るのと入れ違いに、バラバラと男性客たちが入ってきた。二人。やはり同年代……とはいえ、僕が一番幼く見える。

 僕の隣に腰を下ろしたのは小柄で見慣れた風体の青年。いわゆるアキバ系という部類かな? 

 職場にもチラチラいるので、匂いで分かる。チェックのネルシャツというのは、着る人で印象を全く変える危険なアイテムなのだ。小洒落たフレームの眼鏡で誤魔化しているようだが、小物に拘って全体を見失う人間ほど周囲にアレコレとダダもれなのでご注意を。

 そして配膳に来たのはオーナー夫人とは違う、女子大生っぽい子――結構スタッフが居るんだなぁ、ここ――で、青年は彼女と目が合うとパッと逸らし、彼女は何事もなかったかのように「ごゆっくり」と声をかけ、次に入って来た客へと挨拶していた。その後ろ姿を青年は見つめる。あぁ……三次元には免疫がないとか、そういう……。

 確かに先程の子は美少女だ。色素の薄い髪に肌、声からしてお嬢様っぽい。年は真綾と同じくらいだろう。運動部系の村上さんと対照的な可愛らしさがあるな、と僕も思う。

 しかし妹を持つ男としての性分なのか、どうにも年下の子は「妹みたい」と変換してしまうし、実の妹が人質に取られている現状では、僕にはトキメいている余裕などないのが本音だ。

 百人の美少女より一人の妹が大事。百人の美少女には百人以上の男が群がるだろうが、今の妹を救えるのは兄である僕しかいないのだから。

 それに、どちらかといえば年上の方がいい。周囲からは揶揄されるけれど、優しさと厳しさを備えた落ち着いた大人の女性が理想だ。そうだな、ここに居る女性陣でいうと……そこまで考えて首を振る。学生の旅行じゃないんだから。

 お腹が満たされて、気が緩んでいるのかな。非日常に慣れていないから、日常を強く欲しているのかもしれない。逃げるな、真綾は逃げたくても逃げられない状況にあるんだぞ。

 立ち去った二人のトレイがそのままだったので、それを避けてアキバ系青年の向かいに着いたのは、精悍な印象を与える男性だった。すれ違った二人に視線を残しながら不精髭の生えた顎に手をやる。

じっと見ていた僕に気づき、にこりと笑みを返してくれた。

「部屋を出たら、良い匂いがしてな……失敬」

 先に洗面室へ向かうつもりだったのだろう。

「いえ。ここの御飯、すごく美味しいです」

わかりますよ、と僕は返して、そして御馳走様でした、と手を合わせた。これくらいの小さな日常は許してほしい。

 ……ふむ。これで、僕を含めて宿泊客は現在六人。こんなものか。

 スープを飲み干し、一息をつく。心を整える。

 美少女が精悍な男性へ食事を運んできたタイミングで、僕は席を立った。

 午前八時。自室。

 ベッドに横になったり仰向けになったりしつつ、僕は今後の事を考えた。

 まず、現状の把握。

 

 妹・真綾、現在囚われ中。

 僕、謎の取引の代行中。


 取引に関してだけど、『奴ら』の口ぶりから察するになんらかの捜査機関が潜入している可能性があるとかで、トカゲのシッポ切りの為に僕は用意されたようだった。

 つまり、『奴ら』と『取引相手』この他に『捜査員』が、山荘に紛れ込んでいるかもしれない。


 妹の為に、僕は何としても取引を成功させて、重沢高原ホテルに戻らなくちゃいけない。

 取引に関する重要事項として、

(一)鞄の中身を見ない事。

(二)失敗や警察へ通報することがあれば、人質の命はないという事。


「以上の、簡単なお仕事だけど、なぁ……」

 宿帳には偽名とともに、職業欄へ「フリーター」と書いておいた。実に便利な言葉だと思う。

 しかし、預かり物は三十路前後のフリーターに不釣り合いな黒革の鞄。……職に関係なく、僕の容姿ではどう説明しても悪目立ちでしかないか。

取引までは部屋に隠しておくが、チェックインの際に誰かが目にしているかもしれない。

 怪しまれない、もう一つのコジツケを考えねばなるまい。

『おにいちゃん。うたって?』

 少ない容量の脳内を探るうちに幼い妹の声が聞こえた。

 僕が高校生の頃か。近所の兄貴分のマネをして、色気づいてギターを手にした辺りだ。

 ようやく一曲弾けるようになったところでの無茶振りだった。

 しかし、そこが兄である。おにいちゃんすごい! と言われたいのである。

 そして僕は……ようやく弾けるようになった曲に合わせ、ひたすら妹の名を歌ったのであった。

 妹限定で、非常に好評だった。

「そんなことも、あったなぁ」 

 高校三年間は、仲間たちとバンドを組んだり抜けたり入ったりライブをやったり楽しかった。

 大学でも続けるつもりだったが、大都会東京でレベルの違いに愕然とし、その夏の帰省で実家にギターを置き去りにしたんだった。

 ……弾ける。今でも、たぶん。

 ソレっぽく伴奏をつけて、あとは歌で誤魔化せば、もしも無茶振りされても対応できる。

 染みの無い綺麗な天井を見上げ、人より少し長いのが自慢の指を広げてみる。


 高嶋篤哉、二十九歳。

 フリーターで、プロを夢見る路上の歌うたい。

 それが僕の名前。僕の肩書。たった今、決めた。

 誰かに何かを聞かれたら、胸を張って答えよう。

 鞄の中は、ギターという事にしよう。

 今は「トラベルギター」という旅行向けのミニギターがある。実際はこんな形状のケースではないけれど、中古品ということで押し通せ。

 決意を固めた頃、遠くで何かが割れる音がした。割れる――、と認識してから、ガラスの類かなにか、

 なんでまた、そんなものが。そう思うが、そのままにした。

 

 寝返りを打ち、腕時計を覗く。

 一月十六日、午前十時三十分頃であった。




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