一
『悪い悪い、伝えてなかったっけな』
右手に持っている携帯電話からは、久しぶりに聞く父親の声が聞こえていた。
イライラしている守とは正反対で、父親の声音は少しも反省しているように聞こえない。
「あのな、家族が一人増えるだけで――」
――どれだけ大変だと思ってるんだ、と続けそうになったが、言葉を飲み込んだ。視界の隅に、尚の姿が入ったからだ。
気分的には父親を怒鳴りつけて少しでも鬱憤を晴らしたかったが、尚とは今後同じ家で生活することになるし、本人は何も知らずに来たわけだから、変に気を使わせてお互いがやりにくくなるのは出来るだけ避けたい。それ故、ここは心の中にとどめておくことにした。
『涼子ちゃんや杏子ちゃん、それに美紗子ちゃんもいるんだから、一人くらい増えたって変わらないだろ』
しかし、相手はというと、こちらの心情は察そうともしないようで、返ってきたのは相変わらず気を逆なでするような返答だった。
とはいえ父親の言っていることは事実だし、これ以上反論しては自分が抑えられなくなりそうだった。携帯を持っている右手に壊れそうなほど力を込めて黙っていると、さらに続きが来た。
『あと、仕送りも増やしてやるし。ついでに、進級したのに小遣いアップしてやってなかったからな、来月から小遣いも増えるぞ!』
「はぁ」
あまりにも当たり前なことを交渉材料に使ってくる父親に、抵抗する気力すらなくなり、適当に返事をしておく。もちろん小遣いの件はこれとは無関係だ。
『そういうことだから、うまくやれよ。じゃあな』
「ああ」
明らかに、こちらの苦労を分かっていない父親への怒りを込めて通話を切るボタンを押す。そして、携帯をポケットにしまってから後ろへと向く。すると、電話が終わるのを待ってくれていた浩太と大樹が立っていたので、電話の内容を要約して伝えた。
あの後、「えっと、職員室でもう一度確かめてみますね」と言い残し、佳奈子が職員室へと行ってしまったので、そのままSHRが終了となった。
すると当たり前のようにクラス中から、尚に話しかけてみろよ的な視線が守に対して向けられたので、耐え切れなくなり親に即電話。それが、今終わったところだ。
今日の一時限目が体育であるため、女子は既に更衣室へと向かったらしく、教室内には男子しかいない。しかし、授業開始まではあと十分ほどあるので殆どの男子は着替えをせずに話などをしている。
尚の方を見ると、一人で机に座ったままだった。好奇心なのか、純粋な優しさなのかは分からないが、クラスメイトからは相変わらず話しかけてみろオーラが守に向けられている。それは充分感じていたので、守は、やるしかないか、と心に決め尚の方へ向かう。
その途中、
「なあ、イギリスって何語だっけ?」
一緒について来てくれている浩太と大樹に必要なことを確認しておくことにした。
冷静なときに考えれば直ぐ答えの出そうなことだったが、緊張もあってか答えが思い浮かばなかった。親の暮らしている国の言葉ぐらい……と思うかもしれないが、守が旅行に行ったときは通訳をつけるし、親との会話はもちろん日本語なので、しかたがないと思う。
「イギリス語じゃね?」
横を歩いている浩太から、答えが返ってきた。
こいつ、勉強は出来ないのによくこんなことは知っているな、と感心して浩太の方を見ると、守と同じく緊張しているのか、まっすぐ歩いているだけなのに蛇行していた。
「イギリス語の挨拶って、なんていうんだっけ?」
「……何だっけ?」
イギリス語なんて知らないし挨拶できても会話が続かないかな、などと思いながら浩太に聞き返すと、浩太は大樹の方に視線を向けた。
「バカ、イギリスは英語だ」
大樹が呆れてものが言えない、という顔でため息をつきながら突っ込んだ。
そういわれるとそうだ。そもそも、英語の『英』は英国の『英』だし。
いくら緊張していたとはいえ、浩太なんかに聞いた自分が馬鹿だったと激しく反省する。
おい、そこで腹を抱えているヤツ(クラスメイトほぼ全員)、だったら自分が話しかけてみろ。
「で、英語の挨拶って何だっけ?」
さらに疑問点が浮かび上がったので今度は、しっかりと大樹のほうを見て質問する。さすがに、同じ失敗を二度はしない。
「Helloでいいだろ、普通に」
「バカかお前は、今のはさすがにオレでも分かったぞ」
さすがに質問した瞬間に、いかに馬鹿な質問をしているか分かった。こんなこと、今時小学生でも知っている。それにしても、浩太まで知っていたとは驚きだ。
守が恥ずかしさで顔が赤くなっていないか心配しながらそっと周りを見ると、耐え切れなくなって声を上げて笑い出すヤツまで出てきた。クラスメイト達は、この緊張を体験してみればいいと思う。そうすれば、きっと笑えないから。
守は、腹を抱えて呼吸困難になりかけているクラスメイトに怒りを覚えつつも、尚の前に着いたので、二・三回深呼吸してから覚悟を決めて口を開いた。
「はっ、ハロー、ミスターナオ・イチジョウイン。ナイストミートユウ」
「日本語で大丈夫だ。というか、普通に日本語で自己紹介しただろう。あと、ミスターのあとに、フルネームは変だ。苗字だけにするか、ミスターをとるかどちらかにしろ」
守がつたない英語で必死に話しかけたものつかの間、尚は哀れみを含めた視線で守を見る。それと同時に、よく聞きなれた言語で話しかけられた。しかも、英語に対する訂正つきで。
しばらくしてから、ようやく何の言語かを理解した守は改めて口を開いた。
「一条院君、初めまして。萩本守だ」
先ほどの驚きから一気に緊張がほぐれたため、とくにつっかえることはなかった。
すると、尚も背筋を伸ばして改まった様子で話し始めた。
「萩本君、上手く話が通じていなかったみたいで、突然押しかける形になって悪かった。あと、僕のことは『尚』と下の名前で呼んでくれないか?」
尚は何故か最後の方で顔を伏せぎみにしながら、少し顔を赤らめていた。そんなに日本人と話せたことが嬉しいのだろうか。ただ緊張しているだけかもしれないが。
こうして改めて見てみると、同姓である自分から見ても尚はかっこいい。男子としてはやや高めな声や中性的な顔のせいもあってか、貴公子という言葉が一番当てはまる気がする。大樹とは間逆のイメージなのでどちらが格好いいかは比べられないが。あともう一つ言えるのは、女装とかしたらとても似合いそうだ。本人には絶対いえないが。
「分かったよ、尚。それじゃあ、俺のことも『守』でいい」
守が失礼な想像をしてしまったことがばれないようにやや早口で返すと、浩太と大樹もそれに続く形で自己紹介を始めた。
「オレは、鈴木浩太。守の命の恩人ってヤツだ。よろしくな」
「俺は、山口大樹。一応、学級委員をやってるから何か困ったことがあれば言ってくれ」
「ありがとう、守、浩太、それに大樹」
尚が、それぞれの名前を確認するように、一人ひとり指差しながらゆっくりと名前を呼んでいく。
一つだけ突っ込むと、浩太に命を救われた覚えは無い。
守は尚の様子を、律儀なヤツだな、などと思いながら見ていると、通常のSHR終了の時間、つまり1時限目開始五分前を知らせるチャイムが鳴った。
「次、体育だからとっとと着替えちゃえよ」
「ありがとう、そうする」
尚も頷いてくれたので、守たちはそれぞれ自分の机へと向かい着替えを始める。
着替え終わったので服をたたみ、尚の方を見ると……机の上に体操着を広げそれを見つめたまま何もせずにその場に立っていた。よく見ると、顔が青くなってきている気がする。
「尚、大丈夫か」
「……」
守は心配して駆け寄る。だが、相当調子が悪いのか、守に気づいた様子はない。
「おい、尚」
「――!?」
肩に手を乗せるとようやく気づいたようで、一瞬体を震わせた後、こちらへ顔を向ける。
「なんだ、守か」
守が来たことで落ち着いたのか、先ほどよりも若干顔色がよくなった気がする。だが、調子が悪そうなのには変わりない。
「どうした、調子悪いのか? それ!」
「きゃっ――って、いきなり何するんだ」
守のおでこを尚のおでこにつけると、尚はびっくりしたのか取り乱した様子で守と距離を置いた。
守はそれを、こいつもこんな表情するんだな、などと思いながら見ていた。また、驚いたせいか、尚の目が大きく開いていてとても可愛らしい。声が上擦って女子みたいな声になっていたし。
からかうときとかに使えそうだな、とは思うが、男子同士とはいえ、人によっては本気で嫌がるのでやめておいた方がいいだろう。
「どうする? 熱は無いみたいだが、保健室行くか?」
先ほどからの様子を見ている限りでは、そこまで重病ではなさそうだが、体育の授業は見学した方がよいだろう。緊張しているのもあるだろうし、下手にこじらせても大変だし。
縦に首を振るだろうと思い尚を見ると、
「いや、これくらいで体育を見学するわけにはいかない」
尚の反応は、守の予想とは違うものだった。
「分かった、それじゃあ早く着替えろよ」
まだ相手のこともよく知らないし、こちらが思っているほど酷いわけではないのかも知れないので、守は本人の意見を尊重することに決めて尚に着替えを促す。
すると、尚は数秒のあいだ体操着とにらめっこした後、
「やっぱ、保健室で休むことにする」
何故か考えを変えたようでそんなことを言い出した。
その意見には、こちらとしても反対は無いので、守は尚を保健室まで連れて行った後、体育の授業へと向かった。