一
「分かったから、とりあえず上がれ」
ようやく思考が追いついた守は、とりあえず美紗子を家に上げることにした。
美紗子がこんなことを言い出した理由として思い当たるのは二つ。一つ目は、親と喧嘩して自宅に帰りたくないから。二つ目は、異性と同居という突然のことで困っている守の手伝いと監視という理由だ。
もし後者だとしたら、自分も異性で萩本家に泊まったら問題になる、ということはおそらく考えていないのだろう。この年になってもお互いの家に泊まることは珍しくないので、当たり前といえば当たり前ではあるが。
しかし、ノースリーブにホットパンツという、見ている方が寒くなりそうな部屋着姿であるあたり、前者の可能性のほうが高い気がする。
「何じろじろ見てんのよ、気持ち悪い」
気づかぬうちに、美紗子を、それも素足を見てしまっていたようで、そんなことを言われてしまった。そこまで素肌をさらしていて、見るなというほうが無理な気がする。しかし、そんなことを言ったら口論になってしまうのは分かりきっているので、文句は言わない。
「いいから、とりあえず上がれ」
「分かったわよ」
美紗子が玄関で靴を脱ぎ、洗面所の方へ向かっていく。守はその後ろ姿を見ながら、玄関を閉め再び台所へと向かった。
「ふぅ……」
鶏肉に小麦粉をまぶし終え、あとは揚げるだけ、というところまで調理は進んでいた。
鍋の大きさから考えて、一度に揚げられそうなのは六個くらいが限界だ。四人分ともなると時間がかかるだろう。美紗子も夕食が必要かもしれないが、材料が余っていないので、一人分を減らすしかなさそうだ。
必要なことを確認し終えてから、守は鶏肉の乗ったトレイを持って油の入った鍋の前に立つ。
できるだけ油が飛ばないように気をつけながら、静かに鶏肉を油に入れる。ジューという音と共に、鶏肉の色が変わり始めた。あとは、薄く色が着き始めるまで放置すればいい。肉の色の変化に注意を払いながらトレイを机の上におく。
「――ん、よしっと」
鍋に入るだけの肉を油の海に落としいれたところで、リビングの方から美紗子の声が聞こえてきた。声から察するにエプロンをつけているらしい。おそらく手伝ってくれるつもりなのだろう。
やはり持つものは気の利く幼馴染だな、などと思っていると、
「守、今日の夕飯は何?」
そんなことを聞きながら、美紗子が台所に入ってきた。
「……」
その姿を見た守は、驚きと興奮のあまり言葉が出なかった。
美紗子がエプロン姿で、台所に入って来たところまではよかった。新しいものだろうか。着ているエプロンは、少し大きめながらもフリルとレースがついていて、とてもよく似合っている。普段の美紗子のチョイスとは違い、デザインに重点を置いて選んだものだろう。使用するにあたってはいらないであろう装飾も幾つかついているが、ファッションとして見ると、それがまたいい味を出している。この幼馴染もこういう女子らしい服が似合うんだな、と改めて実感させられる。
しかし、そうは思いながらも、守の視線は他の部分に釘付けになっていた。言葉が出なかった真の原因は、その格好だ。
いつも通りの髪形と、大きめのエプロン。そして、そこからのぞいているのは、柔らかそうな傷一つないきれいな手足。しかも、それが付け根から先まで全てが見ていた。
それは、つまるところ、見えている手足には何も着ていないということで……。
それが意味するところというのは――
――これはあの有名な、は……、裸エプロン……!?
普段から美紗子を見慣れている守でも、この破壊力には耐えられなかったのだ。
顔は充分きれいで、クラスで人気ナンバーワンといっても過言ではないほどの幼馴染が、服を着ずにエプロンしか身にまとっていない姿で登場してきたのだ。しかも、自分のために。これで、理性を保っていられる方がおかしいと思う。
見えている手足は、改めて見てみるとやはり綺麗で、ここまで傷が無いのはもう奇跡といえるほどの代物だ。いつも見ているはずなのに、どうしても見入ってしまう。顔立ちも整っているし、顔を赤くしてモジモジしている様子が、またたまらない。こんな恥ずかしい思いをしながらもやってくれている姿は、とても愛おしく見える。
もういっそのこと、ここで今すぐにでも抱きしめたい。今日からは同じ屋根の下で眠るわけだし、このままゴールインでも……普段なら絶対殴られるが、ここまでしているなら本人も了承しているということだろう。
普段は気にならないのだが、今は髪から香るシャンプーの香りもいつも以上に気になって、理性がとうとう抑えられなくなりそうだ。
それにしてもこのシャンプーの香りは何なのだろうか。ほんのり甘くて、すんだ香りは。それに、新しく何かが焦げているような香りもしてきた。
どこでこんな焦げたような香りのシャンプーが売っているのだろうか……ん、焦げて?
「守、唐揚げ!」
「――!?」
美紗子の声で、守は現実に呼び戻された。唐揚げを揚げっぱなしだったことを思い出し、鍋の前へ急ぐ。中を覗くと、多少焦げっぽい色になっていた。
やってしまったものは仕方が無いので、菜箸とキッチンペーパーを乗せた皿を手に持ち、すぐに唐揚げを油からすくいあげる。油から出てきた唐揚げは、思っていたよりも焦げてしまっていた。
「もう、料理中にボーっとしてるからこうなるのよっ」
ボーっとしてしまったのは誰のせいなのか美紗子は分かっていないらしい。ひとしきりそんなこと言った後、美紗子は唐揚げの方へ向かった。
とはいえ、自分が動揺してしまったのもまた事実。それゆえ守は何も言い返せず、なんとなく美紗子を眺めていた。そうしている間にも、さっきの興奮がどうしても思い出されてしまい――
「熱っ!」
突然、美紗子の声が響いた。
その声で、再び現実に引き戻された守は、一瞬で状況を理解した。
「バカっ」
美紗子の手をつかんで水道の下に持っていった後、蛇口をひねった。
「――っ!」
「……火傷はしてないみたいだな」
しばらく冷水を当てた後に患部を見る。少し赤くなってはいるが、ただそれだけだった。どうやら、火傷にはなってないみたいだ。
それを確認すると、守は安堵のため息をついた。こんな綺麗な手に傷がついてしまったら、たまったものではない。
「ちょっと、早く離しなさいよ」
気づかぬうちに必要以上に美紗子の手をつかんでいたらしく、顔を真っ赤にして振りほどかれた。
「お、悪い。でも、何で揚げたての唐揚げを触ろうとしたんだよ?」
「焦げてたから、食べられるかどうか味見しようと思ったのよ」
謝ってから疑問をぶつける。すると美紗子は顔を多少赤らめながらも、腰に手を当てたいつものポーズで堂々と答えてた。さっき唐揚げに触れた方の手を腰に当てているので、やはり火傷にはなってないみたいだ。
だが、どんな理由をつけようと、それは立派なつまみ食いという行為だ。
守は内心でため息をつきながらも、出来るだけ美紗子の気に触らない言葉を選びながら後を続ける。
「そりゃどうも。でも、揚げたての唐揚げを素手で触ったら危ないってことぐらい、ちょっと考えりゃ分かるだろ」
「知らないわよそんなの。元はといえば、涎垂らしながらボーッとしてて、唐揚げ焦がしたあんたが悪いんでしょ!」
相変わらずの横暴な理論のすり替えだった。それにしても、そんなひどい顔をしていただろうか? 確かにボーッとしていた自分が悪いのも一理あるが、間違いなく美紗子の方が悪いはずだ。その……裸エプロンで目の前に出られて、平然としていろという方が無理に決まっている。今も目の前には……とりあえず考えないようにしておこう。
こうなった美紗子には、理論が通じないことは分かっている。その上、自分が下心満載だったことをさらけ出すのも気が引ける。どうしようかと悩んでいたところ、ふと本当に涎が垂れていなかったか不安になり、守は口元に手を持っていった。
「バッカじゃないの、本気にしちゃって」
「……!?」
――謀られた。
美紗子の言うとおり、口の周りには涎などついていなかった。今考えれば、涎がついていれば自分で分かったはずだ。わざわざ試した自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「第一、あの格好で出てこられて見とれるな、って方が無理に決まってるだろ!」
しかし、守も冷静なままではいられなかった。図られたことで怒りが募り、美紗子への文句が口を突いた。
それを聞いた美紗子が、一瞬はっとしたような顔になる。その後、再び顔を赤くしてうつむかせながら口を開いた。
「あのそれって、この新しいエプロンがそんなに似合って――」
「さすがに、服くらい着てこいよ」
やっぱ恥ずかしいものなんだな、と思い、再度、幼馴染を見ると――やはりいつもと違ってとても可愛く思えて、今にも理性が飛びそうになる。
守が美紗子のことを見つめているうちに、美紗子は守の言葉を飲み込んだらしい。そして、ややすっきりしない顔をして首をかしげながら、美紗子はエプロンの裾を手で持ち上げる。
「お、おい……」
守が制止させようと試みるが、美紗子の手が止まる様子がない。目をそらそうと努力するが誘惑が付きまとい、そらすことができない。しかし、当然ながら誘惑に比例するように恐怖もだんだんと大きくなっていく。
美紗子のエプロンが上げられていくにつれ、徐々に美紗子の太ももが露わになっていき――
「もちろん服は着てるわよ、ほら」
「……」
エプロンを腰までめくり上げた美紗子の姿を見て、守は絶句した。エプロンの奥、そこには確かに『服』があったのだ。それは、うちに来たときに着ていていたノースリーブとホットパンツ。
つまり、美紗子は服を着ていなかったわけではなく、着ていた服とエプロンの大きさの関係で、エプロンからは素肌のみしか見えなくなっていた、ということらしい。
当たり前だ。この幼馴染が裸エプロンなんてするわけがない。一瞬でも美紗子相手に発情していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。しかし、あのときに飛びつかなくて本当に良かったと思う。そんなことしていたら今頃どうなっていたことか……。
守が独りで納得していると、美紗子も抱いていた疑問が消えたようで、さっきとは違った感じで顔を赤くしていた。
「ま、まさかあんた……」
美紗子の声を聞いて、守はそちらを見る。
「あた、あたしが……、は、はだ……、してると思って……」
すると、美紗子が何かをつぶやいていた。
なんで、左手を思いっきり握っているのだろうか。あと、もう小麦粉は必要ないぞ。
そのように内心で呟きながらも、この後の美紗子の行動は守には予想がついている。守は両手のひらを相手に向けて必死に振って、最後の抵抗を試みる。
「待て、美紗子。とりあえず、その小麦粉の袋を机に置いた後に、ゆっくり話し合わないか?」
守は、一歩ずつ、ゆっくりと、美紗子との距離を開けていく。
「誰が、あんたの為にそんなことするか、このド変態!」
「げふっ!」