一
「……んん。……え? 寝坊!?」
美紗子が鳴り止まない目覚ましに起こされてみると、時刻は既に五時三〇分をまわっていた。
「とりあえず、着替えないと」
伸びなどしている暇もなく、ベッドから飛び起きた直後に着替えを始める。四時に起きる予定だったのに、一時間と三〇分も寝坊してしまった。朝にやる予定だった勉強は仕方がない。しかし、問題は朝食だ。
昔なら五時起きでも時間に余裕があったらしい。たが人数が増えた今、五時から二人で取り掛かっても出来上がるのは六時前後だ。今はおそらく、守が一人でやっているだろうから、間違いなく朝食の開始は遅れるだろう。それに加えて、下手をすると弁当まで手が回らない。
「よし、着替え終わり」
守に変な勘違いをされてから変更した、半袖Tシャツ半ズボンという普段着にとりあえず着替えた後、寝癖すらも直さないまま階段を駆け下りた。
「あれ、電気がついてる?」
いざ一階に下りてみると何故かリビングの明かりがついていた。調理中はキッチンしか明かりをつけないはずだ。そうなると、既に調理が終わっているということだろうか。
ここで悩んでいるよりも実際に眼で確かめた方が早いので、駆け足でリビングへと入り込んだ。
「守、遅れてゴメ……ン?」
すると、そこには既に食器を並べ始めている守の姿があって、あまりにも予想外な展開に思わず語尾が上がってしまった。
美紗子が状況の整理に勤めていると、それに気づいた守が、
「ああ、美紗子。おはよう」
「おはよう」
特に怒る様子も無く挨拶された。
守が食器の準備をしているにもかかわらず、台所からは何かを炒めている音が聞こえてくる。何を作っているのだろう、と匂いに注意してみると、普段では考えられないほど豊富な種類の料理が出来上がっているのが分かった。
「守、これって……」
「美紗子、今日は大丈夫だから、その辺に座ってテレビでも見ててくれ」
「う、うん」
あまりにも理解不能な状況に、美紗子はただ返事をするしかなかった。
言われたとおりに、イスの一つに座り、髪に手櫛を入れようとしたところで、まだ寝癖を直していないことに気づく。
別に目の前の幼馴染に可愛い姿を見てもらいたい、とか思っているわけではない。だが、この状態を弱みとして握られると後々厄介なので、早めに直してしまいたかった。タオルを探して周囲を見渡すと、テレビの前にある、たたみ終わった洗濯物の山にタオルを見つけた。
それを取ってから、台所へと向かう。濡れタオルを電子レンジで温めて髪に当てると、寝癖がすぐに直るのだ。
すぐにでもぬらせるように、たたみ方を変えながら台所に向かって……
「え、芽衣!?」
予想していなかった人物との遭遇に、思考が追いつかなくなり、手に持っていたタオルを落としてしまう。
美紗子が寝癖のついたまま立ち止まる、という他の人には絶対に見せられない格好をしているうちにも、芽衣がコンロの火をとめてこちらに向き直り、
「美紗子様、ご無沙汰しております」
「……うん、久しぶり」
丁寧な芽衣の挨拶に、美紗子は訳がわからず上の空で返事をしていた。
「で、どういうことなのよ?」
朝食の支度が残りは盛り付けるだけ、というところまで来たので、三人でテーブルを囲む運びとなった。
目の前に座っている幼馴染は、既に寝癖を直し終え、服装も整えている。
「あ、俺も聞きたい」
守自身も芽衣が帰ってきた詳しい経緯を聞いていなかったので、守は隣に座っている使用人の方へと目を向ける。
考えてみると、芽衣と会ったのも幼稚園のときだし、幼馴染に含まれるだろう。
「少し長くなりますが、聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
「うん」
美紗子とともに頷く。
「四年前の春、守様たちのご実家にお邪魔させていただいたときのことでした」
芽衣が少し声のトーンを落として説明を始めた。
その時のことは守も覚えている。中学の入学式前の春休みのことだ。
両親が守と芽衣の中学の入学祝いのためのパーティを開いてくれた。落ち着いた雰囲気でやりたい、という守の気持ちを両親が汲んでくれて、招待されたのは、守と美香、芽衣、それに早見一家だけだった。ということは、美紗子も覚えているはずである。
「その日は、わたくしも招待される側ということで、炊事などは一切行わず、パーティを堪能させていただいておりました」
普段イギリスの本宅に戻ったときは、芽衣はメイドという立場ゆえ、向こうの使用人に加わって仕事をしている。あの日もそうしようとしていたのだが、芽衣のためのパーティでもあるので、美香や美紗子とともにとめた。最終的に芽衣も納得してくれたが……考えてみると、芽衣が招待される立場でパーティに参加したのは、あれが初めてだったのではないだろうか。
「あの時初めて、本家で客としての接待を受けたり、お客様にお出しする料理を口にしたりして、自分の拙さが目に見えるように分かりました」
そのときはよっぽど悔しかったのだろうか、芽衣はより一層声を低くして顔を俯けた。
守も料理の味や接待の仕方の批評に自身があるわけではないが、本家のレベルが異常に高いことは分かる。下手をすると世界有数の評価を得ている一条院家にも匹敵するレベルなのではないだろうか。
それも本宅のメイド長を勤めてくれている芽衣の母親である、麻衣さんのおかげである。あの人の家事や接待の腕、人をまとめることに対する有能さは、世界でもトップクラスではないのだろうか。
もちろんその娘である芽衣も、幼稚園のときから守と美香の専属メイドとして働いてくれていることからも分かるように、メイドとしては相当のものだと思う。しかし麻衣さんの腕に遠く及んでいないのも事実だ。
しばらくすると芽衣が顔を上げて、胸の前で両手を握ってから口を開いた。
「そこで、わたくしは修行の旅に出ることを決意したのです」
芽衣は、堂々と発言した。
それにしても、この時代に修行の旅なんて発想をする人がいることが驚きだ。基本しっかりものの芽衣だが、どこか抜けている事も分かっているので今更驚きはしないが。
「それで、何か収穫はあったのか?」
芽衣がそんな言葉を欲しがっているようだったので、望みの通りに話を振る。
「はい」
守の予想は当たっていたようで、芽衣は嬉しそうに口を開いた。
「特に、護衛術の分野で大きく得るものがありました」
「「何で護衛術!?」」
「守様のお父様に許可を取っていたとはいえ、四年間も家を空けてしまい申し訳ありませんでした。今日から、その分を取り返せるように、修行の成果を発揮してがんばりますので、不束者ですがよろしくお願いします」
「……よろしく頼む」
仮にも主人の言葉を、何も無かったかのようにスルーしてきた。あと、その挨拶は明らかにおかしい。
にしても、あの父親はどこまで子供に必要事項を話さないのだろうか。芽衣が行方不明になったとき、ほっとけばいい、と言うから怪しいとは思っていたが。
「あのさ」
「ん、どうした?」
芽衣の話が終わったところで、向かいに座っている美紗子から声がかかった。
「まさかあんた、また同居人数を増やす気?」
「増やすも何も、うちで雇ってる使用人なんだから、うちにおくのは当たり前だろ。住み込み契約だし」
「たしかにそうだけど、仮にも同年代の異性なのよ?」
美紗子の言い分も分からないでもないが、使用人に対してその理屈が通じるか、といったらまた別の話だと思う。
それを伝えてはみるが、美紗子は一切納得する様子が無く、何度も反論をぶつけてくる。
どう説得しようか、と考えていたところ、リビングの入り口から高い攻撃的な声が聞こえてきたので、一斉にそちらを向く。
「美紗子、守の主張が明らかに正しいですわよ」
そこには、いつからいたのか、学ラン姿の奈緒が立っていた。
「それじゃあ、あたしの家事とかの手伝いはどうなるのよ?」
「芽衣と俺で何とかなるし、やらなくて大丈夫だぞ」
考えてみたら客に仕事をさせるのはおかしいし、と軽く笑いながら付け足す。
そうしているうちにも、奈緒に頼まれた芽衣が、奈緒の分の朝食をよそってから食卓に並べる。
「守様、わたくしが全て一人で受け持ちますよ」
などと芽衣は言ってくれるが、六人……芽衣を含めると七人分の家事を受け持つ大変さは充分に自覚しているつもりだ。いくら芽衣でも大変なことには変わりないし、手伝ったほうがいいだろう。
「……もう、知らないわよ」
「は?」
芽衣と会話をしていると、突然美紗子が何かを呟いた。
「後から手伝ってくれなんて言われても、絶対手伝ってやらないんだから!」
美紗子はそれだけ言い残し、階段を駆け上がっていった。
――その日一日、守は学校で美紗子と話すことはなかった。




