あなたの鼓動が、私を目覚めさせる
◆ 作品概要・コンセプト
「命が目覚める瞬間は、必ず『振動』から始まる」
生命科学が魔法体系と融合した異世界。「振動師」とは、生命の根源的な振動――カルシウムの波動――を操り、眠れる命を呼び覚ます力を持つ者たち。辺境育ちの少女・カレンはその中でも特別な「共鳴体質」を持ち、他者の生命振動に自分の波動を重ねることができる。
王宮から派遣された無愛想な研究騎士・オスカルが、呪いで凍りついた王族の「心臓卵」を持ち込んできたとき、カレンの能力が試される。心臓卵を起こすには、術者が相手の胸に直接触れ、共鳴振動を送り込まなければならない。ふたりの距離は、否応なく縮まっていく。
◆ 主要登場人物
カレン 18歳 / ヒロイン
辺境の振動師の娘。「共鳴体質」という稀有な能力を持つが、自分では制御が難しく、感情が高ぶると周囲に意図せず振動を放出してしまう。明るく好奇心旺盛だが、自分の力を怖いと思っている。
オスカル 26歳 / ヒーロー
王宮騎士団第三師団長。冷静沈着で命令に忠実。感情を表に出さないことで有名。実は王族の血縁者だが、それを隠している。カレンの振動に初めて「反応した」男性。
エフィ 40代 / サブキャラクター
王宮の主席医術師。振動医学の権威。カレンとオスカルの関係を傍観しながら、心臓卵の謎を解く鍵を握っている。
◆ 詳細あらすじ
命が宿る瞬間は、必ず「振動」から始まる。人であれ、動物であれ、植物であれ、すべての生命は最初に「カルシウムの波紋(Ca²⁺オシレーション)」という微細な振動を起こし、そこから世界に繋がっていく。そのことを、振動師たちは古くから知っていた。
カレンは辺境の小さな村で、父から受け継いだ「振動師」の術を使い、孵化できない卵や、目覚めない命を呼び起こす仕事をしていた。しかし彼女の「共鳴体質」は普通の振動師とは異なり、相手の生命振動に自分の波動を同調させることができるという特異な能力だった。それは強力だが制御が難しく、感情が高ぶると意図せず周囲に影響を与えてしまう。村人たちに感謝されながらも、少し恐れられながら、カレンは一人で生きてきた。
ある秋の日、王宮の紋章をつけた馬車が村に来た。乗っていたのは、鎧を脱いでも軍人の雰囲気が抜けない、無愛想な男――騎士団第三師団長のオスカルだった。
彼が持ち込んだのは「心臓卵」と呼ばれる、王族の胸の中心に宿る命の核だった。通常は絶えず振動しているはずのそれが、何者かの呪いによって完全に凍結していた。王宮の医術師たちは手を尽くしたが、解呪の方法が見つからない。最後の手段として、辺境の「共鳴体質の振動師」のもとへ来たのだった。
術の条件は一つ。術者が相手の胸に直接耳を当て、内側から心臓卵の振動を探ること。命の波紋は、肌を通してしか伝わらない。
戸惑うふたり。しかし他に方法はなかった。カレンがオスカルの胸に耳を当てた瞬間、彼女は気づいた。凍りついているように見えて、心臓卵は微かに、ほんの微かに、振動していた。「この人の命は、まだ起きようとしている」
解呪には複数回の接触が必要と判明し、ふたりは行動を共にすることになる。研究を進める中でわかったのは、呪いが外部から掛けられたものではなく、オスカル自身が自分の感情を凍らせることで心臓卵を封じ込めていたという事実だった。過去のある出来事がトラウマとなり、彼は「感じること」を自分に禁じていた。
カレンの振動は、そのオスカルの内側に少しずつ触れていく。医術師のエフィは「あなたの振動は、命を解かせる。でも、それはあなた自身の命も削る」と警告する。解呪の儀式が進むほど、カレンの生命振動は消耗していく。
オスカルは何も言わなかった。視線を外した。カレンは笑わないようにした。でも笑いそうだったので、窓の外を見た。
「でも、聞こえました」
「気のせいだ」とオスカルは答えた。
意識が戻ったとき、カレンはオスカルに聞いた。「今……名前を呼びましたか」
術師でも振動師でもなく、カレン、という二文字。意識が薄れていく中で、それでも声は届いた。
その直前、オスカルが「カレン」と言った。
最後の共鳴儀式。カレンはすべてを注ぎ込む。術が完成する寸前、彼女の意識が遠のく。その手を、オスカルが初めて自分から握った。「消えるな」初めて感情の滲んだ声で、彼は言った。
心臓卵が、鼓動を始めた。カレンの体も、ゆっくりと光を取り戻した。オスカルの凍えていた感情が、三十年分の氷を溶かして、ようやく動き出した。
第一章
辺境の振動師
その卵は、もう二十日以上、ただそこにあった。
孵化しない卵は、呪われているのではないかと、村では言われていた。カレンは別にそう思わなかった。命は気まぐれだ。準備ができていないだけで、呪いとは違う。でも依頼人の老女は「もう諦めた方がいいのかねえ」と言いながら、それでもカレンを呼んだ。諦めきれないから呼んだのだ。
カレンは卵を両手で包んだ。ひんやりした殻の向こうに、かすかな気配がある。息を整える。自分の心拍を、できるだけゆっくりに。それが振動師の基本だった。体の中心から、波を起こす。輪のように広がって、卵の殻を越えて、内側に届く。
反応があった。
小さな、小さな振動。返ってきた。
「……いたね」
カレンは言って、老女に笑いかけた。「もうちょっと時間をかけよう」
三十分後、卵にひびが入り、小さな嘴が現れた。老女は声を上げて泣いた。カレンは卵を置いて、丁寧にお辞儀をして、外に出た。
秋の空が青かった。
* * *
カレン・ウォーレンは十八歳で、オーバル村唯一の振動師だった。
振動師とは、生命の根源的な振動――全ての命が持つカルシウムの波動――を感知し、操る力を持つ者を指す。卵を孵化させたり、眠れる種を発芽させたり、傷ついた心臓の鼓動を整えたりすることができる。古くから生命の番人として、村々に存在してきた職だった。
カレンの父も振動師だった。三年前に病で亡くなり、今はカレンが一人で村の依頼をこなしていた。
ただ、カレンには一つ、普通の振動師とは違う点があった。
「共鳴体質」と呼ばれる、稀な能力だった。
普通の振動師は、自分の振動を相手に「送る」だけだ。一方通行の波動。しかしカレンは相手の生命振動に自分の波動を同調させることができた。つまり、相手と同じ周波数で振動できる。共鳴できる。それによって、普通では届かない深いところまで干渉が可能だった。
それは確かに強力な能力だった。
同時に、制御が難しかった。
感情が高ぶると、意図せず周囲に振動を放出してしまう。悲しいとき、怒ったとき、喜んだとき――カレンの感情が動くたびに、そばにある命が揺さぶられる。棚の花が一斉に揺れたり、眠っていた鶏が跳び起きたり、飼い犬が突然遠吠えを始めたりする。村人たちはカレンに感謝しながら、少しだけ距離を置いていた。
カレン自身、それを仕方ないと思っていた。父の言葉も、いつも同じだった。「お前の力は、人より大きい分、制御も難しい。でもそれは欠点じゃない。ただ、よく練習しろ」
父の言う通り、練習は続けていた。でも完全に制御できるようになったとは、まだ言えなかった。
* * *
依頼から帰る道で、カレンは自分の小屋に向かった。村の外れ、大きな木の隣に建つ小さな建物。父が使っていた工房を、そのまま引き継いでいた。
小屋の前に、馬車が止まっていた。
見慣れない馬車だった。装飾は少ないが質がいい。馬が二頭。馬車の側面には、小さな紋章が刻まれていた。
王宮の紋章だった。
カレンは足を止めた。こんな辺境の村に、王宮の馬車が来ることは、まずない。年に一度の徴税官でも、馬車はもっと粗末なものだ。これは何か別のことで来ている。
小屋の扉の前に、男が立っていた。
鎧は脱いでいたが、それでも一目でわかった。軍人だと。立ち方が違う。足の開き方も重心の置き方も目の動き方も、すべてが訓練された者のものだった。年は二十代半ば。顔つきは整っているが表情がない。無愛想、というより、感情という機能を使うのをやめているように見えた。
男がカレンに気づき、目を向けた。値踏みするような視線ではなかった。ただ確認するような目だった。
「あなたがカレン・ウォーレンか」
問いではなく、確認だった。
「そうですが」
「王宮騎士団第三師団長、オスカル・フォン・ライナーだ。依頼がある」
カレンは彼の目を見た。灰色の目。感情の揺れが、ない。でも、その奥の奥に、ほんの少し何かが揺れているような気がした。気のせいかもしれない。
「どんな依頼ですか」
「凍りついた心臓卵を起こしてほしい」
カレンは眉を上げた。心臓卵。それは、命の核だ。人の胸の中心に宿る、生命の振動の源。全ての人が持つわけではなく、特定の血筋にだけ現れる、特別な生命体。それが凍るということは――。
振動師がいう「凍結」は、振動がゼロになることではない。心臓卵が自ら波を起こせなくなり、外から触れたときだけ残響のような反応を返す状態をいう。
「誰のですか」
一拍の間があった。
「俺のだ」
カレンは彼の胸を見た。鎧のない胸。その奥深くに、凍えているものがあるという。振動師の直感で、少し探ってみた。気配を探る程度の、軽い感知。
そこにあった。確かにあった。凍りついて、でも、まだ消えていない。微かな振動が、まだそこにある。
「……消えてないね」カレンは言った。「まだ、起きようとしてる」
オスカルの目が、一瞬だけ動いた。
「そうか」
それだけ言って、彼は何かを堪えるように視線を外した。
* * *
小屋の中で、カレンはお茶を出した。オスカルは受け取ったが飲まなかった。ただテーブルの上に置いて、座って、カレンが椅子を引くのを待っていた。
向かいに座ると、オスカルが口を開いた。
「医術師には三人かかった。いずれも「解呪不能」と言われた。フォン・ライナー家にゆかりのある術師にも当たった。同じ結果だった。王宮の主席医術師エフィ・ドルセーが、あなたを勧めた」
「エフィ先生が?」
「あなたの共鳴体質のことを、彼女から聞いた。深部の振動に干渉できる術者が必要だと言われた」
カレンは少し考えた。エフィ・ドルセーは王宮の主席医術師で、振動医学の権威だ。一度だけ、研究発表の場で会ったことがあった。あのときカレンは、殻を傷つけず、外側から孵化停止卵の深部振動へ同調してみせた。エフィはその実演を覚えていたのだろう。あの人がわざわざ自分を推薦した。それは、他に手がない、ということだ。
「心臓卵が凍りついた理由は、わかってますか」
「わからない。ある朝、目覚めたら凍っていた」
「いつから」
「三ヶ月前」
「三ヶ月、機能していない状態で、動けているんですか」
「動ける。日常生活には支障ない。ただ」
オスカルが少し間を置いた。
「このままでは、いずれ消える。エフィが言った」
カレンは彼を見た。「消える」という言葉を、この人は淡々と言った。自分の命が消えるということを、まるで天気の話をするように。
何かある、とカレンは思った。この人の中に。表情の裏側に。
「術の条件をお話しします」とカレンは言った。「心臓卵への干渉は、肌を通してしか行えません。胸の表面に直接触れ、振動を内側に届ける必要があります。それと――」
カレンは少し間を置いた。これが、一番言いにくいところだった。
「振動の感知のために、私の耳を、あなたの胸に当てさせてもらう必要があります。内側の振動のパターンを正確に把握しないと、共鳴が合わせられないので」
オスカルは何も言わなかった。カレンも何も言わなかった。
沈黙が三秒続いた。
「わかった」とオスカルが言った。「やってくれ」
返答が早かった。覚悟は、最初からあったのかもしれない。
第二章
凍りついた心臓卵
最初の施術は、その日の夕方に行った。
カレンは工房の施術台を準備し、オスカルに横になるよう伝えた。彼は黙って従った。軍人らしく、無駄な動きがない。上着を脱ぎ、台の上に仰向けになり、目を天井に向けた。
カレンは深呼吸をした。
共鳴施術の前に、必ず自分の心拍を整える。感情を静める。水面を鏡にするように、自分の内側を凪にする。そうしないと、相手の振動ではなく自分の振動を押しつけることになる。
椅子を引いて、施術台の横に座った。オスカルの胸が、目の前にある。
「……始めます」
カレンはそっと、オスカルの胸に右手を置いた。薄い布の上から。体温が伝わってきた。それから、ゆっくりと耳を当てた。
最初の数秒は、何も聞こえなかった。
いや、正確には聞こえないのではなく、「届いていない」という感覚だった。通常の心臓の鼓動はある。でもその奥に、もう一層あるはずの振動が、遮断されている。厚い氷の層を通して、かろうじて届く程度の、かすかなもの。
カレンはゆっくりと、自分の振動を合わせにいった。氷の表面をなぞるように。割るのではなく、同じ周波数で共鳴することで、隙間を作る。
ほんの少し、反応があった。
かすかな、かすかな振動。
起きようとしている。
「……」
カレンは静かに耳を離した。施術を続けようとした瞬間、気づいた。オスカルが息を止めていた。気づいていなかったかもしれないが、確かに止めていた。
「呼吸は止めないでください。ゆっくり、普通に」
「……ああ」
小さく、返事があった。珍しく、声が少しだけ変わった気がした。
もう一度、耳を当てた。今度はオスカルが呼吸をしていた。規則的な、深い呼吸。それに合わせて、カレンも振動を調整した。
五分後、カレンは離れた。
「今日はここまでです」
「終わり?」
「一回では無理です。心臓卵の凍結は深いところにある。少しずつ、表面から解かしていく必要があります。何回かかるかは、やってみないとわかりませんが――最低でも、数回は必要です」
オスカルは起き上がり、上着を手に取った。何も言わずに着た。それからカレンを見た。
「明日も来てもいいか」
「はい。毎日でも来ていいです」
「報酬は」
「成功したら、でいいです。それより、しばらくここに滞在できる場所はありますか。村の宿は小さいですが」
「馬車で寝る」
カレンは少し間を置いた。
「……うちの工房に、物置部屋があります。狭いですが、ベッドは置けます。よければ」
オスカルは一瞬だけ、カレンを見た。
「借りる」
それだけ言って、彼は馬の世話をしに外に出た。
* * *
翌日から、施術は毎日続いた。
朝、オスカルが工房に来る。カレンが準備する。施術台に横になる。カレンが耳を当て、振動を探る。三十分から一時間。それが終わると、オスカルは何も言わずに出ていく。
最初の三日間は、反応がほとんど変わらなかった。氷は厚い。カレンの振動が届いているのはわかるが、溶けていく様子がない。
四日目の朝、オスカルが来たとき、カレンは「少し聞いていいですか」と言った。
「何を」
「心臓卵が凍りついた三ヶ月前、何があったか」
オスカルは黙った。施術台に腰かけ、視線を床に落とした。
「関係あるのか」
「あるかもしれません。外側から凍らせる呪いなら、解き方は外からです。でも内側から凍っているなら、内側の理由がある。理由がわかれば、解き方も変わる」
長い沈黙があった。
「……部下を死なせた」とオスカルが言った。「三ヶ月前の任務で。俺の判断ミスで、五人が死んだ」
カレンは何も言わなかった。
「俺が別の判断をしていれば、死ななかった。それは事実だ。軍の調査でも、俺に過失はないとされた。でも、俺は」
そこで止まった。
「……俺は納得していない」
カレンは彼の横顔を見た。感情がない、と思っていた顔に、今は何かある。押し込めたものが、かろうじて表面に滲んでいる。
その瞬間、カレンは理解した。
心臓卵は、外側から凍ったのではない。この人が自分で凍らせた。感情を、痛みを、罪悪感を、全部閉じ込めるために。
「……わかりました」とカレンは言った。「始めましょう」
* * *
施術の方針が変わった。
それまでカレンは、心臓卵の表面から均一に振動を当てていた。でも今は、痛みが凍っている「核」を探すことに集中した。氷の中で、一番硬い部分。そこを、そっとほぐす。
七日目、初めて手応えがあった。
耳を当てた瞬間、心臓卵の振動が、わずかに変わった。凍りついたままだが、内側で何かが動いた。まるで、長い眠りの中で、体が少し寝返りを打ったような。
「今、動いた」とカレンは小声で言った。
「どういう意味だ」
「起きようとしてる。あなたの心臓卵が、もう少し振動を強くしようとした」
オスカルは何も言わなかった。でも、胸に当てたカレンの手の下で、何かが少しだけ変わった。呼吸が、一瞬乱れた。
カレンは気づかないふりをした。
* * *
夜、オスカルはほとんど工房にいた。カレンが夕飯を作り、二人で食べることが多くなった。最初は向かいに座って黙って食べるだけだったが、十日目を過ぎた頃から、少し話すようになった。
オスカルは話し方が短かった。一文ずつ区切って、必要なことだけ言う。でも聞き方は丁寧だった。カレンが話す間、きちんと聞いていた。
「振動師は、この村に何人いる」
「私だけです。父が三年前に亡くなって」
「大変じゃないか」
「まあ、でも」カレンは少し間を置いた。「一人の方が楽なこともあります。共鳴体質は、感情が出やすいので。人が多いと、気を遣いすぎて疲れる」
「俺はどうだ」
カレンは少し驚いて、オスカルを見た。彼は真顔だった。からかっているわけではなく、純粋に聞いていた。
「……あなたは、感情が出にくいので。むしろ静かで、やりやすいです」
オスカルは何も言わなかった。食器を置いた。
「俺が感情を出さないのは、訓練だ。生まれつきではない」
「知ってます」
「知ってるのか」
「振動師から見ると、感情を隠している人と、もともと感情が薄い人は、全然違います。あなたは、中にちゃんとある。ただ、出ない」
オスカルがカレンを見た。初めて、じっと見た。カレンは視線を受け止めた。
「……なぜ振動師になった」とオスカルが言った。
「父が振動師だったので。でも、自分でやりたいと思ったのは」カレンは少し考えた。「孵化できない卵を、初めて起こしたとき、です。命が目覚める瞬間が、好きだった。うれしかった。だからこの仕事を続けてる」
オスカルは視線を窓に移した。夜の外が見えた。星が多かった。
「俺が騎士になったのも、理由があった」と彼は言った。「守りたいものがあった」
それ以上は言わなかった。カレンも聞かなかった。
第三章
波紋は重なる
二週間が経った。
でも、その答えを自分に言い聞かせながら、また月を見た。説明できない行動を、自分がとっていた。感情ゼロの人間に、説明できない行動が起きている。それだけは、事実だった。
術が完成したから確認した。それが答えだ。それしかない。
自分の心臓卵が動いたとき、なぜ最初にカレンの顔を確認したのか。
ある夜、施術が終わり、カレンが工房を片付けていた頃。オスカルは部屋に戻ったが、眠れなかった。廊下に出て、月を見た。
施術の効果は、少しずつ現れていた。心臓卵の凍結は、じわじわと解け始めていた。最初は表面だけだったが、今は三層目まで振動が届いている。エフィが月に一度の診察に来て、「予想より早い」と言った。
ただ。
エフィがカレンを呼んだ。オスカルがいない間に、二人で話した。
「カレン、一つ確認したいことがある」とエフィは言った。「施術中、あなた自身の状態はどうですか」
「問題はないです」
「本当に? 共鳴施術は、術者の生命振動も消耗する。深部凍結への干渉は特に。あなたが無理をしていないか、確認したかった」
カレンは少し間を置いた。
確かに、最近疲れやすい。朝、施術が終わるとぐったりする。でも、それは施術の性質上、当然のことでもある。
「多少の消耗はあります。でも範囲内です」
エフィは少し考えてから、「わかった」と言った。「でも、無理をすると取り返しがつかないことがある。あなたの共鳴体質は特別に強い。深部凍結への干渉は、通常より消耗が激しい可能性がある。感覚が鈍ったり、自分の振動が乱れたりしたら、すぐに止めること」
「わかりました」
でも、お茶の温度がちょうどよかった。今の自分の体にちょうど合う温度だとカレンにはわかった。偶然かもしれない。でも、そのことをカレンはしばらく考えた。
「ありがとうございます」とカレンが言うと「術師が倒れると困る」と答えた。
施術が終わった日の夕方、カレンが椅子から立とうとして足がふらついた。オスカルが何も言わずに横に椅子を引いた。「座れ」だけ言った。それからお茶を自分で取ってきて、カレンの手元に置いた。
エフィが去った後、カレンは少し考えた。「無理をするな」という言葉が、少し引っかかった。今は無理をしているつもりはない。でも、この先、どうなるかわからない。心臓卵の核は、まだ深いところにある。
* * *
三週間目の施術で、初めてカレンは「核」に触れた。
耳を当てた瞬間、心臓卵の最も深い部分から、強い振動が来た。今までのかすかな反応ではなく、明確な。まるで、長い眠りから半分目を覚ました人間が、寝返りを打つような。力強い振動。
カレンは自分の波動を合わせた。同じ周波数に。共鳴させた。
そのとき、何かが起きた。
オスカルの心臓卵の振動と、カレンの振動が、完全に重なった瞬間があった。ほんの一秒か二秒か。でも、確かに重なった。
その瞬間、カレンは知った。
オスカルが、泣いていた。
声も涙もなかった。顔は変わっていなかった。でも、振動の核の中に、泣くのをずっと止めていた何かがあった。三ヶ月分の、部下を死なせた罪悪感。自分を罰し続けることで感情を封じていた、痛み。
カレンは耳を離した。
目が潤んでいるのを感じた。自分のものではない感情が、共鳴を通して流れ込んできた。これが共鳴体質の、制御しきれないところだった。相手の感情が、自分に入ってくる。
カレンは何も言わなかった。施術を終わりにした。
「今日はここまでです」
オスカルが起き上がった。
「どうした」と彼が言った。「顔が赤い」
「……少し疲れました」
「休め」
「大丈夫です」
「休め」
カレンは言い返せなかった。オスカルが台から降り、カレンの椅子の隣に立った。カレンの顔を見た。
「泣きそうだ」
「共鳴の影響です。あなたの感情が少し、流れてきて」
オスカルが静かになった。
「俺の感情が、お前に流れる?」
「共鳴が深くなると、そういうことが起きます。気にしないでください、よくあることです」
それは少し嘘だった。こんなに強く流れてきたのは、初めてだった。
オスカルは何も言わなかった。しばらくカレンを見て、それから「すまない」と言った。
「謝らないでください。あなたが悪いわけじゃない」
「お前が疲れてるのは、俺のせいだ」
「施術の消耗です。術者の仕事の範囲です」
沈黙があった。
オスカルが台を片付け始めた。カレンがやる前に、自分でやっていた。
「……ありがとうございます」とカレンは言った。
オスカルは返事をしなかった。でも、片付けを続けた。
* * *
その夜、カレンは眠れなかった。
共鳴が解けた後も、オスカルの感情の残滓が、まだ自分の中にあった。罪悪感と、痛みと、泣くのを止めている何か。それが、カレンの胸の中でまだ揺れていた。
カレンは天井を見た。
初めて、少し怖いと思った。共鳴が深くなれば、消耗も大きくなる。エフィが言っていたことが、今になってリアルに感じられた。でも、止めようとは思わなかった。あの振動を感じた。起きようとしている。もう少しだ。
翌朝、台所でお茶を飲んでいると、オスカルが来た。
「昨日、礼を言わなかった」と彼は言った。
「いえ」
「共鳴で、俺の中のものが流れたと言っていた」
「……はい」
「気分は悪くなかったか」
カレンは少し考えた。
「悪くは、なかったです。ただ、少し重かった」
「そうか」
オスカルが椅子を引いて、向かいに座った。
「お前に、礼を言いたかった。術の話ではなく」
「礼?」
「あの共鳴で、俺の中に何があるか、わかっただろう。それを、黙っていてくれた」
カレンは何も言わなかった。
「他の術師は、探ってきた。何が原因か、何があったか、聞き出そうとした。お前は聞かなかった」
「……あなたの中のことは、あなたのものです。私が言うことじゃない」
オスカルは少し間を置いた。
「お前は、変わった振動師だな」
「よく言われます」
オスカルが、かすかに笑った。
カレンは驚いた。驚いた自分に驚いた。この人が笑うのを見たのは、初めてだった。長く、表情のない顔を見てきたから、ほんのわずかな変化でも、わかった。
「……また笑ってください」とカレンは言った。言ってから、少し後悔した。
「何が」
「いえ、すみません、余計なことを」
「なぜ」
「あなたが笑うと、心臓卵の振動が少し、やわらかくなる気がして。術師的な観察です」
半分は本当だった。半分は嘘だった。振動がやわらぐことだけは、確かな事実だ。でも「術師的な観察」かどうかは、少し怪しかった。
オスカルは何も言わなかった。それでも、彼の視線はカレンから逸れない。
第四章
呪いの正体
一ヶ月が経った頃、エフィが再び来た。
今度は長く滞在した。施術を観察し、カレンに詳しく質問し、心臓卵の状態を精密に診断した。その夜、三人で話し合いをした。
「進行は予想を上回っています」とエフィは言った。「凍結の三分の二が解けている。残りの核は、まだ深いところにあるが、カレンの共鳴が届き始めている」
「あとどのくらいかかる」とオスカルが聞いた。
「わかりません。ただ、一つ問題があります」
エフィがカレンを見た。
「カレン、あなたの生命振動が、一ヶ月前より弱くなっている」
「……どのくらい」
「十五パーセント程度。通常の施術者なら、この程度は問題ない範囲です。でもあなたの共鳴施術は、消耗が通常より大きい。このまま続ければ、さらに弱くなる」
沈黙があった。
オスカルがカレンを見た。カレンはエフィを見た。
「止めるということですか」
「決めるのはあなたです。ただ、知っておくべきだと思って」
カレンは少し間を置いた。
「続けます」
「カレン」
「核まであと少しです。ここで止めたら、また元に戻るかもしれない。それより、早く終わらせた方がいい」
エフィが何か言おうとした。オスカルが先に口を開いた。
「お前が決めることなのか」
オスカルがカレンを見ていた。静かな声だったが、何かが含まれていた。
「……施術の方針は、術師が決めます」
「お前自身が消耗するなら、俺にも関係がある」
「依頼人には、術の詳細に口を出す権限はありません」
「そういう問題じゃない」
二人の視線がぶつかった。エフィが静かにお茶を飲んだ。
「……少し、施術の間隔を空けます」とカレンが言った。「毎日じゃなく、一日おきに。その代わり、続けます。それでいいですか」
オスカルは何も言わなかった。しばらく見てから、視線を外した。それが答えだった。
* * *
施術が一日おきになったことで、残りの日は時間ができた。
最初の休止日の翌朝、前日にやわらいでいた核の縁が、また硬く閉じていた。完全に元へ戻ったわけではない。それでも、止めれば凍結が進むことをカレンは初めて確かめた。
オスカルは村の周辺を歩くことが多くなった。カレンが時々一緒に歩いた。特に何かを話すわけではなく、ただ並んで歩いた。
ある日、川沿いを歩いていると、オスカルが止まった。
「この川、水が澄んでいる」
「辺境だから人が少なくて。上流に何もないので」
「王都の川は濁ってる」
「見たことないです」
「来れば見られる」
カレンは少し驚いた。何でもないような言い方だったが、それは「王都に来い」ということだった。
「……術が終わったら、行ってみたいです」
「案内する」
短く言って、オスカルはまた川を見た。
カレンは川を見た。水が、光を受けて揺れていた。
* * *
施術から六週間目、オスカルが珍しく先にカレンに話しかけた。
台に横になる前に、立ったまま言った。
「俺の話をしていいか」
「はい」
「聞いてくれるか」
「もちろん」
オスカルが台に腰かけた。いつも迷いなく横になるのに、今日は座ったまま話そうとしていた。
「三ヶ月前の任務は、山間部の討伐作戦だった。事前の情報と現地の状況が違っていた。俺は情報を信用して動いた。それが間違いだった」
カレンは黙って聞いた。
「五人が死んだ。二人は直属の部下だった。入隊したばかりの若い兵士も、二人いた。俺が違う判断をしていれば、死ななかった」
「……軍の調査で、過失なしとされたんですよね」
「された。情報の誤りは俺の責任ではないと。でも」
彼が止まった。
「俺は、情報に依存した。現地で確認すれば、おかしいと気づけたかもしれない。そうしなかったのは俺だ」
「……後悔しているんですね」
「後悔、という言葉では足りない」
カレンはオスカルを見た。彼は視線を床に落としていた。
「あなたは、自分を罰するために感情を閉じた」
オスカルが顔を上げた。
「……そう見えるか」
「振動からそう感じます。心臓卵の核は、罰の形をしている。自分を責めることで、痛みを感じないようにしている」
長い沈黙があった。
「……そうかもしれない」とオスカルが言った。「感じると、動けなくなる気がした。だから閉じた」
「感じても、動けますよ」とカレンは言った。「痛みを持ったまま、動ける。振動師から見ると、感情を閉じている人より、感じながら動いている人の方が、ずっと強い振動を持っている」
オスカルはしばらく何も言わなかった。
「……俺には、まだわからない」
「わかろうとしている。それで十分です」
カレンはそう言って、「始めましょう」と台を示した。
オスカルは、いつもより少しゆっくり横になった。
* * *
その日の施術で、カレンは核に触れた。
今までにない深さまで振動が届いた。心臓卵の最も硬い部分、三ヶ月分の罰と痛みが凝り固まった核に。
カレンは共鳴させた。全力で。
核が、揺れた。
揺れた瞬間、流れ込んできたものがあった。今まで感じたどれよりも大きかった。部下五人の顔。任務の夜。自分の判断を何度も繰り返し思い返す苦しみ。泣くことを許さない、自分への命令。それが全部、一度にカレンの中に入ってきた。
カレンは離れなかった。
痛い。重い。でも離れない。ここで離れたら、また核が閉じる。もう一回、触れる機会があるかどうか、わからない。
共鳴を保ち続けた。
どのくらいの時間だったか。一分か、五分か。やがて核が、少しだけやわらかくなった。硬い氷が、端から溶け始めるように。
カレンは離れた。
目を開けると、視界がぼやけていた。頭が重かった。体が、鉛のように感じた。
「カレン」
オスカルが起き上がった。カレンの顔を見た。
「大丈夫か」
「……大丈夫、です」
立とうとして、足がふらついた。オスカルが腕を掴んだ。素早かった。カレンが倒れる前に、支えていた。
「嘘をつくな」
「少し、消耗が大きかっただけです」
「もう終わりだ」
「でも、核に触れました。あと、もう少し」
「今日はここまでだ」
有無を言わせない声だった。カレンはそれ以上言えなかった。
オスカルはカレンを椅子に座らせ、水を持ってきた。何も言わなかった。ただ水を置いて、椅子の前に立っていた。
カレンは水を飲んだ。少し、頭が軽くなった。
「……ありがとうございます」
オスカルは返事をしなかった。でも、その場を離れなかった。
第五章
解呪の鼓動
エフィが三度目の診察に来たとき、表情が違った。
いつも穏やかな顔をしているが、この日は何かを懸念している顔だった。診察を終えて、オスカルが席を外したとき、エフィがカレンに言った。
「カレン、正直に教えてください。体の状態は」
「問題はないです」
「嘘をついてはいけません」
カレンは少し間を置いた。
「……朝、振動が乱れることが増えました。施術の前に整えるのに、時間がかかる」
「それは、自分の振動を制御できなくなり始めている、ということです」
「わかってます」
「これ以上進むと――」
「わかってます」
エフィが黙った。
「一度で終わらせます」とカレンは言った。「次の施術で、核を全部解く。そのためにどれだけ消耗するかは、わかりません。でも、長引かせる方が、私にとっても悪い」
「一度で全部解こうとすると、あなたへの負荷は今までの比ではないですよ」
「それでも、一度で終わらせる方がいい」
エフィは長い間、カレンを見ていた。
「……オスカルには、言いましたか」
「言いません。彼が心配すると、共鳴がうまくいかない」
「カレン」
「彼の心臓卵が目覚めることと、私の消耗は、別の問題です。私が決めます」
エフィは何も言わなかった。カップを置いた。
「……わかりました。ただ、限界が来たら、すぐに止めること。それだけ約束してください」
「わかりました」
* * *
施術の前夜、カレンは一人で庭に出た。
星が多い夜だった。辺境の村は光が少ないので、星がよく見える。子供の頃から好きな、この村の夜空。
足音がした。振り返ると、オスカルが立っていた。
「眠れないのか」と彼は言った。
「少し、夜風が欲しくて」
オスカルが隣に立った。二人で星を見た。
「明日の施術で、終わりにするつもりだ」とオスカルが言った。
カレンが彼を見た。
「なぜ」
「エフィに聞いた」
カレンは少し黙った。
「……何を聞いたんですか」
「お前の振動が乱れていること。消耗が危険なレベルに近づいていること」
「エフィ先生が」
「俺が聞いた。彼女は答えた」
また星の沈黙があった。
「だから、明日で終わりにする。心臓卵がどうなろうと、お前が消耗する方が問題だ」
「……違います」とカレンは言った。「明日で終わりにするのは私が決めたことです。あなたが決めることじゃない」
「お前が決めるのか」
「術師が決めます」
「俺はお前に消耗してほしくない」
カレンは星から目を離し、オスカルを見た。
彼は星を見たままだった。顔が変わっていなかった。でも声が、少しだけいつもと違った。
「……それは、依頼人として言っていますか」
「違う」
一言だった。でも、その一言に、たくさんのものが入っていた。
カレンは星を見た。空が広かった。辺境の、光のない、広い空。
「核に届いたとき」とカレンは言った。「あなたの感情が、全部流れてきた。泣くのを止め続けている、あなたの痛みが。それを感じながら、私は思った。この人の心臓卵は、絶対に目覚めさせる、と」
オスカルが、カレンを見た。
「なぜ」
「わかりません。ただ、そう思った。術師の直感かもしれないし、違うかもしれない。でも――あなたの心臓卵が目覚めてほしい。ちゃんと振動してほしい。私が、そう思っている」
沈黙があった。長い沈黙だった。
「……俺も、お前に無事でいてほしい」とオスカルが言った。「それが同じ気持ちかどうかは、わからない。でも、言っておきたかった」
カレンは何も言わなかった。夜風が来て、髪が揺れた。
「明日、一度で終わらせます」とカレンは言った。「その後は、お互い無事で」
「……ああ」
ふたりはしばらく、星を見ていた。肩と肩が、ほんの少し近かった。
* * *
最後の施術は、朝から始めた。
エフィが立ち会った。オスカルが横になった。カレンが椅子を引いた。
深呼吸。心拍を整える。水面を鏡にする。
耳を当てた。
心臓卵が、すぐに反応した。今まで積み重ねてきた施術の結果、表面はほとんど溶けていた。残るは核だけだ。でもその核は、まだ硬かった。三ヶ月分の罰が、最後まで残っている。
カレンは共鳴を始めた。
ゆっくりと、丁寧に。核の周波数を探した。かつて触れたことのある、あの振動。痛みの振動。
見つけた。
合わせた。
共鳴が始まった瞬間、カレンに流れ込んできたものがあった。部下の顔。あの夜の音。罪悪感と、それを閉じ込めようとする力と。でも今回は前と違った。核がやわらかくなっていた。圧縮されていたものが、少しずつ、広がろうとしていた。
カレンはそれを受け取り続けた。
流れ込んでくるものが増えていく。カレンの体が重くなる。頭が揺れる。でも離れない。もう少し。もう少しだ。
核が、揺れた。
今までとは違う揺れ方だった。内側から。まるで何かが爆発するように。閉じ込められていたものが、一気に広がろうとしていた。
カレンは全力で共鳴させた。
自分の振動の全部を、オスカルの心臓卵に向けた。
その瞬間、カレン自身の振動が乱れた。
エフィが「カレン」と叫ぶ声が聞こえた。遠かった。視界が白くなり始めた。体が、倒れようとしていた。
離れなければならない。でも手が動かなかった。
核が、割れた。
音はなかった。でも、確かに感じた。三ヶ月分の氷が、砕けた。心臓卵が、三ヶ月ぶりに自分の力で振動し始めた。強く、明確に。
カレンは意識が遠のく中で、それを感じた。
目覚めた。
そう思った瞬間、誰かがカレンの手を掴んだ。
「消えるな」
オスカルの声だった。施術中に声を出すことは、今まで一度もなかった。でも今、彼が起き上がり、カレンの手を両手で掴んでいた。
「消えるな。カレン」
もう一度、言った。命令ではなかった。懇願だった。
カレンは、目を開けた。
オスカルが、カレンを見ていた。あの、感情のない目が、今は違った。何かが、その目の中にあった。ずっと閉じていたものが、開いていた。
「……大丈夫、です」とカレンは言った。「目覚めました。あなたの、心臓卵」
オスカルはカレンの手を放さなかった。
「俺のことより、お前の状態は」
「少し、消耗しました。でも、大丈夫です」
エフィが来て、カレンの脈を取った。「問題ない」と言った。「ただ、しばらく安静にしなさい」
カレンは頷いた。視界が少しずつ戻っていた。
オスカルがまだ、カレンの手を持っていた。気づいていないのかもしれなかった。それとも気づいていて、放さないのかもしれなかった。
カレンは答えず、ただ握られた手を見つめた。
手が、温かかった。
第六章
目覚めた世界で
三日間、カレンは安静にしていた。
エフィは二日目まで滞在し、カレンの回復を確認してから王都に戻った。「振動は戻っている。本当に無茶をした」と言って、でも笑いながら去った。
オスカルは、戻らなかった。
「もう少しいる」と言った。カレンは「もう術は終わりましたよ」と言った。「知っている」彼の返事は短い。それ以上、理由は言わなかった。
三日目の朝、カレンは自分で台所に立てるようになった。お茶を入れていると、オスカルが来た。向かいに座り、カレンが置いたカップを手に取った。
今日は、飲んだ。
カレンはそれを見て、なぜか少し嬉しかった。最初の日、彼はカップを受け取ったが飲まなかった。今は飲んでいる。それだけのことだが。
「心臓卵の具合は」と彼女は聞いた。
「よく振動している、とエフィが言っていた」
「よかった」
「お前のおかげだ」
「術師の仕事です」
「お前が選んだことだ。術師の仕事という言葉で、終わりにしたくない」
カレンはカップを持ったまま、オスカルを見た。
「……あの施術中、私の手を掴みましたね」
オスカルは少し間を置いた。
「ああ」
「なぜ」
「お前が消えそうだった」
「それで、なぜ手を」
「……掴まなければならない気がした。止めなければならない気がした」
カレンは窓を見た。外に光が入っていた。秋が深まっていた。
「あの施術で、あなたの心臓卵が目覚めたとき」とカレンは言った。「共鳴で、流れてきたものがあった。今まで閉じていたものが、一気に解けた感覚。三ヶ月分の、全部」
「……俺は」
「泣いてましたよ。共鳴の中で」
長い沈黙があった。
「……そうか」とオスカルは言った。「俺は気づかなかった」
「泣くことに気づかないくらい、閉じていた。でも心臓卵が目覚めたとき、ちゃんと泣けていた」
また沈黙。
「……よかった」とオスカルが言った。「泣けたなら」
カレンは彼を見た。今のその一言は、今まで聞いた中で、一番オスカルらしくない言い方だった。でも、一番正直な言葉だった。
* * *
五日目、オスカルが出発することを告げた。
カレンは玄関先まで見送りに出た。馬が準備されていた。荷物が積まれていた。
「報酬は、追って送る」とオスカルは言った。「倍額でいいか」
「倍はいらないです」
「お前が消耗した分、報酬は増える。俺の基準だ」
「……わかりました」
オスカルが馬に乗った。手綱を持った。
「王都に来いという話、覚えているか」
「覚えてます」
「その気になったら、来てほしい。案内する」
「……いつでもいいですか」
「いつでも。待っている」
カレンは少し考えた。今、何かを言う必要があるか。
「オスカルさん」
「なんだ」
「心臓卵が目覚めたから、感情が出やすくなります。最初は慣れないかもしれないけれど――感じることが、あなたを弱くするわけじゃない。振動師として、保証します」
オスカルは馬の上で、カレンを見た。
「わかった」
短い返事だった。でも聞いた。
「行く」
馬が動き出した。カレンは見送った。
オスカルが角を曲がる直前、一度だけ振り返った。カレンは手を上げた。彼も、ほんのわずか、手を上げた。それだけだった。
それだけで、十分だった。
* * *
一週間後、カレンは振動師として仕事を再開した。
村人からの依頼。孵化しない卵。目覚めない種。いつもの仕事。でも何か、違った。
卵を手に持ったとき、内側の振動を感じた。カレンの振動が、いつもより安定していた。乱れない。整っている。
雛が殻を破った瞬間、カレンの胸が跳ねた。それでも棚の花は揺れなかった。眠っていた鶏も跳び起きない。感情が動いても、自分の振動は外へ漏れていなかった。
不思議だった。消耗したはずなのに、振動が安定している。
夜、一人で考えた。共鳴施術で消耗したのは確かだ。でも同時に、オスカルの心臓卵と深く共鳴することで、カレン自身の振動も何か変わったかもしれない。深い共鳴は、相手だけでなく、術師自身も変える。そういうことが、ある。
オスカルの振動の記憶が、まだカレンの中にあった。
罪悪感と、閉じることと、それでも起きようとしていた命の振動。
カレンはそれを、大切に持っていた。
エピローグ
振動の記憶
三ヶ月後、カレンは王都にいた。
荷物は小さな鞄一つ。振動師の道具と、着替えだけ。
王都は、カレンの想像より大きかった。人が多い。音が多い。カレンの共鳴体質は、これだけの人がいると少し揺れた。でも、前より揺れが小さかった。自分の振動が、安定しているからだ。
門の前で待っていると、馬が来た。鎧姿のオスカルだった。任務の帰りらしく、少し汚れていた。でも馬から降りたとき、顔が――わずかだが、前と違った。
表情がある。少しだけ。前はゼロだったのが、今は少しある。
カレンは気づいた。心臓卵が、ちゃんと振動している証拠だった。
「来た」とオスカルが言った。
「来ました」
「いつ来たんだ」
「さっき」
「なぜ連絡しなかった」
「いつでもいいと言ったので」
オスカルはカレンを見た。上から下まで見た。
「元気そうだな」
「元気です。あなたこそ」
「俺も元気だ」
短い答えだった。でも、前よりほんの少し、声に何かが含まれていた。
「川、案内するといったろ」とオスカルが言った。
「はい」
「荷物を置いてから行く。宿は取ったか」
「まだです」
「なら、うちに来い」
カレンは少し驚いた。
「……それは、騎士団長が言っていいことですか」
「俺の家だ。俺が決める」
有無を言わせない口調だった。カレンは少し笑った。
「……わかりました」
オスカルが先に歩き始めた。カレンが後から続いた。
王都の道は石畳で、辺境の土の道とは違った。人が行き交い、市場の声が聞こえた。オスカルは慣れた足取りで歩いた。カレンは少し遅れないよう、大きめに歩いた。
人混みの中で、オスカルが少し速度を落とした。カレンに合わせた。
カレンは、それに気づいた。言わなかった。
路地を抜けると、川が見えた。王都の川。確かに、辺境の川より濁っていた。でも、広かった。橋が何本もかかっていて、その上を人が行き来していた。
「これが王都の川か」とカレンは言った。
「そうだ」
「辺境の川と、全然違う」
「そう言ったろ」
ふたりは橋の上に立って、川を見た。濁った水が流れていた。でも水の音は、辺境と同じだった。水はどこでも、同じ音で流れる。
「オスカルさん」
「なんだ」
「あなたの心臓卵、今も振動してますか」
オスカルが少し間を置いた。
「……してると思う。前と違う感覚がある」
「どんな感覚」
「うまく言えない。ただ、前より――重い、ような気がする」
「重い?」
「感じることが、増えた。怒りとか、悲しみとか、嬉しいとか。前は気づかなかったことに、気づく。それが、重い、という感覚だ」
カレンはしばらく考えた。
「それは、ちゃんと生きてるということです」
「そうか」
「感じることは、重くない。重く感じるのは、ずっと感じていなかった分が、一気に戻ってきたから。慣れます」
オスカルは川を見たまま、少し間を置いた。
「……お前がいれば、慣れるのが早い気がする」
カレンは川を見た。水が、橋の下を流れていた。
「……私は、振動師なので」
「それだけか」
カレンは答えなかった。川の音がした。橋の上で、人が通り過ぎた。
「……それだけじゃ、ないかもしれない」とカレンは言った。「でも、今すぐには言えません」
「なぜ」
「もう少し、時間が必要です」
オスカルは川を見た。しばらく、何も言わなかった。
「……わかった。待つ」
オスカルは少し迷ってから、右手を差し出した。
「手を貸せ」
カレンが手を差し出すと、オスカルはその手を自分の胸へ導いた。服越しに、心臓卵の振動が伝わる。
「今日は施術じゃないぞ」
「わかっています」
「聞こえるか」
「はい」
「治ったはずなのに、お前が近いと、少し速くなる」
カレンの指先に、規則正しい振動の中の小さな乱れが伝わった。
「……それ、異常じゃありません」
「知っている」
オスカルはすぐには手を離さなかった。
カレンは橋の欄干に手を置いた。川の音が上がってきた。振動師の感覚で、水の振動が伝わってきた。水は絶えず動いていた。止まらない。
オスカルの心臓卵も、今もちゃんと振動していた。カレンには感じ取れた。近くにいるから、かすかに。温かい振動。三ヶ月前には存在しなかった、生きた振動。
カレンは少し、嬉しかった。
それは術師としての喜びだったかもしれない。それだけではないかもしれない。どちらかは、今はまだわからなかった。
ただ、ここにいたかった。この橋の上で、川の音を聞きながら、この人の隣に。
それだけは、わかった。
了
(本作品は第9回アイリス異世界ファンタジー大賞への応募作品です)




