6.加護
「気分はどうだ?」
「――ハデス様!? なんでここに……」
慌ててはいるが、顔色も戻り普段と変わらなそうな彼女に心の底からホッとした。
天界で見た顔色があまりに酷く、今にも倒れてしまいそうだったベルが心配で、神々との話が済んだ後にプロメテウスを訪ねた。
「その様子なら大丈夫そうだな」
「はい……あの、ご迷惑をお掛けしました」
「構わない。今プロメテウスが留守にしているんだ、その間を任されただけだから案ずるな。それにしても天界で何があった? 体調が優れなかったのか?」
「そ、そうではなくて……」
口籠もり「すいません」と謝るベルに「言わねば分からん」そう言った。
悟ってやることも出来ない。言いたくないならそこまでだと思うが、それでも歩み寄りたいと思って……しまう。
「神様方を前に自分のような場違いな人間がいたら……やっぱりダメなんじゃないかって、そう思ったら急に血の気が引いてしまって」
「すまなかった……貴方を信じて留守をさせるべきだったのに、私の責任だ」
「違います、ハデス様はずっと私を気遣って下さいました。嬉しかったです……それに天界は素敵な所でした。ハデス様の目的は達成されましたか?」
「あぁ問題ない」
――――――――
急いでベルの元に様子を見に行きたいが、そうも言ってられる状況でない事は百も承知だ。
私の手間を省こうとヘルメスが連れてきてくれた四神に一気に相談出来るチャンスなのだから。病気や医術に長けたアポロン、戦いの神アテナとアレス、豊穣の神デメテル、彼らの力無くしては私の近々の状況を打破する事は困難に等しい。
「助けてほしい……」
呆れられる覚悟で頭を下げた。
冥界に降りる前の私は、神の自由な振る舞いに軽蔑し二度と天界には戻らぬ覚悟で別れを告げた故、彼らに顔を背けられても仕方ないと……そう覚悟しての願いであった――
「俺らは、誰よりも正直で嘘もつかず冥府の仕事を全うするハデスだから協力するんだぞ」
「ハデスのお願い聞いてあげるから、次の満月の宴は必ず参加しなさいよね」
「まぁ上手くやっとくから任せなよ」
口々に賛同の意を唱えた彼らに改めて礼を告げた。
冥界の王が、人の死を救ってほしいと……頼むなど誰が想像出来ただろう。しかしこれで死者の数が減らせれば、アイアコス、ミノス、ラダマンティスの負担も幾分か軽減してやれるだろうか。正直に生きてきて良かったと思えた瞬間でもあったのかもしれない。
用は済んだと帰っていく神々を見送る中、デメテルだけが飛び立たず黙って私の隣に並んだ。
「どうしてあの娘が天界にいたの?」
「私が地上に出た時、偶然にもプロメテウスと出会ったが、共に暮らす彼女を一人留め置けないと連れてきただけだ」
「そう……」
「プロメテウスが親代わりではあったが、不自由なく暮らしていた様に思う。気になるのか?」
「…………いいえ、でもあの娘は……人間は天界に来るべきではないわ。それだけよ、じゃあね」
確かにデメテルの言う通りだ。
ここに連れてこなければベルの顔色があそこまで悪くなることもなかったであろう。離れたくないと言う私の我儘のせいでベルは……。
――――――――――
「ハデス様? 大丈夫?」
ハッと我に返った私を心配そうに見つめるベルと目が合った。ドクンっ……跳ねた心音と火照る顔を隠す様に袖元で隠すも、そうとは知らず心配そうに覗き込むベルの瞳が容赦なく私を射抜いた。
「ベル……私はお前を――」
「ただいま〜」
入り口から聞こえるプロメテウスの声で、伸ばしかけた手を引き戻しベルの側から一歩引いた。
危なかった、私は一体何を言いかけたのだ……。
「世話になった。私は冥府に戻り、裁判に向けた準備を始める。これ以上死者を待たせるわけにもいかぬ」
「心配しなくてもそのうちフッと記憶も戻るさ。戻ったら教えてくれよ、その時は祝いの酒でも飲もう」
「あぁ、必ず知らせに来る。ベルにも世話になったな」
「ハデス様……また、会えますよね?」
必ず会いに来る、そんな事は心にだけ留め微笑みながら扉を閉めた。
出来る事なら毎日でも会いたい……出来る事なら冥府に連れ帰りたい。出来ないと分かるから微笑んで別れたと言うのに。エリシュオンで会ったアテナに外してもらい忘れたこの背に刺さるエロスの矢も、次の満月に行われる宴の席で抜いて貰えば問題ないだろう。この憂も晴れる。
冥府に繋がる地上の扉までこんなに遠い道のりだったのかと思うほど足が重い……プロメテウスの家を離れるほど募る想いに、苦笑いすら浮かんだその時――
「ハデス様っ!!」
背中越しに感じるベルの声。
振り向いた私に、息を切らして走ってきた彼女はあの時と同じ水仙の花を握りしめて見上げた。この手に抱けぬと分かりきっているのに、焦がれる瞳に見つめられる事ほど辛いものはない。あくまで平常心を保つことに意識するだけ。
「どうした、ベル……そんなに走っては危ないだろう。体調も――」
「どうしてもお礼がしたくて……その、私に出来るお礼なんて何もないと思ったんですけど、お花なら……お花ならお渡し出来るなって思って」
「……水仙と言ったな、大切にすると約束しよう。時にベル、手を私の上に乗せれるか?」
「手を、こうですか?」
ベルに触れるのは、これで最後だ。
「少し我慢してくれ」
ベルの柔らかな手肌に触れ、念を込めた。それは神だけに許された加護、ベルを厄災から救える唯一の方法。
ほんの一瞬、風が止んだ。
出来る事ならベルが困った時に一番近くで守ってやりたい。この手で救ってやりたい……。それが叶わぬと分かっているから、せめて私が出来うる事をしてやりたい。たとえ矢で射られた一時の感情であったとしても――
「ハデス様、なんだか温かいです」
「目には見えぬが簡単なお守りだ。ベルが困った時、少しは役に立つだろう」
「お守り……ハデス様、私ね――」
突風によって掻き消されたベルの声が何を伝えたかったのか。なぜあの時聞き返さなかったのかと後悔するのはしばらく経ってからのこと。
乱れたベルの髪を掬って、私はその場を後にした。




