4.想定外
「さぁ、エリュシオンに出発だ」
翌日、早朝からエティオピアに向かい、待っていたかのように、手を上げて挨拶するプロメテウスに驚いた。
家の前に咲く花々に水をあげながら、私に気付いたベルもまた「おはようございます」と微笑む。
そんな彼女を見るだけで、こんなに心が揺れるのは……私に刺さる矢のせいなのだ。矢に気付いてしまえば簡単な事。私の気持ちが、愛だの恋だのでないならそれで良い。矢が取れるまで囚われるだけ。
「花屋は休んで良いから、誰が訪ねて来ても扉を開けるなよ」
「本当心配性なんだから大丈夫だって! 私は、ちゃんとお留守番してるから」
――昨日出会ったばかりだと言うのに、目の前にいる事に歓喜と物悲しさを覚えるなど、あってはならないのに。この少女から離れたくない、そう願ってしまう。
「ならば――」
「ん?」
「ならば、共に連れて行けば良い。エリュシオンなら他の神に会う事もないだろう? プロメテウスの心配事が解消されるならば、それも一つの手ではないか?」
「ふっ、俺のためと言い訳に聞こえなくもないが……ハデスからそんな願いが聞ける日が来るなんてな。正直、奴らに会わせたくない理由がある。もし出会うような事があれば先に帰るが、それでも良いなら」
「構わない。私の願いは、エリュシオンにいる彼らに会う事だから」
「ベル、お前もおいで。置いていくより連れて行く方が、俺も安心だ」
「か……神様のいる天界へ私まで行くの? 私みたいな普通の人間が行くなんて……ちゃんとお留守番出来るのに」
「神々の住まう天界の中でも、選ばれた魂の地なんだ。普段どこにも連れて行ってもやれない、代わりの旅行みたいなもんだよ」
確かに人間からすれば、神を見る事も出会う事もないだろう。しかし、この娘は少し状況が違う。すでに神と暮らし、行った事はなくとも、話に聞くくらいの機会はあったであろう。
辿々しく頷く彼女を見て、内心ホッとした自分に、心の中で喝を入れるとしよう。
目的はエリュシオンに住むという三神であり、彼女との外出ではないと一体何度言い聞かせれば良いのだろうか……。
袖の裾で、上がりかける口元を隠すのが精一杯なのだ。
「それじゃ行こう」
家の裏手に回り込むと、塀に囲まれた花園の一角に、馬車と馬が今か今かと蹄を鳴らす音が聞こえてくる。
普段、馬の世話をしているをだろうか。彼女は「よろしくね」と首元を撫でながら馬車に乗り込んだ。馬の感情までは読み取れないが、幾分大人しくなったその背に手綱を叩けば、忽ち空へ向かって螺旋を描くように走り始めた。
「うわぁー! すごいすごいっ、どんどんお家が小さくなっていきますよ、ハデス様っ」
自分の名が呼ばれ、先ほどまでの不安など面影もない笑顔を向けられる驚きに、手綱を引くプロメテウスも楽しそうに振り向いてニカッと笑ってみせる。
「あ、あまり乗り出すと落ちるぞ」など、ありきたりな言葉しか出てこない私に「雲がこんな近いですよっ」目をキラキラさせながら空を見上げる彼女に愛しさが込み上げてくる。
今まで見た事もない物や世界をもっと見せてやりたい、もっとこの笑顔を引き出してやりたい……。
「ハデス、あの端に見える島がエリュシオンだ」
「…………雲が多いな」
「だな、しっかり馬車に掴まっててくれよ」
雲の隙間から覗くエリュシオン目掛けて一気に駆け上がって行くが、やはり雲が多いせいで多少煽られる。落ちる事はないと分かっている私と違って、笑顔が少し遠のいてしまった彼女に手を差し伸べた。
「大丈夫だ、不安ならおいで」
「……はい」
私の手を取った彼女をグッとこちらに引き寄せ、揺れが落ち着くまで肩を抱き寄せた。
思いがけず近付いた彼女から香る花の匂いが心の奥深くに眠る凍った感情をまた一つ溶かすような、ギュっと締まる胸の痛みに思わず「んっ」と声が出てしまった。
「大丈夫ですか?」
「何でもない、もう少しの辛抱だ」
「……ありがとうございます」
雲を抜け、揺れも落ち着いた頃エリュシオンの野に馬車が降り立った。
「二人とも大丈夫だっ……たようだな」
揺れが落ち着いたどころか、すでに到着しているのに彼女の肩を抱いたままであったのは不覚である。
「すまん! 窮屈であっただろう」
「い、いえっ……あの、ありがとうございました」
ぎこちなくも馬車を降りた我々を待っていたのは、然程高くない背丈のマントを羽織った者たちであった。
「お待ちしておりましたハデス様、プロメテウス様」
「其方らが……」
「はいっ我々がミノス、アイアコス、ラダマンティスです。ご案内致します」
似た様な風貌の三人に付いてエリュシオンの野を進むと、緑の野に囲まれた小ぶりの神殿に着いた。この中には神しか入れないからと言う彼らに「私だけ入る」と告げ中に進んだ。
「私がここに来た理由を存じているのか?」
「ザックリです、プロメテウス神から重要案件と聞いておりましたので……詳しくお聞かせ願えますか?」
並ぶ三神に全てを話す間、頷く事も言葉を発する事もなく、全てを話した上で裁判の経験がある三神に、記憶が戻るまでの手伝いをしてもらえないかと打診を試みた。
「……ハデス様の状況は理解しました。我々はこのエリュシオンに送られてから今日まで、この野を出ず他の神々とも関わらずやって参りました。神の時間は永遠なれど、元は人間であった我々の時間を再び動かして下さるハデス様のお役に立てるのならば、喜んでお手伝いをさせて頂きます」
「誠か! なんと御礼を――」
「ただし」
「……何でも言ってくれ」
「我々はこのエリュシオンの管理もしております。この地に咲く花や木の一部を冥府で育てたいのです。根を張る場所が違えど、エリュシオンの異変は同じエリュシオンの植物通し伝え合うのです。何かあればすぐ駆け付けねばなりません、そのお許しを頂けますか?」
「冥府には太陽がない。唯一のアスポデロスでも咲くか保証出来んが……特に問題はない、存分に試されれば良い。感謝する、これで死者の魂を救ってやれる」
準備が出来次第、冥界へ降りると約束してくれた彼らのために冥府の神殿にある地上と繋がる扉をエリュシオンにも繋げる約束をした。これで負担をかける事なく行き来できる。
頼るばかりでは駄目だ、そう改めて今この状況の打開策を模索しなければと思案しながら外に繋がる扉を開いた。
「こ、これは――」
扉の向こう側に、色とりどりの花が咲き乱れる美しい光景が広がり、先ほどまでと随分変貌を遂げた野を見つめながら三神の一人がベルに向かって歩き始めた。




