3.エロスの矢
「ハデスが地上にいるなんて初めて見た。折角だから、家に来いよ」
冥府と言う暗い地の世界から抜け出し、陽の光に安堵したのも束の間、まさか此処で神に出会うとは思いも寄らなかった。
しかも、気掛かりだった花屋の娘はどうやらこのプロメテウスと共に暮らしているという。夫婦なのか恋人なのか……別にどちらでもどうという事はない。
ベルと呼ぶ娘に、片付けたら帰っておいでと話すプロメテウスの後ろについて歩き、活況する市場を抜けた所で小さなレンガ調の家に辿り着いた。玄関周りは花が咲き乱れる様子に、さすが花屋と言わんばかりの彩りである。ここから摘む花もあるのだろうか。
「狭いけど、どうぞ」
今更手ぶらで来た後悔をしても仕方ないと割り切り、次回があるとするならば冥府から何か持ってこようと決めて足を踏み入れた。
「飲み物でも出すから座って待っててくれよ」
炊事場でゴソゴソ取り出すプロメテウスに何から聞こうか……。深く被っていた頭巾も外し「お持ちします」と、さり気無い気遣いをするカロンに質素な衣を託した。
「で、ハデスが地上に出向いた理由って何なの?」
カップに口をつけるプロメテウスに、全てを話した。
気付いたら冥府の寝台にいて、どうやら記憶が欠落し家来たちに迷惑をかけていると。そしてその冥府での息苦しさや冷や汗をかく程に居ずらいことを。
「だから地上の空気を吸いに来たのか」
「……正直、自分が冥府の神だと言われてもピンと来ない。いつ何時かも分からぬ空間にずっと居れるとは思わないからな」
「確かに。ハデスが冥府から出たって聞かないし。それで? 裁判とやらはどうすんだ?」
「家来が天界に行っている。助けを探すと言っていたが果たして見つかるかどうか……」
「なるほどね。それなら俺が役に立てるのは、裁判で使えそうな奴らの紹介かな〜」
「いるのか!?」
「いるとも、エリュシオンに暮らす三人組だ。人間界でも法整備や裁判官として功績を残したから、死後にエリュシオンに送られた奴ら。ゼウスが自ら送ったからハデスは知らないかもしれないけどな」
「エリュシオンか……私が、接触出来るかどうか」
エリュシオンは言わば、神に祝福されし者のみが辿り着ける楽園。嵐もなく穏やかな西風が吹き、草原を花が揺らす天界の島ではあるが、神々でも滅多に行かぬ特別な場所であるため実態そのものが謎に包まれる。
「実質、エリュシオンを統治してるのもその三人だから、実力は間違いないと思うぞ? 行きたいなら案内してやれなくもないが……」
「ないが?」
「ベルを置いていくのが少し忍びなくてな」
「あの花屋の娘は……深い仲なのか?」
「そう見えたか? あいつは……まぁいろんな事情があって孤児なんだよ。生まれた時から親がそばにいれなくて、俺が親代わりになったんだ。父親って言うよりも歳の離れた兄妹みたいな感じだけど、成人を迎えたら色々話してやろうって決めてる」
「神だと知らせたのか?」
「迷ったけど伝えたよ。変な神が時々地上に来る事もあるからなっ。いちいち説明するのも嘘をつくのも性に合わないし」
深い関係、ではなかった。
何か隠しているようではあるが、それはあくまで個人的な事情であって私が深掘りするようなものではないし、親代わりともなれば苦労した面も少なからずあるだろう。
「ただいまぁ」
「お帰りベル、残った花はどうした?」
「ほとんど残ってないよ、なんか分かんないけどお客さんがすごい来てくれたの! だから片付けも楽だったんだ」
「それは良かったね。一緒にお茶でも飲もう」
改めて目の前にすると、なんとも整った顔立ちに黄昏時の空色をした瞳は何度見ても惹きつけられるものがある。
何故だか、私に気付いて下げた頭がなかなか上がらない。
「ごめんなさい! 私、ハデス様だなんて夢にも思わなくて。生意気に花なんて……本当にごめんなさい」
特別な感情など、ない。
「気にするな。地上に来ることなどほぼない私にとって、向けられた花をどうしたら良いか分からなかっただけだ。もうあの花も売れてしまったんだろう?」
「いいえ……売りたくなくて、まだここに」
「水仙と言ったな……もし気が変わってなければ受け取っても構わぬか?」
「もちろんですっ! そう出来たら良いなって思ってたので」
たかが花一つ手にしただけなのに、込み上げる気持ちに呆然としてしまった。でなければ隣で「ほぉ」だの「ふふっ」などと言った小言も聞き取れただろうに、今の私には届かない。
天界であれほど拒んだ感情に、色が灯るなどと否定的な自分がいる一方で、冥府に戻れば忽ち赤の他人以下に成り下がるであろう虚無感が胸を占めた。
「ンンッ! お取り込み中すまんが、エリュシオンに行くと決めたら訪ねてくれ。それと人が死ぬ理由なんて五万とあるけど俺からもお願いしたい……人間は脆い。病と戦はその脆さに拍車を掛けているんだ、もし神々に会えたら宜しく伝えてくれ」
「色々助かった、近い内に訪ねると約束しよう。それと、ベルと言ったな……花の礼はその時に」
「お礼なんていりません。でも……またお待ちしてます、ハデス様」
ニコッと微笑む彼女を見て、また胸の奥の奥から込み上げる熱が、何かを溶かす様に自然と笑みが溢れた。別れを告げたドアを振り返り、咲き誇る花の香りと手に持つ一輪の水仙を確かめる様に深呼吸して、冥界に繋がる場所を目指した。
「ハデス様のあんな柔らかい笑みを見たのは、初めてかもしれないですね」
「カロン、この水仙はいずれ枯れてしまうんだろうか……」
「なんて切ない顔するんですか! 太陽のない冥府で育てるのはやはり難しいと思いますけど、保存方法調べてみますから、元気出してください」
太陽のない場所か。
花は、あのまま彼女の元で太陽と水を与えられていた方が幸せだったんではないだろうか。
しかし、私が冥王であると知られても、そばにプロメテウスという存在がいたおかげで敬遠されることなくやり過ごせたのは僥倖だったのかもしれない。解決せねばならぬ問題だらけの中で見つけた、宝物のような……今まで抱いてこなかった、いや敢えて避けてきた欲望が疼くのが分かる。
「ハーデースーさーまっ!」
地上が闇に包まれたからだろうか。
夜が更けたと分かれば、冥府に戻っても息苦しさは感じない。そんな私の情を知ってか知らぬか、ヘルメスの威勢の良い声で背中を突かれた。
「ねぇハデス様なんで背中にこんなの付けてんの?」
私の背中を、まじまじ見ながら言う。
「背中? なんのことだ、カロン取ってくれ」
「ハデス様……背中には何もありませんよ……」
「ヘルメス、来て早々なんの冗談だ」
「えっ、あぁ僕にしか見えないのかな? じゃ良いや」
何が良いのかさっぱり分からない。
昔からヘルメスはこういう奴だ。自分が納得すれば全て良し、という精神は時に反感を買うと散々伝えてきたが全く変わっていない。変わらない安心なのか、今後の不安材料なのかは紙一重であるが、今は自分の背中が気になって仕方ない。
「ヘルメス、勝手に納得するな。何かあるなら取ってくれ」
「取れないよ、だってこれエロスの矢だもん」
「…………どういう事だ」
「ひぃ! 怖い怖い、落ち着いてよ」
……自分でも驚くほど低い声が腹の底から出た気がする。エロスの矢? そんな馬鹿げた話などある訳がない。
エロスの矢と言えば打たれた者は、心から求める異性を見ると想い合うまで相手を渇望する恐ろしい矢だ。それが自分に刺さるなど――
ある……はずも……ないと、言える……だろうか。
「なーんか、思い当たる節でもありそうな顔してますけど、地上で誰か見つけてしまったとか?」
「そんなんでは……」
……ない、と言い切れるか?
ベルを見た時の胸の高鳴り、先程まで会っていたのに離れた今もすでに欲望が疼くこの感情は、まさか矢のせいだったとでもいうのか?
「へぇ、ハデス様もそんな顔するんだ! これはちょっと面白……いえ、いえ何でもありません。でも、この矢は僕やエロス本人も取れないからな〜天界に戻ったらヘスティア辺りに相談してみるよ」
「……頼む」
「そう言えばタナトスに連れて来られまして。事情は聞いてますけど」
「自分でも何が出来るか分からん。が、あの連なる列をそのままには出来ん。アポロンと伝染病の話がしたいのと、戦を司るアレスにも会いたい。話せる機会を設けてもらえるなら冥府ではなく天界に出向くと伝えてほしい」
「アポロンとアレスね、了解っ! それならアテナも呼ぼうか? エロスの矢を無効にしたいならヘスティアじゃなくてアテナでも良いよね」
「……確かに。なるべく早急に頼む」
死者には申し訳ないが、もう少しだけ我慢してもらおう。
やはり、エリュシオンも急いだ方が良いとなれば、明日にでもプロメテウスにもう一度会いに行く方が良いだろうか。
ベルを家に一人置きおくのは、と懸念していた……本人が望むなら共に連れて行っても良いと思うが、人間が天界に足を踏み入れる危険性を、私は知らない。
恋だの愛だの騒ぐ奴らに、ベルを合わせるのも危険だ。なるべく会わせないようにする方法があればプロメテウスも安心して連れて行けるだろうか。
ただ、私が一緒にいたいだけ……など、今は胸に仕舞うのが一番だろう。




