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記憶を失くしたハデス様 〜愛を知る必要はないと、ハデスは言う〜  作者: HARUHANA


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2.図らずも

 冥府が出来て数百年。

 自分がハデスであり、天界に君臨する神の一人であり、愛という感情をこよなく軽蔑してきたという事実は覚えている。

 しかし、目を覚ました暗い世界をひとカケラも思い出せない。今が何時かもわからない世界に苦しさを覚え、仕方なくカロンに外へ連れ出してもらおうと歩き出した。


 

 カロンによれば、人の世を見ずに裁判は出来ぬと、扉を設けてはみたものの、二度程出入りしただけで長く閉じてしまっていたと言う。それだけ死者が途切れず、ましてや夜の静けさを堪能するための扉ではない……と向かう機会がなかったのだろうか。


「ハデス様、こちらのお召し物を」

 

 カロンが差し出した質素な衣を纏い、深く被った頭巾でなるべく顔を晒さぬよう工夫は凝らしたつもりだ。

 陽に当たりたいと思えど、神らしくない衣装を纏わねばならぬとは……見えずらい頭巾に手を添えて溜息が溢れた。


 息苦しさを解消するための外出とは言え、本当に私が死者の裁判とやらをしていたならば、地上で起こる人々の暮らしを知るのは悪いことではないはず。最後に見たあの行列が今も絶えず増えるのならば、人の死がどのような経緯によるものなのかこの目で確かめても良いのかもしれない。


 

 ……いや、これは言い訳にすぎない。

 記憶の欠落から目を背ける、ただの言い訳だ。



 カロンに導かれた扉に手を掛けた。

 何の変哲もない扉だが、意思を拾ってどこかと繋がると言う。今の私に、一体どんな意志があると言うのだろう。

 人の気配がない部屋に繋がったようではあるが、廃墟なのか生活に必要な物は何もない。いざとなれば、扉を使わずとも戻れると思うが、念のため閉じた扉にナイフで切込みの印を付け、外に出る事にした。


 

「さぁさぁ今日は魚が安いよー」

「異国から仕入れた布地も見てっておくれっ」

 

 外に出れば、そこはまさに活気溢れる市場の一角。

 

「ハデス様、人の世とはすごいのですねっ!」

「カロン……私も驚いている。人がこんなにも溢れ、多くの物に囲まれるとは想像していなかった」

「楽しそうですが立ち止まるのもあれなんで、向こうの木陰に行きましょう」


 真っ直ぐ歩くのもやっとな道を進み、辿り着いた木陰は、深く被った頭巾の隙間を冷やすに丁度良い。

 太陽の日差しがより体力を奪うようだった。

 だが……求めた心地良さだと身体が叫ぶようで、さっきまでの息苦しさが嘘のようにどこかへ引いていく。


 

「ハデス様、何か思い出したりは?」

「……特に変わらない」

「そうですか、まぁ焦らず行きましょう」

「カロン、人の死に近しい場所は……どこだと思う?」

「そうですね、診療所ですかね?」

「場所を確認してくれ」


 私よりも身軽に変装したカロンが街の中へ消えていった。

 見たところ、私のように深く顔を隠している人はあまり見かけない。だからだろうか、先程から妙に視線を感じる気がする……次ここへ来る機会があるとするならば、衣装ももう少し考えよう。

 

 ふと見渡した視界の中に、鮮やかな色とりどりの花を並べる店先があった。私の知る花もあれば、見たことのない形や色をした、実に美しい花々が太陽の光りを浴びて咲き誇っているようにも見える。

 木陰に座ったままの私が、人影の見えぬ花屋をじっと見ていた時、花の陰からヒョコっと現れエプロンを身に付ける娘が、花束を抱えながら私の方へ視線を向けた。

 花の隙間から覗いた娘の、純真無垢な瞳が真っ直ぐ私の視線とぶつかった瞬間、胸の何かをざわつかせた様な気がしたが、店先で待つお客と話し始めたのかこちらを見ることはない。

 確かに目が合いはしたが、こちらがジロジロ見ていては、話しかけられても困る。


 ……だが……どうしてもあの鮮やかな色に囲まれた彼女を、目で追ってしまう。彼女の何がそんなに気になるのだ、そう自分に言い聞かせても――


 

「ハデス様ただいま戻りました、ってあれ? どうかされましたか? えらい固まってましたけど」

「いっいや何でもない、診療所は分かったのか?」

「ありました。ここから少し南に歩いた角に」

「行こう」


 南に向かうなら、幸か不幸かあの花屋の前を通る。話しかけたい訳でも花を買いたい訳でもないが……少しばかり横目に見てもバチは当たらないだろう。神のくせにバチなど考えるとは、私も愚かになったものだ。

 

 立ち上がり、衣装についた土埃を払って歩き出した私の心臓が、いつも以上に高鳴る事に気付きはしたものの、カロンに悟られまいと一層頭巾を深く被り歩き出した。

 花屋に近づくにつれ鼻を擽る香りに、彼女の香りでも嗅いでいるかのような錯覚さえ覚えた。花の裏に隠れて仕事をする彼女の、背中だけが目に入る。


 

「お待たせしましたぁ〜って、きゃっ!」


 

 突然、仕上げた花束を持ったまま振り向いた彼女とぶつかりそうになり、私は慌てて腕を引き支えてしまった。転ぶ事なく花束も無事だった事に安堵した彼女は「ありがとうございます、少しお待ち頂けますか?」そう言って待たせた客に花束を渡した。

 あまりに突飛な出来事に「ハデス様、大丈夫でした?」と小声で聞くカロンに頷き、彼女は私の目の前に一輪の花を差し出してきたのだ。


「さっきはありがとうございました。前を見てなくてごめんなさい……木陰で涼まれてた方ですよね? あの、お礼に宜しければこちらを――」


 

 ……私は、迷ってしまった。

 神として人と話しをしたり、触れ合う事が正しい行いなのか分からなかったのだ。差し出された一輪の花でさえ。頭巾の隙間から見える彼女の美しい瞳を見れただけで十分な気がした私は、何も言わず花を受け取ることもせず通り過ぎてしまった。

 

「ハデス様らしいですね」

「……分からなかったんだ、神と名の付く自分が人と話していいものかと」

「地上で暮らす神もいますよ。罰も聞いた事ありませんから人と関わりたければ関わって良いんでしょうけどね」


 歩きながら考えが頭を巡るのだ。

 花をきちんと受け取り礼を言えばよかったと。

 穢れを知らぬあの瞳をもう一度見たい、差し出された花が何の花であったのか……しかしこれでは何のために地上に来たのか、家来に笑われそうだ。

 思いを巡らせながら辿り着いた診療所の手前で、堪らずカロンを見た。

 

「カロンすまんが、ここで話を聞いたらもう一度花屋に寄っても良いか?」

「もちろんですとも! 早いこと話を聞いてしまいましょ」


 診療所は医者一人と薬師が三人ほどいたが、このような風貌の旅人を怪しむのも無理はない。最初はぎこちなかった対応も、そこはさすがのカロンである。どこから持ってきた話なのかと思うほど、饒舌に旅の話で場を和ませてみせた。


「――っていう訳で、墓地を多く見かけたもんだから、何か流行病でもあるのかと思って此処に立ち寄ったんですよ」

「このエティオピアは流行病ってあまりないけど、アテナイ地方は流行り始めてるって聞いたよ」

「うん、ここはそんなに影響なかったけど離れた所で紛争もあったみたいで沢山の人が亡くなったんだって」

「この辺は平和なの?」

「平和な方だよね、だってハデス様が守る地だもん」

「んっ!? ハデス様? ハデス様って冥界の?」

「そうだよっ! ここはずーっと昔にハデス様が災いから守ってくれた大地なんだから。あっ、急患だ! またね不思議な旅人さん」


 診療所を後にした私たちは、互いに顔を見合わせた。

 

「ハデス様が守る土地ですって」

「私は一旦何から守ったんだろうか」

「思い出したら教えてくださいね。さてっ、話しも聞けましたし花屋へ向かいましょう」

「…………」


 短い会話ではあったが、人の命が奪われる機会の多さを垣間見た。争い、病、そこから街や村の機能が低下すれば農業にも影響が出るだろう。食べるものがなければ痩せ細り――。

 

「さっきの……?」

「……っ!」

「またお会いしましたね」

 

 考え事で花屋まで辿り着いてしまったとは気付かず、私の目の前にあの瞳が飛び込んだ。かと思えば、予想外にもこのタイミングで私を知る者が現れた。

 

「おぉ! ハデスじゃんっ。久しいな〜」

「お前……プロメテウスか? なぜここに」

「俺ずっと人間と暮らしてるからさ、今はこの国でベルと暮らしてるんだよ。紹介しようか、おいで」


 一輪の花を胸に抱え、プロメテウスに肩を抱かれた少女が頭を下げた。

 

「ベルです。先ほどは、不要なお花など差し出してしまい申し訳ありませんでした」

「いや、私こそ受け取らずに失礼した。さっきの花……」

「今日、一番綺麗に咲いてたからお渡ししようと包んだんです。水仙なんですけど」


 自分が貰うはずの、包まれた花は水仙というらしい。形はどこか見た事がある様な気もするが、確かに凛と背筋を伸ばす美しい花だ。


 

 たった一言……「欲しい」の一言が言えずにいる不甲斐ない私である。

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