1.神の御心
愛を知る必要はないと、ハデスは言う。
だが、予言を司る私は、変えたい。
愛こそが己を強くし、愛こそが己を弱くする……それが完成された個であり、そうして初めて、手にするものの価値を見い出せるから。
しかし、愛を拒む神ハデスは言う。
何かを得たときではなく手にした時こそ、その価値を見失ってしまうと。
***
この世の始まり。
正しくそれを知る者はいない。
この世の始まりは混沌とも言う。
大地の神ガイアが子であり、夫である天空の神ウラノスと共に、山々や花、蝶に獣、そして空には星を創り出した。
原初の神ガイアとウラノスから巨神族クロノスが生まれ、やがて巨神族クロノスと女神レアから多くの子が生まれた。
愛を持って子が生まれ、生まれた子は神として人の世に影響をもたらした。そうした神々の世界に存在する愛が大きな歪みをもたらし、後世に累を及ぼすと誰が考えただろう。
様々な事情を経て、何年もの歳月を超えた今、ポセイドン、ゼウス、ヘラ、ヘスティア、デメテルと共に私が改めて集うには理由があった。
原初の神が齎した大地には多くが芽吹き、命が育まれたこの世界を神が統治するのは必然であり絶対なのだと、神の領地を分配すべく集ったのだ。
地上と天界を統べる者、海を統べる者、そして地下を統べる者が必要だと。一度決めた領地は永遠に変わることはない。
だから、私ハデスは迷う事なく地下を選んだ。
ずっと感じてきた違和感が一つある。
それは愛が生む不確かな感情。誰しもが持つ愛という名の感情が我ら神を成し、歩んできた事に違いはない。動植物もまた愛の名の下に生存共存してきたのだろう。
しかし、暇を持て余した神が、自由に愛を楽しむ光景を見てはいられなかった。
愛が憎しみに変わり愛が妬みに変わった結果、ある時は夫の浮気相手として命を狙われ、ある時は陽の当たる場所で出産してはならないと監視され、またある時は相手となる神でさえ動物に変えた。
そうして、愛が交わった末に生まれた命への報復は果たして必然だったのか。罪もない生まれたばかりの子に害が及ぶ事実を、私はどうしても受け入れる事が出来なかった。
愛など存在するから煩わしいのだと思わざるを得ない、そんな状況を天界の高台から見下ろしていた。今日もどこかで愛し合い、命が芽吹き、誕生した子が犠牲になる。それならば、報われなかった魂はどこへ行くのだろう。消えて消滅するのか、それともどこかに彷徨うのか……。
地下にあるとされる冥界に行けば、彷徨う魂を少なからず救ってやれるのではないか。
そう考えた私は、天界に戻ることはないと告げ冥界へ降りた。
それまで側にいた家来も天界に残し、多くを持たぬまま降りた冥界は、未知に溢れる異様な空間であった。
暗く見通せない世界に聳える山々は低山であるも鋭く尖り、どこが上流かも分からぬ底の見えない仄暗い河が流れる。どこからともなく吹く風が手元の蝋燭を揺らし、まさに死後の世界と聞く冥界の畏れられる所以なのだろう。
よくよく見れば、いたる場所から覗く影が見える。
人の影よりも幾分小さいその姿は、ただ一人でに歩くだけでどこかへ向かうでもなく何を待つでもなく彷徨っていた。
気の毒に思うのもまた違う気がする。こればかりは……この地で何に縋るでもなく歩く彼らを誰かが導いてやらなければ、そんな気になった。
背後に感じる存在に振り向けば、天界で自由を言い渡したはずの家来タナトスが、ニンフを連れて冥界に降りてきたのだ。
「なぜお前達まで――」
「貴方様を一人になどさせるものですか。我らは例え冥界の地から出れなくとも、生涯仕える覚悟でここへ来たのです。何も持たぬ貴方に代わり、我らが主人への忠誠を務め上げましょう」
「……私は、良き家来を得ていたのだな。タナトスが連れ参ったのは、カロンか」
「左様です、何なりと我らにお申し付けください」
どうにかなるだろうと、供も連れず降りてきたが……こうして自分だけじゃないと得られる安心感が、妙に心地良かった。
そうして冥界の状況を元に、長い歳月を掛けて冥府を創り上げた。寝所となる神殿、裁判を行う法廷、裁いた死者が暮らす天国と地獄を構築すれば、あとは至って単純である。
この暗い陽の当たらない世界でも、前向きに暮らしてこれたのは他でもない彼らがいてくれたからだ。
「ハデス様、裁判の準備が整いました」
こうして、昼夜分からぬ世界で寝起きし、裁判を熟す日々が淡々と続いていた。
船渡しとしてカロンに死者を運んでもらい、一人ずつ生前の話しを聞いた上で善悪や信憑性を考慮して采配して行く。
嘘を見抜く力ももちろん必要ではあるが、何より難しいのは人の世を深く知らない私が善悪を決めるその過程だった。
感情に引っ張られる日も、もちろんある。
幼い子の死は胸を締め付け、流行病や火事で大勢が並ぶ日はその日の食事が喉を通らない事も度々。
天国へ行こうと地獄へ行こうと、その魂の行方が全て自分に係っていると思うと重圧もなかなかのものだった。
冥界に降りて数百年。
次から次に裁いても死者が絶えず少しばかり疲労の色が見えていたのは確かであるが、まさか自分の目の前に死者ではない影が現れるとは驚いた。影に寄せているが纏う雰囲気はまるで――
「その者を急ぎ神殿へ」
死者は独特だ。
故に死者でない何者かが、何故ここへ立ち入ったのか……理由を聞かねばならぬ為の休廷を強いられた。
しかし……そう言って間もなく、久々に感じた眩い光は想像以上に脳へ刺激を与え、耐えきれずに目を閉じて倒れることになった。
異変に気付いた家来によって神殿に運ばれ、事なきを得たが、目を覚ました私は……私でなくなっていた。
「ハデス様、大丈夫ですか? お加減は?」
「…………ここは、どこだ」
「神殿に戻りました。裁判は止めています」
「裁判?」
「はい、今日はもうこのまま止められた方が――」
「なぜ、ここはこんなに暗い? ここは天界ではないのか? 天界でもここまで暗いところはないだろう」
「ハデス様……? 先程の出来事を覚えておいでですか!?」
「……私は……ここで何をしていた?」
「ここは冥界です。ハデス様は裁判をしておられました。まさか、お忘れですか? これは一体――」
自分の名も、天界の事も、家来も分かるのに……なぜ私がこのような暗いだけの世界にいるのか、私がここで何をしていたのかだけが綺麗に思い出せない。
家来達の動揺する顔つきに一抹の不安を覚えはするものの、座り込んだ寝台から立ち上がり辺りを見回した。長くここで生活してきた痕跡がある事に、彼らが言う事は間違いではないのだろう。
「すまないが……今は何時だ、外に出してほしい……」
「承知しましたっ、急ぎ支度しますのでお待ちください」
額を抑え、思わず項垂れた。
何故かとても息苦しい。
「いやはや……これでは死者が溜まる一方で」
「長く留める訳にも行きますまい、しかし……」
「天界に誰か代わりが?」
「いるわけないだろう、ハデス様だけがここで公平な裁きをしてきたんだ」
「しかしこのままでは――」
家来達の焦りは、神殿の遥か遠くに見える者たちへの懸念なのか。額を掠める冷や汗を感じながら、遠目でも分かる長蛇の列。
「それなら、やはり助けを求めましょう」
タナトスが、私の前に膝をつき提案した。
「地上に繋がる扉が神殿の奥にあります。思いの国に出れるよう細工がしてありますので、お好きな地に出る事が出来ます。私は少々天界へ向かいますので、ハデス様はカロンと共に地上へ向かってください」
「……天界ではなく地上なのか?」
「ハデス様、少し落ち着いてから天界へ向かいましょう。まずは気持ちを落ち着かせるため地上に出るだけです」
「……そ、そうだな……」
握った拳にかいた汗をタオルで拭い、カロンに支えられながら歩き出した。
この時まだ知る由もなかったのだ。
なぜ私の前に死者ではない者が現れたのか、記憶を失う程の光に見舞われたのか。
そして、愛を憎み愛を拒んだ末に選んだ冥界で、愛が紡がれる物語が生まれることを――




