死の病の蔓延と、王国の危機
今から百年前。
アリエルは、九百年を生きていた。
あの日——コーリンに「善処します」と言われてから、五十年が経っていた。
善処、の結果がどうなったか。
答えは、土が教えてくれた。
エルンの森の縁から伸ばした指先が、土の中の精霊の繋がりを辿ると——街の方向に、ぽっかりとした空白がある。
焼けた土の匂い。
死んだ土の匂い。
それが今や、ガルディアの農地の三割を占めていた。
(言った通りになった)
アリエルは目を閉じた。
「言った通りになった」と思うことは、少しも嬉しくない。それでいい。嬉しくあってはならない。
だが——もっと早く、もっと強く言うべきだったか、という問いは、何度考えても答えが出なかった。
◇ ◇ ◇
異変が表面化し始めたのは、その年の夏だった。
ガルディアの城下町から、使者が来た。
馬を飛ばしてきたのだろう、馬も使者も息が荒い。
「アリエル様……! 大変なことが起きております!」
使者の顔色が、悪い。顔色だけではない——その首筋に、うっすらと赤い斑点が出ていた。
アリエルは使者の顔を見た瞬間、全てを理解した。
(来た)
ナトゥーたちが、低く、重く唸るような気配を発した。
「街で、何人が倒れている」
「す、すでに数百人が……! 最初は足がむくんで力が入らなくなるだけだったのですが、それが心の臓にまで広がって——」
「足から始まる」
「はい。歩けなくなって、それから……」
使者が言いよどんだ。
言いよどむ必要はない。アリエルにはわかっていた。
「死ぬ」
「……はい」
アリエルはすぐに街へ向かった。
久しぶりのガルディアの城下町は——変わっていた。
人通りが少ない。市場の活気がない。道端に、力なく座り込んでいる人の姿がある。
何より——匂いが変わっていた。
発酵の匂いがしない。
以前は、ナトゥーを売る露店の芳醇な香りや、酢を使った保存食の酸味が、街のどこかしらから漂っていた。
今はそれがない。
代わりに漂うのは、清炎魔法特有の焦げたような、無機質な空気だ。
(精霊が、いない)
街の空気から、土から、建物の壁から——精霊の気配が、ひどく薄い。
あれほど賑やかだったナトゥーたちの声が、まるで遠くの川音のように、かすかにしか聞こえない。
アリエルは足を速めた。
◇ ◇ ◇
城の療養室に、患者が溢れていた。
一人ひとりの顔を見て回る。
足がむくんでいる。膝から下が、異様なほど張っている。
「歩けるか」と聞くと、首を振る患者が多い。
「足に力が入らない」
「ちゃんと踏ん張れない」
「階段が上れない」
症状はどれも似ていた。
アリエルは一人の若い男の患者の前にしゃがみ込んだ。
「いつから」
「……二ヶ月ほど前から、身体と、特に足がだるくて。最初はただの疲れかと思って」
「食事は何を食べていた」
「白米と、肉と……」
「それだけか」
男が少し目をそらした。
「ナトゥーは?」
「……あれは、貧しい者の食べ物なので」
アリエルは立ち上がった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
怒りではない。悲しみでもない。
もっと静かで、もっと重い何かが。
(ガレスが言っていた。あの冬の藁とディーズ豆の話を、一生忘れない、と)
一生忘れなかったのだろう。
だが——一生は、長くない。
「これは——何の病ですか」
コーリンの息子にあたる宰相、エインが、アリエルに問うた。
父親に似て真面目な顔をした男だが、今日はその顔が蒼白だった。
「名前はない」
アリエルは答えた。
「この地では初めての病だから。ただ——原因はわかる」
「原因を! ぜひ教えてください!」
アリエルは少し間を置いた。
「二つある」
「二つ」
「一つ目。白米と肉ばかりを食べ続けたことで、体に必要な栄養が足りなくなっている。特に、神経と心の臓を動かすために必要な、精霊の恵みの一種が——」
「精霊の恵み、とは?」
「玄米や豆、ナトゥーに含まれている力だ。それが長年足りなかった結果、神経が弱り、心の臓が弱り、足から力が失われていく」
エインが顔を歪めた。
「まさか……食事が原因で?」
「食事が原因で人は死ぬ。珍しいことではない」
「し、しかし、白米は豊かさの証で——」
「白米は旨い。私も否定しない」
アリエルは静かに言った。
「だが、白米だけでは生きられない。それだけのことだ」
エインが押し黙った。
「二つ目」
アリエルは続けた。
「清炎魔法を使いすぎた結果、体の内外から精霊が失われた。精霊は病をもたらすものばかりではない——多くは、人の体を守るために働いている。その守りが失われた体は、かつてなら自然に治っていたはずの些細な感染でも、命を落とすようになる」
長い沈黙があった。
エインが、ゆっくりと椅子に座り直した。
まるで、膝から力が抜けたかのように。
「……では、我々は」
「自分たちで、自分たちの体を弱らせた」
アリエルは言葉を選ばなかった。
選ぶ時間が、もうない。
「五十年前、私はコーリン様に言った。農地への清炎魔法をやめるように、と」
「……聞いております」
「聞いていた」
「……はい」
「聞いていた結果が、これだ」
エインは何も言わなかった。
言えなかった、のだろうと、アリエルは思った。
城を出たアリエルは、城下町の路地裏に入った。
大通りから外れた、清炎魔法があまり届いていない古い区画だ。
石畳の隙間に、雑草が生えている。
壁の下の方に、苔が張り付いている。
路地の奥の方から、発酵した食べ物の匂いがかすかに漂ってくる。
アリエルはその匂いの方へ歩いた。
小さな家の前に、老婆が腰を下ろして何かを作っていた。
わらとディーズ豆。
ナトゥーを作っている。
「……」
老婆はアリエルに気づくと、驚いた様子もなく顔を上げた。
「あんた、エルフかい」
「そうだ」
「こんな路地裏に、珍しいね」
老婆はまた手元に視線を戻して、わらを折り畳む作業を続けた。手つきが、慣れている。
「その作り方——どこで覚えた」
「婆さんから教わったよ。婆さんは、ひいばあさんから。先祖が、昔エルフの偉い方に教わったんだって」
ひいひいひいひいばあさんの頃から、ということになる。
アリエルは頭の中で計算した。ガレスの時代から、ということだ。
「今でも作っているのか」
「街の連中は馬鹿にするけどね」老婆は肩をすくめた。「うちの家族は誰も、今の病気にかかってないよ。それが答えじゃないかい」
アリエルは老婆の顔を見た。
年老いているが、目に力がある。顔色が良い。足元も、しっかりしている。
(精霊が、いる)
この老婆の体の中に、ナトゥーたちの気配が確かにあった。
「名前を聞いていいか」
「マーサだよ。なんか用かい」
「一つ、頼みがある」
「なんだい」
「あなたが持つナトゥーの作り方を——城に広めるのを、手伝ってほしい」
老婆は少し間を置いた。
それから、鼻でフンと笑った。
「やっと気づいたのかい、お偉いさんたちは」
「……遅かった」
「まあ、気づいただけましだよ」
マーサは立ち上がった。腰が少し曲がっているが、足取りは確かだ。
「いいよ、手伝う。ただし——」
「条件があるか」
「ナトゥーが、貧者の食い物だなんて言わせないこと。それだけだ」
アリエルはしばらく老婆を見た。
それから、九百年ぶりに——心の底から、笑った。
「約束する」
◇ ◇ ◇
そこから先は、戦いだった。
清炎魔法を振りかざす教団と、ナトゥーを広めようとするアリエルとマーサの、静かで地道な戦い。
劇的なことは何もない。
ただ、一人一人に手渡しで教えた。
わらの選び方、豆の煮方、温度の保ち方。
玄米を食べること。豆を食べること。雑穀を混ぜること。
患者の食事を変えた。ナトゥーを食べさせた。
すぐには変わらなかった。
一週間経っても、大きな変化はない。二週間経っても、患者は苦しんでいる。
「効かないのでは」という声が出始めた頃——三週目に入って、最初に立ち上がった患者が出た。
「……足に、力が戻ってきた」
その言葉が、城の療養室に広がるまで、時間はかからなかった。
マーサが、病に倒れたのは——ガルディアの危機がひとまず落ち着きを見せた頃だった。
老衰だった。病ではない。ただ、時間が来た。
アリエルは枕元に呼ばれた。
「……来てくれたね、エルフ」
「来た」
「約束、よく守ってくれたな」
城の食卓にナトゥーが戻った。
王が公式に「精霊の恵みの食品」と宣言した。
貧者の食べ物、という言葉は公式の場から消えた。
「守った」
「ありがとよ」
マーサは目を細めた。
「あんたは、ずっとこの世界にいるんだろう?」
「そうだ」
「じゃあ——また馬鹿なことが起きたら、また止めてくれよ。私はもう行くけど」
アリエルは答えなかった。
代わりに、老婆の皺だらけの手を、そっと握った。
マーサが目を閉じた。
穏やかな顔だった。
ナトゥーを愛した女の、穏やかな最期だった。
◇ ◇ ◇
その夜。
アリエルは泉のほとりに戻り、藁の腕輪を握った。
(また、一人)
九百年分の記憶に、また一つ、顔が加わった。
マーサの顔。コーリンの顔。エドワードの顔。ガレスの顔。カイルの顔。
みんな、笑って、老いて、大地に還った。
(それでも)
ナトゥーたちが、静かに囁く。
種は、残った。
マーサから教わった者たちが、また次の世代に教える。ガレスからエドワードへ渡ったように。その知恵は、簡単には死なない。
(そうだ。精霊は、繋がり続ける)
アリエルは空を見上げた。
星が出ていた。
九百年前と同じ星が、同じ場所で、同じように輝いている。
(あと百年)
ナトゥーたちの声が、遠くから、深くから、響いてくる。
時が満ちる、と。
芽胞が届く、と。
まだ見ぬ者が、この世界に来る。
(準備を、急がなければ)
アリエルは立ち上がった。
藁の腕輪が、かすかに温かく脈打った。
まるで——遠い未来から、誰かが応えているかのように。




