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転生エルフは納豆が食べたい!【第0幕】過去編:発酵の聖者と、時空を渡る芽胞  作者: Geo
第一章 【精霊の愛し子】

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3/5

知恵の恩恵と王国の誕生

その冬は、残酷だった。


エルンの森に記録された過去八百年の中でも、指折りの厳冬だとアリエルは思った。

川が凍った。それだけなら毎年のことだ。だが今年は、川底まで凍りついた。魚が取れない。

雪が降り続けた。それも毎年のことだ。だが今年は、屋根が潰れるほどの重さで降り積もった。

集落の人間たちが建てた小屋の半分が、雪の重みで傾いた。


アリエルが集落を訪ねたのは、初雪から一ヶ月が過ぎた頃だった。


(……深刻だ)


集落に入った瞬間、ナトゥーたちの声が曇る。


咳の音があちこちから聞こえる。子供だけでなく、大人も老人も。薄い布を何枚も重ねて体に巻き、それでも震えている。


食料が尽きかけている匂いがする——正確には、栄養が足りていない人間の体から漂う、特有の衰弱の気配だ。


「アリエル様……!」


リナが駆け寄ってきた。


三年前に比べて背が伸びたが、今日の顔色は悪い。頬が少し落ちている。


「食べているか」

「……少し」

「少し、ではどのくらい」


リナが目をそらした。


子供は正直だ。嘘をつくのが下手だ。

アリエルは集落の中を歩きながら、状況を把握した。


秋に蓄えた干し肉と根菜は、今月いっぱいで底をつく。

川は凍り、雪の下の獣道は読めない。狩りに出れば遭難の危険がある。


このまま春を待てば——。


(計算したくないけど、するしかない)


答えは、あまり楽観的なものではなかった。


ガレスが、アリエルの前に頭を下げた。


小屋の中。

焚き火の周りに、集落の長たちが集まっている。

全員の顔に疲弊と焦りが滲んでいた。


「申し訳ありません、アリエル様。世話をかけるつもりはなかったのですが……」

「謝罪は後でいい。今は状況確認を」


アリエルは焚き火の前に座った。


「ディーズ豆はあるか」

「……は?」

「秋に収穫した豆。残っているか」


ガレスが隣の男と顔を見合わせた。


「は、はあ……種籾用に少しと、食用に二袋ほどは」

「それと——稲わらは?」

「ございます。屋根の補修材として積んでありますが」

「持ってきなさい。豆も、わらも、全部」


集落の長たちが困惑した顔で互いを見る。


この厳冬に、食料になりもしない藁と、わずかな種用のディーズ豆を全部出せとは、一体何を——。


だが誰も、アリエルの言葉に逆らわなかった。

八百年生きた者の「持ってきなさい」には、逆らえない何かがある。


 ◇    ◇    ◇


ディーズ豆が届いた。

わらが届いた。


アリエルは集落で一番大きな小屋の中に、作業の場を作った。

焚き火を盛大に燃やし、小屋の中を温める。


「まず、ディーズ豆を煮る」


アリエルは言いながら、鍋に豆と水を入れて火にかけた。

集落の女たちが、恐る恐る周りに集まってくる。リナも、小屋の隅で膝を抱えて見ている。


「アリエル様、豆を煮て……食べるんですか?」

「食べるけど、まずは別のことをする」

「別のこと?」


アリエルは稲わらの束を手に取った。

指先で、わらの表面をそっと撫でる。

ナトゥーたちの気配が、強く、温かく返ってきた。


(いる。たくさん、いる)


「このわらの中に」とアリエルは言った。「精霊が住んでいる」


女たちが顔を見合わせた。


「わらの中に……精霊が? こんな枯れ草の中に?」

「エルフにとっての精霊は、人間が思うような——光り輝く、人の形をした存在ではない」


アリエルはわらを持ったまま、焚き火の光の中で続けた。


「目には見えない。でも確かにいる。ひどく小さな、命だ」

「……信じていいんですか、それ」


女の一人が、率直に聞いた。正直な人間だとアリエルは思った。


「信じなくていい。ただ、やり方を見ていなさい。結果が証明する」


 ◇    ◇    ◇


豆が柔らかく煮えた頃、アリエルは作業を始めた。


鍋から豆を取り出し、稲わらの上に並べる。

わらを折り畳んで豆を包む。

さらにわらで巻いて、包みを作る。


「温度が大事」


アリエルは言いながら、包みを焚き火の近く——ただし直接炎が当たらない場所に置いた。


「熱すぎても、冷えすぎてもいけない。丁度良い湿り気も必要。人の体温よりも少し高いくらいを保ち続けること。布で覆ってもいい。とにかく、一定の温かさを切らさないように」


「それで……どうなるんですか?」


「明日になったら、見せる」


女たちはまだ半信半疑だったが、アリエルの指示通りに包みの番をした。夜通し、交代で焚き火の薪をくべ、温度を保ち続けた。


 ◇    ◇    ◇


翌朝。


アリエルが小屋に入ると、女たちが包みを囲んでいた。


「アリエル様、なんか……匂いが」


「糸みたいなのが出てる!」


包みを開くと——白い糸が、豆を覆っていた。

ネバネバとした、独特の芳醇な香りが立ち上る。


女の一人が「うっ」と顔をしかめた。「くさい」と呟く声が聞こえた。

リナは逆に、興味津々で顔を近づけた。


「なにこれ! ディーズ豆が変わってる!」


「変わったんじゃなくて」とアリエルは言った。「生まれた」


「……生まれた?」


「わらに住んでいた精霊たちが、豆の中で増えて、豆を作り変えた。これが——ナトゥー」


小屋の中が、静まり返った。


焚き火が、パチリと音を立てた。


「……食べられるんですか、これ」


ガレスが、少し引きつった顔で聞いた。


「食べられる。食べなさい」

「あ、あの、アリエル様……」

「私が先に食べる」


アリエルは箸代わりの木の枝で、ナトゥーをひとつまみ、口に入れた。

ナトゥーたちが舌の上で弾ける。

馨しい。

発酵の香りと、豆の甘みと、わらの土臭さが混ざり合った、複雑で豊かな味。


(久しぶりだ)


目を細める。


八百年、何度も作ってきた。自分一人のために。あるいは、ナトゥーの研究のために。

それを、人間たちに教える日が来るとは——。


「……美味しい?」


リナが恐る恐る聞いた。


「美味しい」


断言すると、リナが「じゃあ私も!」と手を伸ばしてきた。


「リナ!」とガレスが慌てた。

「まだ何かわからないんだぞ」

「大丈夫」とアリエルが言った。

「毒はない。それどころか——」


 ◇    ◇    ◇


アリエルは、説明した。

ナトゥーに含まれる栄養の話を。


ディーズ豆そのものが持つ豊かな栄養が、ナトゥーの精霊によって分解され、体に吸収されやすくなること。身体が健康になる成分が増えること。お腹の中の内臓との相性が良く、体の抵抗力が上がること。


アリエルは、「生命の力が、凝縮されている。精霊の恵みが、体の奥まで届く」という言葉で語った。


それでも——意味は伝わった。




最初に口をつけたのはリナだった。


「……んっ」


独特の香りに、一瞬顔をしかめた。

でも飲み込んで、少しの間があって。


「食べられる……おいしい、かも?」


その一言が、場の空気を変えた。

子供が美味しいと言ったなら、大人も試してみるしかない。

恐る恐る、一人、また一人とナトゥーを口にした。

反応はさまざまだった。


「……これは、なかなか」と目を見開く老人。


「くさい、でもなんか食べたくなる」と正直に言う中年の男。


無言でもう一口取る女。


ガレスは最後まで躊躇っていたが、リナに「お父さんも食べてよ!」と背中を押されて、ようやく口をつけた。


一瞬の沈黙。


「……これは」

「美味しい?」

「……食べ物だな」

「それは当たり前では」

「いや、そういうことじゃなくて」ガレスが言葉を探した。「なんというか——体の中に、力が入ってくる感じがする。胃が、喜んでいるような」


アリエルは少し笑った。


「それが、ナトゥーの精霊の仕事」


 ◇    ◇    ◇


その冬、集落の人間たちはナトゥーを食べ続けた。


毎日、アリエルが来て作り方を教えるわけではない。一度教えた手順を、女たちが繰り返した。わらを使い、豆を煮て、温度を保つ。


失敗することもあった。温度が低すぎて菌が育たない。高すぎて死ぬ。湿り気が足りない。わらの選び方が悪くて精霊が少ない。


そのたびにアリエルのもとに使いが来て、アリエルは泉から集落まで歩いて、また一から教えた。


「温度は、手のひらを当てて『温かいけど熱くはない』くらい」


「わらは、秋の収穫直後のものが一番精霊が多い。時間が経つと減る」


「ディーズ豆は、完全に柔らかくなるまで煮ること。芯が残っていると、精霊が中まで届かない」


何度も、何度も。


アリエルは飽きなかった。


八百年生きた者には、せっかちという感覚がない。

人間の学習速度は遅い——だが確実に、前回より上手くなっている。それで十分だった。



 ◇    ◇    ◇


春が来た。


あの残酷な冬を、集落の全員が生き延びた。

一人も欠けることなく。


ガレスは、アリエルの前に改めて膝をついた。


「……本当に、ありがとうございます」

「春になったら稲を植えなさい。ディーズ豆も、去年の倍の量を」

「はい。必ず」


「それと」とアリエルは言った。「ナトゥーの作り方を——外に伝えてもいい」


ガレスが顔を上げた。


「いいんですか?」

「精霊の恵みは、独り占めするものじゃない」


アリエルは立ち上がり、芽吹き始めた森を見た。


「あなたたちの集落が豊かになれば、人が集まる。人が集まれば、街になる。街になれば、ナトゥーの知恵がさらに広まる」


「アリエル様……それは、私たちに、大きくなれと?」

「生きることと、大きくなることは、ちょっと違う」


アリエルは振り返った。


「でも——豊かに生きていれば、自然と周りが寄ってくる。それでいい」



それから十年。

集落は街になった。


二十年で、街は城壁を持つようになった。

三十年で、周辺の小集落を束ねる盟約ができた。


ガレスの息子が、その盟約の長になった。


五十年で——その盟約は、一つの王国の形を取り始めた。

人々はその国を「ガルディア王国」と呼んだ。


由来は、エルンの森の南端に最初に定住した時、ガレスが仲間たちに言い続けた言葉からだ。


「——守る。この森を、この命を、この恩を」


ガルディア、とは古い人間の言葉で「守護」を意味する。


 ◇    ◇    ◇


初代王となったガレスの息子——エドワードが、即位の礼をアリエルに告げに来た日。

アリエルは相変わらず、泉のほとりに座っていた。


「アリエル様。父が——ガレスが、亡くなりました」

「……知っていた」

「知って、いたのですか」

「菌が教えてくれた。土の匂いが変わったから」


エドワードは少し黙った。


「……父は最後まで、アリエル様のことを話していました。あの冬のことを。わらとディーズ豆のことを。リナが最初に美味しいと言ったことを」

「リナは元気か」

「はい。今は三人の子の母親です」


アリエルは目を細めた。


「そうか」


また一人、知っている顔が年を取った。

またいつか——大地に還る。

八百年で慣れたはずなのに、こればかりは慣れない。


「アリエル様」


エドワードが、父と同じように膝をついた。


「ガルディア王国は、エルンの森との共存を国是と定めます。稲の収穫時には必ずエルフの方々へ捧げものをする。ナトゥーの知恵を忘れない。それを——国の礎とすることを、誓います」


アリエルは長い間、黙っていた。


泉の水面が、春風に揺れた。


「……ガレスは、いい子を育てた」


それだけ言った。


エドワードが、こらえきれずに泣いた。


 ◇    ◇    ◇


ガルディア王国が生まれた年の秋。


収穫祭の夜、アリエルは一人、エルンの奥深くへと歩いた。

誰も立ち入れない、古い巨木が立ち並ぶ場所。

その中央に、苔むした大きな岩がある。


アリエルはその岩の前に座り、目を閉じた。

ナトゥーたちの声が、いつもより静かに、深く響いている。


(もうすぐ)


(もうすぐ、何が)


(——準備を、始めなさい)


アリエルは目を開けた。

翡翠と琥珀の瞳が、岩の表面をじっと見る。


「準備」


呟いた声が、森に吸い込まれた。


(私が——この先にいられる時間は、あとどのくらい)


ナトゥーたちは答えなかった。

答えないことが、答えだった。


アリエルは左手首の藁の腕輪を握った。

カイルが編んでくれた、あの腕輪。もう何百年も前のものなのに、朽ちることなく今も巻かれている。


ナトゥーたちが守っているから、とアリエルは思っていた。


——あるいは。


この腕輪は、まだ渡す相手がいないから、朽ちることができないのかもしれない。


「記録しなければ」


アリエルは岩に手を触れた。

自分が知るすべてを。ナトゥーの力の使い方を。発酵の知恵を。この森の歴史を。


いつか来る、その子のために。


大地を越え、時を越えて、芽胞に乗せて送り届けるはずの——魂のために。

遠くから、ガルディアの収穫祭の篝火の明かりが、木々の間から瞬いていた。


人間たちが歌っている声が、かすかに聞こえる。


アリエルはそれを聞きながら、岩に向かってゆっくりと語り始めた。


千年分の知恵を。

千年分の記憶を。

千年後に目覚めるはずの、まだ見ぬ者のために。

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