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転生エルフは納豆が食べたい!【第0幕】過去編:発酵の聖者と、時空を渡る芽胞  作者: Geo
第一章 【精霊の愛し子】

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2/5

迷い来た弱き者たちと、稲作の始まり

今から二百年前。

アリエルは、八百年を生きていた。


泉のほとりに座り、目を閉じ、ナトゥーたちの声に耳を傾けるその姿は、八百年前と何一つ変わっていない。白金の髪も、翡翠と琥珀の混じった瞳も。

ただ一つ違うのは——その静寂の重さだった。


八百年分の記憶を抱えた沈黙は、若い族人たちには近寄りがたい威圧感がある。

長老たちでさえ、アリエルが目を閉じて座っている時は、声をかけるのを遠慮した。


彼女が何を聞いているのか、何を考えているのか、誰にもわからない。

ただ、その翌朝に必ず何かが起きることだけは——族の全員が、経験として知っていた。



 ◇    ◇    ◇


ある秋の夜明け前。

アリエルはいつものように泉のほとりに座っていた。


(……来る)


ナトゥーたちの声が、いつもより少し騒がしい。

草の根を伝わる微細な振動。土壌の菌糸が拾い上げる、遠くの匂い。血と泥と、何日も風呂に入っていない人間の体臭と——それから。


(飢えの匂い)


アリエルはゆっくりと目を開けた。

夜明けの森は、まだ薄く紫がかった闇の中にある。木々の間から、一番星がかすかに見えた。

彼女は立ち上がり、森の南端へと歩き始めた。

急ぎもせず、ただ、引き寄せられるように。



 ◇    ◇    ◇


エルンの森の南端は、人間の領域と接している。

といっても、人間たちは普通、この森に近づかない。「妖精の森」「呪われた緑の迷宮」などと呼んで恐れ、遠回りして通るのが常だった。

だから、森の縁に人の影を見た時、アリエルは少し驚いた。


(多い)


五人、十人ではない。

ぼろぼろの布を体に巻き付けた人間たちが、二十人、三十人——いや、もっと。夜の闇の中で、森の縁に沿うようにして倒れ込んでいる。

老人、女、子供。

男たちも何人かいるが、傷を負って動けないか、消耗しきって立っていられない様子だ。

子供が泣いている。いや、泣く気力もなく、ただ小さく喘いでいる子供の姿が見えた。


(……ああ)


アリエルは足を止め、しばらく彼らを見た。


八百年。


長い時の中で、アリエルは何度もこういう場面を見てきた。戦に敗れた者、疫病に追われた者、干ばつで食いつめた者。人間という生き物は、こうして何度でも同じことを繰り返す。

それでも——目の前に飢えた子供がいれば、心は動く。

八百年経っても、その部分だけは変わらなかった。


(ナトゥー)


心の中で呼びかけると、温かい応答があった。


(わかってる。でも——いいよね?)


問いかけるのは精霊たちではなく、もっと遠くにいる誰かに向けてだ。長老たちに、族の掟に、そして自分自身の理性に向けて。


返事は来ない。


だからアリエルは、自分で答えを出した。


「——大丈夫ですか」


人間の言葉で、静かに声をかけた。


悲鳴が上がった。

当然だ。夜明け前の暗闇の森の縁から、突然声が聞こえたのだから。


「化け物だ!」

「妖精が出た!」

「逃げろ!」


逃げようとした者たちが、自分の足の弱さに気づいてその場に崩れ落ちる。

アリエルは動じなかった。

ゆっくりと、人間たちの前に歩み出た。木々の間から差し込み始めた、かすかな夜明けの光の中に立って。恐怖で凍りついた人間たちの視線が、一点に集中する。

白金の髪。尖った耳。人間よりも少し整いすぎた顔立ち。


「……エルフ」


誰かが、震える声で呟いた。

それが引き金になって、また悲鳴が起きかけた。だがアリエルは、手をゆっくりと前に差し出した。

武器はない。敵意もない。

ただ、手のひらを上に向けて——そこに、柔らかい光が灯った。


ナトゥーの精霊が宿る、淡い青白い光。


光は誰も傷つけない。ただ、夜明けの薄闇の中で、静かに暖かく輝いている。


しばらくして。


最初に動いたのは、子供だった。

泣く気力もなく喘いでいた小さな子が、光に引き寄せられるようにアリエルに近づいてきて——その手のひらをそっと、つついた。

光は揺れた。ふわり、と。


子供が、かすかに笑った。


その笑顔を見て、アリエルは決めた。


「—— ついてきなさい。食べるものと、眠れる場所を用意します」



 ◇    ◇    ◇


族の長老会議は、荒れた。


「なぜ人間を連れ込んだ!」

「自然の理を乱すとはこのことだ!」

「アリエル様、いくら貴女でも、これは越権行為では ——」


会議の場に集まった長老たちが、口々に抗議の声を上げる。


アリエルは静かに座っていた。

八百年生きた者の落ち着きで、嵐が過ぎるのを待つように。


「……言いたいことは?」


全員が言い切った頃を見計らって、アリエルは口を開いた。

長老の一人——六十年ほど生きた、族の中では古参の男が、苦い顔で言った。


「彼らを匿えば、人間の国々から詮索が来るかもしれません。エルンの森に人間がいると知れれば ——」

「その人間たちが逃げてきた国は、もう存在しない」


静かな声が、会議の場を制した。


「東の三カ国が争い、二カ国が滅びた。勝った国も今は内乱中。彼らを追ってくる者はいない」

「……なぜそれを」

「ナトゥーたちが教えてくれた。彼ら精霊は、どこまでも繋がっているから」


沈黙。


アリエルは続けた。


「子供が七人いる。その半分は、あと三日もすれば死ぬ」


また沈黙。


「彼らを追い出すことは、私には——できない」


できない、ではない。

しない、だ。


その意味を、長老たちは全員理解した。

八百年分の重みを持つ「しない」という言葉の前に、誰も何も言えなかった。


 ◇    ◇    ◇


人間たちは、森の南端に留まることになった。


エルンの深部には入れない。

エルフの聖域に近づいてはならない。

森の資源を過剰に採取してはならない。

それがアリエルが提示した条件だった。


人間たちの長らしき壮年の男——ガレスという名の、右腕に大きな傷を持つ元農夫——は、深々と頭を下げた。


「御恩は、一生忘れません」

「忘れなくていいけど、必死に思い出さなくてもいい」


アリエルは少し首を傾けた。


「ただ、生きなさい。それだけでいい」


ガレスは、何か言おうとして——言葉に詰まった。

八百年生きた者の目が、真っ直ぐに自分を見ている。憐れみでも蔑みでもない、ただ純粋な「生きてほしい」という意思を宿した目が。


男は、声を押し殺して泣いた。


 ◇    ◇    ◇


それから、人間たちの集落は少しずつ形を作り始めた。

アリエルは時々、集落の様子を見に行った。


「聖者アリエル様がいらした!」


子供たちが駆け寄ってくる。

初日に光をつついた子——名前はリナという、六歳の女の子——が先頭だ。


「アリエル様、今日は何しに来たんですか?」

「見に来た」

「何を?」

「みんなが、ちゃんと生きているか」

「生きてますよ!」とリナが胸を張った。

「今日は川でお魚も捕れたし!」


アリエルはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。


(よかった)


ナトゥーたちが耳元でさざめくように囁く。

子供の笑顔は、八百年経っても、少し胸が痛くなる。

それは——カイルの子供の顔を思い出すから。カイルの孫の顔を、ひ孫の顔を、玄孫の顔を思い出すから。


みんな、笑って、老いて、死んだ。


(でも今は、笑顔を見ていよう)


 ◇    ◇    ◇


集落が定住して三年目の春、転機が訪れた。


ガレスが、アリエルのもとを訪ねてきた。

いつもの泉のほとりに座るアリエルの前に、彼は何かを両手で捧げ持っていた。

細長い穂が、風に揺れている。


「……これは」

「稲です、アリエル様」


ガレスが膝をついた。


「故郷から持ってきた種籾たねもみがありまして。川のほとりの土を耕して植えてみたところ——実りました」

「川の土が、稲作に向いていた」

「それだけじゃない。この森の腐葉土を混ぜ込んだんです。アリエル様に教わったように——土の中の精霊さまを、大切にしながら」


アリエルは穂に手を伸ばした。

指先で、籾を一粒つまむ。

ナトゥーたちの声が、喜ぶように高くなった。


(豊かな菌が、根に共生している。よく育った種だ)


「美しい」


アリエルは静かに言った。


「感謝を」


ガレスが頭を下げた。


「これは——御恩返しのほんの欠片に過ぎません。これからも毎年、実りの季節に、エルフの方々へ稲を捧げさせてください。それが、私たちにできる唯一の感謝の形ですから」


アリエルは少しの間、穂を見ていた。

風が吹いて、白金の髪が揺れた。


「……一つだけ、聞いていいですか」

「はい」

「この稲——藁は、どうするつもりですか?」


ガレスが少し面食らったような顔をした。


稲の話をしているのに、なぜ藁の話を、という顔だ。


「は、はあ……燃やすか、屋根の材料にするか、家畜の寝床にするか……」

「捨てないで」


アリエルの声が、少し真剣になった。


「藁には、ナトゥーたちが住んでいる。ディーズ豆と合わせれば、とても大切なものが作れる。稲を育てたなら、ディーズ豆も育ててみなさい。来年、作り方を教えます」


ガレスは、その「大切なもの」が何なのか、わからなかった。


だがアリエルの目が、いつもの静かな落ち着きとは少し違う——どこか、弾むような光を帯びていたことは、後々まで覚えていた。



その夜。

アリエルは泉のほとりで、一人ナトゥーたちと話した。


(わかってる。もうすぐ、だよね)


精霊たちの答えは言葉ではない。温度と、微細な振動と、匂いの変化で伝わってくる。

翡翠と琥珀の瞳が、星空を映した水面を見つめる。

八百年分の記憶の中に、カイルの顔がある。疫病から救った族人の顔がある。戦乱の中で死んでいった数え切れない命がある。


そして——まだ見ぬ、遠い未来の誰かの顔がある。

名前も知らない。どんな顔かも知らない。

だが、ナトゥーたちが言う。いつか来る、と。

大地を越え、時を越え、芽胞が呼び寄せる魂が、と。


(その子が来た時のために)


アリエルは、藁の腕輪をそっと握った。

三百年前にカイルが編んでくれた、あの腕輪。

今も、左手首で静かに脈打っている。


(私は——記録しておかなければ)


ナトゥーの知識を、秘密を。そして、この森の歴史を。

いつか来るその子が、迷わないように。


稲穂が月光に照らされて、川のほとりで揺れていた。

それが、エルン族と人間たちの「稲の誓い」の始まりだった。

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