第3話 — 小ダンジョン第一層/角兎と粘塊
冷気が頬の皮を薄く削る。
石段を三段降りたところで、地上の湿った夏が、背後の膜の向こうに遠のいた。
前を行くリシェルの背は、松明の橙に細く縁取られ、呼吸に合わせてわずかに上下する。
剣は鞘から半ば抜かれ、刃先だけが闇の気配を探るように前へ伸びていた。
「隊列、再確認。――先頭、前衛二。私が右。バルドが左。中衛二。荷持ちは最後尾の一つ手前。後衛は一。」
短く、淀みなく、要点だけを置く声。
夜貴は革の背負子の紐をもう一段締め直した。
背板が鞭痕に触れるたび、じり、と細い火が散るが、痛みは既に“そこに居る”だけのものになりつつある。
(落とすな。走れと言われたら走る。止まれと言われたら止まる。――それだけだ。)
足裏に伝わる石の微かな起伏、苔の濃淡、壁を這う水筋の向き。
耳で空間を描くのではない。
灯りが作る輪と影の切れ目、湿りの厚さ、靴底に拾う滑りで、進むべき幅と危うい場所を見る。
やがて通路は人二人が並ぶのも窮屈な細さから、肩を少し広げられる程度の幅へと膨らんだ。
◆
「止まれ。」
リシェルの掌が水平に切られ、隊が一斉に足を止める。
前方、床の低い窪みに淡い透明がうごめいた。――スライム。
膝丈ほどの粘質の塊。
表層は水の皮膜のように張り、その内側で細かな気泡が生まれては消える。
濁った内部には、噛み砕かれた小骨や石屑が漂い、動くたびに白と灰が入れ替わる。
その“腹”に相当する濃いゼラチンの核がときどき脈打つのが見えた。
「三。――右壁側にも一。」
リシェルは視線だけを滑らせ、数を告げる。
「斬りは浅い。火で縮ませる。油、準備。」
前衛の左に入ったバルドが油袋の口を捻る。
夜貴は荷の中から予備の油皮袋を抜きやすい位置に寄せ、背の縄を一つ緩めた。
紐の端は掌半分の輪にして親指に掛ける。――落とさないための癖が、もう体へ染みる。
「撒く。」
声と同時、弧を描いて油が前方に散った。
床の苔が濡れ、粘塊の表層に薄い油の膜が乗る。
バルドが火打ち石を鳴らす。
ぱちりと火花。
二度目でぼうと炎が起こり、油の上に薄皮の火が走った。
スライムは音もなく“身を竦め”、内側から泡がちり、ちりと弾ける。
熱で外縁が縮み、内部の核が表層に押し上げられてくる。
熱い砂糖を焦がしたような甘い匂い――だがその背中を、大きな手で掴まれたような獣臭が覆う。
甘さはすぐに“腐りの甘い”に変わった。
喉が勝手に痙攣し、夜貴は歯を噛んで飲み込む。
「間合い、取りすぎるな。跳ねる。」
リシェルの声に、前衛が半歩詰める。
燃え縮んだスライムの皮が、ぴちゅと音を立てて裂け、熱に反応した一部が弾丸のように前へ弾け飛んだ。
夜貴は思わず背を丸め、肩で壁に当たって体重を逃がす。
熱塊は真横を掠めて壁で潰れ、焦げたゼラチンが黒い痕を貼り付けた。
(今のは――飛沫。距離を取りすぎても、覆いかぶさられる。)
「回収。」
後衛が火消しの砂を撒き、焦げ膜を削いで袋に入れる。
リシェルは二体目、三体目へと同じ手順で処理を重ねた。
油を散らし、火を通し、核の動きを確認してから近づく。
切るのは“死んでから”だ。
一連の動作が終わると、匂いだけが薄い層になって通路に残った。
「進む。」
夜貴は背負子の縄を締め直し、油袋を所定の位置に戻す。
呼吸は浅く、しかし乱れてはいない。
(見て、覚える。順序――撒く、燃やす、縮む、核を確認、近寄る、止めを刺す。焦げた皮は袋。床の油痕は踏み外す。……次。)
◆
通路が再び狭まり、天井の割れ目から垂れる水が細い筋を床に引いていた。
苔の色が、一部だけ濃く、ざらつきが少ない。
足を置けば滑る。
夜貴は一歩を小さく刻み、靴底の溝にぬめりが入らない角度を選ぶ。
「壁に手はつけるな。苔で手が滑る。」
リシェルの注意は短い。
彼女自身は“肩”で壁に触れてバランスを修正し、掌は常に自由に保った。
「……風。」
ソレンが後ろで呟いた。
通路の先から、温度の低い層が薄く押し寄せる。
冷たい空気が移動してくる時、狭い場所で気圧がわずかに変わる。
耳ではなく、鼻腔の内側の“冷え方”が違う。
(広間がある。あるいは、段差。……そして。)
リシェルが掌を上に向け、二度、軽く弾く。
合図は“注意”。
そのすぐ後ろ――ぴょんという軽い音が、視界の端を跳ねた。
それは兎だった。
だが、ただの兎ではない。
額の中央から、生え際を押し破って伸びる一本角。
根元は真珠色の象牙質に薄い血脈が差し、先端へ向かうほど透明度を増す。
まるで氷の欠片が、頭蓋からまっすぐ突き出たように見える。
瞳は黒曜石のように丸く輝き、耳は大きく、呼吸に合わせて内側の薄紅がふるえた。
毛並みは黄土がかった白で、背には野茨の枝のように細い棘毛が混じる。
後脚は太く、腱が硬く締まり、岩の上でも滑らず推進力を得られる形をしている。
鼻先がひくつき、地に近い低い匂いを嗅ぎ取る仕草。
その瞬間、額の角がすっと下がった。
「アルミラージ。」
リシェルの声は平坦だった。
「壁へ。幅を詰める。跳ぶ前に進路を奪う。」
前衛が右壁に密着し、盾を半身に構える。
通路中央に細い“袋小路”が人工的に作られた形になる。
角兎はその細道にまっすぐ入ってきた。
警戒ではない。好戦だ。
低く腰を落とし、後脚の腱がびんと弦のように張る。
次の瞬間、弾丸になった。
ズッ――!
空気が裂ける。
角が前へ伸び、盾の木をガンと抉る。
盾の表皮が裂け、木屑が白く飛ぶ。
前衛の腕に衝撃が走り、半歩分、足が滑った。
「縄!」
シグの短声。
夜貴は背で結った細縄の端を左手で抜き、右手に乗せると地面すれすれに向かって投げ滑らせた。
狙いは前脚ではなく、後脚。
跳び戻る瞬間、最も力が欲しい“蹴り出し”の腱だ。
縄が後脚のくるぶしにからりと掛かる。
角兎は二度目の突撃へ体を折りたたもうとしたが、足首が一瞬遅れた。
――その半歩を、リシェルの剣が貪欲に食う。
刃は横一文字に低く、喉の軟い毛をすっと割いた。
血は噴き出すのではない。
温い線が毛皮の内側を滑り降り、白から黄土へ、さらに黒ずむまでの時間が一呼吸。
角兎は前のめりに倒れ、角が石に当たってキンと薄く鳴る。
震えが全身を二度、三度と走り抜け、やがて止まった。
「角、根元で切断。神経が残っていると匂いが落ちる。」
ソレンが手早く処理に入る。
角の透明部分には霜のような曇りがわずかに現れ、体温から離れるにつれて氷の欠片めいて硬質になる。
リシェルは血で濡れた刃を軽く振り、布で拭った。
夜貴は自分の呼吸が速く、しかし浅くなりすぎていないことに気づいていた。
手の汗が縄に浸み、冷える。
だが、指の震えは止まっている。
「よく投げた。」
リシェルが言い、短く顎を引く。
それだけで十分だった。
(半歩。半歩奪えば、死ぬのはあいつで、奪われれば、死ぬのはこっちだ。)
角兎の死骸からは、草の匂いと鉄の匂いが混じった“温い”が立ち上っていた。
バルドが盾のひびを確かめ、舌打ちをひとつ置く。
「戻ったら板を替える。今日はこのまま持たせる。」
◆
通路は時折、細い落石の名残で歪み、天井の裂け目から雫が落ちて小さな穴を穿っている。
「そこ、足。」
リシェルの注意に合わせ、夜貴は靴裏を少し立て、踵に重心を置かず、足趾で石の縁を掴むようにして越える。
(壁の苔が濃い側は湿りが滞る。風は反対。地面の光の反射が濁るところは滑る……。)
「前方、スライム――二。」
再び粘塊。
だが今度は片方が天井から垂れていた。
下へ伸びる粘糸。
滴りの先端に透明な滴が膨らみ、石に落ちるとぷちりと小さく弾ける。
夜貴は肩が本能的に竦むのを、意図して押し戻した。
「上は油を点で。落とすな。床との二重火は酸欠になる。」
リシェルは油袋から指先一杯ほどをすくい、上へ指で跳ね上げる。
油の粒が糸に乗り、粘糸の途中で“節”を作る。
バルドの火打ちが一閃。
ぱつという小さな火。
粘糸の“節”のところから、全体がくにゃりと折れ、上の核が表層に寄る。
「今。」
前衛の片方が短槍を上へ突く。
槍先が核をぶちりと刺し、透明が濁りへ崩れて、上から下へ雪崩落ちる。
床のスライムはそれに反応し、跳ねる。
夜貴は半歩斜めに退いて、背板が石縁に触れない角度を保つ。
飛沫は前衛のすね当てにぺちりと貼りつき、直後に砂がかけられる。
(見た。覚えた。上の“点”と、下の“線”。火は薄く、酸は出さない。)
処理が終わると、通路には甘く腐った匂いだけが残り、湿気の層がわずかに温度を変えた。
匂いに慣れ始めている自分を、夜貴はどこかで冷ややかに眺める。
慣れは、危うい。
だが、慣れずに進むこともまた、危うい。
◆
広めの小部屋。
床には古い焚火の跡が灰の薄膜になって残り、周囲には骨の破片。
「ここは誰かの“通り道”だった。だが新しくはない。」
ソレンが膝をつき、灰を指でこすった。
指腹に残る黒が乾いている。
湿り気が少ないということは、最近火が入っていない。
「水、回す。」
バルドが言って水袋を投げ、若い団員から順に口をつける。
夜貴の番が来た。
喉に冷たさがすべり落ち、胃まで届く。
「荷の再配分をする。」
ソレンの帳面に従い、油袋と砂袋の位置を入れ替える。
背の重心が少し下がり、腰の帯が楽になる。
「紐の余りは結べ。揺れると音が出る。音が出ると“来る”。」
リシェルが淡々と告げる。
誰も反論しない。
誰も“何が来るのか”を確かめようと口にしない。
言葉は、時に匂いより敵を呼ぶ。
少しの休息の後、進む。
息は整った。
痛みは“続けられる痛み”の形になった。
背中の板は重いが、重さには意味がある。
◆
通路の床に、石が一枚だけ“浮いて”いる。
周囲よりわずかに白く、粉塵が溜まらず、踏み跡がない。
バルドが木棒でこつと叩く。
表面の砂がはらりと落ち、石が半分だけ沈む気配。
「蓋。落ちる。板、渡せ。」
中衛が短い渡し板を二本並べ、隊列は片足ずつ移る。
夜貴は肩の板が石縁に触れないよう、腰で重心を滑らせ、足趾で板を掴む。
落ちれば終わりだ。
終われば、誰も止まらない。
止まらないのが、この世界の“優しさ”だと、薄く理解する。
渡り切ったところで、リシェルが左手を少し上げる。
合図の意味は“静”。
前方、床の凹みに微細な波紋が走っていた。
何も落ちていないのに、内側からふるいのように震え、微かに泡が上がっては消える。
スライムだ。
見えない“浅い”の中に、透明が薄く溜まっている。
「踏むな。迂回。」
通路の壁と凹みの縁のわずかな隙間――人が横向きで通れるかどうかの幅。
前衛が先に体を差し入れ、盾を平にして擦らせる。
夜貴の番。
背板の角を壁に当てないよう、肩と腰の高さを互い違いにして通す。
肺で息を止めるのではない。
吐く息を細く長くし、胸郭の膨らみを抑える。
抜け切った瞬間、背の汗が風に触れて冷たかった。
(狭さは敵だが、狭さは敵の“速さ”も削ぐ。)
◆
角兎がもう一体、今度は二匹で寄せてきた。
先頭の一体が通路の中央を一直線、後続が半身分、右にずれて追う。
先頭が盾を抉り、二体目が空いた側面を狙う――群れの動きだ。
「前は受けず、逸らす。」
リシェルの声。
前衛の一人が盾の角度をわずかに変え、角の進路を半手ずらす。
角兎の首がすべり、石面に角先をこつと打つ。
その瞬間に、リシェルが踵で床を刻む。
乾いた音が通路に短く広がり、後続の兎の視線が一瞬右へ揺れた。
リシェルの剣はそこを刹那の“空席”とみなし、喉の窪みへ最短で落ちる。
血煙。温い金気。
足裏にぬるりとした滑りが走る。
夜貴は足を置く場所を見る――赤い反射を避け、黒ずんだ乾きへ。
背板は重い。
だが重さは軌道を安定させる。
安定は生を伸ばす。
一体目は盾で押し返された勢いのまま、シグの短槍を腹に受けて折れた。
後脚が痙攣し、地を掻き、やがて止まる。
ソレンは角の根元に刃を入れ、すぐさま布で拭う。
「匂いを残すな。次が寄る。」
夜貴は息を一度深く吸い、二度に分けて長く吐いた。
肺の中の冷気が、腹の奥まで道を作る。
(躱した。投げた。見た。覚えた。――まだ、いける。)
◆
やがて、滴の音が疎らになり、風の層が揺れの向きを変えた。
広間――と呼ぶには狭いが、寝床が取れるだけの空間。
床の中央に古い焚火の痕があり、壁には誰かが置いた石積みの風除けが残っている。
「第一層はここまで。野営を張る。」
バルドの区切り。
隊列に緊張から解放のたるみが一瞬だけ生まれ、それをリシェルの視線がすぐに梳く。
「灯り、二。対角。――煙は上へ。穴の方向に流す。寝床は壁に沿わせない。這うものが通る。半身分、浮かせ。」
短い指示が、必要な動作だけを呼び出す呪文のように機能する。
夜貴は麻布を床に敷き、背負子を外した。
肩甲骨の裏に散っていた火が、ほどける。
ソレンが薬草袋を開け、透明の液体の入った小瓶を出す。
「消毒。背。」
粗布をずらし、背を差し出す。
液体は最初に刺し、すぐに広がって冷たくなる。
肺が勝手に縮むのを意図で押し返し、吸う。吐く。吸う。吐く。
リシェルがそばにしゃがみ、薬指の腹で軟膏を薄く延ばした。
「走れる?」
「……はい。」
「なら、それでいい。」
それだけ。
慰めも叱責も、同じ高さで省略される。
それがありがたいと、夜貴は思った。
言葉は時に、体内の緊張を余計な方へ流す。
必要なものだけで、いまはいい。
炊き場では、乾燥肉と葱の端と穀粒を煮た薄い雑炊が温まり始めている。
木椀にすくってもらい、少し冷ましてから口へ入れる。
舌に残る塩と脂のわずかな甘さ。
胃が温かさをつかんで、全身へ送る。
昼間の黒パンより旨い。
旨い、という単語が、胸の内側へ灯をひとつ置く。
リシェルは壁際で刃を布で拭い、油を微かに含ませた革でさらに薄く磨いた。
ヨルキが視線を上げると、彼女は気づいても逸らさない。
ただ顎を小さく引く。
承認。――たぶん、それだけ。
でも十分だ。
「見張りは二巡。私とバルドが最初。次は中衛から一人と後衛。」
ローテーションが決まり、各々が寝床を整え、鎧の紐を緩める。
夜貴は足首の鎖の長さを確かめ、横向きに身を伏せた。
背板の“無い”軽さが、少し心細い。
だが、軽さは眠りを招く。
焚火のぱちという乾いた音が、不規則に間を空けながら続く。
湿りの層は冷たい。
でも、冷たさは生を締める紐になる。
瞼が重く、呼吸が静かに深くなる。
(今日だけは――勝った。荷を落とさなかった。角は避けた。火を見た。順序を覚えた。俺はまだ“荷持ち”で、剣は握らない。スキルも、力も、ない。けれど。)
意識の底で、一瞬だけ、角兎の角先と、飛び散った粘塊の飛沫が交互に浮かぶ。
どちらも、半歩。
半歩ずれれば、死ぬ。
(半歩を、これからも奪う。)
夜貴はそう決め、眠りへ沈んだ。
第一層の夜は、冷たいが、静かに更けていった。
◆
夢の手前で、ふいに眼がわずかに開いた。
見張りの交代の気配。
リシェルの低い声が、焚火越しに輪郭だけ届く。
「明日は二層に入る。群れが出る。――“吠え声”を、止める。」
返事の声。
鍋の蓋が触れ合う薄い金属音。
夜貴は再び目を閉じ、胸の奥の灯が消えないことを確かめるように、ゆっくり吐いた。
眠りが、今度はすぐに来た。
12話まで完成してます。