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第3話 — 小ダンジョン第一層/角兎と粘塊


冷気が頬の皮を薄く削る。

石段を三段降りたところで、地上の湿った夏が、背後の膜の向こうに遠のいた。

前を行くリシェルの背は、松明の橙に細く縁取られ、呼吸に合わせてわずかに上下する。

剣は鞘から半ば抜かれ、刃先だけが闇の気配を探るように前へ伸びていた。


「隊列、再確認。――先頭、前衛二。私が右。バルドが左。中衛二。荷持ちは最後尾の一つ手前。後衛は一。」


短く、淀みなく、要点だけを置く声。

夜貴は革の背負子の紐をもう一段締め直した。

背板が鞭痕に触れるたび、じり、と細い火が散るが、痛みは既に“そこに居る”だけのものになりつつある。


(落とすな。走れと言われたら走る。止まれと言われたら止まる。――それだけだ。)


足裏に伝わる石の微かな起伏、苔の濃淡、壁を這う水筋の向き。

耳で空間を描くのではない。

灯りが作る輪と影の切れ目、湿りの厚さ、靴底に拾う滑りで、進むべき幅と危うい場所を見る。

やがて通路は人二人が並ぶのも窮屈な細さから、肩を少し広げられる程度の幅へと膨らんだ。



「止まれ。」


リシェルの掌が水平に切られ、隊が一斉に足を止める。

前方、床の低い窪みに淡い透明がうごめいた。――スライム。

膝丈ほどの粘質の塊。

表層は水の皮膜のように張り、その内側で細かな気泡が生まれては消える。

濁った内部には、噛み砕かれた小骨や石屑が漂い、動くたびに白と灰が入れ替わる。

その“腹”に相当する濃いゼラチンの核がときどき脈打つのが見えた。


「三。――右壁側にも一。」


リシェルは視線だけを滑らせ、数を告げる。


「斬りは浅い。火で縮ませる。油、準備。」


前衛の左に入ったバルドが油袋の口を捻る。

夜貴は荷の中から予備の油皮袋を抜きやすい位置に寄せ、背の縄を一つ緩めた。

紐の端は掌半分の輪にして親指に掛ける。――落とさないための癖が、もう体へ染みる。


「撒く。」


声と同時、弧を描いて油が前方に散った。

床の苔が濡れ、粘塊の表層に薄い油の膜が乗る。

バルドが火打ち石を鳴らす。

ぱちりと火花。

二度目でぼうと炎が起こり、油の上に薄皮の火が走った。


スライムは音もなく“身を竦め”、内側から泡がちり、ちりと弾ける。

熱で外縁が縮み、内部の核が表層に押し上げられてくる。

熱い砂糖を焦がしたような甘い匂い――だがその背中を、大きな手で掴まれたような獣臭が覆う。

甘さはすぐに“腐りの甘い”に変わった。

喉が勝手に痙攣し、夜貴は歯を噛んで飲み込む。


「間合い、取りすぎるな。跳ねる。」


リシェルの声に、前衛が半歩詰める。


燃え縮んだスライムの皮が、ぴちゅと音を立てて裂け、熱に反応した一部が弾丸のように前へ弾け飛んだ。

夜貴は思わず背を丸め、肩で壁に当たって体重を逃がす。

熱塊は真横を掠めて壁で潰れ、焦げたゼラチンが黒い痕を貼り付けた。


(今のは――飛沫。距離を取りすぎても、覆いかぶさられる。)


「回収。」


後衛が火消しの砂を撒き、焦げ膜を削いで袋に入れる。

リシェルは二体目、三体目へと同じ手順で処理を重ねた。

油を散らし、火を通し、核の動きを確認してから近づく。

切るのは“死んでから”だ。

一連の動作が終わると、匂いだけが薄い層になって通路に残った。


「進む。」


夜貴は背負子の縄を締め直し、油袋を所定の位置に戻す。

呼吸は浅く、しかし乱れてはいない。


(見て、覚える。順序――撒く、燃やす、縮む、核を確認、近寄る、止めを刺す。焦げた皮は袋。床の油痕は踏み外す。……次。)



通路が再び狭まり、天井の割れ目から垂れる水が細い筋を床に引いていた。

苔の色が、一部だけ濃く、ざらつきが少ない。

足を置けば滑る。

夜貴は一歩を小さく刻み、靴底の溝にぬめりが入らない角度を選ぶ。


「壁に手はつけるな。苔で手が滑る。」


リシェルの注意は短い。

彼女自身は“肩”で壁に触れてバランスを修正し、掌は常に自由に保った。


「……風。」


ソレンが後ろで呟いた。

通路の先から、温度の低い層が薄く押し寄せる。

冷たい空気が移動してくる時、狭い場所で気圧がわずかに変わる。

耳ではなく、鼻腔の内側の“冷え方”が違う。


(広間がある。あるいは、段差。……そして。)


リシェルが掌を上に向け、二度、軽く弾く。

合図は“注意”。

そのすぐ後ろ――ぴょんという軽い音が、視界の端を跳ねた。


それは兎だった。

だが、ただの兎ではない。

額の中央から、生え際を押し破って伸びる一本角。

根元は真珠色の象牙質に薄い血脈が差し、先端へ向かうほど透明度を増す。

まるで氷の欠片が、頭蓋からまっすぐ突き出たように見える。

瞳は黒曜石のように丸く輝き、耳は大きく、呼吸に合わせて内側の薄紅がふるえた。

毛並みは黄土がかった白で、背には野茨の枝のように細い棘毛が混じる。

後脚は太く、腱が硬く締まり、岩の上でも滑らず推進力を得られる形をしている。

鼻先がひくつき、地に近い低い匂いを嗅ぎ取る仕草。

その瞬間、額の角がすっと下がった。


「アルミラージ。」


リシェルの声は平坦だった。


「壁へ。幅を詰める。跳ぶ前に進路を奪う。」


前衛が右壁に密着し、盾を半身に構える。

通路中央に細い“袋小路”が人工的に作られた形になる。

角兎はその細道にまっすぐ入ってきた。

警戒ではない。好戦だ。

低く腰を落とし、後脚の腱がびんと弦のように張る。

次の瞬間、弾丸になった。


ズッ――!


空気が裂ける。

角が前へ伸び、盾の木をガンと抉る。

盾の表皮が裂け、木屑が白く飛ぶ。

前衛の腕に衝撃が走り、半歩分、足が滑った。


「縄!」


シグの短声。

夜貴は背で結った細縄の端を左手で抜き、右手に乗せると地面すれすれに向かって投げ滑らせた。

狙いは前脚ではなく、後脚。

跳び戻る瞬間、最も力が欲しい“蹴り出し”の腱だ。

縄が後脚のくるぶしにからりと掛かる。

角兎は二度目の突撃へ体を折りたたもうとしたが、足首が一瞬遅れた。


――その半歩を、リシェルの剣が貪欲に食う。


刃は横一文字に低く、喉の軟い毛をすっと割いた。

血は噴き出すのではない。

温い線が毛皮の内側を滑り降り、白から黄土へ、さらに黒ずむまでの時間が一呼吸。

角兎は前のめりに倒れ、角が石に当たってキンと薄く鳴る。

震えが全身を二度、三度と走り抜け、やがて止まった。


「角、根元で切断。神経が残っていると匂いが落ちる。」


ソレンが手早く処理に入る。

角の透明部分には霜のような曇りがわずかに現れ、体温から離れるにつれて氷の欠片めいて硬質になる。

リシェルは血で濡れた刃を軽く振り、布で拭った。


夜貴は自分の呼吸が速く、しかし浅くなりすぎていないことに気づいていた。

手の汗が縄に浸み、冷える。

だが、指の震えは止まっている。


「よく投げた。」


リシェルが言い、短く顎を引く。

それだけで十分だった。


(半歩。半歩奪えば、死ぬのはあいつで、奪われれば、死ぬのはこっちだ。)


角兎の死骸からは、草の匂いと鉄の匂いが混じった“温い”が立ち上っていた。

バルドが盾のひびを確かめ、舌打ちをひとつ置く。


「戻ったら板を替える。今日はこのまま持たせる。」



通路は時折、細い落石の名残で歪み、天井の裂け目から雫が落ちて小さな穴を穿っている。


「そこ、足。」


リシェルの注意に合わせ、夜貴は靴裏を少し立て、踵に重心を置かず、足趾で石の縁を掴むようにして越える。


(壁の苔が濃い側は湿りが滞る。風は反対。地面の光の反射が濁るところは滑る……。)


「前方、スライム――二。」


再び粘塊。

だが今度は片方が天井から垂れていた。

下へ伸びる粘糸。

滴りの先端に透明な滴が膨らみ、石に落ちるとぷちりと小さく弾ける。

夜貴は肩が本能的に竦むのを、意図して押し戻した。


「上は油を点で。落とすな。床との二重火は酸欠になる。」


リシェルは油袋から指先一杯ほどをすくい、上へ指で跳ね上げる。

油の粒が糸に乗り、粘糸の途中で“節”を作る。

バルドの火打ちが一閃。

ぱつという小さな火。

粘糸の“節”のところから、全体がくにゃりと折れ、上の核が表層に寄る。


「今。」


前衛の片方が短槍を上へ突く。

槍先が核をぶちりと刺し、透明が濁りへ崩れて、上から下へ雪崩落ちる。

床のスライムはそれに反応し、跳ねる。

夜貴は半歩斜めに退いて、背板が石縁に触れない角度を保つ。

飛沫は前衛のすね当てにぺちりと貼りつき、直後に砂がかけられる。


(見た。覚えた。上の“点”と、下の“線”。火は薄く、酸は出さない。)


処理が終わると、通路には甘く腐った匂いだけが残り、湿気の層がわずかに温度を変えた。

匂いに慣れ始めている自分を、夜貴はどこかで冷ややかに眺める。

慣れは、危うい。

だが、慣れずに進むこともまた、危うい。



広めの小部屋。

床には古い焚火の跡が灰の薄膜になって残り、周囲には骨の破片。


「ここは誰かの“通り道”だった。だが新しくはない。」


ソレンが膝をつき、灰を指でこすった。

指腹に残る黒が乾いている。

湿り気が少ないということは、最近火が入っていない。


「水、回す。」


バルドが言って水袋を投げ、若い団員から順に口をつける。

夜貴の番が来た。

喉に冷たさがすべり落ち、胃まで届く。


「荷の再配分をする。」


ソレンの帳面に従い、油袋と砂袋の位置を入れ替える。

背の重心が少し下がり、腰の帯が楽になる。


「紐の余りは結べ。揺れると音が出る。音が出ると“来る”。」


リシェルが淡々と告げる。

誰も反論しない。

誰も“何が来るのか”を確かめようと口にしない。

言葉は、時に匂いより敵を呼ぶ。


少しの休息の後、進む。

息は整った。

痛みは“続けられる痛み”の形になった。

背中の板は重いが、重さには意味がある。



通路の床に、石が一枚だけ“浮いて”いる。

周囲よりわずかに白く、粉塵が溜まらず、踏み跡がない。

バルドが木棒でこつと叩く。

表面の砂がはらりと落ち、石が半分だけ沈む気配。


「蓋。落ちる。板、渡せ。」


中衛が短い渡し板を二本並べ、隊列は片足ずつ移る。

夜貴は肩の板が石縁に触れないよう、腰で重心を滑らせ、足趾で板を掴む。

落ちれば終わりだ。

終われば、誰も止まらない。

止まらないのが、この世界の“優しさ”だと、薄く理解する。


渡り切ったところで、リシェルが左手を少し上げる。

合図の意味は“静”。

前方、床の凹みに微細な波紋が走っていた。

何も落ちていないのに、内側からふるいのように震え、微かに泡が上がっては消える。

スライムだ。

見えない“浅い”の中に、透明が薄く溜まっている。


「踏むな。迂回。」


通路の壁と凹みの縁のわずかな隙間――人が横向きで通れるかどうかの幅。

前衛が先に体を差し入れ、盾を平にして擦らせる。

夜貴の番。

背板の角を壁に当てないよう、肩と腰の高さを互い違いにして通す。

肺で息を止めるのではない。

吐く息を細く長くし、胸郭の膨らみを抑える。

抜け切った瞬間、背の汗が風に触れて冷たかった。


(狭さは敵だが、狭さは敵の“速さ”も削ぐ。)



角兎がもう一体、今度は二匹で寄せてきた。

先頭の一体が通路の中央を一直線、後続が半身分、右にずれて追う。

先頭が盾を抉り、二体目が空いた側面を狙う――群れの動きだ。


「前は受けず、逸らす。」


リシェルの声。

前衛の一人が盾の角度をわずかに変え、角の進路を半手ずらす。

角兎の首がすべり、石面に角先をこつと打つ。

その瞬間に、リシェルが踵で床を刻む。

乾いた音が通路に短く広がり、後続の兎の視線が一瞬右へ揺れた。

リシェルの剣はそこを刹那の“空席”とみなし、喉の窪みへ最短で落ちる。


血煙。温い金気。

足裏にぬるりとした滑りが走る。

夜貴は足を置く場所を見る――赤い反射を避け、黒ずんだ乾きへ。

背板は重い。

だが重さは軌道を安定させる。

安定は生を伸ばす。


一体目は盾で押し返された勢いのまま、シグの短槍を腹に受けて折れた。

後脚が痙攣し、地を掻き、やがて止まる。

ソレンは角の根元に刃を入れ、すぐさま布で拭う。


「匂いを残すな。次が寄る。」


夜貴は息を一度深く吸い、二度に分けて長く吐いた。

肺の中の冷気が、腹の奥まで道を作る。


(躱した。投げた。見た。覚えた。――まだ、いける。)



やがて、滴の音が疎らになり、風の層が揺れの向きを変えた。

広間――と呼ぶには狭いが、寝床が取れるだけの空間。

床の中央に古い焚火の痕があり、壁には誰かが置いた石積みの風除けが残っている。


「第一層はここまで。野営を張る。」


バルドの区切り。

隊列に緊張から解放のたるみが一瞬だけ生まれ、それをリシェルの視線がすぐに梳く。


「灯り、二。対角。――煙は上へ。穴の方向に流す。寝床は壁に沿わせない。這うものが通る。半身分、浮かせ。」


短い指示が、必要な動作だけを呼び出す呪文のように機能する。

夜貴は麻布を床に敷き、背負子を外した。

肩甲骨の裏に散っていた火が、ほどける。


ソレンが薬草袋を開け、透明の液体の入った小瓶を出す。


「消毒。背。」


粗布をずらし、背を差し出す。

液体は最初に刺し、すぐに広がって冷たくなる。

肺が勝手に縮むのを意図で押し返し、吸う。吐く。吸う。吐く。

リシェルがそばにしゃがみ、薬指の腹で軟膏を薄く延ばした。


「走れる?」


「……はい。」


「なら、それでいい。」


それだけ。

慰めも叱責も、同じ高さで省略される。

それがありがたいと、夜貴は思った。

言葉は時に、体内の緊張を余計な方へ流す。

必要なものだけで、いまはいい。


炊き場では、乾燥肉と葱の端と穀粒を煮た薄い雑炊が温まり始めている。

木椀にすくってもらい、少し冷ましてから口へ入れる。

舌に残る塩と脂のわずかな甘さ。

胃が温かさをつかんで、全身へ送る。

昼間の黒パンより旨い。

旨い、という単語が、胸の内側へ灯をひとつ置く。


リシェルは壁際で刃を布で拭い、油を微かに含ませた革でさらに薄く磨いた。

ヨルキが視線を上げると、彼女は気づいても逸らさない。

ただ顎を小さく引く。

承認。――たぶん、それだけ。

でも十分だ。


「見張りは二巡。私とバルドが最初。次は中衛から一人と後衛。」


ローテーションが決まり、各々が寝床を整え、鎧の紐を緩める。

夜貴は足首の鎖の長さを確かめ、横向きに身を伏せた。

背板の“無い”軽さが、少し心細い。

だが、軽さは眠りを招く。

焚火のぱちという乾いた音が、不規則に間を空けながら続く。

湿りの層は冷たい。

でも、冷たさは生を締める紐になる。

瞼が重く、呼吸が静かに深くなる。


(今日だけは――勝った。荷を落とさなかった。角は避けた。火を見た。順序を覚えた。俺はまだ“荷持ち”で、剣は握らない。スキルも、力も、ない。けれど。)


意識の底で、一瞬だけ、角兎の角先と、飛び散った粘塊の飛沫が交互に浮かぶ。

どちらも、半歩。

半歩ずれれば、死ぬ。


(半歩を、これからも奪う。)


夜貴はそう決め、眠りへ沈んだ。

第一層の夜は、冷たいが、静かに更けていった。



夢の手前で、ふいに眼がわずかに開いた。

見張りの交代の気配。

リシェルの低い声が、焚火越しに輪郭だけ届く。


「明日は二層に入る。群れが出る。――“吠え声”を、止める。」


返事の声。

鍋の蓋が触れ合う薄い金属音。

夜貴は再び目を閉じ、胸の奥の灯が消えないことを確かめるように、ゆっくり吐いた。

眠りが、今度はすぐに来た。




12話まで完成してます。

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