第2話 — 奴隷
金属の衝突音と、下から突き上げるような揺れが、鼓膜と胃袋を同時に叩いた。
「うぅ、なんだ、何でっ……」
体を起こそうとして――腕が引かれる感覚に気づく。
手首と足首に、冷たい。
「……鎖?」
視線を落とすと、鉄の輪と、手枷。
繋がれた鎖が床の金具へと延びている。
服は薄汚れた粗布。
麻袋をそのまま被ったような、肌に痛い繊維。
周囲には、同じように鎖で繋がれた男女が数人。
頬のこけた青年、髪の短い女、白目を剥いてうわ言を言っている老人。
汗と恐怖と汚物の混じった臭気が、狭い空間の中で熟成している。
木製の壁に囲まれたこの“部屋”はガタンゴトンと揺れ、節の多い板の隙間から外の景色が流れていく。
馬車――だが、檻だ。
手枷が外れないか、手首をねじる。
皮膚が擦れて、金属の冷たさの奥に火照りが広がる。
外れる気配は微塵もない。
「チッ、何なんだこれは!?」
思わず大きめの声が漏れた。
すぐに罵声が、壁の覗き穴から飛んでくる。
「うるせぇぞ!?殴られてぇーか!!」
「ッ!?ちょ、どこですかここ!?」
「は?あぁーお前、あれだ、道の真ん中で呑気に寝てたアホか」
男の声はゲラゲラ笑い、その笑いには人の形をした何かの匂いがした。
「アホ……」
口の中で繰り返す。
現実感が遅れてやってくる。
「俺は奴隷商でお前は俺の奴隷、状況わかったか?銀貨五枚で売れる奴隷だ!!ハハハハハハハッ、俺も運が良いぜ」
「奴隷ってそんな時代錯誤な……何かのドッキリ番組ですか?」
自分で言いながら、声が上ずっているのがわかった。
希望は滑稽だ。
「どっきり……?何言ってんだ、頭おかしくなったか?」
男は心底どうでもよさそうに吐き捨て、唾を吐く音が続いた。
乾いた板にぴちゃ、と湿りが貼り付く。
「と、とにかくここから出して下さいよ!!仕事があるんですから!!」
「あー、ぴーちくぴーちくうるせぇな。鞭打ちするか」
「は?ちょ、何言ってるんですか!?」
揺れていた地面が次第に落ち着いた。
檻馬車は完全に止まったようだ。
がく、と車輪が溝に落ちる音。
外で何人かの足音が土を踏む。
扉が開く。
湿り気を帯びた外気が流れ込み、汗の冷たさが背骨を走った。
扉の先には、ガタイの良い禿げた大男が一人。
毛皮で作られた服は汗で暗く染み、腕には古傷が縄のように盛り上がっている。
「な、ちょ――」
その太い腕が伸び、夜貴の両手の鎖の末端を掴む。
手首の骨が軋み、体は無造作に引き摺り出された。
外は空気が重い。
見上げた空は低い雲で覆われ、昼なのか夜なのか、光は不明瞭だった。
どこかの原野。
遠くに、壁のように組まれた木柵。
その向こうに、粗末な屋根がいくつも並んでいる。
足元の土は乾いてひび割れた場所と泥の水たまりがまだらに混ざり、革靴はそのどちらにも向かない。
抗議の一つでもしてやろうと、夜貴は顔を上げる。
その瞬間、ガツン、と拳が頬を打った。
「ギッ!?」
視界の端で白い火花が散り、鼓膜の内側で鈍い鐘が二つ三つ、乱打される。
殴られた頬が切れたのか、口の中に鉄の味が広がった。
何とか倒れずに膝を踏ん張り、男を睨み上げる。
男は鼻で笑い、犬歯を見せた。
「生意気な目だな。調教してやらねえと、クレームになっちまうか」
「何なんだお前は!?警察が黙っていないぞ!!」
「けいさつー??なんだそりゃ」
男の眉が本気で不思議そうに動く。
言葉が通じない穴が、喉の奥へ開いた。
「暴行罪で被害届をっ――ウッ」
突然放たれた蹴りが腹を突き、くの字に曲がった体が僅かに持ち上がる。
足の力が抜け、地面に崩れ落ちた。
胃液が喉を焼き、せり上がった酸が鼻の裏を刺す。
「ゴホッ……ゴホッ」
「おい、鞭を寄越せ」
「へい、ここに」
奴隷商――ドランと呼ばれた男が、子分から革の鞭を受け取る。
鞭は太く、先端が細かく割れていた。
乾いた革の匂いに、古い血の酸いにおいが混じっている。
バチン、と試し打ち。
空気が裂け、地面の砂が跳ねる。
「鞭打ちは初めてか?」
ドランはにやりと笑い、肩を軽く回した。
その笑みは、感情ではなく癖のように口元に貼りついている。
腹を押さえて蹲った夜貴の背中に、鞭が落ちた。
バチィン――!
「イギイィッ!!??」
皮膚が剥ぎ取られるような痛み。
瞬間的な電撃の直後に、炙られているかのような熱が遅れて襲う。
脊髄が勝手に跳ね、肺が縮み上がる。
喉から絞り出される声は、自分のものではないようだった。
「ははは、そうか。気持ち良いか」
嘲る声が耳朶に貼り付き、剥がれない。
二発目。
バチィン――!
背の別の場所で皮膚が裂け、最初の傷と二つ目の傷の間で、神経が相互に火花を散らす。
「キャアッ!!??」
声が裏返り、涙腺が勝手に開く。
涎が口端から糸を引き、土に落ちる。
三発目。
四発目。
肉が軋み、血がすぐに滲み出て、粗布に濃い色を広げる。
布が傷口に貼り付き、剥がれるたびにまた別の痛みが生まれる。
「たすけ、助けてっ――ギィアッ!!」
意味のある言葉はもう続かない。
逃げようと無意識に手が伸びるが、鎖が床の金具に引かれて腕は半ばのところで止まる。
鉄の冷たさが手首の内側の皮膚を押し潰し、そこから別の痛みが生まれる。
「女みてぇに鳴きやがるな。いい声だ」
ドランの嗤いは、乾いた獣の喉の音に似ていた。
その嗤いが、痛みと同じくらい、夜貴の神経を焼いた。
五発目。
六発目。
皮膚はもう、破れた紙のように音もなく裂ける。
血は熱を持ち、生暖かい川となって背に流れる。
汗と混じり合って、塩気と鉄と革のにおいが渦を巻く。
涙と涎が混じり合い、土と一緒に歯の間に入る。
砂粒が、歯茎を擦る。
周囲の奴隷たち――誰も助けない。
助けられない。
視線は逸れるか、がらんどうに空を見つめるか、どちらかだ。
「次は誰だ」
子分の一人が退屈そうにぼやく。
遠くで、鳥が一声鳴いた。
空は曇っているくせに、明るい。
何度も、何度も鞭が打ち下ろされ、全身が灼けるような痛みに支配されていった。
世界は痛みのために狭まり、視界は暗く、耳鳴りがひとつの長い音になって、やがて音楽のような単調さで頭蓋の中を満たす。
――これはドッキリだ。
――誰かがカメラを持って笑っているに違いない。
――警察が、すぐに来る。
――目が覚めれば、さっきの居酒屋の天井だ。
――明日、また営業に行って、汗をかいて、断られて、ビールを飲んで――
希望の形をした考えは、鞭の音で一つずつ割られ、土の上で潰れていった。
嗤い声。
鞭の音。
血の匂い。
平和な日本で生きてきた常識が、音を立てて崩れていく。
龍間夜貴の人生は、もう二度と元には戻らない。
ドランが鞭を止め、肩で息をする夜貴の髪をつま先で踏んだ。
「顔を上げろ、痩せ犬」
強制された角度で視界が持ち上がる。
木柵の向こうに、粗い看板がぶら下がっていた。
焼き印のように黒い文字。
そこに記されていたのは、この場のすべてを要約する、たった一語。
――市。
奴隷市。
夜貴は、唇の内側を噛んだ。
血の味がまた、口に広がった。