第1話 — 迷い人
蝉の鳴き声が耳を埋め尽くす。
アスファルトから立ち上る熱気は陽炎のように景色を揺らし、肺に入る空気すら熱い。
肌を焼き焦がす真夏の陽光に辟易しながら——営業部の新米サラリーマン・龍間夜貴(たつま よるき・二十五歳)——は、革靴の爪先で地面を押し出すようにして次の営業先へ歩を進めていた。
まだ革の匂いが抜けきらない新品の靴が、アスファルトを小気味よく叩く。
だがその“コツ、コツ”という規則正しい音は、靴擦れの痛みを意識に浮かばせ、汗ばむ襟足をいっそう苛立たせる。
通りの並木は真昼の光に白く乾き、ビルのガラス面は巨大な光源のように熱を跳ね返していた。
喉の渇きを無視して歩数を刻む。
腰のカバンの中でパンフレットの角が揃い、冷えの抜けたペットボトルの水が、ぬるい。
「はぁ……」
小さく息を吐き、夜貴は目的のビルの前で立ち止まった。
深呼吸をひとつ。
額の汗を袖口で拭い、玄関のインターホンを押す。
「ピンポーン」
硬質な音が短く響き、間もなく若い女性の声が応じた。
「はい、どのようなご用件でしょうか?」
喉を整え、用意してきたセールストークを正確に舌に乗せる。
「突然失礼いたします。私、藤松商事の龍間と申します。空調設備を専門に扱っておりまして――この異常な猛暑を快適に過ごしていただける最新機種をご紹介に参りました。ご契約いただければ定期メンテナンスなどの特典も……」
「少々お待ちください」
短い沈黙。
遠くで紙をめくるような音。
誰かの小声。
数十秒の後、冷えた声が戻ってきた。
「申し訳ありません。上司の指示で……その、間に合っておりますので」
用意していた笑顔を、肌に貼り付けた。
「そうですか。では最新情報をまとめたパンフレットをこちらに……本日はお時間いただきありがとうございました」
ビルのエントランスの影は短く、陽の刃は容赦なく首筋を刺し続ける。
夜貴はネクタイを指先で少し緩め、足を動かした。
「はぁ……新規開拓はやっぱり骨が折れるな。ノルマ、達成できるかどうか……」
歩道の端に並ぶ自販機のガラス越しに、自分の顔が歪んで映った。
汗に濡れた前髪、乾きかけの塩の跡。
「次。次だ」
ワイシャツの背にべったり貼り付いた布を剥がすように肩を回し、彼はまた歩き出した。
◆
数件目。
予熱のような断りが続き、パンフレットは軽くなるが受注の手応えは重いままだ。
昼過ぎ、コンビニで買った冷やし蕎麦を、狭いイートインで胃に流し込む。
周囲の席では同じようなスーツの男たちが、同じような愚痴と、同じような笑い方をしていた。
箸袋に印刷された企業ロゴが指に汗で張り付く。
スマートフォンの営業管理アプリには、今月のバーがいやらしいオレンジ色で止まっている。
あと二社、いや、三社。日数、訪問先、電話、メール。
画面を伏せ、夜貴は目を閉じた。
蝉の声が、店内の冷房の音に溶けて、なお五月蠅い。
午後の訪問は、かろうじて一件のアポ取りで終わった。
喉の奥に渇きがまとわりついたまま、太陽は傾く気配を見せない。
ビル風が熱ごと吹き抜け、汗の塩をもう一度皮膚に塗り広げていく。
◆
夕方。
会社に戻ると、部長が手を叩いた。
「よし、今日は上がるぞ。お前ら、行くぞ」
「行く」とは――飲み屋だ。
居酒屋の暖簾をくぐった瞬間、油と醤の匂いが鼻にせり上がってくる。
冷房の風が汗の膜を剥がし、背筋にぞわりと鳥肌が立つ。
席に着けば、ジョッキが並び、手が伸び、声が重なる。
「今月はお疲れ様!全体ノルマ、なんとか達成だ!乾杯!」
「乾杯ーー!」
喉に流し込んだ冷えたビールは、泡の刃で口内を掃き清め、黄金色の液体が食道を滑り落ちるたびに、全身の血が一瞬だけ早くなる。
「ぷはぁ……」
思わず漏れた吐息に、係長が笑った。
「龍間君、旨そうに飲むねぇ」
「ほんとに……ビールって最高ですね」
係長は四十歳、丸い顔に常に笑い皺が乗っている。
枝豆に塩を揉み込む手つきが、妙に優しい。
その席で、自然と視線を集めるのは後輩の凪だ。
人懐っこい笑顔、誰からも好かれる空気、そして営業成績は圧倒的。
注文の声の合間に、彼の名前が何度も飛ぶ。
「さすが凪君!」
「ほんと天才だ」
「いやいや、龍間さんだって六社契約じゃないですか!」
返す言葉に、夜貴は笑う。
「凪君は十五社とか、意味わかんない数字だけどね」
凪は肩をすくめた。
「それはまぁ、天才っすからね!!」
「おいおい、調子に乗るなよ凪君ー??」
「ぶ、部長!?冗談ですって冗談!!」
笑いが、油と酒のにおいの上に層をなして重なる。
夜貴はジョッキの濡れた側面に指を滑らせ、冷気が消えていく瞬間を見つめた。
同じ新人なのに、もう雲泥の差。
羨望は嫉妬に変わり、焦燥は胃の奥で熱を持つ。
――こういうの、向いてないのかもな。
その小さな声を、二杯目の泡で押し流す。
◆
解散。
暖簾の外に出ると、夜風はぬるく、街路樹の葉は汗のにおいを吸って重たい。
自宅までは歩いて三十分ほど。
タクシーを拾うほどでもない距離だ。
財布には今日の交通費の残り。
「今日は少し飲みすぎたな。やば、眠い……」
つぶやきながら、夜貴は歩道の白線を踏まないように歩いた、意味のない遊び。
子どもの頃にやったようなことを、いい年になっても時々やる。
脳が緩んでいる証拠だ。
街灯が等間隔に地面を照らし、影が繰り返し伸び縮みする。
自販機の明かりは水槽のように青く、交差点では信号の赤が濡れたように艶めいている。
住宅街に入ると、蝉の声は夜虫の擦れる音に置き換わり、アスファルトの熱だけがまだ地面の下に生きていた。
小さな段差。
目の端で拾い損ねた小石。
「ッ……!」
足首がぐにゃりと捻れ、視界が傾く。
体重が遅れて追いかけてくる。
次の瞬間――地面が額にぶつかり、世界は真っ暗に沈んだ。
◆
ぽたり、ぽたり、水滴の音が天井から落ちる。
冷たい石の匂いと湿った空気が鼻腔の奥を刺す。
目を開ける、息が白いような錯覚、頬に触れるのは土の冷たさと、小石の硬さ。
「……ここ、どこだ」
起き上がると、そこは雫滴る洞窟だった。
視界の端で、崩れかけた石壁が歪んで見える。
壁面には古めかしい彫刻、意味のわからない線と人のような獣のような影が連なっている。
足音が、湿り気を吸った地面に鈍く響く。
飲み会の酔いはまだ尾を引いており、頭の芯がじわじわ熱い。
「迷い込んだ……?いや、住宅街に洞窟なんてあるか……」
自分の声が、濡れた石で跳ね返り、耳の奥で二回三回と遅れて聞こえた。
出口を探し、わずかに開けた方へ進む。
空気の流れが、そちらからくる。
やがて視界の先に夜の蒼が滲んだ。
口を開けたような洞の先に、広がる黒い影。
外へ出ると、そこは夜の森――樹々の背は高く、葉は厚く、生臭い植物の匂いと湿土の匂いが肺を満たす。
舗装も街灯もない。
「えっと、どこ?」
答えは風の音に紛れて、どこにもない。
ぬかるんだ地面に革靴が半ば沈む。
ズボンの裾が泥を吸うたびに、冷えた不快が膝にさわる。
「取り敢えず、行くか」
帰りたい、家のシャワー、冷蔵庫の麦茶、ベッド。
夜貴は眠気と焦燥を鞭打つようにして、森の中を進んだ。
十分、二十分――時間の感覚は頼りなく揺れる。
枝が頬を掠め、草に隠れた石が足裏を責め続ける。
汗の塩で首筋が痒い。
「むり、もうむり」
吐き出すように言って、その場に座り込む。
平らな地面――踏み固められた痕跡がかすかにある。
誰かが通ったのかもしれない、それとも獣か。
背中を倒し、空を見上げる。
木々の隙間に星が一つ二つ。
ガサ、と遠くで何かが動く音。
瞼が重い。
「…………」
意識が、闇に落ちた。