第7話: 南海の楽園、胎動する星影
Zとその配下、そして新たなる脅威「W」との激闘から数週間。まるで嵐の前の静けさのように、Zの組織による大規模な活動は鳴りを潜めていた。しかし、それはあくまで表面上のこと。世界各地では、依然として原因不明の超常現象や、Zの思想に感化されたと思われる「与えられし者」による小規模な事件が散発的に発生し続けていた。そして、その発生頻度とエネルギー反応の特異性は、なぜかここ東京とその周辺地域が群を抜いて高かった。
「まるで、巨大な磁石が砂鉄を引き寄せるみたいに、東京に“何か”が集まってきている…あるいは、ここが全ての元凶、Zの牙城が潜む場所だというのかしら…」
アイギスの作戦司令室。私は、壁一面のホロディスプレイに映し出された世界地図と、そこにプロットされた無数の赤い警告マーカーを睨みつけながら、独りごちた。連日の情報分析と戦闘シミュレーションで、私の脳も、そして仲間たちの心身も、確実に疲弊しきっていた。クヲンは無口さに拍車がかかり、訓練以外では自室に篭もりがちになった。シンシアは、得意のSNSでの情報収集もどこか上の空で、時折大きなため息をついている。そして私自身も、フェリシアの補助なしでは、思考のピントが合わなくなってきているのを感じていた。
そんな私たちの限界を、あの変態所長が見抜かないはずがなかった。
「はぁ~い、私の可愛い戦乙女たち、お疲れ様ぁ!」
ある日の午後、九十九オリヴィア所長が、いつもの軽薄なノリと、しかし全てを見透かすような鋭い瞳で作戦司令室に現れた。その手には、一枚の書類がひらひらと揺れている。
「あんたたち三人、ここんとこ働きすぎ、戦いすぎ、そして悩みすぎよ!そんなんじゃ、心も体もポッキリ折れちゃって、いざっていう時に最高のパフォーマンスなんて発揮できるわけないでしょ?」
オリヴィア所長はそう言うと、持っていた書類を私たちに見せつけるように掲げた。そこには、デカデカと「強制休暇命令書」と印字されていた。
「というわけで!アイギス特別医療福祉プログラムの一環として、あんたたち三人に、本日より一週間!常夏の楽園・沖縄でのリフレッシュ旅行を命じまぁす!費用はもちろん全額アイギス持ち!最高級ヴィラもプライベートジェットも手配済みよん!拒否権は、なぁし!」
有無を言わせぬ、まさに鶴の一声。私とクヲンは、あまりに突拍子もない命令に呆気に取られ、言葉も出なかった。
そんな私たちの様子を尻目に、一人だけ目をキラキラと輝かせている人物がいた。シンシアだ。
「お、沖縄ですか!?それは最高じゃないですか、所長!ありがとうございます!」
彼女は満面の笑みでオリヴィア所長にお礼を言うと、次の瞬間にはスマートフォンを取り出し、何やら猛烈な勢いで操作を始めた。画面には、AR技術を使ったバーチャル試着アプリが起動している。
「ええと、ミラーさんはスタイルがいいから、この大胆なフリル付きのマイクロビキニがきっとお似合いね!クヲンさんはクールビューティーだから、こっちのシンプルなハイレグタイプの競泳水着が…そして私はもちろん、この完全防御型のフルフェイスフード付き長袖長ズボン、UVカット率99.9%、耐塩害仕様、そしてミラーさん特製の超撥水ナノコーティング済みのパーフェクト・ラッシュガードセットで決まりね!」
「ちょっ…シンシア!?私は水着なんて着ないわよ!大体、なんであなたがそんなに水着に詳しいの!?私が知る限り、あなたは水に濡れることをこの世で一番嫌っている生物のはずなのに!」
私は思わずツッコミを入れたが、シンシアは「ミラーさん、旅の恥はかき捨てって言うじゃないですかぁ。それに、沖縄の強い日差しを舐めちゃいけませんよ?」と、どこ吹く風だ。彼女の暴走は誰にも止められそうになかった。もしかしたら、水アレルギーの彼女なりに、何か特別な目的でもあるのだろうか…。
かくして、私たちの、そして私の人生においても全く予想外の沖縄旅行が、半ば強制的に幕を開けることになった。
「月詠屋」の地下、私のラボでいつの間にか居着いてしまった猫たちには、クヲンが「しばらく帰れないけど、いい子にしてるんだぞ。お土産、期待してろよ」と、いつもより多めのカリカリと新鮮な水を置いていた。その横顔は、どこか寂しげでもあり、少しだけ安堵しているようにも見えた。
それにしても、ミラーの水着姿なんて、想像もつかない。そういえば、あの人、まともに風呂に入っているところすら見たことがないような気がする。もしかして、本物の機械人間なのかしら…。
***
新那覇空港に降り立った瞬間、むわりとした熱気と、潮の香りが混じった独特の甘い空気が私たちを包み込んだ。どこまでも突き抜けるような青い空、目に痛いほどの太陽、そして街路樹の鮮やかな原色の花々。東京のコンクリートジャングルとはあまりにも違うその風景に、私はしばし言葉を失った。
アイギスが手配したという、プライベートビーチ付きのオーシャンフロント・ヴィラは、まさに贅を尽くした楽園だった。リビングの大きな窓からは、エメラルドグリーンの海と真っ白な砂浜が一望できる。
「わはぁ…すごい…天国みたい…」
シンシアは感嘆の声を漏らし、クヲンも珍しく目を丸くして周囲を見渡している。私も、ここ数ヶ月の緊張と疲労が、少しだけ解けていくのを感じていた。
翌日から、私たちは思い思いの時間を過ごし始めた。
ビーチでは、シンシアが宣言通り、肌の露出を極限まで抑えた完全防備のスタイルで現れた。フルフェイスのフードにサングラス、長袖長ズボンのラッシュガード、手には日傘、足元はマリンブーツ。その姿は、沖縄のビーチでは異様という他なかったが、本人は至って満足げにビーチチェアに座り、持参した推理小説を読みふけっていた。時折、波の音に驚いてビクッと体を震わせているのはご愛嬌だ。
クヲンは、意外にも海の生き物に強い興味を示した。波打ち際でカラフルな熱帯魚やヤドカリを追いかけたり、岩場に潜むカニをじっと観察したりしている。その姿は、普段のクールな彼女からは想像もつかないほど無邪気で、まるで子供のようだった。時折、海の生物たちと何か言葉を交わしているかのように見えるのは、私の気のせいだろうか。
私はといえば、ビーチの日陰に陣取り、ノートPCを開いていた。沖縄の独特な海洋生態系や、サンゴ礁の自己修復メカニズム、さらには近海で観測される特殊な地磁気データなど、興味深い情報がそこかしこに転がっている。フェリシアと共にそれらを解析し、データベースに保存していく作業は、戦闘とはまた違った意味で私の知的好奇心を満たしてくれた。もちろん、Zの組織に関する情報収集も怠ってはいない。
食事は、主にヴィラの専属シェフが作る沖縄の郷土料理を堪能した。ゴーヤチャンプルー、ラフテー、海ぶどう、島豆腐…どれも新鮮な食材の味が活きていて、心身に染み渡るようだった。夜には、シンシアがどこからか調達してきた(もちろんノンアルコールの)オリオンビール風ドリンクで乾杯し、他愛もないお喋りに興じた。
観光にも少しだけ足を伸ばした。今やすっかり歴史ある有名な美ら海水族館では、巨大なジンベイザメやマンタが悠々と泳ぐ大水槽の前で、クヲンが時間を忘れたようにガラスにベッタリ張り付いて見入っていた。その横顔は、いつになく穏やかだったが、彼女曰く、ジンベエザメが、この一見超巨大な水槽でも狭すぎて日々ストレスで寿命が縮むと言っていたそうだ。本当に魚とも会話ができるのか…。私は、あの巨大な水槽の維持管理システムや、多種多様な海洋生物を共存させるための環境制御技術に舌を巻いた。シンシアは、分厚いアクリルガラス越しとはいえ、大量の「水」に囲まれる状況にやや緊張気味で、私の後ろに隠れるようにして水槽を眺めていた。
そんな日々の中で、私たちはそれぞれの「病気」とも向き合っていた。
私は、情報量の少ない穏やかな環境に身を置くことで、ハイパーサイメシアによる情報の奔流が少しだけ和らぐのを感じていた。フェリシアの補助なしでも、思考がクリアに保たれる時間が増えたのは、大きな収穫だった。しかし、その一方で、何も「記録」するものがないという状況に、漠然とした不安を覚えることもあった。
クヲンは、沖縄の温暖な気候と強い日差しを警戒し、日中の激しい活動は極力控えていた。こまめな水分補給と、ミラーが開発した携帯型の体温冷却スプレーは欠かせない。海にだって、本当は飛び込んでみたいのだろうが、無痛無汗症の彼女にとって、それは命取りになりかねない。
シンシアは、相変わらず徹底した水対策を続けていた。それでも、突然のスコールに見舞われた時はパニック寸前になり、クォンと私が両脇を抱えてヴィラまで避難させる一幕もあった。彼女にとって、この旅行はリフレッシュであると同時に、常に緊張を強いられる試練でもあったのかもしれない。それでも、彼女は文句一つ言わず、むしろ私たちに気を遣って明るく振る舞おうとしていた。
***
そして、その水着の謎。
ある日、シンシアが「せっかくですから、プライベートビーチで少しだけ水遊びしませんか?」と提案してきた。私とクヲンは、彼女の水アレルギーを知っているだけに、耳を疑った。
「シンシア、本気で言ってるの?あなた、水は…」
すると彼女は、悪戯っぽく微笑んで、一着の特殊なウェットスーツを取り出した。それは、宇宙服のようにも見える、全身を完全に覆うタイプのスーツで、関節部や接合部は幾重にもシールされ、外部からの水の侵入を完璧に防ぐように設計されていた。頭部には、透明な球体状のヘルメットまで付いている。
「ふふふ、これなら大丈夫ですよ。ミラーさんが私のために特別に開発してくれた『アクア・シェルター・スーツMk-III』です!これがあれば、短時間なら水中活動も可能なんです。ずっと見てるだけじゃ、つまらないじゃないですか?」
そう言って、まるで深海探査にでも行くかのような重装備で、シンシアは生まれて初めて、自分の意思で海へと足を踏み入れた。波打ち際で、おそるおそる水に触れ、その感触を確かめるようにしている。その姿は、どこか健気で、見ているこちらの胸が少し熱くなった。彼女が水着にこだわったのは、ただ単に私たちをからかうためだけではなく、彼女自身の小さな「挑戦」のためでもあったのかもしれない。
しかし、この沖縄での穏やかな日々は、あくまでも嵐の前の静けさに過ぎなかった。
その夜、私はヴィラのバルコニーで、沖縄の夜空に輝く満天の星を眺めていた。東京では決して見ることのできない、吸い込まれそうなほどの星の数。フェリシアを通じてアイギス本部と定期連絡を取っていると、オリヴィア所長から秘匿回線で個人的な通信が入った。
『ミラーちゃん、そっちの“バカンス”は楽しんでるぅ?例のブツの回収、首尾よく進んでるかしら?』
そう、この沖縄旅行は、単なるリフレッシュ休暇ではなかった。表向きは私たちの慰安のためとされつつ、その裏では、私に与えられた極秘ミッションが進行していたのだ。沖縄本島南部に位置する、かつて米軍が使用していた古い通信施設の地下深くに、Zの宇宙計画、特に「法則を書き換える」能力の核心に迫る可能性のある、ある研究者の遺したデータが眠っているという情報を掴んだオリヴィア所長は、その回収を私に命じていた。Zの組織に気づかれずにデータを回収するための、これは大規模な陽動作戦でもあったのだ。
「ええ、今のところ順調よ、オリヴィア所長。対象の施設へのアクセスルートは確保したわ。ただ、セキュリティが思ったより厄介で、まだ深部までは到達できていないの」
『焦らなくていいわよ。こっちの“おとり捜査”も、Zの奴らが面白いように食いついてきてるから、あんたが動ける時間はたっぷり稼いであげるわ。ただし、油断は禁物よ。Zが、この程度の陽動に気づかないほど間抜けだとは思えないからね』
オリヴィア所長の言葉通り、Zの組織もまた、この小康状態を最大限に利用し、彼らの恐るべき計画を着々と進めているに違いなかった。宇宙ステーションの乗っ取り準備、全世界同時洗脳システムの最終調整、そしてWの戦闘能力のさらなる強化…。私たちの知らないところで、運命の歯車は確実に回り続けている。
そして、私自身も、この沖縄の地で、Zの計画の断片と思しき、奇妙な現象を感知していた。それは、特定の周期で観測される、極めて指向性の高い微弱な高エネルギー粒子線だった。発生源は、沖縄本島沖の海底深く。フェリシアの分析によれば、それは自然現象とは考えにくく、何らかの巨大な装置が実験的に稼働していることを示唆していた。もしかしたら、Zの「法則を書き換える」能力を宇宙規模に拡大するための、キーテクノロジーに関連しているのかもしれない。
***
一週間の休暇は、あっという間に過ぎ去ろうとしていた。心身ともにいくらかリフレッシュできたのは確かだが、私たちの心から焦燥感が完全に消え去ることはなかった。東京の状況、Zの動き、そしてWの存在…。解決すべき問題は山積みだ。
出発の前日、オリヴィア所長から緊急連絡が入った。
「ミラーちゃん、例のデータ、無事に回収できたようね!ご苦労様!そして、残念ながらお遊びはここまでよ。こっちで、Zの奴らがとんでもなくデカい動きを見せたわ。奴らの宇宙ステーション乗っ取り計画、いよいよ最終フェーズに入ったみたい。悪いけど、至急帰還してちょうだい!」
私が回収したデータチップには、やはりZの「法則を書き換える」能力の理論的背景と、それを人工衛星ネットワークに応用するための、驚くべき技術的ブレイクスルーが記録されていた。そして、沖縄沖で観測された謎の高エネルギー粒子線は、その理論を実証するための大規模な実験だったのである。
私たちは、新たな決意と、これまで以上の危機感を胸に、沖縄の地を後にした。束の間の休息が私たちにもたらしたものは、確かな絆の再確認と、これから始まるであろう最終決戦への覚悟だったのかもしれない。
アイギス本部に戻った私たちを待っていたのは、オリヴィア所長からの衝撃的な報告だった。
「Zの奴ら、国際宇宙ステーション『ギガント』のメインコンピュータに、既に強力なワームを仕掛け終えたわ。そして、世界各地に潜伏させていた洗脳済みのエージェントたちが、ギガントのコントロールを奪取すべく、一斉に行動を開始した。残された時間は少ないわよ」
オリヴィア所長は、メインモニターに宇宙空間に浮かぶギガントと、そこへ向かって進む複数の所属不明の小型シャトルの映像を映し出した。
「こうなったら、やることは一つしかないわね。アイギスが総力を挙げて、あんたたちを宇宙へ送り届ける!そして、Zの野望を、その手で打ち砕くのよ!」
その頃、漆黒の宇宙空間に浮かぶZのアジトでは、ゼニスが完成した巨大な洗脳用アンテナ衛星群を見上げていた。その傍らには、最終調整を終え、巨大な兵器を背に虚無の瞳で宇宙を見据えるWの姿がある。
「時は、満ちた…」
Zの静かな、しかし確信に満ちた声が、宇宙の深淵に響き渡った。
「新たなる世界の夜明けが、始まるのだ」
次なる戦いの舞台は、地球を離れ、無限の星海へ――。私たちの、そして人類の運命を賭けた戦いが、今、始まろうとしていた。