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第1話:東京に渦巻く闇

運命を、こじ開けろ。


30XX年。鎬を削るようなビル群が夜空を切り裂き、無数のネオンサインが雨に濡れたアスファルトを七色に染め上げる。世界最大級のメガロポリス、東京。その繁栄の陰には、深く、暗い澱みが堆積していた。誰もが成功を夢見て足掻き、しかしそのほとんどが名もなき歯車として摩耗していく。そんな現代社会特有の歪みが、人々の心に微細な亀裂を生み、そこから得体の知れない何かが染み出そうとしていた。

新宿。眠らない街の喧騒は、しかしどこか虚ろな響きを伴っていた。雑踏に埋もれるように歩く一人の男、田中和樹たなかかずき、三十五歳。くたびれたスーツに身を包み、その表情は長年の疲労と諦観で色褪せていた。大手IT企業の中間管理職という肩書は、彼に重圧と責任ばかりを強いて、正当な評価や達成感を与えることはなかった。連日の残業、上司からの理不尽な叱責、そして部下たちの突き上げるような視線。彼の精神は限界寸前だった。

『また田中さんのチーム、納期遅れてるらしいよ』

『あの人、いつも顔色悪いけど大丈夫なのかな』

『まあ、結局俺たちが尻拭いするんだけどな』

SNSの匿名掲示板には、そんな心無い言葉が並ぶ。承認欲求を満たそうと開設したアカウントも、今では見るのも苦痛な存在と成り果てていた。雨が、いつしか本降りになっていた。傘を差す気力もなく、田中は濡れ鼠になりながら、ふらふらと路地裏へと足を踏み入れた。

「――素晴らしい才能をお持ちのようだ。しかし、この世界はあなたを正しく評価していない」

不意に、背後からシルクのような滑らかな声がかけられた。振り返ると、そこには黒いロングコートに身を包んだ長身の男が、傘も差さずに佇んでいた。その顔は影になってよく見えないが、声には奇妙な説得力があった。

「誰だ…あんたは…」

「私は、あなたの真の価値を理解する者。そして、その力を解放する手助けができる者です」

男はゆっくりと田中に近づき、懐から小さな黒曜石のような結晶体を取り出した。それは暗い路地裏でも、内部から妖しい光を放っているように見えた。

「これを。心の底から願うのです。あなたが望むものを、あなたを虐げる者たちへの報復を。そうすれば、この石があなたの願いを現実のものとするでしょう」

「……願いを、現実に?」

「ええ。あなたは選ばれた。旧い殻を破り、新たなステージへと進む資格を得たのです」

男の言葉は、悪魔の囁きのようでありながら、今の田中にとっては唯一の救いのように感じられた。彼は震える手で、その黒い結晶体を受け取った。ひんやりとした感触が、手のひらから全身へと広がっていく。

「さあ、運命を、その手でこじ開けるのです」

男はそう言い残すと、音もなく闇に溶けるように姿を消した。後に残されたのは、黒い結晶を握りしめた田中と、降りしきる雨の音だけだった。


***


秋葉原。サブカルチャーの聖地として世界にその名を轟かせるこの街の一角に、メイド喫茶「月詠屋つくよみや」はあった。レトロフューチャーな内装と、個性豊かなメイドたちによる丁寧な接客が人気の店だ。その中でも、ひときわ異彩を放つ存在がいた。

「お帰りなさいませ、ご主人様」

鈴を転がすような愛らしい声と、完璧なまでの淑やかな所作。白銀にも見えるプラチナブロンドの超ロングヘアを揺らし、訪れる客を魅了するのは、シンシア。十六歳にして、この店のトップメイドであり、そのホスピタリティは他の追随を許さない。豊満なバストと引き締まったウエスト、そしてキュッと上がったヒップラインが強調されたメイド服は、彼女のために誂えられたかのようにフィットしている。PADなどではない、本物の迫力だ。

「シンシアちゃーん、いつもの!」

「かしこまりました。特製オムライス、ケチャップはハートマシマシでございますね?」

常連客との軽快なやり取りをこなしながらも、彼女の意識は常に多方面に張り巡らされている。店内に設置された複数の監視カメラの映像、客たちの会話、そして耳に装着した極小のインカムから流れてくる情報。表向きは完璧なメイド、しかしその実態は、恐るべき情報収集能力と戦闘スキルを併せ持つエージェントだ。

(都内各所で小規模なサイバーテロが頻発…共通点は、被害企業が特定の研究機関と繋がりがあること。それと、原因不明の暴力事件。目撃者の証言では、加害者は異常な力を発揮していた、か…)

シンシアは、自身のスマートフォン――常時十台持ち歩いているうちの一台――を巧みに操作し、裏ルートで入手した情報を分析する。彼女のSNSアカウントは、表の顔として数百万のフォロワーを抱える人気インフルエンサーだが、裏では情報屋やハッカーたちとの連絡網としても機能していた。

「シンシア、少し休憩に入っていいかしら?」

「ええ、お疲れ様です、ミカさん」

同僚のメイドに声をかけられ、シンシアはにこやかに応じる。しかし、その脳裏では、収集した情報が高速で処理され、危険なパズルのピースが組み合わさり始めていた。

(このパターン…まさか、また“あれ”の仕業じゃ…?)

胸騒ぎを覚えながら、シンシアはバックヤードへと続く扉を静かに開けた。その扉の奥、さらに厳重なセキュリティで守られた階段を下りると、そこにはメイド喫茶の華やかな雰囲気とはおよそかけ離れた空間が広がっていた。


***


薄暗い地下空間。壁一面に設置された大型モニターには、無数のコードやグラフ、衛星画像などが映し出され、目まぐるしく情報を更新し続けている。部屋の中央には、複雑な計算式がびっしりと書き込まれたホワイトボードと、最新鋭のワークステーション。そこでキーボードを叩いていたのは、一人の少女だった。

ミラー、十七歳。長い黒髪を無造作に束ね、縁の太い眼鏡の奥の瞳は、モニターの光を反射して鋭く輝いている。細身で高身長、しかしその体型に不釣り合いなほど豊満な胸元が、緩めのパーカーの上からでも見て取れた。「食べた栄養が全部胸にしか行かないのではないか」とは、シンシアの弁だ。

彼女こそ、十歳で世界最高峰の大学を飛び級で卒業し、数々の博士号と特許を持つ“世界最年少のタイトルホルダー”。サイバーセキュリティの専門家であり、世界中のあらゆるネットワークに侵入可能なサイコハッカー。そして、この小さなチームの頭脳であり、司令塔である。

「…来たわね、シンシア」

キーボードを打つ手を止めずに、ミラーは言った。彼女は極度の集中状態にある時、背後からの接近にも気付かないことがあるが、シンシアの気配だけは別だった。

「状況は?」

シンシアは、買ってきたばかりの高級プリンの箱をミラーのデスクに置きながら尋ねた。ミラーは甘いものに目がなく、これが彼女の集中力を維持するための重要なエネルギー源だった。

「最悪よ。新宿を中心に、微弱だけど異常なサイコエネルギー波を複数観測。例のサイバー攻撃も、ただの愉快犯じゃない。攻撃パターンに妙な“指向性”がある。まるで、何者かが意図的に特定の情報を狙っているみたいに」

ミラーは指先でコンソールを操作し、メインモニターに都内の立体地図と、そこにプロットされた赤い警告マーカーを表示させた。

「これは…前にクヲンが相手にした“覚醒者”の初期反応と酷似してる。でも、今回は数が多すぎるし、エネルギーの質も微妙に違う。まるで…誰かが人工的に、そして粗雑に能力者を“製造”しているみたいだわ」

「まさか……Zの手駒…かしら」

シンシアの声に、険が混じる。

ミラーは無言で頷き、プリンの蓋を開けると、スプーンで一口、勢いよく頬張った。その間も、彼女の思考は止まらない。

「このエネルギーパターン…もし私の仮説が正しければ、近いうちに大規模な“暴発”が起きる。それも、人の多い場所で。そうなれば、被害は甚大よ」

「ターゲットは絞り込める?」

「今、全力で解析中。でも、相手も巧妙に痕跡を消してる。まるで、私たちの動きを読んでるみたいに…」

ミラーの額に、じわりと汗が滲む。彼女は普段、三日に三時間しか眠らないと豪語するほどのショートスリーパーだが、ここ数日はそれすら許されない状況が続いていた。その証拠に、彼女の美しい顔には、うっすらと隈が浮かんでいた。

(お風呂、最後に入ったのいつだっけ…)

そんなミラーの密かな悩みを、シンシアは知ってか知らずか、心配そうな視線を向ける。

「あまり無理はしないで、ミラー。あなたまで倒れたら、元も子もないわ」

「分かってる。でも、時間が無いのよ…!」

その時、けたたましいアラート音が地下基地に鳴り響いた。

「新宿三丁目!エネルギー反応、急上昇!これは…まずい!誰かが“暴走”を始めたわ!」

ミラーの叫びに、シンシアの表情が引き締まる。

「クヲンには連絡を?」

「既にしてある。あの子なら、もう動いてるはずよ」

ミラーは再びキーボードに向き直り、凄まじい速度で情報を処理し始める。

「シンシア、あなたは後方支援と、必要なら狙撃ポイントの確保をお願い。今回の相手は、まだ“なりたて”のはず。でも、油断は禁物よ。あの黒い結晶…あれが力の源である可能性が高いわ」

「了解。クヲンちゃんを死なせるわけにはいかないものね」

シンシアはそう言うと、メイド服の上着を脱ぎ捨てた。その下には、身体のラインにぴったりとフィットする黒のタクティカルスーツが現れる。腰のホルスターには愛用の大型拳銃。背中には、分解された狙撃ライフルのケース。彼女の瞳には、もはやメイドの柔和な光はなく、冷徹な戦士の光が宿っていた。

「それとシンシア、お土産、ありがと。このプリン、過去最高に美味しいかも」

戦闘準備を整えるシンシアの背中に、ミラーがぽつりと言った。

「どういたしまして。でも、無事に帰って来たら、もっと美味しいお店、紹介してあげる」

シンシアは悪戯っぽく微笑むと、風のように地下基地を後にした。残されたミラーは、再びモニターに集中する。その視線の先には、リアルタイムで更新される新宿の状況と、一点に向かって高速で移動する光点――クヲンの現在位置――が映し出されていた。


***


夜の帳が下りた新宿の街を、一台の漆黒のバイクが疾走していた。電動モーターの静かな駆動音は、都会の喧騒に紛れてほとんど誰にも気付かれない。ライダーは、小柄な少女。黒髪のロングヘアを風に靡かせ、その表情は能面のように変わらない。クヲン、十五歳。この物語の主人公であり、世界最強と謳われるサイキッカーである。

彼女の服装は、黒を基調としたセーラー服風の戦闘服。ミニスカートの下には、動きやすさを重視したスパッツを着用しており、パンツが見える心配はない。その可憐な容姿とは裏腹に、彼女から放たれるオーラは、歴戦の強者のそれだった。

(ミラーからの情報…新宿三丁目、E7ポイント。エネルギー反応、急速増大中。対象は、おそらく一般人。何らかの外的要因で能力が暴走…)

クヲンの脳内には、ミラーから送られてくる情報がリアルタイムで表示され、処理されていく。彼女の超人的な思考反射は、常人ならばパンクするような情報量をも瞬時に解析し、最適行動を導き出す。

「…見えた」

呟きと同時に、クヲンはバイクを急停止させ、しなやかな身のこなしで飛び降りた。バイクは自動操縦モードに切り替わり、音もなく近くの路地へと姿を消す。彼女の視線の先、雑踏から少し外れた広場で、異様な光景が繰り広げられていた。

「うおおおおお!誰も俺に逆らうな!俺は、俺は選ばれたんだあああ!」

叫び声を上げているのは、一人のサラリーマン風の男――田中和樹だった。彼の全身からは黒いオーラが立ち上り、その瞳は不気味な赤色に染まっている。周囲には、彼が念動力で吹き飛ばしたであろうゴミ箱や看板が散乱し、逃げ惑う人々の悲鳴が響いていた。

「おい、そこのお前!俺の力を試させてやろうか!」

田中は、広場の隅で恐怖に震える若い女性に狙いを定め、手をかざした。すると、近くにあった自動販売機がメリメリと音を立てて浮き上がり、女性に向かって高速で飛んでいく。

「危ない!」

誰かが叫んだ瞬間、黒い影が閃いた。クヲンだ。彼女は常人離れした跳躍力で自動販売機と女性の間に割って入り、右手で軽く触れる。

――ドンッ!

重金属の塊であるはずの自動販売機が、まるで発泡スチロールのように弾き飛ばされ、地面に叩きつけられて無惨に歪んだ。

「な…なんだ、貴様は…!」

田中は驚愕の表情でクヲンを見つめる。彼の知る物理法則を完全に無視した現象だった。

「…もう、やめろ」

クヲンの声は、静かだが有無を言わせぬ響きを持っていた。

「邪魔をするなあああ!俺は、俺はもっと力を手に入れて、俺を馬鹿にした奴ら全員を見返してやるんだ!」

田中は逆上し、周囲にあるあらゆる物体――駐車されていた自転車、街路樹の枝、果てはマンホールの蓋まで――を念動力で操り、クヲンに襲いかからせた。それはまるで、意志を持った鉄屑の津波だった。

「――フッ!」

クヲンは短い呼気と共に、その場から消えたかと思うほどの高速移動で攻撃を回避する。彼女の動きは、まるで重力を感じさせない。飛来する瓦礫を最小限の動きで避け、時には空中で静止しているかのようなサイコキネシスによる足場を利用して、三次元的な機動を見せる。音すら、彼女の動きに遅れてついてくる。

挿絵(By みてみん)

(対象の能力は初歩的なテレキネシス。ただし、感情の高ぶりに比例して出力が増大している。力の源は…やはり、あの黒い結晶か)

クヲンの冷静な分析は続く。彼女の視線は、田中の胸元で不気味な光を放つ黒曜石のペンダントに注がれていた。

「クヲン、聞こえる?相手の胸にある結晶体、それが力のコアよ。破壊すれば、能力は霧散するはず」

インカムから、ミラーの冷静な声が届く。

「それと、周辺に別の微弱なエネルギー反応。おそらく、対象を監視している“誰か”がいる。気をつけて」

「…了解」

クヲンは短く応じると、両の手のひらを胸の前に構えた。そこから、淡い青白い光が溢れ出し、徐々に形を成していく。それは、雷光を凝縮したかのような、鋭利な刃――サイコ・ブレード。彼女の代名詞とも言えるサイキックウェポンだ。ひとたび扱いを間違えれば自分自身や味方も容赦なく斬り裂く、両手にそれぞれ形成された刃は、まるで意志を持った獣の爪のように、不気味な輝きを放っていた。

「スキルエンゲージ――《デュアル・サイコエッジ》」

心の内で、あるいはミラーがかつて彼女の能力を解析した際に名付けた技の名を反芻する。次の瞬間、クヲンの姿が再び掻き消えた。

田中が反応するよりも速く、クヲンは彼の懐に飛び込んでいた。黒髪が乱れ、その瞳には一切の感情が浮かんでいない。ただ、目標を確実に排除するという強い意志だけが宿っていた。

「しまっ――!」

田中は慌てて防御壁を形成しようとするが、それよりも早くクヲンの右手のサイコエッジが閃く。甲高い金属音と共に、田中の胸元で輝いていた黒い結晶体が、あっけなく砕け散った。

「あ…ああ…?」

結晶が砕けた瞬間、田中から立ち上っていた黒いオーラが霧散し、彼の瞳から赤い光が消え失せる。全身から力が抜け、彼はその場にへたり込んだ。何が起こったのか理解できない、という表情で、自分の両手を見つめている。

「…終わった」

クヲンはサイコエッジを霧散させ、静かに呟いた。

その時、広場の隅、ビルの屋上から、小さな舌打ちが聞こえた。

「チッ…思ったより早く片付いちまったな。化け物共め。まあいい、今日のところは“サンプル”のデータ収集が目的だ。あの黒髪の小娘が例の…ふうん、なかなか…興味深い素材じゃないの」

声の主は、フードを目深にかぶった男。Zの下級エージェントだ。彼は手元の端末に何事かを記録すると、闇に紛れて姿を消した。シンシアが狙撃銃のスコープでその姿を捉えようとしたが、一瞬早く気配を消されてしまった。

「クヲンちゃん、大丈夫!?ごめん、敵のエージェント、捕捉した瞬間に逃げられたわ…」

インカムから、悔しそうなシンシアの声が響く。

「…問題ない。それより、対象者の保護を」

クヲンは、呆然としている田中に近づき、顔を引き攣らせながらそっと肩を揺すった。

「おい…大丈夫か?」

「お、俺は…何を…?」

田中は記憶が混濁しているようだった。超能力に目覚め、暴走していた間の記憶は、断片的にしか残っていないらしい。

やがて、サイレンの音が近づいてくる。ミラーが匿名で通報したのだろう。警察が到着する前に、クヲンたちは現場を速やかに離脱する必要があった。

「限界だ。あとは、専門家に任せる」

クヲンはそう言い残し、再び闇の中へと姿を消した。後に残されたのは、破壊された広場と、自分の犯した行為の重大さにようやく気付き始めた一人の男、そして、この街に渦巻く見えざる悪意の残滓だけだった。


***


メイド喫茶「月詠屋」の地下。ミラーの秘密基地では、ささやかな「反省会」が開かれていた。もっとも、それはミラーがシンシアの買ってきた追加の高級プリンを堪能し、クヲンが傍らで静かにハーブティーを飲んでいるだけ、というものだったが。

「…今回の件で、ようやく、Zの連中の目的が少し見えてきたわ」

プリンをスプーンですくいながら、ミラーが切り出した。モニターには、破壊された黒い結晶体の分析データが表示されている。

「これは、単なる能力増幅装置じゃない。対象者の負の感情をトリガーにして強制的にサイキック能力を覚醒させ、同時に精神を汚染してコントロールする…極めて悪質な洗脳ツールよ。しかも、個体ごとに最適化されたエネルギーパターンを流し込んでいる。つまり、大量生産品ではなく、一つ一つ“調整”されている可能性があるわ」

「だとしたら、Zの組織は既に私たちが考えている以上に大規模で、計画的ということね」

シンシアは、自身のタブレットで今回の事件に関する情報を整理しながら応じる。彼女の表情は硬い。

「あの下級エージェント、クヲンちゃんの戦闘データだけを収集して、あっさり撤退した。まるで、クヲンちゃんを試すためだけに、あのサラリーマンを暴走させたみたいだったわ」

クヲンは黙って二人の会話を聞いていた。彼女の膝の上には、いつの間にかどこからか現れた黒猫が丸くなっている。クヲンは、その柔らかな毛並みを優しく撫でていた。彼女は動物、特に猫が好きで、まるで心を通わせているかのように動物たちと接することができる。ミラー曰く、「動物と会話ができるっぽい(ガチ)」とのことだ。

「問題は、これからどう動くか、ね」

ミラーは最後のプリンを名残惜しそうに食べ終えると、大きく伸びをした。

「Zは、確実に“駒”を増やしている。そして、その中には、今回の田中さんのような一般人だけでなく、もっと危険な能力を持つ者もいるはずよ。私たちの存在も、もう彼らに知られている。これからは、もっと慎重に、そして大胆に動かないと…」

「そのためにも、もっと情報が必要ね。Zのアジト、幹部たちのこと…そして、私たちにとって、ラスボスになるであろうZゼニス自身の正体と、その目的」

シンシアの言葉に、ミラーは深く頷いた。

「運命を、こじ開ける…か」

ミラーは、ふと自分たちのチームの非公式なスローガンを口にした。それは、かつて絶望の淵にいた自分たちを鼓舞するために、誰からともなく言い始めた言葉だった。

「簡単じゃないわよね、そんなの」

「…やるさ。やるしか、ないから」

それまで黙っていたクヲンが、静かに、しかし力強い意志を込めて言った。彼女の瞳には、揺るぎない決意の光が灯っていた。

シンシアはそんなクヲンを眩しそうに見つめ、そしてミラーと顔を見合わせて小さく微笑んだ。

その頃、東京湾を見下ろす超高層ビルの最上階。闇に包まれた広大なオフィスで、一人の男が複数のモニターに映し出された映像を眺めていた。その中には、クヲンの鮮烈な戦闘シーンも含まれている。

「フフ…面白い。実に興味深い“サンプル”だ」

男はゆったりと椅子に腰かけたまま、満足げに呟いた。その声は、田中に力を与えた男の声とは異なり、威厳と冷酷さを同時に感じさせるものだった。彼の名は、Zゼニス。この世界に絶望し、神に選ばれし人類である超能力者による新世界の到来を目論む組織の頂点に立つ男。

彼の背後には、三つの影が控えていた。

「あらあら、可愛らしいネズミさんが紛れ込んだみたいねぇ。特にあの黒髪の子…いいわぁ、実にいい。私の“コレクション”にぜひ加えたいわ。あの背中に、美しい“傷跡”を刻んであげたい」

妖艶な声でそう言ったのは、Sエスと呼ばれる女だった。彼女の瞳は、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いている。

「はぅぅ…あんなに強い子に、めちゃくちゃにされたいぃ…あの冷たい目で見下されながら、踏みつけられたら…きっと、最高に気持ちいいんだろうなぁ…」

恍惚とした表情でそう呟いたのは、Mエムと呼ばれる、やや幼い容姿の女だった。彼女は自分の体をくねらせながら、モニターの中のクヲンに熱い視線を送っている。

「データ上は、極めて高い潜在能力を秘めていると推測されます。特に空間認識能力とエネルギー制御に関しては、既存の能力者のそれを遥かに凌駕している。私の“オモチャ”の調整にも、参考になりそうですねぇ…ミラーとかいうハッカー娘も、早く捕まえて脳みそを弄くり回したいものですわ」

知的な口調で分析するのは、Lエルと呼ばれる女。彼女の眼鏡の奥の瞳は、冷静な計算高さと、底知れぬ狂気を湛えていた。

Zは、三人の幹部の言葉に満足そうに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。

「間も無く、旧人類の時代は終わる。我々、新たな種こそが、この星の次代の支配者となるのだ。そして、あの少女たちも…いずれ我々の壮大な計画の一部となるだろう。フフフ…運命は、既に動き始めているのだよ」

Zの高らかな宣言が、闇に染まる東京の空に吸い込まれていった。

――バール・ディスティニー。

運命の女神が仕組んだ悪辣なゲーム盤の上で、三人の少女たちは、それぞれの想いを胸に、過酷な戦いの渦へと身を投じていく。

彼女たちの戦いは、まだ、始まったばかりだ。


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