才能⑤
広い会場にずらりと並んだ、華やかな供花。そこに添えられた、名の知れた人や企業の札の数々を、一華はぼんやりと眺めていた。
祖母は、一華が発見するよりしばらく前にはもう、亡くなっていたそうだ。警察の捜査も入ったけれど、事件性はなく、急性心不全という診断が下された。
つい一昨日まで、桜草樹家の代表として、最前線で活躍していた祖母。持病もなく、健康に心配な点もなかったはずだった。いつも凛々しくて、姿を前にすれば誰もが屈してしまうほどの威厳を持ったあの祖母が亡くなるなんて、誰一人として想像していなかった。そんなこと、夢にも思っていなかった。
「それじゃあ、私は受付の方に行ってくるから」
喪服に身を包み、くたびれた顔をした母が、一華に言った。一華はハッとすると、慌てて母に駆け寄った。
「ぼんやりしてしまってすみません。私も行きます」
「いいわよ、一華は。少し休んでいなさい」
「でも――」
焦ってそう言うと、母は身体を真っ直ぐ一華の方に向けて、一華の顔を覗き込むように見た。
「顔色がとても悪いもの。すぐに治るものではないだろうけれど、少し落ち着いた方が良いわ」
「……」
こんなに心配している母の顔を、一華は久しぶりに見た。反論したい気持ちで全身がむずがゆかったけれど、一華は素直に黙って頷いた。
祖母がいなくなって混乱している様子はあったけれど、母も、仕事で遠方にいたところから駆けつけてきた父も、誰もが落ち着いて行動していた。ショックなのは皆同じなのに、予想外の出来事にも、うろたえることなく対処していた。それなのに、一華は。
倒れている祖母を見つける直前、跡継ぎに関する話だろうと浮かれていた自分がどうしようもなく恨めしかった。祖母に認められたのだと、立派な桜草樹家の一員になれたのだと自惚れていた自分が、みっともなくて仕方がなかった。
「……ねえ、一華」
母が、普段出さないような優しい声で言った。
「皆さんが来る前に、先におばあさまにご挨拶してきたら? 落ち着いて会えるのは、最後かもしれないわ」
「……はい。そうします」
一華は頷いた。肯定以外のことを、今の一華にはできなかった。
母の提案通り、一華は祖母が眠る棺のほうに歩いていく。ちょっとしたその距離が、とても長い道のりのように感じた。
夢を見ている気分だった。ふわふわとしていて、現実ではないと思うのに、現実だと無理やり信じ込まされているような、そんな世界を体験している感覚。機械の中から電池を一本抜かれたような、一華が生きるために必要な何かが抜け落ちてしまったような空虚感が、一華の心を満たしていた。
おばあさま。
空っぽだった。今までそこに何があったのか分からなくなるほど、きれいな空洞だった。
記憶がある頃からずっと、一華の世界には祖母がいた。一華の生き方を、祖母はずっと厳しく見張っていた。思えば、祖母が笑ったところは一度も見たことがなかった。家族らしく一緒に遊んだこともない。孫に甘い祖母の姿なんてどこにもなく、常に冷静な祖母の態度は、家族に対しても例外はなかった。
祖母に叱られると、この世の終わりだと思うくらいの恐怖を抱いた。祖母に無視されると、自分の存在は見向きもされないくらいのものだとひどく落ち込んだ。祖母に褒められると、今までの全てに価値があったと思うくらいに誇らしかった。全部、全部、祖母によってもたらされた感情だった。
一華が歩いてきたのを見て、係の人がそっと棺を開けてくれる。そこから覗いた顔を見て、一華は細い息を吐いた。
硬く目を閉じたその顔には、一華が生まれてから十五年間ずっと恐れ続けてきた祖母の面影は見つからなかった。あっけないほど小さくて、こんな箱に収まってしまうほどの人だったのかと、改めてショックを受ける。
「おばあさま……」
静かに棺に近づいて、その中の顔を覗き込む。こんなふうに祖母の顔を正面から見つめるのは、初めてかもしれない、とふと思った。それに気づくと同時に、鼻の奥がツンと痛んだ。
どうして突然いなくなってしまったのですか。
泣かないように目を強く瞑って、心の中で問いかける。
あなたのいない世界で、私はどうやって生きればいいのですか。
私はこんなに頼りなくて、小さくて、不甲斐ない人間なのに。
こんな私に、将来あなたの代わりが務まるわけがないのに。
目を開ける。潤んだ視界に映る、祖母の顔。こぼさないようにしていた涙が、耐えきれずに一粒落ちた。
『覚悟をもっていらっしゃい。明日の夕方、待っています』
祖母と交わした、最後の言葉。
ねえ、おばあさま。
決して返ってくることのない質問を、心の中でそっと唱える。
あなたは亡くなる直前に、私に何を言おうとしていたのですか。
その瞬間だった。
どう言えばいいのか分からない。けれど、確実に。
何かが入ってきた、という感覚がした。
何の前触れもなく、頭の先から足先へ、外から投げ込まれた何かが走り抜けていった。それを認識するよりも先に、全身が火で炙られるようにカッと熱くなる。
視界が大きく歪む。目の前に置かれた棺が、壁や天井が、奇妙な形に曲がる。脳がグラグラと揺れる。
何が起こっているのか、全く飲み込めない。けれど直感的に、まずい、と思った。
「どうかされましたか?」
棺の蓋を開けてくれた係の人の声が、遠くで反響して聞こえた。
「お姉さま、大丈夫?」
二葉の声。距離感覚が掴めないけれど、彼女がすぐ近くまで来ていると肌で感じた。二葉が自分の身体に触れる前に早く離れないと。一華は、見えない二葉の手を避けるように咄嗟に数歩前に出た。
「ごめんなさい、ちょっと、お手洗いに」
それだけ告げると、一華は走り出した。吹き出しそうになる何かを隠すために口元を手で押さえる。自分が地面に立っているのか確信できない中、全力で走る。何も考えられない頭ではっきりと、とにかく早くここから離れないと、と思った。
トイレまで辿り着くと、一華は真っ先に一番奥の個室へ向かった。倒れこむように中に入ると、震える手で何度も失敗しながら鍵を閉める。鍵が締まった感触を指で感じ取るとすぐに、一華は壁に背中を押し付けて座り込んだ。
何よ、これ。
空っぽになっていた一華の中を、何かが這いずり回っている。全身の血管の内側を、やすりでなぞられているような悪寒がする。
何よこれ何よこれ何よこれ。
口元を覆った手に力を込める。空いたもう片方の手で、胸元を強く押さえる。とにかく熱かった。熱くて熱くて、金属が熱で溶かされるように、一華の身体がぐにゃぐにゃに崩れていく感覚がする。それに飲み込まれるように、周囲のものも輪郭を奪われて歪んでいく。大きく聞こえる呼吸音も、自分から離れて溶けていくようで気持ち悪くて仕方がない。
食べられる、と思った。
一華の中に入った得体の知れない何かが、身体を内側から食い破ろうとしている。そう真剣に思った。
不意に、全身を支配する熱の中でも一際強いものを手のひらに感じた。熱いものを握らされているような熱さだった。声もろくに出せない中、痛い、と思わず悲鳴を上げて目をつむる。
熱は、すぐに少し落ち着いた。一華は目をゆっくり開ける。目に入ったのは、信じられない光景だった。
沸騰したお湯を覗いているように揺れる視界。その中ではっきりと、開かれた両方の手のひらの間に、軽く浮かぶ光の塊が見えた。
電球のような火のような、でもそのどちらとも違う、見たことのない質感の光。この光が何なのか知らないし、そもそも一華は、光るものなんて今は持っていないはずだった。
だからこんなものが見えるなんて、ありえないはずだった。
幻覚だろうか。何かを見間違えているのだろうか。安定しない視界で光るそれを呆然と眺めていると、チリ、と焼けるような痛みが左の鎖骨の下あたりに現れた。目を向けて、一華は息を止めた。
痛みを感じた場所。そこに、黒い線で縁取られた、鍵のような金色の模様が、煌々と浮かび上がっていた。
「……え?」
掠れた声が出る。
こんなもの、さっきまではなかった。
なかった、はずなのに。
視線を手のひらに戻す。相変わらず浮いている光の球体。緩やかに手を閉じると、塊は二つに分かれて、両手の中に吸い込まれるようにするりと戻っていった。閉じた指の間から、小さくなった光の筋が漏れている。
信じられない。
突然現れた光の塊も、身体の模様も、現実ではありえない。こんなの、夢に違いない。こんな、昔読んだおとぎ話に出てくる魔法のような――。
そこでふと、思い当たる。恐ろしい想像だった。
魔法。
百年前に起きた『大災厄』。その後に閉ざされた『扉』の向こうにある世界。学校で何度も教えられてきた、教科書の中にある嘘みたいな事実。
まさか、これ――。
こちらの世界に取り残された魔法使いが、人間のふりをして生きていることも知っている。彼らが時々、正体を暴かれて騒がれているというのも聞いたことがあった。けれど一華は、今までに一度も彼らを見たことがないし、魔法だって目にしたことはない。日常生活において、それらの存在が関わってくることなんてなかった。
どうして。
どうして、魔法なんかが。
そのときふと、一華の名前を呼ぶ声を意識の端でとらえた。ハッとして、一華は反射的に顔を上げた。
「お姉さま?」
聞こえてきたのは、二葉の声だった。
「お姉さま、大丈夫? 辛かったら、無理しないで今日はもう休んだ方がいいって、お母さまが言っていたわ。明日のお葬式だけ参加する、っていうのでも良いって」
今日。
お葬式。
ああ、そうだ。今日は、おばあさまの。
急速に全身の熱が引いていく。身体の中で暴れていた何かが、するすると中央の方に集まっていって、小さな箱に収まるように動きを止める。
しっかりしないと。
私は、桜草樹一華だから。おばあさまがいなくなって初めての、自分の仕事なのだから。桜草樹家を支えることなんて今の一華にはできないけれど、足を引っ張ることだって、できないのだから。
感覚が、一気に正常に戻っていく。視界の揺れが静まっていく。一華は息を整えると、扉の向こうの二葉に対して「大丈夫よ」と答えた。
「少し動揺してしまっただけ。体調に問題はないわ」
「本当に? お姉さま、さっきとても顔色が悪かったけれど……」
「もう平気。心配かけてごめんなさい。少ししたら戻るわ」
つい先ほどまで正常な呼吸すらできなかったにも関わらず、自分の口から出る声は意外にも落ち着いていた。二葉も、一華の声に無理している様子が感じられなかったからか、それ以上追及することなく「分かったわ」と答えた。
「じゃあ、私は先に戻ってるわ。絶対に、絶対に無理してはダメだからね」
二葉は念を押すと、少し遅い足取りでトイレを出ていった。
トイレの扉が閉まる音を聞いた後、一華は大きく息を吐いた。
握っていた手を開く。そこには、あれだけ強く輝いていた光の一粒さえも残っていなかった。胸に現れた模様も、そのときに感じた痛みも、きれいに消えている。すべてが一華の幻覚が何かだったかのように、きれいになくなっている。
あれは、何だったのだろう。
わずかに酔いが残った頭で、一華は考える。どうして突然一華の身にあんなものが現れたのか。そもそも、あれは本当に魔法だったのか。本当に魔法だった場合、それはいったいどういうことなのだろうか。近くに魔法使いが潜んでいて、一華に何かを仕掛けたのだろうか。
鳴りを潜めた気持ち悪い熱。気にしすぎているだけかもしれないけれど、その何かの存在が、まだ身体の中にあるような感じがした。
何も分からない。信じられないことしかなかった。
誰かに相談したい。
でも、こんな不確実なことを今話してしまったら。
一華は壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。汚れることなんて考えず床に座り込んでしまったから、服が汚れていないか確認する。
個室から出て、鏡の前まで移動する。自分を見つめる自分の顔。顔色も、表情も、いつも通りだ。
「よし」
深呼吸を数回繰り返して、気を引き締める。
あの不可思議な感覚が戻ってくる気配はない。考えたいことは多いけれど、まずは戻らないと。今は桜草樹の一員として、亡くなった代表を送り出さないと。
大丈夫、と心の中で唱えて、一華は扉を開けた。




