才能④
中等部の卒業を一か月後に控えた日のことだった。
その日の習い事を終えて、自室に戻るために一人で廊下を歩いていた一華に、ふと後ろから声がかかった。
「一華」
祖母の声だった。一華は慌てて身を正すと「こんばんは、おばあさま」と挨拶をした。
「勉強、順調のようね」
祖母は静かな声で言った。突然の言葉に驚きつつも、一華は「はい」と微笑んだ。
「まだ覚えなければならないことは多いですが、自分なりに、精一杯取り組んでいるつもりです」
「さすがね。高等部に上がる前の試験も、一番の成績だったのでしょう」
「はい」
頬がじわじわと熱くなる。どうしようもなく気持ちが浮き立っていた。
「おばあさまにお褒めいただけるなんて、光栄です」
言いながら、思わず笑顔がこぼれる。みっともないと言われてしまうかも、という考えは、軽く跳ねる心の中では簡単にかすんでしまった。
「一華」
祖母が再び名前を呼んだ。ふわふわとしていた気持ちが、急激に引き締められる。咄嗟に「はい」と表情を引き締めて祖母を見るけれど、一華の心配に反して、彼女が怒っている様子はなかった。
「確か、明日の夜は習い事が休みでしたよね」
「はい。先生にご用事があるようですので」
祖母の質問に、一華は答える。答えながら、一華は不思議な感覚にとらわれていた。
一華を見る祖母の目。それが、どうしてかとても暖かく見えた。
それはまるで、かつて病気で寝込んでいる弟妹たちをそっと撫でている母がしていたような、心配に思う気持ちで揺れながらも相手を慈しむような、そんな穏やかな目だった。こんな祖母を、一華は知らなかった。
「何か、代わりに予定はあるの?」
「いえ、特には」
「そう」
溜息を吐くようにそう言うと、祖母は一華のことをじっと見つめた。静かな瞳が、一華の周りを流れる時間を吸い込んでいく。
「それなら、明日学校から帰ったら、一人で私の書斎に来てちょうだい。あなたに話したいことがあるの」
「話したいこと、ですか」
「ええ。とても、大切なこと」
祖母はそこで、そっと目を伏せた。そしてもう一度、一華のことを正面から見た。いつも通り、何があっても揺るがなさそうな、強い表情だった。
「覚悟をもっていらっしゃい。明日の夕方、待っています」
そう告げると、祖母は一華から離れていった。
祖母の背中が見えなくなってしばらくしても、一華は呆然とその場に立ち尽くしていた。
話したいこと。
祖母の言葉を反芻する。話したいこと。とても大切なこと。それは、つまり。
ふつふつと、興奮に似た何かが身体の奥から湧き上がってくる。
祖母が、一華のことを褒めてくれた。褒めたうえで、大切な話があると、一人で来るようにと、言ってきた。
私を、認めてくれた。
思わず顔がにやける。違うかもしれない、期待しすぎない方が良い、なんていう忠告が頭の中で虚しく響く。そうじゃないかもしれない。けれど、そうとしか考えられない。
どうしよう。
心の全てが喜びに捧げられる。溢れてくる感情で、身体が爆発するのではないかと思った。今日が人生の最後の日なのかもしれないと、本気で思った。
その後、自分がどう過ごしたのか、一華は覚えていない。とにかく、収まることのない感情の高ぶりを周囲に悟られないよう、平静を装うのに必死だった。
祖母と会う時間が待ち遠しかった。いつもは時間が足りなくて仕方がないのに、今日だけは、遅すぎる時間の経過がもどかしかった。
夜もろくに眠れないまま、翌日の朝、意気揚々と学校に向かう。自分でも浮かれすぎだと自覚できる状態に、苦笑いするしかなかった。それでも、あと少しだとはやる気持ちに従うしかなかった。
そうして、ついに放課後の時間を迎えた。
速足で校舎を出て、車に乗りこむ。家に着くと、一華は走りそうになるのを制しながら、まず自分の部屋に荷物を置き、急いで祖母の書斎に向かった。
滅多に近寄らない祖母の書斎。行くのは本当に久しぶりだった。広い廊下を進むのに合わせて、胸の鼓動が大きくなる。
最後の角。ここを曲がれば、祖母の書斎だ。冗談じゃなく、暴れる心臓が口から飛び出そうだった。
あと少し。
角を曲がる。そのまま廊下を進めば、辿り着く。
あと少しで、私は――。
その瞬間、一華の世界が凍った音が聞こえた。
「………………え?」
乾いた声が、口から漏れる。
曲がった先の廊下。そこには、音もなく倒れている祖母の姿があった。
「……」
静かだった。放課後の誰もいない学校の廊下の真ん中に、一組の机といすが置かれているような、そんな奇妙で強烈な違和感が、そこに横たわっていた。
意味が、分からなかった。
「おばあ、さま……?」
凍り付いた足を、一歩、前に出す。一華の呼びかけにも、足音にも、祖母は反応する様子がなかった。
「おばあさま、私……」
一歩ずつ、祖母に近づいていく。そのたびに、一華の方に足を向けて倒れている身体が、そしてその向こうにある顔が、徐々に見えるようになっていく。
固定されたように、微塵も動かない手足。うずくまってそのまま倒れたような姿勢。胸を押さえた手。苦しげなまま変わらない表情。
少しずつ見えてくることを処理するのを、脳が激しく拒絶していた。一華は、緩慢な動作で彼女のそばにしゃがみ込むと、その指先にそっと触れた。
指から伝わる感触。それが、普段の生活ではおおよそ感じないような異物感だと認識した瞬間、一華の絶叫が廊下に響き渡った。




