才能③
窓の外で、桜の花びらが舞っている。校舎の中も外も、部活動に勧誘する生徒の声と、期待に溢れた新入生の声で賑やかだった。それを横目で見ながら、一華は一人、生徒会室へと向かっていた。
「あ、生徒会長だ」
誰かがそう言ったのが聞こえた。
「ほんとだ。入学式の挨拶で見たときも思ったけど、美人よね」
「ねー。選挙のときも、他の候補者と圧倒的な差だったらしいよ。何か、身にまとってる空気感が別物って感じだよね」
「桜草樹家の跡取りっていうの、ほぼ確実っぽい」
「前のテストも学年一位だったらしいよ」
「あの光くんと二葉ちゃ――二葉先輩のお姉さんなんでしょ」
「入学するまで知らなかったけど、あれだけすごいと納得って感じよね」
「すごいなー。お近づきになれないのかな」
「やめておいた方が良いよ。噂によると、気まぐれで一般の生徒に声かけて仲良くした後、気に入らなかったからって大勢の前で絶縁宣言して泣かせたことがあるらしいよ」
「うわー。やっぱり桜草樹家は普通の人とは違うってことかー」
「確かに、ちょっと冷たそうだよね。あんまり笑わないって聞くし」
「近寄りがたい感じだよね」
「私たちみたいな人が迂闊に関わっちゃダメってことだよ」
あちこちから聞こえる声。皆の視線が一華に集まっているのを感じる。一華は気づかないふりをして、涼しい顔でその真ん中を進んだ。
「ありがとうございました」
講師にお礼を言って部屋を出ると、一華は自分の部屋に戻るために歩き出した。手に抱えた経営学の教科書をしっかりと持つ。
中学三年生になって、放課後の習い事の内容が変化した。今まで習っていたピアノや書道や生け花など、芸術面の習い事の数が減らされ、代わりに経営学や経済学、政治学など、将来必要となる実用的な学問の時間が増やされた。
どの習い事をやるのかは、一華が決めることではなく、祖母や両親が決めることだ。一華にとって必要なものを、彼らが選ぶ。その中に、このような分野の勉強が加えられたことにどんな意味があるかくらい、誰もが分かっている。周囲で流れている噂も、きっと桜草樹家のこういう動きからくるものだろう。
分厚い教科書。それが実際の紙の重さよりもずっと重いことを、一華は認識していた。
ふと、前方から足音が聞こえた。見ると、前から二葉と光が歩いてくるところだった。
二人は一華に気づくと、嬉しそうに手を振った。
「お姉さま、お勉強していたの?」
駆け寄ってきた二葉が尋ねる。一華は「ええ」と答えた。
「ちょうど今終わったところよ。二人は今帰ってきたの?」
「そうよ。一緒に取材を受けてきたの。二人そろって受けるのは久しぶりだったから、とても楽しかったわ」
二葉は無邪気に答えた。二葉も光も、その才能をますます開花させて、以前よりもずっとそれぞれの分野で活躍していた。世間からの注目もすさまじく、中等部を卒業したら海外の高校に留学する話も出ていた。
「よかったわね。お疲れさま」
にこにこと笑顔を浮かべる二葉に笑いかける。
「光もお疲れさま」
二葉の少し後ろに立つ光にも声をかけたところで、彼の表情が翳っているのに気が付いた。いつも強気な光にしては珍しい。
「どうかしたの?」
尋ねると、光は「ああ、えっと」と少し慌てたような素振りを見せた。そして、一華が持っている教科書を指さした。
「それ……」
「教科書のこと?」
「うん」
光は頷いた。
「勉強、進めてるんだよね」
「ええ、順調よ。覚えることは多いけど、何とかね」
「毎日、やってるんだよね。学校の勉強も、生徒会の仕事もしながら」
「ええ、そうだけど……」
光の表情の陰りは消えないままだ。一体どうしたのだろうと心配になる。
「光? どうかしたの?」
尋ねると、彼は一華のことを少し見て、すぐに目を伏せてから言った。
「……ごめんなさい、押し付けて」
「え?」
一華は驚いて声を上げた。光が何のことを言っているのか分からなかった。
「押し付けたって、何を?」
「そういう、跡継ぎになるための勉強とか、いろいろ」
光は、申し訳なさそうに答えた。普段よりも随分と弱々しい声だった。
「本当だったら、長男の俺が跡継ぎとして勉強するべきなのに、自分のやりたいことを優先させてもらってるせいで、そういうの全部姉さまに任せっきりになってるから」
「そんなこと……」
光がそんなことを考えているなんて驚きだった。彼はいつだって夢に真っ直ぐだった。音楽に対する際限ない才能で、暇があればピアノをずっと弾いているし、最近力を入れているフルートの練習も熱心に行っている。確かに光はこの家の長男だけど、桜草樹家の長男としての生き方ではない今の在り方に、疑問なんて抱いていないと思っていた。
「気にしなくていいわよ。だって、あなたには他の人にはない才能があるのよ。私たちも、世間の人たちも、光が活躍するところを見たいと思っているし、光自身もそうありたいと思っているんでしょう。それなら、そっちを優先するべきよ。せっかく私がいるんだから、気にせず任せてほしいわ」
一華は微笑んで言った。光の生き方に反対する人なんて一人もいないし、今一華が跡継ぎとしての教育を受けていることだって自然な流れだ。消去法的な意味合いが強いのも事実だけど、一華を含め、それを拒否する人はいないはずだ。
それでも、光は優しいから、彼なりに責任を感じてしまっているのだろう。一華はそれを少しでも減らそうと、光に笑いかけた。
「私だってこの家の長女なんだから、これくらいさせてほしいわ。だから、気にしないで」
「……ありがとう。でも、そうなんだけど、そうじゃないっていうか」
一華の言葉を聞いてもなお、光の表情は晴れなかった。彼はそこで、静かに成り行きを見守っていた二葉の方を困ったように見た。光の視線を受けて、二葉もまた珍しく神妙な顔つきで頷いた。
「あのね、お姉さま」
二葉が一華のことを真っ直ぐに見た。そして、光とそっくりな表情で言った。
「お姉さま、最近無理してない?」
「無理?」
二葉の顔には、いつもの無邪気さや明るさはなかった。
「心配してるのよ、光も、私も。お姉さま、最近頑張りすぎなんじゃないかって」
少し驚いて、光の方を見ると、彼は否定することもなく黙って目を伏せていた。
意外、としかいいようがなかった。二人がそんなふうに、一華を心配していたなんて。
確かに最近夜遅くまで勉強したりすることが多くなったけれど、一華としては、それを周りには悟らせないようにできているつもりだった。かつての祖母の言葉を思い出して、自分は未熟なのだと悔しくなる。
一華はそのミスを挽回するように、涼やかに微笑んだ。
「確かに、少し無理しているのかもしれないけれど、私にはまだ足りないところが多いから。この家を背負っていくためだもの、少し無理するくらいじゃないと足りないわ。だから、ちょっとくらい見逃してちょうだい」
軽く笑って、一華はそう言った。そして、二人の顔を順に眺めた。
「それに、忙しい中頑張っているのは二人だって一緒じゃない」
「でも、俺たちは好きでやってることだから」
「私だって、やりたくてやっているのよ」
「でも……」
光が一歩、一華に近づいた。一華に向けられた目が、微かに揺れている。
「姉さまはすごいから、勉強が忙しくて大変でもやり遂げられちゃうって分かってるし、俺たちがいろいろ言うのも必要ないことだって分かってる。分かってるけど……」
「そうよ。お姉さまは平気だって思ってるのかもしれないけど、でも、やっぱり最近のお姉さまは……」
一華の服の袖をぎゅっと掴んで、二葉もそう言った。二葉も、そして光も、訴えかけるようにじっと一華を見る二人の顔は、真剣そのものだった。
どうしようか、と少し迷った後、一華は諦めて「そうね」と笑った。
「心配させてごめんなさい。確かに少し疲れているから、ちょっと休むことにするわ」
二人がこんなに心配するほどなら、よっぽどひどい顔をしているのかもしれない。それなら、取りあえず対処しなければいけないと思った。
「二人ともありがとう。私は大丈夫。自分の限界くらい、ちゃんと把握しているから。それに、いろいろ勉強できて楽しいのも本当よ。だから、二人は気にせず頑張ってね。応援しているわ」
本心から、一華はそう言った。実際、二人にこうして心配してもらえたのは純粋に嬉しかった。
二人は、まだ納得できていないような、消化不良な表情を浮かべていたけれど、諦めたのか、素直に頷いた。
「ありがとう、頑張るよ」
「お姉さまも、無理しすぎないように頑張ってね」
そう言って、二人は顔を見合わせた後、一華に背を向けて離れていった。
二人の背中を眺めながら、一華はキュッと唇を結んだ。
無理だって、無茶だって、一華はしないといけない。今立っていること場所から降りるわけにはいかない。
桜草樹家の長女。成績優秀な生徒会長。有力な跡継ぎ候補。その肩書きのおかげで、一華は今、ようやくあの二人の隣に立つことができている。今失敗すれば、一華は何者でもなくなってしまう。
あの日の祖母の言葉を胸に、無我夢中で努力し続けてきた末に手に入れられた、一華の居場所。存在を許される場所。それのためなら、どんな努力だって惜しまない。その過程で身体を壊すようなことがあったとしても、多少なら仕方のない代償だ。払わなくていいなんて、そんな優しいことは、凡人の一華には許されない。
分かっている。
桜草樹二葉と桜草樹光。あの二人なら、一華よりずっと簡単に、跡継ぎのための勉強なんてこなせてしまえる。一華がこんなに必死になってやっていることも、その気になればいとも容易く手に入れて、一華よりもうまくやってしまう。今はただ、違う場所で能力を発揮しているだけで、状況が変われば、一華よりもふさわしい跡取り候補として存在することになるはずだ。あの二人が絵と音楽を手放すことなんてないだろうけれど、そのときが来たら、きっと一華の居場所は消滅することも分かっている。
それでも、今は。
今だけは、彼らの隣に並ぶことを許してほしかった。二人には家のことを気にせず、思う存分活躍してほしかった。桜草樹家に必要な存在として生きられる間は、その役割を全うさせてほしかった。
将来なんて分からない。けれど、今だけは、祖母にも一華のことを認めてもらえるのではないかと思った。




