才能②
その日の夕食でも、話題はテストの結果の話で持ち切りだった。二人が取った順位に、皆沸き立っていた。一華のことは、誰も話題に挙げなかった。ずっとうまく笑うことができないまま、一華は二人を褒める声が飛び交う中でじっと息をひそめるように座っていた。
部屋に戻り、一華は早速机に向かった。鞄から勉強道具を取り出していると、テスト結果の紙が手に触れた。
結果の紙を取り出して、眺めてみる。学年八位。ずっと一華が欲しかったもの。達成できた目標。なのに。
ぐしゃり、と紙が音を立てる。しわの寄った紙の上に踊る文字が歪む。
ずっと欲しかったもののはずだった。過去最高の結果のはずだった。今までの努力が報われたはずだった。それなのに、その数字が憎らしくてしょうがなかった。
次はもっと上に行かないと。
ノートを開いてシャーペンを握る。自分ならもっと上に行ける。まだ近くの目標を一つ達成しただけだから、ここで満足なんかしていない。そう唱えながら、問題用紙を開く。
まだできる。私なら、もっと。
まずは今回のテストをもう一度解きなおして復習して、それと関連した問題も解いて、それで――。
不意にぽたりと、書いた文字の上に水滴が落ちた。動かしていた手が止まる。
悔しい。
パッと、そんな感情が胸に浮かび上がる。一華は強く目を閉じた。
悔しい。ずっとずっと、毎日コツコツ勉強を続けてきた。授業の予習復習を欠かしたことなんてない。今回の期末テストの範囲だって、前回のテストが終わったすぐ後から勉強してきた。初等部に上がってすぐは半分くらいだった順位も、そうやってここまで上げてきた。ずっとずっと、それを続けてきた。それなのに。
目を開ける。自分で書いた数式が、涙でぼやけて見えた。次々に落ちる水滴で、ノートが汚れていく。
たった二週間。あの子たちは二週間でそこまで辿り着いた。一華が必死になって手に入れたものを、一華よりずっと簡単に手に入れた。一華の今までに意味なんてないと笑うように、簡単に。
勉強以外にもっと優れたものを持っているのに、勉強でさえも、あの二人は一華より優れている。一華ができることで、あの二人ができないことなんて存在しない。そんなの、もう一華にはどうしようもない。
勉強だって、これから続けたところでこれ以上なんて行けない。一華がどれだけ必死になったところで、時間をかけたところで、あの二人に勝てることなんて一つもない。あの子たちの前では、そしてこの家では、一華の行動なんかに価値なんて無いに等しい。
そんな状態で、これ以上頑張ったところで、何になるというのだろう。
棚にならんだ、今までに使ったノートに目を向ける。内容をまとめたり、問題を解いたりした大量のノート。そんなゴミの山を、一華はぼやけた視界で眺めた。
そのとき、ふと扉をノックする音が聞こえた。弱っていた気持ちが、一瞬で引き締まる。一華は慌てて涙をぬぐった。
「はい」
返事をすると、扉の向こうから「一華」と名前を呼ぶ声が聞こえた。その瞬間、心臓が飛び跳ねた。
「今、いいですか」
祖母の声だった。どうしよう、と一華は焦る。
勉強机から離れて、近くの台に置いてある鏡をのぞくと、真っ赤になった目と、濡れた頬が見えた。こんな状態で会えば、泣いていたことがばれてしまう。みっともないと叱られてしまうかもしれない。けれど、祖母を待たせるのはもっとまずい。一華は「今開けます」と言うと、頬をぬぐって目元を押さえながら、息を整えて扉へと向かった。
扉を開けると、祖母は「こんばんは」と言った。一華も「こんばんは」と返す。
「どうされたのですか」
祖母がこうして一華の部屋を訪ねるなんて珍しい。一華は若干顔を伏せた状態で尋ねた。祖母はその質問には答えずに、一華のことをじっと見ていた。
「一華」
「はい」
「泣いていたのですか」
怒られる、と思った。一華は顔を見られるのに抵抗するように、さらに顔を伏せた。
「……申し訳ありません」
「……謝ることじゃありませんよ」
祖母は静かに言った。平坦なその声がなぜか優しく感じて、一華はホッと息を吐くように「はい」と答えた。
「テストの結果の件、聞きましたよ。いい結果だったそうですね」
「はい、ありがとうございます」
祖母から褒められるなんて、滅多にないことだ。いつもなら心の底から喜べるのに、今はどうしても素直に受け取れなかった。むしろ、二葉と光よりも時間をかけておきながら、同じ結果しか得られなかった自分のことを遠回しに批判されているような気分がした。
そんな一華の気持ちを見透かしているのだろうか。祖母はそれ以上褒めることはなく、じっと一華のことを見つめていた。
祖母はこのことに関してどう思っているのだろう。はっきりと認識できる鼓動を感じながら、一華は祖母が何か言うのを待っていた。ややあって、祖母はゆっくり口を開いた。
「この際だから、はっきり言いましょう」
祖母の鋭い目が、一華の目の奥をしっかりととらえる。全身に電流のような緊張が走った。
祖母は、特に身構える様子もなく、いつも通りの口調で言った。
「一華。あなたには、あの二人と違って才能がありません」
遠慮も躊躇いもなく、事実を述べたまでだというような様子だった。
ずっと分かっていたこと。分かっていたうえで、誰もはっきりと言葉にしなかったこと。そんな残酷な事実を、他ならない祖母に突き付けられたこと。悔しさなんてものじゃない絶望的な感覚に、目の前が真っ暗になる。
ゆっくり顔を上げて祖母を見る。薄めた墨を塗り広げたような視界の中で、祖母の瞳だけが、鈍くはっきりと煌めいていた。
「凡才のあなたが、桜草樹家の一員として天才の二人の隣に並びたいのならば、努力をしなさい。誰よりも多く、誰よりも貪欲に、努力をしなさい。どれだけ無理だと思っても、無駄だと思っても、歯を食いしばって、地を這いつくばって縋りついて、その場所を手に入れなさい。そしてその弱みを誰にも気づかれないようにして、表ではいつも涼しい顔をするようにしなさい。そうして初めて、あなたは彼らの隣に立つことができるのです」
淡々と続けられる祖母の言葉は、今までに受けたどんなお叱りよりも厳しかった。祖母の言葉の一つ一つが、余すことなく重たい液体のように変わって身体の中に注がれていく。息もできないほど黒い空間に、足先から沈んでいく感覚がする。
ぼんやりと残る部屋の照明に照らされた、祖母の顔。沈んでいく一華をじっと見つめている目。なぜか、今この瞬間、その祖母の全てが一華に向けられているような感覚がした。
「理不尽だと思うでしょう。けれどこの先きっとあなたは、もっとどうしようもない理不尽に見舞われることになる。世界の誰も経験しないような、自分の生まれを嘆いて未来を呪ってしまいたくなるような、そんな理不尽に襲われることになるでしょう。それでもあなたは、あなたのために、この世界のために、その理不尽に立ち向かう必要がある。あなたは、それに耐えるだけの強さを身につけないといけないの」
それは、とても力のこもった言葉だった。いつも物事を俯瞰して、客観的な意見を冷静に吐く祖母の言葉にしては、どこか真に迫っていた。
平然と繰り出される、理不尽としか言いようがない言葉。その隙間に、祖母の感情を見かけた気がした。初めての経験に、一華はただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
そんな一華を見つめた後、祖母はそっと目を閉じた。
「……いずれそうなるわ。理不尽に選ばれるのは、きっとあなたよ」
それは、きっと独り言のようなものだった。言うつもりはなかったのかもしれない。祖母は微かに顔を険しくして、溜息を吐いた。そんな動作も、一華の目には新鮮に映った。
「……邪魔してごめんなさい。これからも励むように」
祖母はそう言うと、何でもなかったように踵を返して扉を閉じた。
扉の締まる音が聞こえてからしばらくしても、一華はその場から動くことができなかった。
どのくらい時間が経ったのかは分からないけれど、充分に時間を置いた後、一華の身体は自然と机の前に戻っていた。机の上に放ってあるシャーペンを手に取って、ペン先をノートに向ける。
止まっていた涙が自然に流れる。とめどなく溢れるそれは、先ほどの涙とは違うものだと確信できた。その涙をそのままに、一華は勢いよくシャーペンを紙に滑らせた。
なぜ祖母がわざわざこの部屋まで来て、あんなことを言ったのかは分からない。あの人の真意は全く分からない。けれど、祖母が一華に言った言葉は、すべてがそのままだった。そのまますべてが、一華を表していた。
負けてはいけない。
理不尽に抗って、馬鹿みたいな努力を重ねて、必死さを隠しながら居場所に縋りつく。そうすることで初めて、桜草樹一華は存在できる。
この家の中に居場所を求めたいなら。
あの子たちの隣に立ちたいなら。
思い返せば、祖母が口にした理不尽という単語は、一華のこれまでを簡単に形容してしまえるような単語だった。漠然と理解していて、そのうえで見ないふりをしていた自分自身の状態を、突然具体的にされた感覚がする。二葉や光とは与えられているものが初めから違うのだ。一華はそもそもが出来損ないだ。
身体の中に流し込まれた重みはまだ残っている。黒い空間に沈んだ心も、薄暗い視界もそのままだ。けれど、課せられた理不尽を抱えたまま、一華は努力しないといけない。そうしなければならないのだと、強く思った。
おばあさま、と、先ほどは全く言葉を返すことができなかった祖母に対して、心の中で呼びかけた。
おばあさま、私、頑張るから。
祖母の目に映っていた自分の姿を想像して、一華は歯を食いしばる。
ちゃんと、耐えてみせるから。




