桜草樹家の長女⑧
翌日。
一華は、今まで感じた中で一番重い足取りで学校を歩いていた。
ダメだった。
帰宅した後、それぞれの習い事の先生に連絡を取って、少し回数を減らすことはできないか頼んでみた。理由を聞かれたら、学校が忙しくなるから、より勉強に集中したいから、ということにした。
けれど皆、口をそろえて、まだ進級したばかりで生徒会の仕事もないから今までよりは忙しくないのではないか、一華なら優秀だから今のままでも大丈夫、これ以上勉強しなくたって平気だ、といった言葉を口にしていて、一華の頼みを聞いてくれる雰囲気はなかった。
その後、母にも相談を持ち掛けたけれど、母もまた、彼らとほとんど同じようなことを言って、習い事を休むことを受け入れてはくれなかった。
『中等部に上がったばかりで不安かもしれないけれど、一華なら大丈夫。今も十分優秀なんだからこれ以上頑張らなくても平気よ。今まで通りやっていけばいいんだから』
そう言って微笑む母に、一華はそれ以上何も言うことができなかった。
どうしよう。
この結果をあの二人にどう伝えればいいのだろうか。昨日だけでは無理だったけれど、これから何度も根気強くお願いすれば、誰かが折れてくれるだろうか。諦めずに交渉を続ければ、望みはあるだろうか。断られたけれど、もしかしたら許してもらえるかも、と伝えようか。
けれど、そんな望みがないことくらい、今までの経験と、昨日の反応で理解してしまっている。
でも、それならばどうする? どうすればいい?
放課後に時間を作ることしか、あの二人とこれからも仲良くする方法がないこと。二人の期待した顔。それを一華は潰しに行かないといけない。でも。
そんなこと、私に言える?
二人と過ごすようになってから、こんなに二人と会いたくないのは初めてだった。今日の昼休みが来る前で、時間が止まってしまえばいいと切実に思った。自分の境遇が、今までの人生が、全て恨めしいとさえ思った。
けれど、そんな一華の気持ちを汲んでくれる世界なんてどこにもなくて、気が付けばあっという間に昼休みの時間を迎えていた。一華は、他の生徒たちの移動が落ち着くのを待ってから、昨日逃げ込んだ空き教室へと向かった。
空き教室に入ると、既に二人が、椅子に座ることもなく立ったまま一華を待っていた。
二人は一華を見るなり、緊張した表情で一華に駆け寄ってきた。
「一華さん、今日は大丈夫でしたか?」
小野がまずそう尋ねた。一華は、内心それどころではなかったけれど、微笑んで「ええ」と答えた。
「特に何もなかったわ。小野さんたちは、今日は何もされなかった?」
「はいっ」
小野は大げさなほど大きく頷いた。服装も、今日は綺麗な制服で、身体の汚れや傷もなさそうだった。それを確認して、一華はホッと胸をなでおろした。
「今日は特に問題はなかったです」
川井も付け加えた。一華に気を遣ってそう言っているだけで、本当に何もされていないかどうかは疑わしいけれど、一華は二人の言葉を、その通りに受け取っておくことにした。
「それで、その」
小野が、一華を少し見つめた後、サッと目を伏せた。
「昨日、お話したこと、なんですけど……」
「ああ……」
話さないといけない。無理だったと、伝えないといけない。
どのように言うのが正解か、分からない。
「そのこと、なんだけど……」
喉の奥がぎゅっと締まる。逃げ出したい衝動で泣きそうだった。桜草樹家が主催のパーティーで挨拶を任されたときでも、祖母が見に来たピアノの発表会の順番を待っているときでも、児童会長選挙の演説の直前でも、こんなに強い衝動に駆られたことはなかった。
先延ばしにしたって、何も変わらない。こうして空き教室で会っているのが見つかれば、つらい思いをするのは小野たちだ。二人のために、ちゃんと、伝えないといけない。でも。
「……」
言いたくない。
はっきりと、その言葉が頭に現れた。
言いたくない。二人とまだ、友達でいたい。
一華は、自分の目の前にいる小野たちを見た。二人とも、一華の表情をじっと窺って、その口から発せられる言葉を待ち構えていた。その表情が、二人が初めて一華に話しかけてくれたあのときの表情と重なる。
『あの、私、一華さんの友達になってもいいですか』
その瞬間、一華の中で、何かがストンと落ちた。今まで抱えていた衝動が、馬鹿らしくなるくらいあっさりと消える。脳裏に浮かぶのは、幼い頃から何度も見てきたあの子の笑顔だった。
『だって、お友達と遊んだりする方が楽しいし――』
「……放課後、そんなに遅くならなければ大丈夫そうよ」
自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が口から出てきた。小野たちの目が、大きく見開かれる。
「本当、ですか」
「ええ」
二人の顔が、パッと明るくなる。一華が友達になると答えたあの日よりも、ずっと明るい笑顔だった。
「嬉しいです。私たち、これからも仲良くしてもいいんですね」
泣き出しそうなほどに喜ぶ小野を見て、一華は心が温かくなった。これでいいんだと、心の底から思った。
仕方がない。こんなにも一華のことを求めてくれていて、一華も一緒にいたいと願っているのだから、それが全てだ。彼女の思いも、勇気も、無下にすることなんてできない。この選択に、悪いことなんて一つもない。
「二人の都合は? いつがいいかしら」
尋ねると、興奮した様子で小野たちは答えた。
「いつでも大丈夫です」
「何なら今日でも大丈夫ですよ」
「そう。それならいっそ、今日にする?」
軽くなった気持ちを抑えることも諦めて、一華はそう言ってみた。すると二人は、わっと歓声を上げた。
「本当にいいんですか?」
「ええ、もちろん」
本当は、今日の放課後はピアノのレッスンだった。けれど、一日くらいなんだ。二葉は何度も何度も、七割くらいといっても過言じゃないほど無断で休んでいた。友達と遊んで帰ってこないことだって、本当に数えられないほどだった。光だって、他の習い事で同じように振る舞っている。
あの子たちのあれが許されるなら、今まで一度も休んだことのない一華が一度同じことをしたくらいで、たいした問題にはならないはずだ。そうじゃないと、今までずっと黙って従ってきた一華が馬鹿みたいじゃないか。
だって、仕方がない。
あの子たちが休むより、ずっとちゃんとした理由だ。一華の初めての友達で、彼女たちを傷つけずに仲良くする手段が他にないから、こうするしかない。だから、あの子たちが言う『友達』より、ずっと、ずっと。
そうして一華は、二人と放課後に会うことを約束して別れた。放課後が待ち遠しくて仕方がなくて、普段、聞き漏らさないよう真剣に聞く授業も、いつもより退屈で頭に入らなかった。心が躍る、という感覚はこれなのだと、生まれて初めて理解できた。
学校が終わると、一華は門の方へ向かった。毎日、事前に伝えた通りの時間に来る一華を、伝えた通りの時間に待っている迎えの車。その運転手に、一華は頭を下げてお願いした。
今日だけは、友達と遊んでから帰りたいから、家に戻るのを待っていてほしい。学校でどうしてもやらなければならない仕事を頼まれて遅くなるということにしてほしい。どうか、今日だけ目をつぶってほしい。
そんなことを、何度もお願いした。運転手は、かなり驚いた表情をしていたが、戸惑いが消えない顔で、それでも一華のお願いを承諾してくれた。
それからの三時間は、本当に、本当に、この世界にこんな素晴らしいことがあるのだと感激するほどに、楽しい時間だった。
学校から少し離れたところにある店でお菓子を買って、同級生が来ないような人気のない公園でそれを食べて、宿題を解いて教えあったり、小野の家族やペットの話を聞いたり、川井の入学前の話で笑ったりした。どれも、一華には新鮮で特別だった。
友達と遊ぶというのがどういうことなのか、理解できた。今まで見ていた世界が嘘だったのだと思えるほど、周りの景色が塗り替えられていった。夢のような時間だった。
あっという間に周囲も暗くなってきて、名残惜しい中、一華たちはまた会う約束をした後、帰路についた。
二人と別れて車に乗り込んだ後も、楽しかった時間の余韻は一華の中から抜けてくれなかった。目を閉じたら、小野たちと話した内容も、見た景色も、食べたお菓子の味も、綺麗に再現できるほど完璧に思い出せた。今日の思い出は、一分一秒も欠けることなく、この先ずっと覚えていられると確信できた。
そんな気持ちを、深呼吸で落ち着かせて、一華は家に入った。
玄関の大きな扉を通ると、そこには母が立っていた。
「ごめんなさい、ちょっと学校で――」
慌てて謝りながら母を見て、雲一つない晴天だった一華の心に、にわかに影が差した。
帰ってきた一華を見ても、何も言わず、黙って腕を組んでいる母。その雰囲気が、明らかに、いつもと違った。
いつも、二葉や光を迎える、あの困った顔と違った。
「……お母さま?」
黙ったままの彼女に、呼びかけてみる。すると、母は何の感情も浮かんでいない顔で、一華のことを見つめた。
「一華」
ひどく冷たくて平坦な声。そんな声で、遊んで帰ったあの子たち二人の名前が呼ばれているところを、一華は一度も聞いたことがない。
母は、固まってしまった一華に、声のトーンを変えずに言った。
「何を考えているの?」
声が出ない。頭の中で、この状況に対する拒絶反応が出始める。それと同時に、今まで一切姿を見せなかった罪悪感が、ボコボコと噴き出してくる。
違う。
だって、これは違うはずだ。
何も言わない一華に追い打ちをかけるように、母は続けた。
「ねえ、どういうつもり?」
「……どういう、とは」
違う。だって、こんなの。
「だから」
母は初めて、苛立ったような声を出した。
「お友達と遊んで、レッスンを無断欠席するなんて、どういうつもりって聞いてるの」
サッと全身から熱が引く。目だけを動かして、壁際に立っている運転手を見ると、彼は涼しい顔を軽く伏せていた。一華の口から、息が漏れて、止まる。
どうして。
そんなの、話が違う。
だって、あの子たちのときは、運転手も協力して車を出したりしていたし、母だって、困ったと言って溜息を吐くだけだった。こんなのじゃ、なかった。
運転手だって、ずっと、色々な場面で一華のことを送り迎えしてくれる、よく知った人だった。一華のことをよく見てくれていた。だから、信じていたのに。
あの二人のときは、こんなこと一度もなかったのに。
そんなの、おかしいじゃないか。
「ねえ、黙ってないで何か言って。ピアノの先生、あなたが来ないからとても困ってたのよ。あなたがそんなことするなんて思わなかった。私たちを裏切って、何がしたいの?」
裏切り。
そんなこと言われても、と思うけれど、それを上回るくらいに、噴き出した罪悪感が身体を侵食していく。汗で背中が冷えていくのを感じながら、一華は慌てて口を開いた。
「う、嘘をついて、勝手に休んで申し訳ありません。でも、これには理由が――」
「理由? どんな理由があるの?」
「それは――」
そこまで言って、言葉に詰まる。
言えなかった。二葉や光のファンの子たちに逆恨みされて、友達がいじめを受けていることも、一華が彼女たちからどう言われているかということも。一華はどうせ家族から相手にされない、という彼女たちの言葉が、重みをまとって一華にのしかかる。
こんなこと、言えるはずがなかった。
「……言えないの?」
母が短く溜息を吐いて顔を背けた。どうすればいいか分からず黙っていると、母は一華を睨むように見た。
「……いいわよ、別に。これからも勝手に休めばいいじゃない」
「……」
何か、言わないと。
何か言わないと、もっと、怒られてしまう。
「……わ」
頭の中が、そこに何も存在しなかったかのように真っ白に抜け落ちていた。それでも、反射的に開いた口から、まだまとまっていない言葉が出る。
「私は……」
母のいる方向に固定されたままの、温度の下がった顔面の筋肉をゆっくりと動かす。そのときふと、母の姿に隠れて見えなかった人物の影が動いたのを視界にとらえた。それが誰か理解した瞬間、一華の全身が凍った。
「……」
おばあ、さま。
喉の内側がぺったりと貼りついて、空気が通らない感覚がする。困惑も、焦りも、不満も、罪悪感も、この状況をどうにか切り抜けようという意欲も、何もかもが停止する。
祖母は、一華の方に近づいてくることもなく、少し離れたその場所に立ち止まったまま、静かに一華のことを見つめていた。その目は、ついさっき母に向けられた目よりも、ずっとずっと、静かで落ち着いていた。それこそ、自分に関係のないものを見つめるときのような、何の意味も持たない視線のようだった。
一華の視線に気が付いた母が、後ろを振り返る。そして、祖母の姿を認めると、少し慌てた様子で一歩下がり、身体を祖母の方に向けた。
「お母さま、これは、その」
うろたえる母のことを、祖母はちらりと一瞥すると、すぐに一華に視線を戻した。
おばあさま。
動けなかった。何も考えられなかった。祖母と二人きりの世界に誘導されて、もうすぐ自分の存在も消えようとしているような、そんな感覚に陥る。
じっと一華を見つめていた祖母は、興味をなくしたように、突然ふいと視線を逸らした。そして、一華に背中を向けると、はっきりと言った。
「あなたには失望しました」
「……っ」
急速に、自分を包む空気が熱をもって歪み始める。それと同時に、今まで手放していた感覚と感情が、スイッチを付けたように一斉に現れ始めた。
失望。
他ならない祖母が口にしたその言葉が、一華の中心を抉り取る。冷や汗とともに噴き出してきた絶望感が、全身を冷やしていく。
祖母が、背を向けたまま歩き出す。その背中を引き留めようとするように、一華の口から声が絞り出された。
「ごめんなさい」
祖母は振り返らない。一華はもう一度、繰り返した。
「ごめんなさい、おばあさま」
祖母の姿が見えなくなる。それでもなお、一華は謝り続けた。子供の頃、本当に幼いときにしたことのないような謝り方を、一華は続けた。
「ごめんなさい、もう二度としませんから」
どうしよう、という言葉だけが、ぐるぐると頭の中を回る。
どうしよう、おばあさまに失望された。
どうしよう。
取り戻さないと。
「もう無断でレッスンを休んだりしませんから、嘘を吐いたりしませんから。友達と遊ぶのも、諦めますから」
叫ぶような声。自分がこんなにみっともない声を出しているところなんて、今まで見たことがなかった。
戻れなくなる。このままじゃ、ここにいられなくなる。桜草樹家に、いられなくなる。
「ちゃんと、頑張るから。もっと、もっと頑張るから」
必死に、声を絞り出す。
「だから、許してください。ごめんなさい」
何度も、何度も、ごめんなさい、と言い続ける。それしか発音できなくなりそうなくらい、何度も、何度も。後の方になると、その声はもう、ただの小さな独り言になっていた。
「……お嬢さま」
使用人に声をかけられて、一華は緩慢な動きで顔を上げた。使用人は、玄関でへたり込んでいる一華の目線に合わせて、そっとしゃがんだ。
「お靴を、お預かりしましょうか」
自分の足を見ると、一華の靴が目に入った。そこで、一華は靴を脱いでいなかったことに気が付いた。一華は使用人の手を借りて靴を脱ぎ、家に上がった。ふと前を見ると、いつの間にか母の姿も消えていた。
足に力が入らない。歩いたらすぐに床に座り込んでしまいそうな状態だった。
「お部屋までお送りします」
一華の身体を支えた別の使用人が言った。一華は「結構よ。自分で戻るわ」と答えた。
横目で、玄関にいる使用人たちを見る。誰も、一華に心配の言葉なんてかけることなく、儀式のように淡々と、一華の身の回りを整える人たち。それを見て、一華は理解した。自分が今回のことで失ったもののことを。あるいは、自分が持っていると思い込んでいたもののことを。
調子に乗っていた。ただ、その一言だった。
自分がこの家でどういう存在なのかなんて、ずっと気づいていたのに。あの子たちが許されることが、私も同じように許されるなんて、あるわけないのに。そんなことに気づいていない人なんて、一人もいなかったのに。
全部、分かっていたのに。




