桜草樹家の長女⑦
「あれはやりすぎだって」
「かわいそー」
一華は、振り返らずに目だけ向けて、自分の後ろを歩いて行った生徒のことを見た。今年の入学式から知っている、見覚えのある顔だった。
「……とりあえず、移動しましょう」
一華が静かにそう言うと、二人は顔を上げないまま、小さく頷いた。
ちゃんとしないと。
二人の前に立って歩きながら、一華はしっかりと顔を上げて、前を見た。
この学校では、よくあることだ。だから、二人のために、一華がちゃんとしないと。ちゃんと、振る舞わないと。
いつも外に出るために使う行き方とは違う、使用する人が少ないほうのルートを選んで進んでいく。
人のいない、静かな階段を一階分ほど下りたところで、向かう先の、がらんとした踊り場に響く囁き声が聞こえた。嫌な予感がして、一華は話している相手からは見えないであろうところで立ち止まった。
「大丈夫かな、あの子たちにあんなことして。相手はあの桜草樹家の人でしょ? 権力ありそうだし、反感買ったらヤバいんじゃない?」
桜草樹という名前が聞こえて、一華の心臓が跳ねる。人通りの少ない方を選んだのは、間違いかもしれなかった。
「別に大丈夫でしょ」
嘲笑するような声が、質問に答えた。
「だって、今まで長女なんて聞いたことなかったし。二葉ちゃんと光くん何回も取材受けてて、家にだって取材に来たことがあったのに、一回も話題に上がらなかったんだよ。特に才能とかもなさそうだし、ただ先生に媚びるのが上手いだけの子って感じじゃん」
「確かに。あれだけ存在が知られてない時点でお察しって感じ。家族にも相手されてなさそうじゃない?」
「だよね。どうせあの家の中でも権力なさそうだし、あの子がチクったところでどうにもならないでしょ。何かかわいそう」
やすりのような笑い声が、一華の内側を削る。吐息にもならない空気が、喉の奥で詰まって動かなくなる。視界を遮るものはないはずなのに、黒い靄がかかったように、目の前が暗くなっていく。
相手は、桜草樹家の長女だから、攻撃してくることはないだろう、なんて。
どうしてそんなふうに、思っていたのだろう。
だって、一華には。
彼女たちの発言を否定することなんて、できないのに。
「一華さん」
耳元で、川井の囁きが聞こえた。
「一旦、戻りましょう」
「……ええ」
自分がどんな顔をしているのか、全く分からなかったし、意識もしなかった。ただ頷くだけで精いっぱいだった。一華は、ただ自分が階段を上っている感覚を手放さないようにしながら、下ってきた階段を戻った。
階段を上り終わると、これ以上どこかに移動する気力もなくなって、一華たちは何かに流されるように、少し進んだ先にある空き教室に入った。
教室に入り、入り口から少し奥に入ったところで、一華たちは自然と立ち止まった。誰も席に座ろうとせず、立ち止まった姿勢のまま、それぞれ俯いて黙っていた。
静かな教室。時折、離れたところで他の生徒が話す声が微かに聞こえた。しばらくそうしていると、すべての感覚がぼやけていた一華の中で、少しずつ、ここがどこで、今はどういう状況なのかという輪郭が見え始めてきた。
意識的に息を吐きだして、一華は二人の方を向いた。
「……ごめんなさい。私のせいで、こんな目に遭わせてしまって」
「そんな、一華さんが謝ることじゃ……」
今にも泣きだしそうな顔で、小野が首を振った。
「悪いのは私です。私のせいで、川井さんも巻き込んじゃったし、一華さんまで、あんなふうに」
「私は大丈夫よ」
ぎゅっと身体を小さくして泣くのを我慢している小野を見ていると、表情が動かせなかった一華の顔に、思わず微笑みが浮かんだ。一華はもう一度「大丈夫」と言った。
「あの子たちが言っていたことは、事実だもの。そのことを忘れていたのは、私の落ち度」
「そんなっ」
ここで初めて、小野が顔を上げて一華のことを見た。
「そんなことないです。だって、だって一華さんは」
彼女の目から、ついにポロリと涙がこぼれた。一華の胸が、強く痛む。
不甲斐なかった。一華のせいで、こんなに優しい彼女に、こんな顔をさせてしまっている。ひどい姿にさせてしまっている。すべて、一華が調子に乗ったせいだ。
「川井さんも、ごめんなさい」
一華が謝ると、川井は大きく首を横に振った。
「私も平気です。それに、悪いのは、くだらない逆恨みであんな嫌がらせをするあいつらですから」
小野の背中をさすりながら毅然とそう言った後、川井は表情を曇らせた。
「でも、そう言っててもどうにもなりませんよね。これからもっとエスカレートする可能性はあるし」
「そうよね……」
一華も同意した。現在、一華に対しては裏で悪く言うくらいで済んでいるけれど、小野に対しては、隠す努力もせず直接攻撃している様子だ。これ以上嫌がらせが過激化すれば、小野が危険に晒されてしまう。
解決策は、一華と二人がこれ以上関わらないこと。それは、誰が考えても明白だった。
せっかく、仲良くなれたのに。
鼻の奥がツンと痛む。一華はその感覚を、軽く息を吸ってごまかした。
二人に会うのはこれっきりにしよう。二人を嫌な目に遭わせてまで、一緒にいることを選びたくない。
そう言おうとして、なかなか口から言葉が出せないでいると、先に川井が「あの」と口を開いた。
「あの、本当に、おこがましいしご迷惑かと思うんですけど」
川井は、いつもはっきりものを言う彼女にしては珍しく、こちらを窺うような声で言った。
「学校の外で、会えませんか」
「学校の、外?」
予想していなかった言葉に、一華は驚いた。
「はい。学校のみんなが見ていないところでなら、会っても大丈夫かなって。放課後、三人で遊びに行ったり、とか」
「放課後……」
一華は少し苦い声で呟いた。放課後は毎日、習い事の予定が入っている。学校が終わるとすぐに迎えが来て、帰るとすぐに習い事が始まるから、遊んでいたら開始時刻には間に合わない。休むことを許してもらえるかどうかも、分からない。
「やっぱりそこまではお願いできないよ。一華さん、絶対忙しいし」
小野が、川井に訴えるように言った。川井は、小野から目を逸らして俯いた。
「分かってる。けど、このままじゃ」
もう、話せなくなる。
「……」
一華は、俯いている二人の顔を順に見た。悔しさと悲しみが混ざった顔。一華の初めての友達。
「……分かった」
二人が、驚いた顔を勢いよく上げて一華の方を見た。
「できるかどうか分からないけど、予定を空けられるか確認してみるわ」
「……本当に、いいんですか?」
「ええ。私も、このまま二人と話せなくなるのは寂しいもの」
一華が微笑むと、二人はほっとした表情で顔を見合わせた。
「本当に、ありがとうございます。迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
小野が深々と頭を下げた。一華は慌てて「いいの」と言った。
「小野さんが気にすることなんて、何もないわ」
むしろ、一華に力がなかったから、こんなことになったのは一華のせいだ。
なんていう言葉は、今二人の前で言うべきことではないから、ぐっと飲み下した。
「二人の都合のいい日はいつ?」
「いつでも大丈夫です」
「私もです。一華さんが都合のいい日に合わせます」
一華の質問に、二人は順に答えた。一華は「分かったわ」と言った。
正直なところ、習い事を休めるかどうかも怪しい。でも、いくつもあるうちの一つくらいなら、という、根拠のない希望もあった。目の前の二人の顔を見ていたら、何とかなるような気がしていた。
一日くらいなら、きっと空けられる。
一華は、帰った後にすることになるお願いに、しっかりと気を引き締めた。




